ヨーロッパを旅する面白さと退屈さは、これだけ比較的小さな地域ー飛行機で2-3時間飛ぶことで全てをカバーできるーに多様な文化が相変わらず生きていることへの発見が面白く、つまらないのは、どことなく同じにみえる文化的傾向ー一見したところでは、天と地がひっくり返るということがないようにみえるーにあるのではないかと思います。そして、ネットや携帯電話などの通信システムのイノベーションやローコスト航空サービスーフランクフルトからロンドンは9ユーロ(諸経費を除く)ーで、情報と人の大量移動が可能になり、ヨーロッパはさらに小さくなったようにみえます。しかし、多くの人が読む新聞やネットのニュースは、より身近な社会的な出来事や国内政治であり、なかなか国外のことに関心が向きません。ヨーロッパにリアリティを感じるのは、週中におこなわれるサッカーのチャンピオンリーグで、マドリッドとミュンヘンのチームの試合をみるときであったりします。

だから知識人の存在感や役割が低下しているなかで、国際政治を語るのは知的レベルの高さを誇示することがかろうじてきる分野であると言われたりするわけです。少なくてもより詳しい情報を獲得するには複数言語を知らないといけないし、ある階層の人達との交流がないと、質の高い異文化経験談を聞けないでしょう。逆にそれが当たり前の階層にとっては、「大きなヨーロッパ」について知らないこと自身が「足をひっぱる」存在に思えたりするのです。欧州憲法やリスボン条約への国民投票では、いわゆる高級紙とタブロイド版の衝突として、これらの階層による関心のアリどころの違いが浮き彫りにされます。もちろん、J=B・ジュネヴェマンのように、知識人がEUに懐疑的な例は少なくありません。
本書では、欧州憲法に対するフランスとオランダの世論調査の結果がでています。両国とも2005年ーフランスでは5月末、オランダでは3日後の6月初めーに欧州憲法の国民投票を実施し、両方ともNOが圧倒的に多いという結果に終わったのです。「何故、欧州憲法に反対したか?」の質問への回答です(複数回答可)。
1、フランス
1)企業の海外移転、雇用に悪影響がある 31%
2)経済状況が悪すぎて、失業が多い 26%
3)憲法案はリベラルすぎる 19%
4)仏大統領、政府、特定政党に反対 18%
5)ソーシャル・ヨーロッパがなくなる 16%
6)複雑すぎる 12%
7)トルコ加盟に反対 6%
2、オランダ
1)情報が不足していた 32%
2)国家主権を喪失する 19%
3)政府と特定政党への反対 14%
4)欧州は費用がかかりすぎる 13%
5)欧州統合に反対 8%
6)雇用が悪化し、企業が流出する 7%
7)憲法に肯定的な内容がない 6%
8)統合の進展が早すぎる 6%
9)憲法が技術的で規則が過剰 6%
10)さらなる拡大に反対 6%
フランスは経済的な理由が上位になっているのに対して、オランダは政治的危惧が最初にきています。しかし、「憲法案はリベラルすぎる」「ソーシャル・ヨーロッパがなくなる」というのは、アングロサクソン的な市場主義に対する不安や不満であり、十分にフランスらしさが表現されています。また「トルコ加盟に反対」は、イスラム大国が力をもつことへの恐れを感じている証拠ですー天と地はひっくりかえしたくない。

一方、オランダの一番にある「情報が不足していた」というのは、「欧州は費用がかかりすぎる」「欧州統合に反対」と同じく、基本的にEUのあり方自身に対する根本的なNO-情報が不足していると文句を言うのは、YESというには、国レベルと同じように隅々まで知っておきたいと思う裏返しでもあろう。しかし、それと同レベルの情報提供がEUに出来るはずがないという思いの前提ーが根強いことを表しています。

どちらにせよ、平均的な国民にはEUはあてにできないーどこか自分の知らない場所で重要なことが決まっているのではないかーという不信感があり、この問題は今秋、リスボン条約が批准された今でも、相変わらず残っていると感じます。ネットにSNSがあるからといって、それが改善に貢献しているという話しをあまり聞きませんが、ネットで国際政治が真剣に討議されているわけでもないと思うとーそれはある程度は話され、新聞や雑誌のオンラインでも熱い意見がコメント欄で交わされていることを時に見ますがー人の懐疑心というのはよほど丁寧に扱わないと地雷のように爆発するものだから、EU論議のリアリティは今の数倍は増さないといけないのだろうと思います。少なくても、どこの国の間もアイルランドと英国の人の往来程度に増加し、かつ言葉の障壁が減らないと、同じ社会問題を自由にディスカッションして同じ目線に立つことが難しいでしょう。EU各国の教育で母国語以外に外国語を二つ学ぶことが推進されていますが、10-20年後に期待したいものです。
フランス文化を好きな英国人やドイツ人はいますが、しかし、その数は限定的です。ドイツ文化を好きなイタリア人もいますが、その数も同様です。EUに関心のあるヨーロッパ人は、ある一定の社会層以上であることが多く、「EUについてどう思う?」と聞いて「関心ないね」と答えるのは、他国と日常的に全く関係のない環境にいる人です。多くの国内法がEUの束縛を受けるとしても「あっ、そうなの。全くEU官僚が好き勝手をやって面倒ね・・・」と不満をいって終わります。2002年に流通をはじめたユーロという共通通貨はEU意識を高めることにも貢献してきたのは確かですが、それをもってヨーロッパ内の異文化理解が劇的に進んだという話にはなりません。が、エラスムスなどEUの交流プロジェクトが成果をー特に若い人たちにー出していることも事実です。ですから、そう悲観的に判断するのは早計でしょう。

一方、ヨーロッパ人のイスラム信者(ムスリム)移民に対する異文化理解は、様相をかなり異にします。EUに関心のない人たちも、直面せざるをえない側面が多くあります。労働市場でのパイの奪い合いの相手であり、子供の学校教育をどうするかを考える契機にもなります。子供の通学する学校で90%以上が外国人である場合、母国語教育への影響を考慮し、外国人の多くがムスリムのケースでは、(宗教教育が行われている地域においては)宗教教育がしかるべく実施されるかどうかを危惧します。しかも、ムスリム側にも同様の不安があります。内藤は、こう書きます(p 165)。
結果として、今までのところムスリム移民が暮らすヨーロッパ各国は、彼らの文化的・社会的に統合に失敗したといってよい。(中略) ドイツの場合は、もともと外国人に対する排斥感情があって、移民を追い詰めたために、ムスリム移民はコミュニティをつくって対抗した。オランダは自らのうちにイスラーム共同体の形成を促進するシステムをもっていた。そしてフランスは、同化圧力を強めると同時に彼らを無理やり宗教から引き離そうとしたために、その反動から共同体の絆が強まったのである。
一度、信徒の共同体が形成されると、次には、私的領域を超えて、公的領域においても、ムスリムとして生きる自由を権利として保障するようホスト社会に求めるのは当然の帰結であった。それに対する対処の方法を、いまのところヨーロッパ各国はもっていない。イスラームという宗教文明が可視化されていくことに苛立ち、各国がムスリムの行動を規制すると、ホスト社会とムスリム移民社会との緊張は確実に高まっていく。

緊張の高まりは、フランスやドイツでのスカーフ規制問題で多くの人が気づきましたが、11月29日のスイスでの国民投票ーイスラム教寺院の尖塔建設を禁止するかどうかーの結果が、57%が「禁止に賛成」であったのは、今までムスリムとのコンフリクトが目立たなかったスイスという国でもそうなのかという驚きと苦悩をみせました。さて、ドイツはナチへの反省から、「外国人憎悪」を定義づけたうえでこれを違法行為として扱うのですが、「ドイツ社会自身が、異民族や異文化と共生していく発想を自らのうちに持っていないことを表している。ドイツはドイツ人の国だという前提があって、そのうえで、外から来た人間を差別するのは良くないと言うのである」(p 44)と筆者は指摘します。
オランダは多文化主義を掲げ、一見、開放的です。が、これはムスリムへの理解が進んでいるということではなく、個人の自由の尊重をするから、他人の宗教に違和感をもったとしても関心や共感はもたない(目をつぶる)という方針の一表現です(p 102) 。フランスは宗教からの脱出の長い歴史を戦いの結果としてもってきた国です。よって世俗主義(ライシテ)により公の領域での宗教の中立が図られ、私的領域での自由意志が保障されます。そこで、学校にムスリムがスカーフをつけて通学することは禁止というロジックが出てきます。しかしながら、ムスリムは公私の領域を分断することは信仰上のロジックにあいません。キリスト教は宗教が支配してきた時代(中世)を経て宗教的支配からの脱皮を経験(啓蒙)してきたので、ヨーロッパ近代はムスリム的なロジックを「進化に反する古いもの」とみるのですが、ムスリムには宗教的規範の重視を時代によって変えることに納得するロジックがないのです。

今、世間で盛んに語られる、キリスト教とイスラム教の対立という構図を描き、宗教という人間の内面的活動のコンフリクトであることを強調するのは間違いではないか、と本書を読みながらぼくは思いました。もともと西洋社会とアラブ社会は近しい交流によって成り立ったのにもかかわらず、キリスト教から変遷した社会と、その社会に抑圧をうけた人間の視点がぶつかり合っているのが現代で、そこをリアルに見つめることに明日への鍵があると筆者は語るのです。二つの教義を比較し、こういう相違点があるから両者が交流するのは難しいと嘆くより、メンタリティや社会的差別の実態を知った上で、お互いが納得できるロジック探しにエネルギーを費やすことがいいのではないかと考えます。要するに、人との対立と融和はすべからく、納得できるロジックの確立という問題に帰結できるかという飽くなき試みこそが救いではないか、と。
「本を読む」というカテゴリーを設け、ブックレビューを書き始めてから、およそ5ヶ月がたちました。最初に書いたのが、6月29日、宮台真司『日本の難点』です。30冊以上について書き、「安西洋之の36冊の本」を入れると、70冊以上です。それまでも、本やオンラインの記事に触れることがありましたが、一つのシリーズとして書こうと思ったのは、6月末です。その動機がなにであったかといえば、ヨーロッパや文化について人前で語り始め、何度も何度も同じ論点を多様なアングルから話す必要性を痛感したことも一つあります。自分自身のメモにしようと考えたこともあります。理由は、挙げれば沢山あります。が、ないと言えばない。
ぼくは自分の本『ヨーロッパの目 日本の目』を出版し、変わったことがあります。それまでは、本を読んで(言葉は悪いが)悪態をつくことが多かった。「なんで、こんな馬鹿なことを繰り返し書くのだ」「この著者、ピントがずれている」「本当に、こんなレベルの内容の本を沢山の人が読むのか」・・・・多くの人が口走ることを、ぼくも同じように口走っていました。ネットでレビューブログを読むと、そうしたくそみそにけなした文章を散見します。正直に白状すれば、ぼくは、今もそういう思いをもつことがあります。しかし、それを他人に大声で言うことは極力避けるようになっただけでなく、実際にそう思うことが減りました。

昔、和田誠が自分にとってつまらない映画はないと話していました。当時、あえてよいところを探す態度も疲れるよな、とぼくは感じていました。偽善ではないが、自分には適わない。が、自分で本を書き、人の批評を聞き、メッセージを伝える難しさが身にしみて分かってくると、そう簡単に公に人の本を批判できなくなったのです。「それで、お前の本はどうなんだ?」と反論される怖さではなく、どこかの主張が尖がっていたり、当然記述すべき部分がばっさりとないのは、著者の編集上の意図であったりすることが想像できるようになったのです。
意図的に排除したことを、「ないのはミス、甘い」と指摘するのではなく、「こういう意図で排除したと思うが、それはこうして入れるべきだった」と言わないと、著者にとっては「そんなこと、百も承知」と受け取られる。もちろん、「こんなに言われるなら判断ミスだった」という展開もあります。しかし、ぼくが言いたいことはここではない。もともと筆者のために本を読むのではなく、自分のために読むーそれも趣味の読書ではなく、サバイバルの読書ーという基本的態度が決まってくると、その本の完成度よりも、自分にとってどこがどう貢献するか?という読み方になってきます。だから、読んだ本にどんなに沢山欠点があっても、それはぼくにはどうでもいいことで、ぼくの考えることにどこかプラスになる情報や見方があれば、それでよしとするのです。

ぼくが読んだ本について書いていることが、「ブックレビュー」と通常世間で言われるスタンダードとどう同じでどう違うか、そこにあまり関心をもったことがありません。ぼくの書き方は、まず本が扱っているテーマに対する自分自身の経験や考え方の整理をなるべく行い、そこに対して、この本がどうインパクトを与えているかにおよそ集中します。本全体の意図をサマリーすることはないし、目次を書き連ねることはしない。それは、ぼくの読み方ではないからです。そういう書き方をするには、別の読み方が必要だろうけれど、それはぼくの目標とすることではないということです。ぼくが言えそうなことは、本のために生きるのではなく、人と生きるにあたって、本を頼りにすることがあるとすれば、こんな読み方があるよ・・・・というサジェスチョンからもしれません。