3日前に日本に着きましたが、ミラノを発つ前日の晩、自宅近くの音楽院ではじまった夏の野外コンサートに足を運びました。ルネサンス建築の建物の庭にある仮設舞台で演じられた「ウエストサイドストーリー」をみたのですが、イタリア人が歌う英語の曲を聴いていると、だんだんと米国人が歌う曲を聴きたくなってきました。帰宅後、即、YouTubeで「Tonight」を聴き、ああ、この感じなんだと心が落ち着きました。プエルトリコの移民の物語であれ、米国風であることを、どうしても期待してしまうのです。例えば、イタリア移民が米国で同じ境遇で生じたとセッティングをモディファイしているなら、もう少し受け取り方も違うのでしょう。

ぼくの頭のなかには、アメリカ文化の象徴として「ウエストサイドストーリー」が収まっています。だから、それがずれると気になるのです。ドイツのロマン主義の交響曲をスカラ座で聞くと、ドイツ的な硬質な表現が恋しくなる。ビートルズの曲が多くのミュージシャンによってアレンジされていますが、それらを聴けば聴くほど、オリジナルとの差異を感じることになります。まったくかけ離れた場所に出かけると気分一新して全ての不便を受け入れるのに、自分の知っている場所と似た場所であると、差異だけ気にして満足度が下がる。こういう例に近いものを感じます。自分のオリジナルのイメージに合うことを求め、それがずれていることで喜ぶのは、ずれた理由が明確に理解されている場合ではないかと思います。

もちろん、西洋クラシック音楽は、数々の演奏者によって解釈されることが(少なくても現代においては)前提となっているため、「オリジナル性」とは何を指すのかが難しいですが、フルトヴェングラーで衝撃を受けたなら、それが後を引かざるを得ないという現象は当然生じます。原体験ありきです。そして、そこに文脈がついてまわります。だから、音楽の聴き方の正解や正統性を語るのは、実に危うい行為となります。(以下、p1170-171)
例えば、「上を向いて歩こう」がアメリカでは「スキヤキ・ソング」として受容されるとか、バルブ絶頂期にサントリーホールでマーラーを聴くことが東京の若者の間で流行したとかいった例は、ある音楽が異郷においてコラージュのように別文脈にはまって開花した例だ。
いずれにせよ私たちは、音楽だけを真空状態で聴くことは出来ない。パソコンでシュミレートされ転送される音楽だって、それこそインターネット空間という一つの「場」の中にあると言えるだろう。音楽は必ず文脈の中で鳴り響き、私たちは文脈のなかでそれを聴く。歴史/文化とは音楽作品を包み込み、その中で音楽が振動するところの、空気のようなものである。
つまり、「ウエストサイドストーリー」について言えば、ぼくの(日本における少年から青年時代にかけての)米国文化経験と密接に関連しています。米国が輝いていた時代の米国文化に対する憧憬が、ぼくの中にも確かにあったことを否定することはできません。大学でフランス文学科を選び、日本でサラリーマンをやっているときもメーンクライアントは欧州メーカーであり、その後、およそ20年イタリアに住んでいます。が、かつて米国に抱いていた気持ちを、図らずも自分で思い起こすのです。そういう「内なる米国」と「ウエストサイドストーリー」が”関係をもつ”。
今の時代にあって何よりも大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているかをはっきりと自覚すること、そして絶えずそれとは別の可能性を意識してみることだと、私は考えている。(p172)
・・・と、このように著者の岡田氏の言うように、一方で、ぼくもイタリア人の「ウエストサイドストーリー」の自分なりのおさめかたを考えています。「イタリア人の歌うブロードウェイ音楽が好き!」というあり方をぼくのなかで納得する術と馴れは、どういう風にすれば良いか、です。
この本、日本に来る途中、中東に漂う「多様な米国文化」と「多様な欧州文化」が匂うドバイ空港で一気に読んだのですが、あの人工的な空気とローカルな空気の不思議な混じりあいは、本書で語られている「正統性への疑問」としっくりとあいました。「もはや」とかつての価値体系の没落を嘆くのではなく、「だから面白い」と新しく作る価値体系に立ち会う喜びを狙うに、本書は思いのほか参考になります。
このブログのブックレビューを眺めれば分かるように、ぼくはビジネス書をあまり読みません。ここでいうビジネス書とは書店のビジネス書の書棚に置かれる本のことですが(何でもビジネスに役立つという意味では文学もビジネス書だ!)、そういう書棚の前に立つことさえしません。しかし、最近、二冊読みました。一冊は数日前に読んだ安宅和人『イシューからはじめよー知的生産の「シンプルは本質」』です。これは昨年の大晦日に近い日、ローカリゼーションマップを一緒にやっている中林鉄太郎さんに教えてもらったのですが、検索エンジンで安宅さんのブログを読み、この人の書く本なら絶対面白いだろうと思いました。
その頃から今まで、時々アマゾンを覗いているのですが、売り上げ順位は常に一桁か上位の二桁台です。ぼくがアマゾンで特にチェックしているのは、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」です。当該ジャンルだけではなく、なるべく幅広い領域に広がっていくのを確認するのはなかなか面白い知的楽しみです。こういうテーマがどこまで普遍性のあるものとして読者が思うのか?が分かるのが有益です。ブックレビューに書いたように、この本で紹介している手順を参考にしながら、ローカリゼーションマップの活動をチェックしはじめました。著者ご本人が前にいるわけでもないのに、ビシバシと詰めの甘いところを指摘されているような気分になるのですが、それまた心地よい。

そしてもう一冊、ローカリゼーションマップの考え方を発展させるに貢献してくれるのではないかと中林さんのアドバイスで読んだ本、それが本書です。以前から板橋さんのTwitterでの書き込みを読んでいたので、著者の意図はかなり想像がついていたつもりでした。しかし、やはり本は読むものだと思いました。この本はピクト図解でビジネスモデルをイメージしてどう頭の中にストックしておくか、つまりは「これは、あのタイプだな。じゃあ、これともう一つ違うあのタイプをコンビにすればいいじゃない」という勘をどうすれば磨けるかというヒントを与えてくれます。それも社長尺度と現場尺度、即ちズームアウトとズームインという僕もよく使っている表現がそのまま出てきて嬉しい。
ただ、それだけではなく、この本を書くにあたっての板橋さんの立ち位置が背後に見え、それがローカリゼーションマップでのぼくの構えと近いところを感じ、それが読んでいてウンウンと頷くところです。ぼくがよく言っている、「議論する際に目的や前提条件をはっきりさせるべき」という点は、安宅さんの本でいうイシューの見極めにもなるのですが、これを板橋さんもはっきり書いていて、非常に気持ちがいいのです。更に言うならば、板橋さんは、ビジネスで結果を出すためのピクト図解という位置づけをしていますが、ぼくの場合は、ビジネスで結果を出すための文化理解という枠を設けています。要するにキリがないことに振り回されない(安宅さんの言葉では「犬の道に入らない」)ための方針決めが肝心です。
今、ピクト図解によって異文化同士のロジック差異の確認ができないものかと夢想しています。いや、実は電子デバイスのインターフェースがこの領域に入っているのですが・・・。
拙著『ヨーロッパの目 日本の目』を書くときに色々とアドバイスを頂いた社会学者の八幡康貞さんが、ミュンヘン大学で勉強していた頃に出会った面白いエピソードがあります。八幡さんがゼミで活発に発言した後、一人のドイツ人学生が八幡さんに近づいてきました。「君はイエズス会の教育を受けたのかい?」と聞きます。八幡さんは「そうだけど、なぜ?」と聞き返します。すると「いや、君のロジックの運び方が見事にイエズス会流だっからさ。実は、ぼくもイエズス会の高校だったんだ」と言われたそうです。上智大学で哲学を学んだ八幡さんは、特にカトリックを学として学んだわけではありませんが、神父の教授たちから議論の仕方を自然に見つけていたようです。そこで八幡さんは、ユニバーサルの何たるかを実感したわけです。
八幡さんからこの話を伺ったとき、「その特徴的な議論の展開の仕方って何だったのですか?」とぼくは聞きました。八幡さんから返ってきた言葉は以下です。
「それはね、相手の主張の前提を徹底して問い質すことなんだ」
文化の違いとは基本的にロジックの違いに行き着きますが、前述のようにロジックで糸口をつかめば、かなりの線まで協業できるということでもあります。したがって、異文化間でのロジックの違いが今の世界で代表的に表現されるのが、電子デバイスにおけるインターフェースのロジックであるとするなら、ここに焦点をあてて異文化市場の文化理解を図っていくのが重要だろうと説き始めたのが、ぼくのヨーロッパ文化論活動の起点でした。
世に多く語られる文化論ではビジネス目的に沿う全体像は得られにくく、地平線も見えないところで延々と草刈をするようなものだと思ってきました。従来の教養的な文化知識が不要だとは言わないですが、ほどほどにしておこないと、ビジネスでは用が足さないということです。しかも、ある地域の特徴や傾向を電子デバイスのインターフェースに対する受容だけで判断するのではなく、いくつかの他のモノー特に日常生活で使用されるモノーで比較していないと立体感のある包括的理解になりません。それがローカリゼーションマップの活動への移行です。大雑把に市場での複数業界のローカリゼーション期待度の比較から共通点や差異をみつけ、かつ、それらにおける関係を掴んでいくことが、該当市場をとりあえず「分かった」と思える契機になるはずだと考えました。

ここまで、やや長すぎる導入ですが、実は安宅さんの本書を読みながら、冒頭の八幡さんのエピソードや言葉を思い起こしたのです。本書のキーターミノロジーであるイシューは以下にように定義されています。
A)2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
B)根本に関わる、もしくは白黒のはっきりしていない問題
質の高いアウトプットを出し続けるには選ぶ相手に気をつけろ!ということです。性悪な女の子こそ色っぽかったりするので振り回されてはいけない、幸せな結婚生活を送れる女の子とつきあえ!と本書で語っていませんが(笑)、「相手」が、安宅さんの言葉ではイシューになっているわけです。カトリックの神父たちが議論に際して前提の明確化を図ることは、前提条件の限定と共有が「普遍性への説得」に至る有効な方法だと確信しているからでしょう。少々乱暴かもしれませんが、イシューの見極めこそが価値ある仕事をもたらすと安宅さんが強調される点と、八幡さんがいつの間にか身に着けていたロジックの選び方は、態度においてもメソッドにおいても、かなり共通点があります。問題とは問題を選定したこと自身で既に意思の方向を示しているという性格をよく分かった上でつきあっている・・・という意味でも。
また、安宅さんの目からみて考えの甘い部分も多々あるとは思いますが、我田引水でも自画自賛でもなく(と言っておきます 笑)、ローカリゼーションマップは安宅さんが説明する知的生産のプロセスとかなりパラレルです。答えの出る問題設定を行い、分かるとは2つ以上の既知の情報の関係性の把握に他ならず、人は差分でコトの次第を理解する。分析とは比較であり、情報収集で知り過ぎる落とし穴に陥らない・・・というフレーズが本書には続いています。安宅さんは、モノであればモノの色やフォルムや機能を一方的に見つめてきたのではなく、モノと人の接点のロジックの読解と組み換えを仕事としてきたはずで、だからこそ見える世界を語っている。本書にインパクトがあるのは、そこからきています。
ローカリゼーションマップの考え方の整理とプレゼンを、この本を参照しながらチェックしようと思います。