本を読む の記事

Date:09/9/1

7月はじめに書いたエントリー「木村尚三郎『ヨーロッパ思索紀行』を読む」で、以下を書いたことがあります。

フィンランドの携帯電話機メーカー、ノキアのメッセージはConnecting People ですが、これは実に上手く現代と企業コンセプトを説明しているなと思っています。モバイル機器メーカーでこれほど印象に残るメッセージを送っている会社は他にないでしょう。先日紹介した宮台真司『日本の難点』でも書いていますが、技術革新が進み個々の孤立化が進めば進むほど、あるいは経済社会の効率化が進めば進むほど、それと同時に生活世界における密着性ー人の顔の見える関係ーがより重要になってきます。ノキアは、この時代の動きと自分のサービスコンセプトの両方のポイントをカバーしている点で優れているとぼくは考えました。

ここで言っている「人間の孤立化を招く」というのは、経済活動のユニットが重視されていくと、精神的な「孤立感」の問題が不可避的に出てくるということで、これをどう対処していくかが同時に考えられないといけない、これを無視した形態はありえないという点に強調ポイントがあります。そのポイントを、ある意味、現代社会の弱点をノキアはビジネスとして衝いているわけです。

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北ヨーロッパ社会と比較すると、南ヨーロッパはプリミティブな「共同体」「コミュニティ」が強く残っている地域で、これが経済の「アングロサクソン化」を阻害する要因になってきました。英誌『エコノミスト』は、このグレーな南ヨーロッパー特にイタリアの政治と社会ーを定期的に批判していますが、ぼくはこの『エコノミスト』の論調にいつも無理を感じています。やや、ヒステリックでさえあります。

実は、その英国がヨーロッパのなかで、社会問題に苦しんでいる「先進国」ー青少年のドラッグや飲酒の問題ーという側面があり、「社会問題の対大陸輸出国」となっています。実際、過去10年、英国から脱出する英国人が記録的に多かったという数字もあります(東欧に帰国した移民を含まない)が、これをサッチャー改革の負の面であると指摘する人は少なくありません。

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これまで社会のあり方を考えるモデルーすなわち人が幸せに生きれるーはほぼ同じで、それを色々な人が色々な表現をしているのですが、社会学の見田宗介さんの表現はノートに書き留めておく価値があります。

社会の理想的なあり方を構想する仕方には、原的に異なった二つの発想の様式がある。一方は、歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追及し、現実の内に実現することを目指すものである。一方は、人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに止めるルールを明確化してゆこうとするものである。

前者は「関係の積極的な実質を創出する課題」であり、後者は「関係の消極的な形式を設定する課題」と集約しています。前者は、人類が滅亡して地球にただ一人残されたとき、それは実質的には死と等しいのではないかということです。しかし、他者は億劫で全ての悩みの源泉でさえあるのが、後者になります。もちろん、この二つは対立するのではなく、相互補完の関係にあります。

一方のない他方は空虚なものであり、他方のない一方は危険なものである。<中略> 他者が他者として、純粋に生きていることの意味や歓びの源泉である限りの他者は、その圏域を事実的に限定されている。これに対して、他者の両義性のうち、生きるということの困難と制約の源泉としての他者の圏域は、必ず社会の全域を覆うものである。

つまり、人生の歓びを味わうのは数の限られた社会のなかで可能ですが、しかし、ルールつくりは広いエリアで考えないと通用しないということです。「一国の内域的な社会の幸福を、他の大陸や、同じ大陸の他の諸地域の人々の不幸を帰結するような仕方で構想することはできない」のです。この圏域が二つの関係性のなかで、同一ではないというのが、重要な点です。

日曜日の衆院選の結果をうけ、池田信夫氏が、「世界的にみても、政党の主要な対立軸は「大きな政府か小さな政府か」しかありません。」と書き、大敗した自民党に「小さな政府」めざす政党として再生すべきだと提言しています。これからの民主党と自民党の深い議論に期待したいところですが、その際、この関係性の問題を圏域を含めて考察して欲しいものだと願っています。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/8/28

デザイナーはどこまでをカバーするのか?ということがよく質問され、「それは世の中の全てだ」と答えるデザイナーもなかにはいますが、世の一般の人がそうは期待していないでしょう。やはり爪切りが使いやすかったり、思わぬところにあるモノが素敵だったりというところにデザイナーの力を期待していると思います。クルマのスタイリングが考えられているのは当たり前で、もちろんカッコいいクルマはいいですが、案外、ジャガイモ切りなんかで「デザイナーってすごいなぁ」と尊敬されたりするのではないかと秘かに思っています。

そして、だからこそ、ユーザーはちょっとした欠陥なんかを見つけると「ナンダ!これをやったデザイナー馬鹿じゃないの?」と悪態をつくことになります。自分の名前が売れることに腐心する人もいますが、デザイナー本来の心情としては、「ぼくの名前が出ることなんてどうでもいい。ぼくのアイデアや考え方が世の中に自然に浸透し、それで人々の暮らしが良くなりハッピーになれる。そしてある時、誰かに『えっ!あの毎日使っているモノは貴方の作品だったの!』と驚かれれば、嬉しいよね」というあたりじゃないかと想像しています。あくまでも、デザイナーではないぼくの想像ですが・・・。

昨日、デザインプロデュースなどをしているグリフの柳本浩市さんのブログを読んでいたら、デザインが何でもできると思っていた時代があるけど、今はもっと人間力への信頼感が増し、それで解決できない部分でデザインが解決できる部分があればいいのではないか、デザインの活用部分や社会との接点をもっと慎重にみるべきだという内容のことが書いてありました。ぼくはこの文章に何か安心するものを感じました。デザイナーあるいはデザインの発揮どころは、いい意味で「ほどほど」でいいんじゃないかと思っていたので、すんなりと心におさまったのです。

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1990年代後半からコルゲートやオーラルBが出してきた人間工学的歯ブラシは、柄がくねくねに曲がり磨き残しがないように工夫されましたが、なにせ太い。そのため今までの歯ブラシ立ての穴に入らず、ユーザーは歯ブラシをもって洗面台をウロウロしてどこに置こうか?と考えざるをえなくなりました。差別化や競争力のアップが企業にとって第一で、歯ブラシのインフラをデザイナーも考えるに至らなかったというわけです。ペトロスキーはこう書きます。

デザイナーが歯ブラシの機能と外見ばかりに気をとられ、もっと広い環境のなかでそれを使うことをしなかったとも考えられる。<中略> 歯ブラシのデザイナーは、それが口のなかでどう働き、手で握るとどんな感触がするかより先のことを気にかけていなかったようなのだ。

「それが実現しつつあった人間工学的価値は、『1950年代に設計された穴に入らない』という事実よりも確実に重い」というトレンドの中に入りきってしまったゆえのミスですが、著者は、1930年代にアルフレッド・モーエンが開発した水栓ー「操縦かんに似たレバーが一本だけ、あるいは押し引き式つまみが一個だけついていて、水温と水量を同時に調整する」ーを同様の(ある意味での)失敗例にあげています。それまでの水と湯が別々に出てくることによって生じる問題を解決する画期的デザインであったことは確かなのです。が、

当初モーエンは、利用者が手をやけどしないような温水供給の機構及び人間工学だけに設計の的を絞った。その点では見事な成功をおさめたが、彼はまた、新たな水栓を発明するきっかけとなった問題にきっちり決着をつけるのには失敗した。いや、それどころか、ほかならぬモーエンのデザインの成功こそが、より大きなシステムの失敗をもたらした。というのも設計者たちは、競合するデザインとの違いを打ち出そうとして、水栓の操作の仕方に標準基準を作らなかったからである。

<中略>

問題は、右回しか左回しか、時計回しか反時計回しか、押すか引くかの構造だけにとどまらない。もし温水器から蛇口までがどれだけ離れているかが分からなかったら、もし温水器の温度調整が何度になっているかが分からなかったら、あるいはもしシャワーに飛び込む前にどれだけ待つべきか分からなかったらー私たちは、(モーエンがアイデアを考えるきっかけになった)二つの別個の給水栓がついた自動車工場の流し台の前にいる学生(モーエン)も同然になる。

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これは非常にポイントを得た指摘です。デザイナーが良かれと自分の領域で出すアイデアが必ずしも全体で最適化されるわけでなく、むしろ全体の最適化を阻害することもありうるというわけです。全体を考えることは、ある局地戦に出向くにも重要であるという教訓がここにあります。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/8/25

文化人類学のエドガー・ホールの文章を今まで何回か引用しましたが、ぼくの36冊の本のなかで、以下のように書きました

「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとってのホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。

ここでいう「違う感覚世界」というのは分かるようで分からない言語化しずらい世界ですが、「情報考学」の橋本大也さんが小林弘人『新世紀メディア論ー新聞・雑誌が死ぬ前に』のレビューを書いていて、「皮膚感覚」という表現は適切かもしれないなと思いました。

私たち二人はあるとき、日本の大手新聞社のシリコンバレー支局を訪ねた。向こうの駐在員も2名であった。彼らは「やがて神田さんとか橋本さんのようなフットワークが軽い人たちに大手新聞社はやられてしまうかもしれない」と言っていたのを思い出す。当時の私のように、”何で食っているのかわからないような人たち”が、メディア企業の脅威になるのだと思う。

新しいメディアのプロデュースにおける心構えとして小林氏は、次のように語っている。メディアだけでなくITビジネス全般にも通じそうな話でもある。

「新しいプラットフォームがつくるスフィア(生態圏)では、そこに棲む人たちの関心や行動パターンなどを、皮膚感覚で理解する必要があります。それが「その他大勢」よりも優位に立てる条件であり、ライティングや動画製作のプロであるか否かは二の次だとわたしは考えます。」

正確にいえば、この「皮膚感覚」は小林氏の言葉です。しかし、橋本さんはこの言葉を自分のものにしている印象を受けます。多分、何よりも橋本さんご自身が、この皮膚感覚で「その他大勢」よりも優位に立ったのではないかと思うからです。それはさておき、つまり誰が言ったということに固執せずに書き続けますが、専門的な知識や訓練よりも、「この世界がいい」「この世界はついていけない」と断言できる感覚がまず第一であるとすることに同意です。ぼくがミラノサローネ2008や2009で延々と書いたことは、突き詰めれば、異文化デザインへの違和感の処理に注意を向けることでした。ヨーロッパの空間での皮膚感覚なしに、ヨーロッパ市場で売れる商品を作るのは至難の業であることを書いたのです。それはどんな定量調査や定性調査でも出てこない部分です。あるいは出にくい部分です。

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今、世代間のいがみ合いとでもいうべき論争が日本で盛んですが、これは60年代末の社会運動に近い対立が心理的にあるような気がします。いつの世でも世代間の確執はありますが、この数年にみる様子は1970年代中盤以降から30年近く続いてきた静かなマグマの動きが一気に噴出するような感があります。ぼくはそれぞれの世代の主張にそれなりの正当性をみていますが、お互いがどう話してもなかなか超えられないのは、世代それぞれがもつ「皮膚感覚でもつリアリティ」だと考えます。これはどうあがいても、お互いに否定しがたい感覚です。そういう意味で文化解決が求められるところだろうと考えています。

加藤周一が講演のなかで、老人と学生が共同戦線を張ると世の中が変えられると話しているのをYouTubeでみましたが、欲を離れた部分で自分を表現することができたらー学生も老人も「無欲」という言葉に縁があるー世界は面白くなると思います。欲がみなぎっているうちは、若者に透明な意見を伝えることはできないでしょう。若者も仕事をはじめると世界の現実性に翻弄されるでしょう。だから明らかに「何で食っているか分からない」人達が動くと世界は変化できるのです。

Category: その他, 本を読む | Author 安西 洋之  | 
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