本を読む の記事

Date:12/5/15

ウィーンであれベルリンであれ名門の歌劇場やコンサートホールの良い席は法人会員が年間を通じて買っており、観客のかなりの数は観光客-それも外国人ーであると言われます。どこかの記事で70%は観光客と読んだ覚えがありますが正確な記憶ではありません。ヨーロッパの「過去の文化遺産」を楽しんでいる光景であることは確かです。が、本当に楽しんでいるのでしょうか?

本書の著者がウィーンのオーケストラとインドで演奏したときのこと。教養あるインテリ層がメインの聴衆の多くがモーツァルトにベートヴェンに困惑していたと言います。「モーツァルトはお好きですか?」と聞くと、次のような答えが返ってきました。

「わからないのです。違いが。モーツァルトがどれで、ベートヴェンがどれだか。率直に言って、どの作品もみな同じように平板に聴こえてしまったのですが。で、何と言っていいか・・・すみません。あなた達を批判するつもりは全くないのです。でも正直なところ、私たちのインドの音楽を聴いた時に感じる自由に動く即興性や躍動感とでもいうものが感じられずに・・・。うまく言えませんが、とにかく、これが西洋音楽というものか!という印象しかないのです」

 

10年ちょっと前のエピソードです。明治初期の日本人の西洋音楽への反応と同じです。でも違いがあります。明治初期はブルックナーやマーラーが生きていた時代ですが、20世紀後半以降、一部の「現代音楽」を除きクラシック音楽は「過去の遺産」となっています。過去の文化遺産にエキサイトすることがないわけではなく、ギリシャ悲劇や源氏物語に人は興奮するし、能に心躍らすこともあるでしょう。だが、1960年代にビートルズに頭をぶち抜かれたように、1800年代にベートーヴェンに身体を揺さぶれたように、21世紀の今、クラシック音楽を聴いている人は少ない。それはなぜか?が、本書では問われています。あるバイオリニストの言葉です。

現に私のコンサートのお客だって75%以上が老人です。本来ベートヴェンもブラームスも、いやモーツァルトだってそもそも老人向きの音楽ではなかったのではないでしょうか。モーツァルトのヴァイオリンコンチェルトは、第一番は彼が17歳、あとの4曲は全て彼が19歳の時の作品です。現代の19歳の天才音楽家が作った作品に、多くの老人たちが共感するでしょうか?

モーツァルトの曲が単調で退屈であると現代人が思うのであれば、その後にできた多くの音楽に「毒された」こともあるかもしれませんが、モーツァルトの曲にもともとあった「毒」を抜いて演奏されているからではないかとも考えられます。ここにカッコつき文化の皮肉があり、毒が抜かれて洗練されていくことによって、文化は残ります。不良の聴く音楽だったビートルズの曲が小学校の音楽の教科書にのり、学芸会で子供たちが演奏する姿を両親がニコニコして眺める・・・こういう光景を1960年代の不良は「牙が抜かれたビートルズ」と思うでしょう。エキサイトする頭の部分、ある作品を受け止めるパーツが違ってくるようになりーより知性寄りになる、と表現すべきでしょうかー歴史はつくられてきます。だから、スカラ座で「過去の文化遺産」を楽しむ日々が展開されることになります。

しかし、その過去は適当な年数である必要があり、400年も500年も昔の音楽を観光であってさえ聴くのは億劫になります。著者もアムステルダムで音楽学を勉強する修士や博士の学生たちが、16世紀のアムステルダムの知識人であれば必ず知っていた曲を一人を除いて知らなかった事実から問題を提起します。「ベートーヴェンをほとんどの人が知らない時代が必ずくる。君たちは、そのための準備ができているのか?」と。

観光が実体験による文化接触であると重要視されれば、文化はより分かりやすくサマライズされていきます。今、冒頭に述べたように、ベートーヴェンは観光の対象になってきています。そして、それとともにさらに「ロマン派の狂気」から離れていきます。「ドはドーナツのド、レーはレモンのレ」と日本では「ドレミの歌」を歌いますが、レはイタリア語のREであり、レモンは英語のLEMON です。REもLEと同じと受容する土壌があるからこそ、日本で西洋音楽が長持ちしているのかもしれない・・・と考えることは、ベートーヴェンが「かつての有名人」となる時代のヒントになるでしょうか?

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:12/5/12

昨今、特に、ものごとは全体像を掴まないとだめだと言われるのは、専門分化が進み過ぎた弊害だけでなく、現象の背後にある文脈の絡み合いが尋常ならざるほどであるからです。「エコノミストだけに任すには経済は重要すぎ」「デザイナーだけに任すにデザインは大切すぎ」なのは、そういうわけです。しかも、世界の富の7割程度は三桁の数のグローバル企業が叩きだしているのですから、決定権をもつポジションにある人間の全体把握力の重要性はいやが上でも増さざるをえないのです。

また、そういうポジションにいなくても、そういうポジションの能力に全幅の信頼を寄せれるわけなんかないから、書店に出かけると、見えぬ目にせっつかれるのです。「君、全体のこと、わかってる?」と。勉強しなくちゃあどうしようもないというプレッシャーに晒され、その自分に疲れると、ふっと新聞からもフェイスブックからも遠のいてみたいとの欲望に駆られます。

しかし、グローバリゼーションとはシティやマンハッタンのビジネスの専有物ではなく、その言葉のとおり、地球上の誰もが逃れることができない現象です。人の助けをないと生活していけない老人の横に移民の女性が付き添う。これを可能にしているのも、この現象のワンシーンなのです。

明らかに、人はどこで生まれたかによって、価値が決められてきたのです。国境を越える人の移動はそれに対する抵抗でもありました。しかしいまだに、国境は人の価値を決定し続けています。

エクアドルの女性がイタリア人の老人の面倒をみることがあっても、その逆はほとんどない。人そののものに上下はなくても、パスポートの経済的価値の差異は歴然とあるのです。それは反グローバリゼーションとしてのナショナリズムの勝敗の結果ではなく、国という制度がグローバリゼーションをオーソライズしてきたことによって進行している「生活の風景」です。そして、エクアドル人の女性はイタリア人の老人よりも最新のLGのスマートフォンをもち、老人の世話の合間を縫って同国人とスペイン語で憂さを晴らします。

(ハリウッドに代表される)グローバルな文化商品は、単純にアメリカナイゼーションの浸透あるいはアメリカによる文化支配としてのみとらえうるものではありません。むしろ、文化が国民文化として一元的に産出されてきた近代と異なり、グローバル商品は、国籍を持たない文化として輸出され、世界的な共通経験を創りだしてきたのです。

ここで指摘されることは、いわゆる「文化問題」だけでなく、もう一つの側面とからみます。移民による労働市場のフレキシビリティが資本のフレキシビリティをもたらし、モノが記号を生むのではなく記号がモノを生み、商品は使用価値よりも生活での意味を承認する位置に反転してきました。これが現在の「今、モノじゃないんだよ。それでどう共感をうるかなんだ!」という叫びなのです。

先進国ではモノは飽きられ生活の質が重んじられ、一方の途上国ではモノが欲しいとされる。そのギャップを経済的な豊かさのワンウェイの現象としてみていると見誤る可能性があります。そのバックに経済と文化が同期化して動くグローバリゼーションのダイナミズムをみてとったとき、「モノじゃないんだよ」という言葉の裏にある意味にゾッとするはずです。

 

Date:12/4/15

日本の原風景とは向こうに山の連なりが見え、その手前に防風林に囲まれた集落があり周囲には広大な水田が広がっている。こうした景色が近代工業社会の到来で破壊され、日本人は本来あったエコ的ライフスタイルを失った・・・という文章をありとあらゆるところで見ます。はたして、これは本当なのでしょうか。「日本の農村の原風景」と言われる風景が実は必ずしも典型ではなく、ごく一部にある風景であったことは、「農民」の定義には漁業など他産業の従事者が含まれていた事実とともに網野善彦が指摘しています。

日本人は繊細な感性をもち丁寧に簡潔に表現することを得意とするが、それは日本人の美意識に基づいている・・・という意見もよく聞きます。そして桂離宮が事例にあがります。が、はたして、これが日本文化の典型的姿なのでしょうか。外から比較的そうみられやすいのは確かですし、ぼく自身も、日本の人の静かな表現が必ずしも意図的に出ていないことを認識しています。ただ農村の風景と同じように、そこに日本の文化の要があると言明するのには首を傾げます。

村上隆が伊藤若冲をもとに自分の系譜図を描いていますが、若冲は「典型的日本文化イメージ」からは外れるでしょう。しかし、村上隆が作った系譜図が正しくないという批判は成立しないのです。それは、人ぞれぞれの解釈が歴史にはあると気休めに言われるフレーズ以上の重みをもちます。たとえば、日本の工業製品を作る人たちが狭路にあまりに入り過ぎるのは、自己文化の狭い固定的な定義に身動きがとれなくなっている側面が強いからと言えます。「典型とされる文化」の定義の功罪の罪の部分です。

功罪の功の部分を見ないわけでもないし、その部分がブランドを作る上で貢献することも百も承知のうえで、「安定した文化定義への安住」のマイナス面が殊のほか大きいことを知っていないといけないと思います。よく例に引き出すように、和食の正統性の主張が世界で70%の日本食レストラン市場をとれない一つの要因になっていることは確かでしょう。自分の文化で固有と思っているものは、実は「たいした固有」ではないことが多く、そのエッセンスを見間違うことは稀ではないのです。また同時に、日本の外の人ーアインシュタインやブルーノ・タウトーに褒めてもらった点を後生大事に抱えるのも、ほどほどに留めておくのが良いと思います。

読みやすく美しい情報ツールを手に国立公園に向かうとき、人々は、その体験を通して多くの人々の意識と連携することができる。おそらく国立公園というものは、自然そのものではなく、むしろその自然とどう向き合いどう慈しむかという、人の意識の中に構築された無形の意識の連鎖なのではないか。そういう意味で、国立公園は高度なデザインの集積ともいえる。

デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。

デザインの肝を述べています。上述はアメリカの国立公園の事例から続いた文章ですが、富士箱根伊豆国立公園ー特に富士山ーを思い起こすと、「日本人の心性のデザイン」が国内外で上手くーあるいは意図的にー伝わっていることに気づくでしょう。それがゆえに、富士山を美しいと愛でながら、そこに日本文化の神髄をみて世界に固有のカタチとして表現されていると思いこまされてはいけない。噴火活動という自然現象によって生まれた形状が日本人の心性に影響を与えたことがあっても、日本人の心性を富士山が表現してくれているわけではありません。日本とは違う文化の人たちの土地にも、富士山と似た形状の火山があるという当たり前の事実に向きあうことが必要です。

ローカリゼーションマップで指し示すモノのローカリティとは、「本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い」と照合します。富士山のカタチではなく、富士山の解釈にローカライズの「本性」があるのです。

 

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