本を読む の記事

Date:10/12/13

このおよそ20年ほど、世界が変わったと実感することがいくつかあります。まず一つ目は冷戦の終焉です。1989年末のベルリンの壁の崩壊は、固定的な構造を流動的なそれに変える契機となりました。大きな武器は不要になり小さな武器が必要な世界へ変質しました。二つ目は‘90年代半ばから急速に一般のライフスタイルを変えた情報革命です。ケータイやネットで新時代に目覚めていたのが、それから10年ちょっとでスマートフォンでさらに風景を変えつつあります。以上の二つが具体的な姿をもって人々にインパクトを与えたのが2001年の911でしょう。

自由に国境を往来できていたのが、一気に不便になり、いまや探知機の前で靴まで脱がされ100mlまでの液体しか旅のお供ができないことになりました。そして三つ目が2008年9月のリーマン・ショックに端を発する世界恐慌。経済不況そのものも問題ながら、このときを境にして新興市場の存在感が増し、EUや米国が舞台の隅とは言わずとも絶対的な主役ではなくなるシナリオが書かれたことに気づいた。それが2009年から2010年でより浮き彫りになってきたことです。

今までのシステムや価値体系が劣化しつつあるのは明らかで、新しいフレームがないなかでどうやっていくか?に多くの人は頭を悩ましています。特に、日本の20年の低迷したあり方を捉えながら、「経済成長」という観点で見ている限り何も見えてこないと主張するのが本書です。

日本における歴史上始まって以来の総人口減少という事態は、なにか直接的な原因があってそうなったというよりは、それまでの日本人の歴史(民主化の進展)そのものが、まったく新たなフェーズに入ったと考える方が自然なことに思える。

この歴史的事実は、経済成長戦略というような短期的、対処的なタームでは説明もできなければ、問題を乗り越えることもできない。

経済成長戦略があれば、経済成長が可能であり、税収が上がり、社会が安定するというのは希望であって、正しい認識ではない。

こう書くわけです。新興市場で如何に商売をするかを考えても限りがあり、「日本が経済成長しないでも生きれることを考えないといけない」と言うのです。もちろん、ここには処方箋など書いてありません。そういう状況なんだ。まずは正しい時代認識が大切なんだ、ということをくどいほど何でも繰り返しています。正しい認識なしに次のステップが考えられるはずがないわけですが、どうしても読者は「じゃあ、どうすればいいの?」という回答を求め勝ちであると嘆いています。それこそ個々に考えないといけないわけですが、個々に考えてもいいんだという土俵まで持ってくるのが一苦労ということでしょう。

最後のほうに鷲田清一との対談があり、そのなかで鷲田は現代が待つ感覚を失っていると指摘し、今の時代を「前傾姿勢」と呼んでいます。企業においては、すべてプロ(Pro)という言葉に従って動いていると語ります。

ある「プロジェクト」を立ち上げるためには、まず実際に計画に入る前に「プロフィット」の「プロスペクト」があるか、つまり利益の見込みがあるかどうか見当つける。いけるとなれば「じゃあ計画つくろう」ということで「プログラム作り」です。そして次は「プロデュース」、生産会社だったら生産対策に入る。商品ができたら今度は販売促進、「プロモーション」をかける。(中略) 利益があがっていったら会社は「プログレス」、つまり前進した、成功だと。最後にオチがあってね、この「プロジェクト」を担ったやつには「プロモーション」が待っている、つまり出世するわけです。

なかなか面白いポイントです。経済活動においては先読みが必要ですが、こう書かれてみると、ちょっと逆の見方をしないといけないなと思います。プロという言葉を捨ててものを考えてみることは必要かもしれません

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/12/12

ミラノの小学校に通う息子の歴史の教科書をみていて驚くのは、3年生でビッグバンから先史時代まで延々に続き、4年生に入ってやっと世界の四大文明に入ることです。どうして、どうやって人は火を扱うようになったかとか、実に丁寧に教えていきます。今の日本の小学生の歴史の教科書がどうなのか知りませんが、このイタリアの教科書はロジカルに歴史が分かるように説明されています。

歴史に限らず、地理でも文法でもそうなのですが、大人と同じようなレベルの内容がきちんと書かれています。例えば、地図に二種類あり、実寸にもとづく地図とメンタルマップの二つがあると説明されているのです。事例として正しいかどうか分かりませんが、イタリアの子供服は大人の洋服のミニチュア版であり、いわゆるキャラクターものの子供らしい服が主流ではないのは、こういう教科書の作り方と関係がありそうだと想像しています。

本書はエッセーの集まりですが、「世界史が未履修と知って」というタイトルのなかに、ヨーロッパの学校において世界史教育に如何に時間を費やすかがやはり説明されています。高校の5年間すべてに歴史教育があり、1年目は先史時代からギリシャ文明まで。2年目は1年すべてつかってローマ史のみ。教科書があまりに完璧なので、塩野氏は『ローマ人の物語』の各巻を書く際に、この教科書で全体図を確認していたといいます。これは、日本の高校で世界史が未履修でニュースになった話題の対比としてとりあげたのですが、塩野氏が小説を書くにあたっての姿勢が四項目あり、これはぼくの文化差異の説明にも参考になります。

第一に、やさしい語り口で物語らないこと。なにしろ歴史の知識は不十分でも、知力は充分すぎるほど充分なのが私の読者なので、子供に語って聴かせるような語り口では礼を失する。

第二は、内容の知的水準を下げないこと。水準を下げないでおいて知識は不十分な人に理解してもらうには、方法は一つしかなかった。明晰に書くこと。それしかなかったのである

第三は、視覚を活用することだ。具体的には、地図や人物の顔写真を使うことだが、人物の顔といっても私の場合は、彫刻や絵画に描かれたものになる。事件が語られれば、それに関係した人物の顔を見たいと思うのは当然だから。地図のほうは、地理ですね。歴史地理と言われるように、歴史と地理は不可分の関係にある。

最後は、歴史の流れを読む人に感じ取ってもらえるように書くことだった。流れを感知できるようになりさえすれば、歴史というものは、半ばわかったのも当然なのである。

いい読者がついているんだなぁと第一に対してまず思いました。子供に語りかけるような調子が失礼というのは彼女流の皮肉であり、第二のポイントを成立させる必要条件と位置づけたほうが良さそうです。それにしても、ぼくが「そうだなぁ」と納得したのは、太字にした第二のポイントです。明晰にまさるものはないんだというのは、えらく説得性のある言葉です。第三や第四の項目ももちろん大事ですが、すべての解決策は第二の項目にしかないでしょう。

Category: 子育て, 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/12/9

あらゆる事柄は段階的であるとの認識が必要です。ぼくがズームアップとズームアウトの使い分けを盛んに書いているのも、状況のレベル認識とそれに対応する方策を常にセットで考えないと使い物にならないからです。そして、多くのものは点から線、線から面と展開するー進化するーことを前提に考えることを基本においてきました。しかし、逆のパターンが現代の紛争であることに気づき、ものごとの両面を十分に見切れていなかったと思いました。小集団の紛争が増えていることを知っていても、それが点→面と面→点の両方の力学で動いていることを明確に意識しきれていなかったと考えるのです。緒方貞子の言葉です。

平和維持活動は、もともとは『線』でやったわけですよね。平和維持活動がいちばん繰り返し行われたのは中東ですけれども、きれいに休戦のラインが引かれて、そこに平和維持活動というのは展開したわけですね。

しかし、最近の紛争では、『線』じゃなくて『点』になってきたわけです。紛争地の大事なところに点在するわけですよね。国境を越えての紛争じゃないんですから、安定をしようとすると点になるわけです。これでは、平和維持活動の効果を上げていくというのも難しくなります。ボスニアももちろんそうだったし、クロアチアの国連の保護地域でもみんな『点』になってきましたから、これからは私は『点』のほうが多いと思いますね。

紛争というのは一つの大きな形があるんじゃなくて、段階的にあると思うんですよ。非常にローカルなものから、地域に広がっていく。それからさらにこれが国際的な紛争になるという、それぞれに対応した紛争処理のメカニズムが必要だし、そのメカニズムを強化するための一種の強制主体が必要になってくると思う。

冷戦以降、国家というサイズがあるいはメカニズムが民族間の憎悪などを原因として起こる紛争とマッチングしなくなってきています。軍事活動でいえば、「空爆の無意味化とジレンマ」が、この現象のもう一方にあります。敵が見えなくなりつつあり、その敵は遠くにある彼らではなく、今まで一緒に生活していた隣人である・・・というのが現代の紛争の姿である限り、極端な言い方をすれば、隣家を攻撃するに必要なのは戦闘機ではなく斧であったりするわけです。そして、紛争の元にある憎悪の根にあるのは、社会的に公正かどうかにあると緒方は指摘します。

貧困の撲滅は大事ですけれども、それで平和が来ると思ったら間違いだと思います。貧困がなくなることと、社会的な安定が出てくるということは、ちょっと違うんですよね。社会正義、社会的な公正、そういうものが同時に進んでいかないと平和は実現しません。社会的な公正さは非常に重要だと思います。私が見てきた紛争の多い国家において、あるいは地域においては、社会公正という問題は非常に大きかったと思いますね。逆に言うと、それが保証されないところで紛争が起きるのです

好き嫌いの話しではないのです。人は何らかの論理的な筋道が通らぬところで怒りや恨みや苦しみや悲しみを抱えながら、敵を作っていくと言ってよいでしょう。全てを論理で解決できないですが、その糸口は見つけられるかもしれないし、そこに付随する感情が何なのかを想像できたとき、問題ある状況超える突破口が見えてくる可能性があります。

私の仕事で、常に何がいちばん頭にあったか、あるいはあり続けたかというと、どうやって問題を解決するかということです。問題解決思考型の生活を10年したんだと思います。一気にすべての解決ができるわけではありません。段階的ですね。すべての段階が次への解決にどうやって繋がっていくのかというふうに考えるんだと思います。

最終的には『勘』でしょうね。これが大事だとか、これはおかしいんじゃないかというものは出てくるんですよね。やっぱり年季が進むにつれて経験が蓄積されますから、『これはまずいんじゃないか』とか、『これはもっと押さないといけないんじゃないか』という部分は、比較的『勘』だと思いますね、私は。

論理で繋がるところは繋げ、そこに浮遊する感情を想像し、お互いのリンクを繋ぎきれない部分は勘で補完していく。それをするためにも、あらゆるものを段階的に把握していくことが必須で、これを間違いないために現場に頻繁に足を運ぶという習慣的行為が重要なのでしょう。

国連難民高等弁務官を退官後出版された本書ですが、何百万人という難民が数日で動くさまを眼前にして決断を迫られる立場がどういうものか・・・このような判断と、あまりに無縁な生活を送っているぼくにははかりかねます。ただ、人の目を正面から見て前へ進むことが大事であることは、どの世界のどんな立場の人間でも同じであろうと想像するだけです。

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