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	<title>さまざまなデザイン &#187; 本を読む</title>
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	<description>ヨーロッパの目</description>
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		<title>井庭崇『プレゼンテーション・パターン』で十分じゃないか</title>
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		<pubDate>Fri, 02 Dec 2011 23:00:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[イノベーティブ思考]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[どこも「可視化ばやり」である。アングロサクソン流の説得に屈したのか、なんでそうなったのかよく分からないが、かたっぱしから透明性が要求されていることと「文盲率」が高くなった、この二つが要因なのではないかと想像している。「文 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>どこも「可視化ばやり」である。アングロサクソン流の説得に屈したのか、なんでそうなったのかよく分からないが、かたっぱしから透明性が要求されていることと「文盲率」が高くなった、この二つが要因なのではないかと想像している。「文盲率」とは文字通りではなく、もちろん言語リテラシーを指している。コミュニケーションにおける文章への依存度が増しているのに、その理解力や表現力が比例していないから「文盲率」は相対的に高くなる。そして、ネットに「放出」される情報量は増大する一方であり、大波に溺れることに飽きたーあるいは力尽きたー人たちは古代的なライフスタイルを選択する。</p>
<p>そのためか、情報の流れ方や提示のされ方ー「しかた」ではない！－にとても敏感な人たちが育っている。ただこれも皮肉な見方をすれば、「文盲率」の高さゆえに「作法」で判断する部分が多くなっているとも言える。暗黙的な世界でより「作法」が重視されるとの同じレベルで、「文盲率」の高い世の中では「明示的である」ことが「作法」に堕している。実際、恥ずかしい話だが、ぼくも理解しずらい人の書いた文章によく出会いー君もぼくの文章を分かりにくいと言うかもしれないがー、「文盲率」の高さが自分の身に及んでいるのをひしひしと感じる・・・・。ああ、及んでいるのじゃなくて、もとからそうかもしれないが。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/d3380ceedc74ce7d1a85cf421f98a774.jpeg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4691" title="d3380ceedc74ce7d1a85cf421f98a774" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/d3380ceedc74ce7d1a85cf421f98a774-300x213.jpg" alt="" width="300" height="213" /></a></p>
<p>よってプレゼンばやりだ。「伝わらぬものは伝わらないんだ！」「伝わらないのは相手のレベルが低いんだ！」なんて口が裂けても言ってはいけない。そういう世知辛い世の中である。おばあさんでも分かるように、１４歳でも分かるように・・・とキャッチフレーズをつけただけで、良心のありかが証明されたような気分が満ちている。ああ、いやだ。いや、ぼくもプレゼンの必要性については自分で語るから、全否定しているわけではない。それでも、やり過ぎなんじゃないかと思わないでもない、ということだ。</p>
<p>慶応大学の井庭崇研究室で作成した<a href="http://gigazine.net/news/20111124_presentation_patterns/">「プレゼンテーション・パターン</a>」を読んだ。ヴィジュアルと言葉の両方でプレゼンのコツを語り尽くそうとの意思が見える。３４のチェック項目が網羅されている。ぼくは、これですべてであるか、あるいは欠けている点があるかという目では見ない。これらのポイントのそれそれでいい線いったら十分じゃない。まず、無理だって。だいたい、これは方向性や態度を語っているのであるから、「いい線」という表現自体、馴染まない。</p>
<p>正直に書こう。ぼくは、プレゼンのやり方に関するマニュアルや本をほとんど読まない人間だ。ビジネス本も書き、たまにビジネス書のレビューをブログにも書くが、ビジネス書もほとんど読まない。読んだ冊数は、このブログにレビューを書いた数だけだ。だからプレゼンのコツをどう他人が語っているのかを知らない。しかしながら、プレゼンはこの３４を手元においておけば他に何が必要なのか、さっぱり思い浮かばない。これは簡潔に肝心なことを指摘して、あとは読む人間が考えるようになっている。それでいい。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/2-festivalletterature02.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4692" title="2-f" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/2-festivalletterature02-300x223.jpg" alt="" width="300" height="223" /></a></p>
<p>少なくても確信をもって言えることがある。プレゼンのマニュアルを読んでいる暇があれば、文学や歴史の本ー特に回想録ーを読むのが良い。もし、そうした本を読んでなお、プレゼンのマニュアルを読みたいと思ったら、それらの本をよく理解できていなかったと反省するべきだ。</p>
<p>あっ、基本的なことを書き忘れた。「明示化」のプレッシャーに対抗して「暗黙的である大切さ」を相手にどう説得できるか？というのは、重要な課題だ。これに負けると、プレゼンのマニュアルに走るわけだ。金を節約したいと考えるなら、何をすべきかは自明だ。</p>
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		<title>木全賢・井上和世『中小企業のデザイン戦略』を読む</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/4679</link>
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		<pubDate>Thu, 01 Dec 2011 21:20:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[いろいろな分野に人のネットワークがあると自分では自負していても、案外、「それでどうした？」と思われたりします。医者や弁護士のように機能が比較的理解されていると考えられる職業であれば、「そういう友人をもって便利だね」と言わ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>いろいろな分野に人のネットワークがあると自分では自負していても、案外、「それでどうした？」と思われたりします。医者や弁護士のように機能が比較的理解されていると考えられる職業であれば、「そういう友人をもって便利だね」と言われますが、建築家だとちょっと遠のく。空間を設計する人の「機能性」は理解しずらい点があります。それゆえ、一般人に分かりにくい仕事の場合、まったく新しい言葉でそれを定義しなおすか、できるだけ皆が知っている職業カテゴリーにはめ込みます。「いろいろな分野」の「いろいろ」自身が視界に入っていないケースが多数なのです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/hp.png"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4682" title="dt" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/hp-300x220.png" alt="" width="300" height="220" /></a></p>
<p>今週の月曜日、UXD Initiative 研究会で<a href="http://uxd-initiative.blogspot.com/2011/11/5uxd-initiative.html">「イタリアンライフを題材にしたローカリゼーション・ワークショップ</a>」後の懇親会で経験の統合に関して話していると、千葉工大の安藤昌也さんが「人には機能と役割があり、若い時は機能が優先し、年齢が増すにしたがい役割が大きくなる」とコメントをくれました。その表現を使うなら、普通、インダストリアルデザイナーは機能でしか見られません。医者が「心を落ち着ける相手」として役割を期待されるようにインダストリアルデザイナーが評価されることは稀です。</p>
<p>本書で引用されている２０００年国勢調査によれば、グラフィックやファッションなどデザイナーで生計を立てている人は１６万人。アーティストが約４万人、写真家が約５万人とあります。そしてデザイナーのインダストリアルデザイナーは約２万人であり、そのうちインハウスは６０％、フリーランスが３０％、残り１０％が行政や学校に勤めています。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">というわけで、中小企業が仕事で付き合えるフリーランスの工業デザイナーは日本中に６０００人くらいしかいません。２万人に１人しかいない計算です。おまけにデザイナーの都道府県別の就業者数分布を見ると、東京・名古屋・大阪の大都市圏にデザイナーの８割が集中しています。</span></p></blockquote>
<p>地方の地場産業の活性化に際しデザイナーが登用されても、なかなか難しい状況がこの数字から伺えます。地元事情をよく把握したデザイナーを期待することに無理があります。しかもデザイナーが考える「売り方」に本当の鍵があると思っていない企業が多く、色や形がマシになればそれでヒットするのではないかと期待をするものだから、大きな誤算がどんどんとつみあがっていきます・・・結果、デザイナーなんて役に立たないと思われてしまう。一方で「機能」だけでなく「役割」をも期待されたいというデザイナーも多く、交差しないお互いの思いが空を駆け巡っていることになります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/marshmallow.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4683" title="am" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/marshmallow-300x227.jpg" alt="" width="300" height="227" /></a></p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">男性中心で、無名で、職人肌で、下請け受注で、「志」はあるけど営業も金銭勘定も苦手。中小企業によくいるタイプではないでしょうか？</span></p></blockquote>
<p>日本のインダストリアルデザイナーはおしゃれじゃないけど腕時計だけは変わっているんだよなあ、との印象をもっているぼくとしては、こういう説明をデザイナーの著者がするーせざるをえないーことがとても皮肉に思えます。なにせふつうの人たちの日常には登場しない人たちなので、逆にアーティスティックなイメージをもたれ、おつきあいするには敷居が高いと中小企業に感じられている。これが両者の不幸を生んでいるわけです。「俺、みんなが思うほどモテないのに、どうも女の子は遠巻きに見るんだよね」というやつです（・・・かな？）。</p>
<p>そこでバシリーという表現は使っていませんがーでもいいからデザイナーを使いこなせ！と本書は書くわけです。企画の最初の段階にはじまり試作、場合によっては営業窓口にまでフリーランスのデザイナーは使い勝手が良い、と。それも嫌々やるのではなく、ビジネス全体の構想を描くところにこそデザインの意義があると説きます。デザイン的発想こそが、２１世紀のビジネスのキラーアプリであると考えるのが妥当であるかどうかは判断しづらいですが、少なくても、この５年－１０年についてはそうでしょう。</p>
<p>なお、対抗馬は、言葉の使い手である文学ーつまりは文学的思考ーか？　というのがぼくの予想です。</p>
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		<title>村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読む</title>
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		<pubDate>Thu, 01 Dec 2011 11:38:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[何事も自分でやらないと分からない。サッカーの面白さも自分でボールを蹴って分かるし、絵も自ら筆をとることで表現の濃淡が理解できる・・・と言われます。しかし、すべて「見る側」から「やる側」に立場を移さないと何も語れないとした [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>何事も自分でやらないと分からない。サッカーの面白さも自分でボールを蹴って分かるし、絵も自ら筆をとることで表現の濃淡が理解できる・・・と言われます。しかし、すべて「見る側」から「やる側」に立場を移さないと何も語れないとしたら、ほとんどの人はただ口を噤むだけになります。語る資格はない、と。本当にそうなのでしょうか？</p>
<p>クラシック音楽において「やる」とは何なのでしょう。楽器を演奏すること、オーケストラを指揮すること、歌うこと。コンサートやＣＤで「聴く」のは「やらない」側に入るのでしょうか？　遠い昔にこの世を去った楽譜を唯一のマテリアルとして演奏し、それを聴く観衆がいます。現代のポップスは最初に演奏したミュージシャンの解釈をベースとすることが一般的なのに対し、クラシック音楽はそうなっていません。作曲家が書いた楽譜のみが高い場所にたてます。その意味で、芸術のなかで特にクラシック音楽は特殊な位置にあります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/musicaclassica.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4671" title="msc" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/musicaclassica-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" /></a></p>
<p>古代文学が現代の書き方でないため普通の人にはなかなか読みこなせないことはありますが、１８－９世紀の文学であればかなり勘はつけやすいです。絵画も見方を学ぶ必要がありますが、少なくてもアーティストとアマの鑑賞家は物理的に同じモノを見ています。しかし、クラシック音楽においては両者ープロ演奏家とアマの鑑賞家ーが肝心のマテリアルを共有していないことが大多数なのです。ベートーヴェンの交響曲を楽譜で読み楽しむー正しくは、読めて楽しめるーアマは稀であり、いわゆるマニアーことにレコードマニアーは印象と演奏の比較に終始します。ベームとアバドのどちらのテンポが速いか、という話です。よって、小澤征爾はレコードマニアを好まない。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">だから小澤さんは僕に「スコアを読めるように勉強したら」と勧める。「そうすれば音楽はもっとずっと面白くなっていくから」と。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">＜中略＞</span></p>
<p><span style="color: #000080;">会話を交わしたことによって、小澤さんと僕との音楽に対する根本的な違いみたいなものが、僕にもより正確に、いわば立体的に理解できるようになったし、それはかなり大事な意味をもつ認識であったと思う。</span></p></blockquote>
<p>村上春樹はクラシック音楽におけるプロの演奏家とアマの聞き手の距離を示しています。しかし、アマはここで絶望すべきではなく、なんらかの穴を見つけていくことに村上は意味を見出すのです。本書は村上春樹が小澤征爾に１年にわたってインタビューした内容で構成されています。興味をひくのは、前半で村上春樹がレコードで聴きながら指摘することが、かなり的を得ていると小澤に評価されるのですが、後半になるに従い、小澤のテンションがどうも低くなります。体調の問題だけではなく、穿った見方をすれば、プロの演奏家とアマの聞き手の間にある厳然たる差異を前にして、小澤の気力が続かなくなってきたのではないかという気がしました。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/musica_classica.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4672" title="ms" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/12/musica_classica-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a></p>
<p>しかしながら、村上春樹の凄いところは、このギャップについて当たり前ながら自身で強く感じながら、それを容赦なく曝け出していることですーレコード１万枚のコレクションにどれほどの意味がある？と。乖離を無理に覆い隠さず正直に出すことで、ギャップの埋め方を探る大切さを淡々と説いています。</p>
<p>小澤はカラヤンが音楽の方向性を優先した点を強調し、カラヤンの特徴を分かりやすく教えてくれます。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">要するに細かいところが合わなくてもしょうがないということです。太い、長い一本の線が何より大切なんです。それがつまりディレクションということ。いわゆる方向なんだけど、音楽の場合はそこに『繋がり』という要素が入ってきます。細かいディレクションもあれば、長いディレクションもあります。</span></p></blockquote>
<p>前半で、小澤は村上にこのような説明をしました。が、小澤がスイスで毎年夏に開催する若い人を対象としたセミナーを見学した村上は、後半、小澤の指導の鍵がどうしても分からないと吐露します。引用しましょう。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">小澤さんが出す指示のひとつひとつの意味は、僕にもだいだい理解できる。しかしそのような具体的な細かい具体的な指示の集積が、どうやって音楽全体のイメージをかくも華やかに立ち上げていくことになるのか、その響きや方向性がオーケストラ全員のコンセンサスとして共有されていくことになるのか、そのへんの繋がりが僕には見えない。そこの部分が一種のブラックボックスみたいになっている。いったいどうしてそんなことが可能なのだろう。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">それはおそらく、半世紀以上にわたって世界的な一流指揮者として活躍してきた小澤さんの「職業上の秘密」なのだろう。いや、そうじゃないかもしれない。それは秘密でも、ブラックボックスでも、なんでもないのかもしれない。それはただ、誰にもわかっているけれど、実際には小澤さんにしかできないということなのかもしれない。</span></p></blockquote>
<p>たぶんーぼくは楽譜を読むことができないし楽器も弾かないー、楽譜を読んで演奏する人なら分かるであろう全体の構成への道筋が村上には見えてこないのです。繰り返しますが、村上はそれを「見えない」と率直に書くのです。</p>
<p>プロがプロたるゆえんは、全体像の構想力とその実行力にある・・・ということが実に明快に分かる本です。それは小澤征爾のことだけを指しているのではなく、村上春樹のことも指していると理解すべきでしょう。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
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		<title>畠山重篤『森は海の恋人』を読む</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/4653</link>
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		<pubDate>Sun, 27 Nov 2011 06:00:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[イノベーティブ思考]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[日本にいるころ、相模湾でディンギーを仲間と乗っていた時期がありました。ある日曜日、かなり風が強く小雨まじりの中を友人と無謀にも舟を出した際、さほど沖にいかないところで船体がひっくりかえりました。ぼくらは海に身を放り出され [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>日本にいるころ、相模湾でディンギーを仲間と乗っていた時期がありました。ある日曜日、かなり風が強く小雨まじりの中を友人と無謀にも舟を出した際、さほど沖にいかないところで船体がひっくりかえりました。ぼくらは海に身を放り出された後に舟をたてなおしましたが、ぼくは乗り込むにあたり船体をつかみ損ね、海面に一人残されることになりました。一方、友人をのせたディンギーもあっという間に流されていきます。陸から沖に吹いていた風と潮の流れが、ぼくの身を山の連なりからどんどんと遠くへと引き離していき、「明日、何処で発見されるのだろうか・・・」と文字通り天を見上げました。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">漁民は山を見ていた。海から真剣に山を見ていた。海から見える山は、漁民にとって命であった。</span></p></blockquote>
<p>冒頭の文章が、２０年以上前の相模湾でのアクシデントを鮮明に思い起こさせてくれました。陸地にある建物など小さくあてにならず、見慣れたカタチの山こそが自分の位置を確認する唯一の指標になります。人はどこかにあるスタート地点をいつも確認できる構えが必要です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/venezia.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4654" title="v" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/venezia-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>海に浮かぶヴェネツィアの街のためにアルプスの木材がポー川で運ばれたように、ある地域は他の地域との相互補完の関係で成り立ちます。こうしたことを当たり前のことだと頭で知りながら、お互いに関係することを実際に見たり聞いたりすると、人は心を動かされるものです。地域や集団あるいは個人が閉じた孤立に陥らずに生きていることが確認されると嬉しく思う傾向があります。それも、自然の生態系にかかわることだと、さらに・・・。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">植物プランクトンを育む窒素、リン、ケイ素、さらに、フルボ酸鉄の流入量は、圧倒的に、大川が供給していることがわかった。さらに大川の水は、外海に近い唐桑の海にも届いて、それが水深２０メートルもの深さにまで達しているというのである。つまり大川の養分が、海の深い所にまで供給されていたのである。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">森林、川、海と続く生態系の中に、生物の生存がある。ところが、この関係が数字で明快に示されることは、これまでなかった。松永教授の鉄を基準にした生物生産量の計測という研究は、単に気仙沼湾の問題にとどまらない。</span></p></blockquote>
<p>牡蠣の養殖のために森を育てる根拠が科学的に説明されたのですが、科学的説明が可能であるという事実は、海で生きる生物に不可欠な鉄分は森によって提供されるシステムが、世界のどこの地域でも維持されないといけないとの警告になります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/lido-venezia.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4656" title="l" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/lido-venezia-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a></p>
<p>ある科学的説明は科学的に説明されると有用であろうと直観で閃いたポイントでこそ花開きます。あてずっぽうにいくのではなく、「こんな感じが全体像ではないだろうか」と直観で思ったら、そこから鍵となるパーツを探し求めていきます。しかし、直観でつかむ全体像とは自分のリアルな経験（たとえ、ネット上の情報を扱うにせよ、「自分にとっての一次情報」という次元において）に基づきます。つまり、情報は目的や目標があってこそ「息が吹き込まれる」ものであり、実は「息が吹き込まれる」瞬間とは、眼前にあるディテールが輝いた瞬間であり、全体を構成する重要なエレメントであろうと直観で思う時です。すなわち、<strong>全体像とディテールの関係の把握が瞬時に行えた時以外の経験は、そのまま寝かせておいてよい</strong>ものです。言ってみれば、あまり考え込まなくていい。</p>
<p>海に森に生きてきた畠山さんは、「経験の寝かしつけ」が上手いのではないかと思います。無駄に起こして徹夜などさせない。よく睡眠をとらせる。しかしながら、常時目を覚ませておかなければいけない部分は、「冷淡なほどに熱情的」になるよう仕向けます。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">三陸海岸の一介の漁師の家に生まれた少年が、一人前の牡蠣士になり、森と海の自然の恵みと、それをおびやかす環境破壊の現実に目を開かれ、問題点を正確に把握して、その解決にむけ、仲間の輪を広げ、敢然と、しかしどこまでも明るく、立ち向かうリーダーになっていくドキュメントである。その筆致には高い文学性があり、叙事文学ともいえる。が、それにとどまらない。ゆったりとした序（経験の統合）、息もつがせぬ破（問題点の整理）、そして最後の急（実践）という、しっかりとした構成をそなえて、また多くの地域に妥当する処方箋が書き込まれており、実学の書でもある。</span></p></blockquote>
<p>川勝平太のあとがきです。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>鶴見俊輔『思い出袋』を読む</title>
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		<pubDate>Sun, 06 Nov 2011 02:30:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[「もうフェイスブックは古いよ。それに比べグーグル＋はいいね。ツイッター？ああ、もうゴミメディアになったね」というセリフをフェイスブックで最近読み、ため息がでました。１－２年前、彼があれだけツイッターについて熱く語っていた [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「もうフェイスブックは古いよ。それに比べグーグル＋はいいね。ツイッター？ああ、もうゴミメディアになったね」というセリフをフェイスブックで最近読み、ため息がでました。１－２年前、彼があれだけツイッターについて熱く語っていた内容はなんだったのでしょう。「米国の若い子たちは、フェイスブックはダサいと言っているよ」と付け加えます。ソーシャル・メディアのなかで多様なオプションが時差を伴いながらやってくるのを一つ一つ夢中になってこなしながら、「夢中」になって捨てていく。そう、捨てるのも嫌に気がはいっているのです。</p>
<p><span style="color: #000000;">各メディアとの複合で「自分にあった唯一のシステムの確立」に強い希求があると、個々のコンポーネントを比較的「軽く処分」できます。これらの人たちは、自分のメッセージがどういうレベルで伝達されるかもさることながら、ひたすら方法論に関心があります。しかし、考えようによっては、新しいターミノロジーが作る世界観に目がよりいっているのかもしれません。</span></p>
<p style="text-align: center;"><span style="color: #000000;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/volleyball-history-1944-us-soldiers-world-war-2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4620" title="vo" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/volleyball-history-1944-us-soldiers-world-war-2-300x182.jpg" alt="" width="300" height="182" /></a><br />
</span></p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">「尊皇攘夷」という合い言葉がはやらなくなって、そのうち「攘夷」だけが残り、新しい政府の下に、西洋の習慣が取り入られるようになった。それからのこと、「□□はもう古い」というのが知識人の言葉づかいの中に棲みついて、百五十年近くになる。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">はじめは、わずかに知識人代表がヨーロッパに旅して新知識を仕入れてきた。その輸入には船便で三か月かかった。だんだんに船は早くなり、タネの仕入れは数年とだえたが、戦争が終わってからは、テレビを通してほとんど仕入れ元の米国、そしていくらかは前と同じくヨーロッパから、新しい知識と習慣がとどく。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">それでも、「□□はもう古い」は、ものさしとして有効である。「サルトルはもう古い」というように、その□□のところに何を入れてもおかしくない。ことによると、「□□はもう古い」は、明治以降百五十年で最も長持ちしている文化遺産かもしれない。</span></p></blockquote>
<p>本書にある「かわらぬものさし」にある一節を引用してみました。新しいか古いかが必要以上に重要になるのは、全体像の把握の必要性が、いやさらに言えば、全体像の把握自身が顧みられなくなっている時代を反映しているのではないかとも思えます。そういう時が１５０年も続いているのが日本であると鶴見は指摘しているわけです。しかし、それは日本だけに限った話でもないと書いているのが「大きくつかむ力」です。日米が開戦するかどうか、A.M.シュレジンガー、都留重人、鶴見俊輔の３人で話し合ったとき、シュレジンガーは黒船到来以降の日本を一国にまとめてきた指導者の賢明さは、米国に敗戦するとわかっている戦争を回避するだろうと語りました。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">A.M.シュレジンガーの予測は、この場合、結果だけから言えばまちがっていた。しかし、この大きな歴史のつかみかたは、おそらく彼より細かいところまでを知っていた日本の大学出の外交官が忘れている、大きな世界史のつかみかたを内にふくんでいたのではないか。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">その当時も、また現在も、大学出身の専門官僚は、百五十年、二百年の大まかな日本の位置づけを離れて、細かい情報処理の中で日米の舵取りをしているのではないか。そうして、二百年前、百年前にはもっていた、大きな筋道をみつける力をなくしてしまっているのではないか。</span></p></blockquote>
<p>この後、現在の米国は日本と同じ道をたどっていると鶴見は言葉を加えるのです。つまり、大局をつかむ力を喪失した、と。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/ted-williams-0209-lg.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4621" title="te" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/11/ted-williams-0209-lg-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>８０代の鶴見の文章を読みながら、ぼくは「老人っていいなあ」としみじみ感じ入りました。年齢を経てこういう見方ができるなら、もっと早く年を取りたいと素直に思えました。高校生から大学生のころ、彼の文章を『思想の科学』で読んでいた時、当然ながらぼくにそう思える余裕はまったくなく、ひたすら文字を追いながら遠い先にある彼の思考の背中を見つけようとするに精いっぱいでした。そして、ほぼすべて忘れている・・・・。</p>
<p>３年前、前著『ヨーロッパの目　日本の目』を上梓したとき、この分野で高名な先生が本の献本リストを作ってくださいました。ぼくの本を読んでだうえで２０人くらいの名前を書いてくれました。そのなかに鶴見俊輔の名を見つけたとき、３０年近い遠い過去が急によってきた、あの感覚を本書を読みながら思い出しました。だが、残念ながら波はやはり再び遠のいていくのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>藤井敏彦『ヨーロッパのCSRと日本のCSR』を読む</title>
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		<pubDate>Sat, 22 Oct 2011 22:36:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[『ヨーロッパの目 日本の目』]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[ヨーロッパの財政危機を巡る日本国内でのコメントや意見を耳するたびに、相変わらずＥＵ認識にずれがあるなあと思います。まるで経済的な動機でＥＵが成立したかのような前提で論議されていることが非常に多いのです。ＥＵはエリートの産 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ヨーロッパの財政危機を巡る日本国内でのコメントや意見を耳するたびに、相変わらずＥＵ認識にずれがあるなあと思います。まるで経済的な動機でＥＵが成立したかのような前提で論議されていることが非常に多いのです。ＥＵはエリートの産物であるがゆえに経済的ロジックに嵌るはずがなく、統合の考え方は地に落ちていくのが当然であろうとでも言いかねない勢いです。言うまでもなく統合の出発点にあるのは、何世紀にも渡っていったいどれだけの人たちが終わりのない復讐に命を落としたのか？　戦いで流してきた血を止めるしか生きる道はないとの覚悟がすべての根底にあります。ヨーロッパ統合のコンセプトが破綻しないための経済的な括りが共通通貨に表現されていると考えるのが妥当でしょう。</p>
<p>何か前向きなことが生じると一斉にヨーロッパの将来を語りはじめ、少しでも暗部が露呈するとすべてが終わりのようなシナリオに夢中になりすぎる。短い期間をとっても、２００７年のリスボン条約締結以降の日本の書店のヨーロッパ関係の本棚を観察すれば、そのあたりの節操のなさがよく分かります。ヨーロッパが市場として規模が大きいかどうかではなくー北米より大きいが言語が細分化されて面倒との見方をする企業が多いー、「こういう考え方をしたらどうだろう」との提案をするヨーロッパの動向を定点観測しておく意味がよく理解されていない。すなわちは<strong>世界の思潮を見極める大きな要因をフォローせず、世界各地で起こる一現象に振り回される確率が増えるという悪循環に陥っています。世界を動かすメカニズムのキーの一つがヨーロッパにあるのに見過ごしているといえます。新興国の台頭で米国も含む西洋社会は凋落の傾向にあってでも</strong>、です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/Europe_mosaic.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4595" title="Eur" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/Europe_mosaic-300x210.jpg" alt="" width="300" height="210" /></a></p>
<p>一例がここにあります。「２１世紀はモラルの時代になる」と一部の人たちの間で前世紀から語られてきました。明示的なルールではないレイヤーでの勝負とは言わない「紳士的な振る舞いでの「勝負」」が重要視されるだろう、と。実は、それが目に見えない机上の理想論ではなく、現実の世界に浸透しはじめているのがCSR (Corporate Social Responsibility ＝企業の社会的責任）ということになります。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">CSR とは、社会面及び環境面の考慮を<span style="color: #ff0000;">自主的に業務に統合する</span>ことである。それは、<span style="color: #ff0000;">法的要請や契約上の業務を上回るもの</span>である。<span style="color: #ff0000;">CSRは法律上、契約上の要請以上のことを行うこと</span>である。CSRは法律や契約に置き換わるものでも、また、法律や契約を避けるためのものでもない。</span></p></blockquote>
<p>これがヨーロッパの発想です。企業幹部が不祥事で頭を下げるたびに話題になる法律の遵守がCSRではなく、明示できない問題への対処がCSRのテーマになるのです。グローバルに展開するサプライチェーンによって、自国では維持する価値を他国では踏みにじるー本社のある国での人権は途上国にあるサプライヤーでも同じく尊重されないといけないーということが生じないようにするにはどうすればよいかを考えるのです。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">ヨーロッパは持続可能な発展を環境保護と経済発展の両立とは考えない。環境保護と社会的一体性の維持とそして経済発展の３つが同時に成り立つことがヨーロッパの言う持続可能な発展である。</span></p></blockquote>
<p>環境と経済だけが表に出やすい米国や日本との違いは、この社会問題を同等に扱うとの定義にヨーロッパの意思が表れています。EUのRoHS指令（電気電子機器に含まれる特定有害物質の使用制限に関する指令）はヨーロッパを含む世界中の産業界に喧噪を引き起こしましたがCSRの狙いを的確に読み取れば、議論のレベルをどこにもっていかないといけないかが明らかになります。本書には、「CSRマネジメント規格の議論の位置づけの日欧のちがい」という説明があります。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">ヨーロッパ</span></p>
<p><span style="color: #000080;">社会問題への危機感→企業の責任についての議論→CSRという概念構築→経営に取り込む方策の模索→規格の必要性の有無についての議論</span></p>
<p><span style="color: #000080;">日本</span></p>
<p><span style="color: #000080;">ISOでの検討開始→CSRへの関心→過去のISOマネジメント規格に関する苦い経験→ISO規格とCSRへの警戒感</span></p></blockquote>
<p>日本でのISOに関する苦い経験は環境管理システムを定めた１４００１や品質規格の９０００を指していますが、上の経緯を見ただけでも、考え方の道筋のありかを見定めて態度を決めないと大気圏外に飛ばされてしまう可能性があることに気づくでしょう。財政問題しかりです。</p>
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		<title>山本真司『３５歳からの「脱・頑張り」仕事術』を読む</title>
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		<pubDate>Fri, 21 Oct 2011 22:13:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[ネット上でいろいろとブックレビューを読んでいて気になることがあります。本の要約から書き始めることが多い。この点です。そして、その本がどんなタイプの目的に合うかがコメントされている。他人に本を紹介するために書いているのでし [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ネット上でいろいろとブックレビューを読んでいて気になることがあります。本の要約から書き始めることが多い。この点です。そして、その本がどんなタイプの目的に合うかがコメントされている。他人に本を紹介するために書いているのでしょうか。プロの書評家じゃないのに？それはそれで勉強の一つとして良いのですが、そんなに時間に余裕があるのかなとぼくは思ってしまいます。何が言いたいかといえば、本は自分の何らかの内的動機とのリンクでしか読めないはずなのに、そのリンクを外れた部分で語ろうとしているという無理を感じてしまうのです。</p>
<p>個人的事情の襞で読み込むと読書体験は圧倒的に血となり肉となりえます。内容を細かく覚えている必要はない。いやおうなしに頭に入った内容が自分の言葉で残っていればいいのです。それが自分の言葉にならないのなら、内容かタイミングがマッチしていないと諦めるしかありません。いつか用を足すこともあるかもしれないなと軽く流せばすみます。<strong>本の海を泳ぎ切ろうなどと無駄なことを考えるのではなく、それなりの流れの本の川を横断する程度に構えることです</strong>。もちろん、大海を泳ぐのが趣味であれば問題ありません。趣味が趣味たるゆえんです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/images.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-4584" title="im" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/images.jpg" alt="" width="194" height="259" /></a></p>
<p>実は、これはローカリゼーションマップへの立ち位置でもあります。ローカリゼーションマップは地域の傾向を大ざっぱに素早く掴むためのものです。１００％地域文化を理解することはありえないのですから、自分のビジネスを「今日」前進するための礎があれば十分なのです。「これでは不十分ではないか」と思い悩み、プランを実行するという本来すべきことができないという罠に陥らないには、「本の要約など不要」と割り切ることです。<strong>この発想の転換ができると、つまらない映画などないし、つまらない人などいないし、あらゆることは吸収すべき対象になり、吸収しえなかったことは不要であったのだと思える</strong>のです。</p>
<p>コンサルタント業界の人は新しいプロジェクトを前にしたとき、スタートの１－２週間で頼りになる仮説をたてろと言います。そのために、さまざまな人に電話をかけまくり話を聞き、現場の実感を貪欲に獲得すべきだ、と。本書の著者・山本真司さんもそうです。どうして、このことが強調されるのか。逆に言えば延々と時間と金をかけて情報収集と分析を行っても、事業企画をたてるに１００％満足できるネタなど決して用意されるはずがないという前提があるからです。それよりチームが効率よく「小さな失敗と軌道修正」を重ねながら前進してプロジェクト音が高々と鳴り響くことが大事なのです。ローカリゼーションマップはポジションとして、コンサルタント業界でいうところの「仮説思考」に相当するでしょう。</p>
<p>こうでもしないと全体図が見えてこない。しかしながら全体図をみた実感のない人は、このぼんやりとしたラインに不安を抱きます。もっと明確なラインを描くべきではないかと考えてしまいます。「そんなことない、十分」と思ってもらうには、実際に何度かそういうあいまいな地図でスタートを切り、だんだんと輪郭を作っていくとの経験を積んでいくしかありません。<strong>経験主義の横暴ではなく、経験則の構築</strong>です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/italia_map.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-4583" title="ita" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/10/italia_map.jpg" alt="" width="250" height="293" /></a></p>
<p>今朝、本書をミラノに戻る機内で読み終えヴェネツィアの上空１万メートルからイタリア半島を眺めながら、半島は反転したとする説を思い出しました。現在長靴の膝にあたる部分は地中海ですが、かつてはアドリア海にあったというのです。アペニン山脈を真ん中にひっくりかえったわけです。両岸の地層を調べると半島がぐるりと寝返ったとするのが妥当だといいます。こういう説はロジカルに考え、かつ思考のジャンプがないと出てこないでしょう。それにしても、夢膨らむ仮説だと思いませんか？</p>
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		<title>管啓次郎ｘ小池桂一『野生哲学ーアメリカ・インディアン』を読む</title>
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		<pubDate>Fri, 19 Aug 2011 23:19:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[世の中には「正しい」と称される表現が数多く流通しています。三人称を&#8221;he/she &#8220;と併記することや、女性を未婚か既婚で区別しないために&#8221;Ms.&#8221;と表記することも「正しい」 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>世の中には「正しい」と称される表現が数多く流通しています。三人称を&#8221;he/she &#8220;と併記することや、女性を未婚か既婚で区別しないために&#8221;Ms.&#8221;と表記することも「正しい」行為のひとつとなっています。「めくら」を「視覚障害者」と言うのも、そうです。ある立場を低めることを表現上回避するわけです。これらに対して、「表現を変えれば良いわけじゃない。意識が問題なんだ」と声を大にする人たちもいます。「いや、表現に意識が表れるんだ」と反論をするのが、「正しい」を強調する人たちです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/tumblr_ll95ysFxkT1qaqu94o1_500.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4461" title="pc1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/tumblr_ll95ysFxkT1qaqu94o1_500-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>管さんの本書については、<a href="http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110808/221985/">日経ビジネスオンラインの記事</a>で紹介しました。が、テーマが少々ずれるので記事で引用はしなかったのですが、どうしても書き留めておきたい部分があります。それは序章にある「アメリカ・インディアンという呼び名について」「歴史の皮肉を忘れないために」です。この４ページ少々を読むだけでも、本書を買う価値はあるだろうと思います。それだけ、問題のありようー先住民を何と呼ぶかーに力強く迫っています。「ネイティブ・アメリカン」という表現の奇妙さーその表現を使う人間の表情が「正しさ」が満ちていたりする！ーを避け、「アメリカ・インディアン」とあえて呼ぶ理由が、ここには書かれています。</p>
<p>「アメリカ・インディアン」のアメリカはイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチに由来し、コロンブスが「インド」と勘違いした土地であったから「インディアン」となった便宜的な位置づけであると説明した後に次の文章がきます。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">かといって、時として主張される「ネイティブ・アメリカン」という呼び名も、これより特にすぐれているわけでもないのだ。「ネイティブ」つまり「土着の」という単語には、やはり蔑称として使われた歴史があるし（「大英帝国」とその言語が支配を及ぼした世界中で！）、「アメリカン」といえば「アメリカ合衆国籍の」という含みが強く出てくる。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">「ネイティブ・アメリカン」とは、端的にいって「アメリカ合衆国領土内に居住する先住民」を意味するが、これではハワイ諸島先住民をはじめとする太平洋諸島州や、環北極圏住民のうちアラスカに住むユビックやイヌビアットといった、「アメリカ・インディアン」とはまったく異なったグループの人々までも含むことになる（事実、公式の場で「ネイティブ・ハワイアン」その他の細分化された呼称はいよいよ多く使われるようになっている）。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">＜中略＞</span></p>
<p><span style="color: #000080;">これに対して<strong>、「アメリカ・インディアン」という呼び名は、そのまったくの無根拠性によって、かえってヨーロッパ人による幻想の命名を、その幻想のレベルに保持することができる。「ネイティブ・アメリカン」という呼称のほうが「政治的に正しい」とするときの「政治」とは、あくまでもアメリカ合衆国という国家の国内政治のことにすぎない</strong>。</span></p></blockquote>
<p>実に切れ味が良い言葉が続きます。人とは「人々」と「人間」と呼んで生活してきたのであり、上述のような呼称はある立場からの見方を表現しているに過ぎないのだから、便宜的なところにとどまる意味を逆に問うのです。全角度からみた「正しい呼称」がないのだから、ある呼称がもつ見方を認識するほうがより重要ではないかという立場にたちます。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">われわれはヨーロッパ人の視点に加担するつもりはない。そういいきって、「アメリカ・インディアン」という呼び名をすっかりやめてもいい。しかしむしろ、<strong>「インディアン」というヨーロッパ人からの呼び名を使うことによって、ある歴史の痕跡をいつも記憶にとどめよう、という態度もあるのではないか</strong>。</span></p></blockquote>
<p>ここには「正しい」表現に神経症的に拘り全体を見失う陥穽を正面に見据え、早足ではなくふつうのリズムでうまく「落とし穴を跨いでいる」と思います。見事です<strong>。世界は大ざっぱにしかとらえることができず、大切なのは、どう大ざっぱなのかが説明できることではないかと思う</strong>のですが、管さんの「ものの見方」がまさしくそうです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/politically-correct.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4462" title="pc2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/politically-correct-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" /></a></p>
]]></content:encoded>
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		<title>菅谷明子『メディア・リテラシー　世界の現場から』を読む</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/4446</link>
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		<pubDate>Fri, 12 Aug 2011 00:11:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[かつて不特定多数の人間に情報を発信できるのは特権的なことでした。すなわち、情報の所有は非対称であり、そこに権力や権威が付随したのです。ネットが発達して情報の非対称性が崩れつつある今、権威の分散化が起こっています。マイナー [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>かつて不特定多数の人間に情報を発信できるのは特権的なことでした。すなわち、情報の所有は非対称であり、そこに権力や権威が付随したのです。ネットが発達して情報の非対称性が崩れつつある今、権威の分散化が起こっています。マイナーな雑誌の告発記事が黙殺されていたと同じように、無名の人間のヴァーチャル情報も大部分はほとんど誰の目にも触れず、地に埋もれていきます。しかし、あるテーマに特化して情報を集中的に送り込んだ場合、発信者がどんなキャリアであろうとー無名であろうとー、人の注目を集めることが起こりやすくなっています。３月１１日以降にTwitterのフォローワーを急激に増やしている人の発信内容などは、その一例です。</p>
<p>インテリジェンスの専門家は「公にされている情報を読み込めば、コトの真相がほぼわかるものだ」と語ります。新聞の社会面の片隅に掲載された小さな事件のディテールも、背景を読みとっていくと全体像のパズルの一つとなり埋めこむことができます。現場感覚の一つとも言えるでしょう。それぞれのメディアにはそれぞれの異なった性格があり、「書く背景」と「書かない背景」があるはずです。受信者は、それをメディアの社会的あるいは経済的な枠組みのなかで「想像」できることが必須だと思いますが、ぼくが最近特に不思議に感じることがあります。<strong>これほどにネットで受信者だけでなく発信者としての機会をもち、実際にブログやソーシャルメディアで発信しているわりに、他の発信者への「読み」がこなれていないケースが多すぎる</strong>、ということです。マスメディア全盛の世の中ならいざしらず、です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/GIF-Letteratura.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4451" title="li1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/GIF-Letteratura-300x247.jpg" alt="" width="300" height="247" /></a></p>
<p>情報の流通に対する基本原理に無関心なのでしょうか？</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">世の中は、メディアを通しては語りきれないほどの矛盾を抱え、限りなく混沌とし、真実はとらえどころがないほど複雑である。「メディアはウソをつく」とひと言で片づけるのはたやすいが、メディア社会に生きる私たちは、メディアがもたらす利点と限界を冷静に把握し、世の中にはメディアが伝える以外のことや、異なるものの見方が存在することを理解し、社会に多様な世界観が反映されるよう、メディアと主体的に関わっていく責任があるのではないだろうか。そうした意味で、「メディアは現実を構成したものである」ことを出発点に、メディアを理解していくメディア・リテラシーは、情報社会に生きる私たちにとっての「基本的な読み書き能力」になるに違いない。</span></p></blockquote>
<p>本書の発行は２０００年です。よって、ここで書かれているメディアに当然ネットが含まれていますからーメーンはマスメディアですがー、「メディアはウソをつく」と批判する対象は、一般の人自身が発信しているネットメディアも射程に入ります。すなわち、「メディアはウソをつく」というセリフは自己批判していることになります。しかし、考えるべき問題はその前にあり、「真実はとらえどころがないほど複雑である」現実の認識の仕方がどうあるべきか、というテーマが立ちはだかっています。ただ、そこに直球で問いかけても誰も回答をくれません。それは、メディアというミラーに投影された様相を見ることによって現実を知るしかないからです。ちょうど、自分という人間が他人の目を通じてしかわからないように。だから、ミラーのサイズや磨き具合やゆがみを、それぞれのミラーに対して勘をもっていないといけないわけです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/Img_Libro.png"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4452" title="lit2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/08/Img_Libro-300x300.png" alt="" width="300" height="300" /></a></p>
<p>菅谷さんが各国のメディア教育を取材してみたのは、子供たちなりにマスメディアの発信者であった場合に考えうることを体験させることです。動画であれば、どういう構成にすると効果的であると考え、どのようなテクニックを用いるか、と。動画の特質を理解するには、言葉を学習するのと同じように、しかるべき方法で学ばないといけないのです。それらの学習の結果、メディアの受信者としての態度が変化してきます。少なくても、表現により注意深くなるはずです。</p>
<p>ぼくは、まさしくこの文脈で、前述したようにネットで発信する経験を積みながらも、受信情報に対して極めてナイーブな人が多いことに頭を捻るのです。たとえば、<strong>マスメディアの情報に過剰に否定的になり、ネットの誰とも分からない人の情報に過度に信頼を寄せる、というアンバランス</strong>です。このような理由で、メディア・リテラシー（「<span style="color: #000080;">メディアが形づくる「現実」を批判的（クリティカル）に読み取るとともに、メディアを使って表現していく能力のことであ</span>る」）の向上は、ぼくにとって非常に大きな関心事となっています。どうすれば、上記のアンバランスを解消できるか？今までのメディア教育に足りない決定的なポイントがあれば、何なのだろう？と色々と疑問がわいてくるのです。それを人間への基礎的理解力の欠如というレベルで捉えてはいけない、何かがあるのではないか？いや、そのレベルがやはり議論されるべきとするなら、どういう人間教育が必要なのだろう・・・と疑問は延々と続きます。</p>
<p>ルネサンスの絵画もモーツァルトの音楽も、十分に楽しむには学習が必要です。近代印象派の絵画もそうです。あるいは２１世紀の小説を読むにも、実は学習が必要なのではないかと思います。文芸春秋で芥川賞作品の各審査員の講評を読むと、小説の作り手としての経験が物語ることは少なくないとも再認識します。ゆえに、現代のメディアが例外であるはずがない・・・そのことを、再度、考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>岡田暁生「音楽の聴き方」を読む</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/4408</link>
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		<pubDate>Sun, 26 Jun 2011 17:23:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[３日前に日本に着きましたが、ミラノを発つ前日の晩、自宅近くの音楽院ではじまった夏の野外コンサートに足を運びました。ルネサンス建築の建物の庭にある仮設舞台で演じられた「ウエストサイドストーリー」をみたのですが、イタリア人が [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>３日前に日本に着きましたが、ミラノを発つ前日の晩、自宅近くの音楽院ではじまった夏の野外コンサートに足を運びました。ルネサンス建築の建物の庭にある仮設舞台で演じられた「ウエストサイドストーリー」をみたのですが、イタリア人が歌う英語の曲を聴いていると、だんだんと米国人が歌う曲を聴きたくなってきました。帰宅後、即、YouTubeで「Tonight」を聴き、ああ、この感じなんだと心が落ち着きました。プエルトリコの移民の物語であれ、米国風であることを、どうしても期待してしまうのです。例えば、イタリア移民が米国で同じ境遇で生じたとセッティングをモディファイしているなら、もう少し受け取り方も違うのでしょう。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/dubai_airport.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4411" title="da" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/dubai_airport-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>ぼくの頭のなかには、アメリカ文化の象徴として「ウエストサイドストーリー」が収まっています。だから、それがずれると気になるのです。ドイツのロマン主義の交響曲をスカラ座で聞くと、ドイツ的な硬質な表現が恋しくなる。ビートルズの曲が多くのミュージシャンによってアレンジされていますが、それらを聴けば聴くほど、オリジナルとの差異を感じることになります。まったくかけ離れた場所に出かけると気分一新して全ての不便を受け入れるのに、自分の知っている場所と似た場所であると、差異だけ気にして満足度が下がる。こういう例に近いものを感じます。自分のオリジナルのイメージに合うことを求め、それがずれていることで喜ぶのは、ずれた理由が明確に理解されている場合ではないかと思います。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/Dubai_International_airport_interior.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-4412" title="Du" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2011/06/Dubai_International_airport_interior-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>もちろん、西洋クラシック音楽は、数々の演奏者によって解釈されることが（少なくても現代においては）前提となっているため、「オリジナル性」とは何を指すのかが難しいですが、フルトヴェングラーで衝撃を受けたなら、それが後を引かざるを得ないという現象は当然生じます。原体験ありきです。そして、そこに文脈がついてまわります。だから、音楽の聴き方の正解や正統性を語るのは、実に危うい行為となります。（以下、p1170-171）</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">例えば、「上を向いて歩こう」がアメリカでは「スキヤキ・ソング」として受容されるとか、バルブ絶頂期にサントリーホールでマーラーを聴くことが東京の若者の間で流行したとかいった例は、ある音楽が異郷においてコラージュのように別文脈にはまって開花した例だ。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">いずれにせよ私たちは、音楽だけを真空状態で聴くことは出来ない。パソコンでシュミレートされ転送される音楽だって、それこそインターネット空間という一つの「場」の中にあると言えるだろう。音楽は必ず文脈の中で鳴り響き、私たちは文脈のなかでそれを聴く。歴史/文化とは音楽作品を包み込み、その中で音楽が振動するところの、空気のようなものである。</span></p></blockquote>
<p>つまり、「ウエストサイドストーリー」について言えば、ぼくの（日本における少年から青年時代にかけての）米国文化経験と密接に関連しています。米国が輝いていた時代の米国文化に対する憧憬が、ぼくの中にも確かにあったことを否定することはできません。大学でフランス文学科を選び、日本でサラリーマンをやっているときもメーンクライアントは欧州メーカーであり、その後、およそ２０年イタリアに住んでいます。が、かつて米国に抱いていた気持ちを、図らずも自分で思い起こすのです。そういう「内なる米国」と「ウエストサイドストーリー」が”関係をもつ”。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">今の時代にあって何よりも大切なのは、自分が一体どの歴史/文化の文脈に接続しながら聴いているかをはっきりと自覚すること、そして絶えずそれとは別の可能性を意識してみることだと、私は考えている。(p172)</span></p></blockquote>
<p>・・・と、このように著者の岡田氏の言うように、一方で、ぼくもイタリア人の「ウエストサイドストーリー」の自分なりのおさめかたを考えています。「イタリア人の歌うブロードウェイ音楽が好き！」というあり方をぼくのなかで納得する術と馴れは、どういう風にすれば良いか、です。</p>
<p>この本、日本に来る途中、中東に漂う「多様な米国文化」と「多様な欧州文化」が匂うドバイ空港で一気に読んだのですが、あの人工的な空気とローカルな空気の不思議な混じりあいは、本書で語られている「正統性への疑問」としっくりとあいました。「もはや」とかつての価値体系の没落を嘆くのではなく、「だから面白い」と新しく作る価値体系に立ち会う喜びを狙うに、本書は思いのほか参考になります。</p>
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