ヨーロッパが近代社会を迎え、技術を中心とした猛烈な社会革新が生じて以降、繰り返し「技術によって世界は均質化されてゆく」ということが言われてきました。新しい技術製品が世の中に普及するたびに「今度こそは・・・」という思いに駆られてきました。電話などの通信システムもさることながら、飛行機の発達により、人々の国境を越えた移動が容易になったことも文化の均質化を促すことになっています。Wallpaper で名をあげたTyler BrûléによるMonocle という雑誌は、いわば身体的にボーダレスを生きている人達を対象にしたライフスタイルマガジンですが、「均質化を共有する層が増加しつつある」という認識に基づいているのでしょう。昨日は香港、今日はドバイ、来週はサンパウロという行動をとる人たちが、何かを作りつつあるのではないか?という感覚が根底にあるようです。

このような感覚、世界はだんだんと同じになりつつあるというのは、1980年後半から、つまりベルリン壁崩壊以降の米国中心のグローバリゼーションやネットの発達でさらに加速した感があります。ヨーロッパもEUとなり、ユーロの導入で更に国境の壁は低くなり、異文化という言葉がなくなるのではないかという勢いが一時ありました。しかし、「皆、同じ文化に生きているよね」という感覚を実際にもつのは、電子デバイスやネットでのある特定の事象に対してであったりーiPod, Facebook, Twitter などーであり、それでも日本のブログやFacebookが圧倒的に匿名によって成立していることが特徴としてあげられるように、文化的差異は常に再び浮かび上がってきます。スマートフォンの普及の地域差をみても、それは言えるでしょう。故障したときに自分で店にもっていける製品は、店にもっていけない大物家電と比べると、文化差が出にくいとも言われますが、前者でも好まれるインターフェースは地域によって違います。

自動車も同じで、クルマのエンジンチューニングやエアロパーツをつけるカスタム化はドイツやスイスに多く、イタリアでは相対的に人気がありません。アーサー・D・リトルの川口盛之助さんは、以前お会いした時にデコトラ文化圏というのがあるのではないかという話しをしていました。デコトラとは、飾り立てたピックアップトラックのことで、東南アジアや南米に見える現象です。(ぼくの観点では)このようなモノ(*)の文化差をユーザ工学を基点に探求していこうというのが黒須正明さんの提唱する以下、人工物発達学です。
(*)正確には「人工物」で対象はハードウェア、ソフトウェア、ヒューマンウェア、システムを含みます。ハードウェアには、文房具や食器、大工道具、家電機器、オフィス機器、AV機器、情報通信機器、医療機器、車載機器、教育機器、工作機器、さらには自動車、列車、あるいは建築物や道路の植栽などの構築物。ソフトウェアは、OS,アプリケーションソフト、(携帯電話などの)組み込みソフト、イメージ、サイン、シンボル等の有形無形の表現、小説、新聞記事、映画など。ヒューマンウェアは、人が関与するサービス(営業活動、博物館の説明員、配送や保守点検活動など)です。
人工物発達学は、特定の目標達成を支援する目的で開発された人工物のデザインがなぜ多様であるのか、またその多様性には歴史的・環境的・社会的・文 化的な必然性があるのかどうか、またそこには認知工学的・人間工学的な合理性があるのかどうかを明らかにする研究領域である。つまり、同一の目標達成を支 援するために多様なデザインがあった時、それらが歴史的・環境的・社会的・文化的にみて、それなりに必然として成立したデザインといえるかどうかを分析評 価する。その上で、ユーザビリティの観点、つまり認知工学や人間工学の観点からみても最適となっているかどうかを分析評価する。
人工物には、たとえば歴史的必然性はあっても、認知工学や人間工学から見たときに合理性や必然性がないものもある。人工物発達学は単純に歴史や文化 を否定するものではないが、合理性がないデザイン、あるいは低いデザインについては、少なくともそうした認識は必要であり、またユーザが合理性や必然性を 追求する場合には、利用するデザインの切り替えが発生しても然るべきだと提唱者黒須正明は考えた。
近江地方の木沓(きぐつ)の写真を見たとき、世界夫々の地域にある履物との違いがどうして生じたのかと思ったそうです。オランダの木靴は有名ですが、近江地方のそれは歩行に適しておらず、オランダのそれは日常で使用される。これは、どういう違いから、どういったプロセスと背景をもっていることに起因するのか。前者は「寒風でさらされる湖上での網の引き揚げ作業の防寒具として開発され」、後者は「湿った土地や砂を多く含んだ土地での農作業の際、断熱効果の大きい木を利用して開発された」ということですが、この人工物発達学で面白いのは、「何故、それが発達しなかったのか?」という疑問をも追及する点です。効率性だけで人工物が発達してきたわけではなかった「それ以外の要因」が、この研究によって明らかにされていくであろうことがぼくには興味が惹かれます。

去年10月に総合研究大学院大学から発行された『人工物発達研究』を黒須さんから受け取り、これを読み、今まで文化人類学や民俗学で見てこなかった(見えてこなかった)ポイントにずばりと的中していることが分かりました。ケータイなどの通信システムの使用調査(国内各地やタイなど)だけでなく、ブリガリアで行った「ヨーグルトをめぐる食文化の経営人類学的研究」も興味深い内容です。また、中国や韓国では箸を食卓に置くとき、ユーザーの体に垂直におきますが、日本では体に並行に置きます。これはぼくも以前から不思議だったのですが、効率からいくと中国型のほうが優れています。にもかかわらず、日本では横置きが定着したのですが、本誌ではこの問題にも触れ、理由は不明で、これから研究していくとあります。ぼく自身、インターフェースの地域差からヨーロッパ文化論の見直しをする必要を考えはじめたので、この人工物発達学はぼくが考えているフィールドと非常に近いところにあります。ですから、この学問の提唱が行われたことが、ぼくには率直に嬉しいです。
+「ヨーグルトをめぐる食文化の経営人類学的研究」は「ヨーロッパ文化部ノート」(以下)に概要を紹介しました。
http://european-culture-note.blogspot.com/2009/07/no.html
歴史というのはややこしいものです。歴史家の木村尚三郎でさえ、「今の時代のことだって分からないのに、どうして過去のことが分かると思うのか?」と語っていました。同時代には目に見えること、目に見えないこと、まったく無数の事実と想いが表出され、これをひとまとめにしてこうだとは言い切れないものです。あくまでも、こういう前提で、こういう解釈が可能だと思うというところまでしかいけないでしょう。
多くの「史実」が時代によって二転三転するのは当たり前であり、その二転三転自身を含めて、時代は作られていくのでしょう。かつて、「ヨーロッパ文化部ノート」で友人が「日本の文化はヨーロッパ文化史からいえば、ゴシックだ」と語った話を書きました。世の中には類似や同類のことがさまざまにあり、この同類を違った地域のなかでも見出せば、「文化的共通点」があると言われたりするわけです。しかし、とあえて書きますが、しかし、どこでも探せば同類はある程度見つけ出すことができるのも一理で、大事なのは、どういう文脈であるいは時代のどういう層で、これら違った地域のなかに共通点を見出すかをはっきりさせることです。

フェルナン・ブローデル『地中海世界』を読むと、明治大学の管啓次郎さんではありませんが、歴史は「擬人化」という表現がピッタリします。作家では司馬遼太郎や塩野七生であったりが、日本の幕末やヴェネツィア共和国の姿を自分の目で書いたわけです。別の人間が同じ時代を描けば違ってくるので「〇〇史観」「〇〇の歴史」と言われます。そこで「ブローデルの歴史」は強烈です。
歴史とは、われわれを取り巻き、悩ませている諸問題や好奇心ーさらには不安や苦悩ゆえに過ぎ去りし時代に絶えず問いかけをしてゆくことをおいてない。人間が住んでいる他のいかなる世界にもまして地中海世界はそのことを証明している。地中海世界は絶えず自らについて語り続け、自らを生き直すのを止めたことはなかった。それはおそらく楽しみゆえにやってきたことであろうが、それに劣らず必要に迫られてのことでもあったのだろう。かつて存在したことは今も存在することの条件である。
この「まえがき」の文章は、かなり多くを語りつくしています。ここでいう地中海世界とは地中海沿岸よりもっと広い世界を指していますが、次の文章が、「地中海世界をみる意味」を表現しているといえます。
文明の十字路に立つ地中海世界、異文化が混じりあう地中海世界はわれわれの記憶の中では、自然の景観の点でも人間的景観の点でもまとまった一つのイメージとして、すべてのものが混じりあい、そこから再び独特の統一体に構成されてゆく一つの組織体としての姿を保っている。
こう書かれて、「いや、そうじゃない」とはなかなか言えるものではありません。それだけの「実力」が地中海世界にあるということが、この世界の片隅に住んでいるぼくにも、身をもって分かります。どこの時代を切り取っても、それなりの独特のものが出てくるのですが、それらが一つのイメージのなかに包括されやすいのです。それは水平移動しても同じです。時間軸と空間軸がそれぞれの軸において、お互いに相互作用し続けている結果ではないかと思います。それも、その相互作用がものすごく強い。これは「魅力」とかいう言葉では言い切れない、何か言葉を新たに創らないといけない世界ではないかといつも考えています。
自分が生まれた国のことは、長い間、国の外に出て生活してみないと分からないと思っています。国の良さや悪さという散文的な感想ではなく、国の「かたち」というべき全体構造が外からでないと見えてこないのです。外国に住んで、多くの人と何らかのことを営み、喜んだり悲しんだりしていかないと自分の生まれた国のことが分からない。それはぼくの経験では、最低、10年くらいを要するのではないかとも感じています。
よく「自分の生まれた国のことも、感覚を鈍らせないように・・・」とか言う人がいますが、こういう人は、異文化と時をともにするということがよく分かっていない人です。ある世界に住むのは、他の世界の何かを捨てることです。何も捨てずに、新しい世界の中身を取り入れることはできません。捨ててこそ、見えてくる世界の価値を認識すべきでしょう。加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店)には、長く外国に住んだがゆえに見えてきた日本ーもちろん、中国、日本、ヨーロッパ、その他の地域に対する深い造詣があるのは当然ですがーがあります。

全体に対して部分を重視する傾向である。時間における「今」の強調は、時間の全体に対しての部分の自律性(自己完結性)の強調と考えることもできる。したがって空間における「ここ」の重視、さらにはここ=限られた空間を構造化するのに全体の型よりも部分の質に関心を集中する態度と呼応するだろう。「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程の方向性は、「今=ここ」の文化の基本的な特徴である。
加藤周一は「始めと終わりがある時間、両端の閉じた有限の直線(線分)として表現されるような歴史的時間の表象は、ユダヤ・キリスト教的世界の特徴」とし、近代ヨーロッパの時間概念はユダヤ教的時間によるところが大きく、ギリシャ的時間ではないとしながら、日本の時間概念には「始まりと終わりがない」がないとみます。それを文学形式では連歌を例にとりあげます。
連歌の流れはあらかじめ計画されず、その場の思いつきで、主題を変え、背景を変え、情緒を変えながら、続くのである。その魅力は、作者にとっても、読者にとっても、当面の付句の意外性や機智や修辞法であり、要するに今眼の前の前句と付句との関係の面白さである。面白さは現在においても完結し、過去にも、未来にも、係わらない。連歌とは、過ぎたことは水に流し、明日は明日の風に任せて、「今=ここ」に生きる文学形式である。
これが日本の「随筆」についても言え、ヨーロッパでいう「エッセー」のように「建築的構造」をもたず、「各瞬間における生活」を描いていると指摘しています。要するに、有限的な時間概念をもつと、そこにストラクチャーを構築するという発想が生まれますが、始めと終わりがはっきりしない時間のなかでは、「建築的構造」が成立しにくいのです。これが「世界観」や「概念」の捉え方の違いにでてきます。ヨーロッパの普遍主義を相手にこういう説明があります。
異民族や異文化を支配するためには、物理的な暴力による強制とともに、支配を正当化する言説を必要とする。その言説は、被支配者に対しても説得的でなければならない。あるいは少なくても支配者の側が、説得的であり得ると考え、主張することのできるものでなければならない。そういう言説が生み出されるのは、境界の開かれた文化圏のなかからであって、閉じた地域文化のなかからではない。
この部分、特に「説得的である得ると考え」というが重要です。開かれた文化として異文化と常時接しながら説得的である言説を試みるというのは、ぼくが主張している「ユニバーサルとは言葉で納得できることだ」ということをバックアップしてくれる内容です。日本の建築の特徴では、ぼくは加藤周一の言う「建て増し」論を引用してきましたが、この本では「奥の概念」「「水平線の強調」もあります。ヨーロッパのゴシック教会で象徴される垂直ではなく、日本では水平線が強調され、五重塔でさえ、そこには垂直線を隠す、「塔の非塔化」が見られるのです。これが街となった場合、その全体を定義する明瞭な原理がないとなります。芦原義信『東京の美学ー混沌と秩序』の「カオス」に、こう意見します。

東京の機能(安全、公衆衛生、郵便、電話等)の効率を強調し、それを「隠れた秩序」とよんだのである。そのことにも私は賛成する。しかしそこから「美学」について語るのは無理だろうと思う。水道の水をそのまま飲んで下痢をしないのは、素晴らしい機能である。しかし公衆衛生の高い水準を支える秩序は、美的秩序ではない。
この「水平線の強調」や前に述べた部分重視がアンシンメオリーの文化とどう繋がるか?そのロジックがここにあります。加藤周一が語るそれぞれの「要素」が、こうやって構築された論理になるとの一例です。
細部は全体から独立してそれ自身の形態と機能を主張する。それが非相称的美学の背景にある世界観であろう。その世界観を時間の軸に沿ってもれば「今」の強調であり、空間の面からみれば「ここ」、すなわち眼前の、私が今居る場所への集中である。時間および空間の全体を意識し、構造化しようとする立場に立てば、相称的美学が成り立つ。相称性は全体の形態の一つだからである。時空間の「今=ここ」主義を前提とすれば、それ自身として完結した部分の洗練へ向うだろう。
ここで部分主義はとても大きな構造の中で語られており、それは単に「日本人はコンセプトを作るのが苦手で品質に向う」というところで話しが終わってはいけないことに気づくはずです。そして、内面化された文化の特徴を翻せないとは、加藤周一は語っていないのです。こういう特徴を悲観的にとるのではなく、あるいはそのまま逆手に取るだけではなく、変化するための動機としても利用すべきではないかと思います。それが、この本を読んで痛切に感じるところです。