本を読む の記事

Date:10/12/3

自分のことが自分で分かるわけがなく、他人がみる自分しかいないのですが、どうしても自分の心が落ち着くところに自らが迫ってみようとします。よって「君の好きなことをすればいいんだよ」というアドバイスは、その志向にフィットしています。しかし、そういう考え方を小気味よく否定する。それが、本書に一貫して書かれていることです。自らの価値は内在するものではなく、人とのコミュニケーションによって成立するものである、ということです。キャリアについて内田樹は次のように書きます。

みなさんの中にもともと備わっている適性とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。そうではなくて、まず仕事をする。仕事をしているうちに、自分の中にどんな適性や潜在能力があったのかのかが、だんだんわかってくる。そういうことの順序なんです。

これはぼくも常々思っていることで、自分探しの陥穽というか無益さは、この点に対する認識の誤りに基づいていると考えます。自らが求めるのではなく、人が求める人間になる。だから、何でも自らからだを動かして活動してみることが大事で、そこから自分の役割が見えてきます。そういう意味で、本書の趣旨はすごくよく分かります。これが、メディア論における著作権にも通じる以下の論理と手を繋ぎます。

僕が言いたかったことは、人間たちの世界を成立させているのは、「ありがとう」という言葉を発する人間が存在するという原事実です。価値の生成はそれよりも前には遡ることができません。「ありがとう」という贈与に対する返礼の言葉、それだけが品物の価値を創造するのです。

<中略>

著作権についての議論には、その点についての倒錯があるように思われるのです。「著作権それ自体に価値が内在している」というのが著作権保護者たちの採用してる基本命題です。読者がいようがいまいとそれには価値がある。だからこそ、それを受け取った者は(その価値を認めようと認めまいと)遅滞なく満額の代価を支払う義務がある。このようなロジックを掲げる人は、「贈与を受けた」と名乗る人の出現によってはじめて価値は生成するという根本的事実を見落としています。

切れ味がいいです。ビジネス的観点で全てを考える人の急所を衝いている。今、世の中で言われている電子書籍の推進派も反対派も、この論点の正当性を語りきれていないと思います。脱線しますが、およそ電子書籍のビジネスモデル云々を議論している人たちが、どこか決定的な要素を「自分の人生の根源の問題として抱えていない」という気がぼくはしています。全て耳の脇を風が吹き抜けるかのように声が耳に入ってこないのです。それはたぶん、内田樹が指摘するところとダブっているかもしれません。

しかしながら、どうしても「自分はこうんだ!」という欲が出てしまうのも人間です。ビジネスのロジックとはまったく別に、この欲ー場合によっては自己顕示欲ーを贈与の体系で説得される自分を寛容に受け入れるか?という問題は残ります。

「はて、それはどうしたものだろう・・・?」とぼくは思うのです。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/10/19

あれは中学生の時でした。都内に住む友人と会い、横浜の自宅に帰る電車のなかで始まった会話。相手は初めての父親と同じような年齢のビジネスマンです。どういう内容だったかはよく覚えていませんが、彼が頻繁に海外に出張する仕事であるという説明があったのは確かです。およそ30分ちょっとの時間だったのですが、それを機会に、手紙のやりとりがスタートしました。彼は日本に自宅があるのですが、ほとんど出張先からの手紙でした。多分、「夢ある少年」に外国に郵便を送る楽しみを教えてあげようという意図だったのでしょう。国際郵便といえば、赤と青の枠の封筒に極端に薄い便箋が一般的な時代。ペラペラの紙を使った文通は高校時代まで続きました。

彼の手紙は台湾からでした。やり取りの中で、彼が日本にエビを輸入する商売をしていることがわかってきます。ぼくは残念ながら台湾にもエビにもあまり興味がなく、ただ、達筆な文章で描かれたビジネスマンの活気のようなものに心が躍っていたはずです。この経験が日本の外で仕事をするようになる契機となったかどうかは定かではありません。外国に対する関心は、幼稚園の頃に近くに住んでいたアメリカ人牧師の家族とのつきあいであったり、やはりその頃、ヨーロッパ視察に出かける父の親友を羽田空港に見送りに行ったあたりにあるのではないかと想像しています。あるいは東京オリンピックで繰り広げられた「国際交流」の姿であったかもしれません。ただ、この台湾でエビを扱っているビジネスマンの存在が、外国をよりリアルに近づけたのは確かです。

「1980年代中ごろから後半にかけ、台湾は日本向けエビ輸出の最大の供給地を誇った」という文章を本書で読み、ぼくは「あっ!」と叫びました。1975年、日本における冷凍エビの国別輸入量は、インド、インドネシア、中国、タイの順で台湾はタイの半分にも満たなかったのですが、1987年、台湾は圧倒的な一位で、インド、インドネシア、中国、タイと続きます。それが、その2年後にはインドネシアとタイが1-2位で、台湾はランキングの埒外におかれます。ぼくが、かのビジネスマンに電車のなかで会ったのは、1972-3年だと思います。これからは台湾だ!とエビ田の開拓に走り回っていたのではないかと、40年近くたった今になって気づいたわけです。あの熱気は、こういうことだったんだ、と。仮に、その後、そのまま商売をしていれば、一時はわが世の春であったはず。しかし、直後に暗転。

1989年の台湾の状況の急変は、「病気の発生とヘドロの堆積が、エビ田に使った西海岸を次々と死滅させていったからに他ならない」とあります。

エビの養殖は、脂肪分や栄養剤をふくむ飼料や、特有の病気を防ぐための薬を大量にたんぼに投入する。そのため、エビ田の水と土地はひどく汚染され、たんぼの底にはヘドロ状の土が堆積していく。5-6年間エビの養殖を続けると、その土地は「死んでしまう」といわれるほどである。

汚染されたたんぼの水は、養殖が終わるたびに、海や河川、場合によっては農業用の灌漑水路に廃棄される。そのため、この水を取り入れた近くのエビ田や、水田・果樹農民の田畑が今度は汚染され、被害は広範な地域に拡大していく。現在、エビ養殖農民と水田農民、沿岸農民のあいだで流血の争いが生じているのは、まさにそのためであった。

タイの状況です。ぼくがタイに行ったのは2回。1983年と1989年です。タイのエビ生産成長期、特に安価なブラックタイガーが冷凍エビのほぼ全てに近くまでシェアを伸ばしていたときです。日本はバブル経済でエビの消費がぐんぐんと右上がりで増えていきました。そして同時に、広範囲な争いが拡大をしていった時期でもあったのです。そこには、政府や経済界の色々な思惑が絡んだ一筋縄ではいかない背景がありましたが、日本の食卓のありさまと、アジア経済の動きには、こういう関係(タイは「日本の台所」と呼ばれた)にあった。それも、実はぼくは中学生の頃に知らない間に、破滅的状況にいたる一端を暗示的に垣間見ていたのだと気づいたとき、世の中は見ようとしなければ見えてこないが、いやおうなしに見えてくるシチュエーションは抜き差しならぬときである・・・と実感します。鶴見良行『東南アジアを知るー私の方法』の深さは、こうして身に迫ってくるのです。カップめんに使われているエビがインドからきていると知ることは、普通思う以上に、重要なことといえるでしょう。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/10/1

2008年のはじめに「マックスビルのポスターを作ろう」を書きました。2006年から2007年にかけて準備に動いたプロジェクトです。マックス・ビルの「一つのテーマに基づく15のバリエーション」から二つ作品を選び、それらをポスター化したのです。著作権者であるマックス・ビルの息子に会いに、仮刷りをもってスイスの山荘を訪ねただけでなく、どうマックス・ビルを紹介するのが良いのかを随分と考えたものです。そのなかで、向井周太郎がウルム造形大学でマックス・ビルに学んだことを知り、この人の資料も読みました。それ以来、気になる人ではあったのですが、本を読んでみようとは思っていませんでした。この人のテーマが、ぼくのテーマとこんなに近いところにあったと知らなかった無知ゆえであった、というのが『デザイン学 思索のコンステレーション』読後感です。だからか、レビューを書くまでにも時間がかかってしまいました。あまりにジャストすぎるテーマであるがために、どこの側面からみても書ける気がして、逆に書けないのです。

ヴァリエーションという展開は外的な時間・空間の変容の展開を指すのが一般的ですけれども、このビルの作品の場合は、一つの構造に内在する多様なヴィジョンを一度に顕在化させた、内側からの無限の可能性を共在させた原構造の創造的な発見であったという意味で、一般的なヴァリエーションという概念とそのヴィジョンの変革であったといえます。

さあ、一発引用したぞ。冒頭の作品に関する批評です。これを読めば分かるように、思索の旅をするに相応しい表現です。デザインを媒介に社会的思潮を語れる数少ない日本人の一人なのでしょう。政治家の考え方にも敏感です。フリードリッヒ・ナウマンとテオドール・ホイスの政治思想を紹介して、こういうことを書きます。我田引水的ですが、ぼくがミラノサローネについて書いている目線と近いところにあります。

デザインの歴史が美術史や展覧会という文脈で語られるかぎり、どうしても、作られた物の造形的な様式やデザイナーの造形思想や方法の特質に光が当てられることになりますけれども、デザインが万人の生活基盤の質の形成を主題として選択し、それを目標とするのであれば、デザインは広く社会的な、かつ文明的な課題とつながっていることが分かります。ドイツ工作連盟の設立と推進に深く関与した先の二人の政治家の思想と行動はまさにそのことをーデザイン運動とはなにか、なんであったのかをーあらためて私たちに伝えるものではないでしょうか。デザインの在り方は、デザインをどう捉えるかという政治思想とも、また経済の思想とも深くつながっているのです。

デザインという生活世界にある表現を独立してみてはいけない。とういうより、独立してみることが、結果的にいかに世の中をみるにあたり非効率かを語っているともいえます。この見方の根本には、以下のような文化理解があります。

これは洋の東西を問わずにいえることですが、私たち人間の生活世界には、たえず世界を生成更新していくような文化の仕組みがあります。日常性を非日常性へと転換させて再生を図っていく祭礼などの例に見ることができますように、非日常的な祝祭によって日常性を解体して再生を図っていく。文化人類学や神話学や深層心理学などの研究成果が明らかにしてきましたように、そういう日常性を非日常性の世界へと連れ込む媒介者となるものは、人間文化の仕掛けとして大抵両義的なものです。

動的な生活世界のあり方を描いているといえるでしょう。この400ページを超える本は、ただものではありません。さまざまな言葉を追いながら、新しいリンクを作っていく。あるイメージが自由に新たなイメージを引っぱり、其の軌跡が「そこで何があったのか?」を示していきます。あれっ、どこかでみた世界では?と思ったとき、管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』を思い起こしたら、あなたは、このブログのかなりの愛読者です!

線形的にものを考えるのは、ちょっとやめてみようよ。

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