本を読む の記事

Date:10/3/10

ここで何度も書いているように、ブランドの定義をあるカテゴリーや状況で条件づけるのは無理があり、「ブランドとは考えの痕跡の集積である」というのが今現在の妥当な定義であると考えています。エルメスが希少性を売りにしている、あるいは近代誕生のブランドは王侯貴族を顧客にもつことで成立したという事実をもって説明できるのは、ブランドのある一面です。伝説や神話の積み重ねがブランドの必要十分条件にはなりえていない。しかし、だからといって、ブランドがどう考えられてきたかを知らないよりは知っていたほうがよい。その文脈で、本書を読むと役に立つでしょう。

ルイ・ヴィトンの起源は、いわば優秀な荷造り専門業者であった。そういうスタート地点がいいわけで、ある貴族が別の貴族の荷造りをしてあげたら評価を受けて、というストーリーではない。が、それだからといって、ブランドとなすのは、下からの這い上がりでないといけないということでもありません。先に書いたように、結果としての信用獲得プロセスを条件付けるものは何もないと言ってよいと思います。ただ、通常、ブランドとはラグジュアリーブランドからブランドと言われてきたことで、往々にして上下関係がついてまわったということでしょう。

エルメスやヴィトンにはデザインだけに還元されない「無形」の象徴的価値がある。それは、アメリカには決してありえないもの、すなわち王侯貴族を相手にして栄えてきた百年の「伝説」である。エルメスでオーダーメイドのバッグを買うわたしたちは、この伝説を手に入れる贅沢のための対価を払っているのである。

これの文章こそが、従来のブランドのあり方としてよく耳にしてきた説明でしょう。これをもう少し紐解くと、ちょっと様相が違ってきます。たとえば、1852年にオープンしたパリの本格的デパートであるボン・マルシェ(ここで、ぼくの商売の宣伝を入れると、デルポンテ社のエキストラ・ヴァージンオイルもこのデパートで売ってくれています。これもブランドつくりの努力!)。このデパートの画期的なところは、それまでなかった「定価販売」を導入したことです。駆け引きの解消です。このデパートがはじめたのは、それだけではない。「出入り自由」という原則です。店内に入るには購入の決意をし、価格交渉に臨んでいた人たちが、自由にフラリと店内に入り、何も買わなくてもよくなったのです。

これは、買う気もないのについ入ってみたくなるような巧みなショーウィンドウ・ディスプレイの演出とともに始まった。中産階級の人々にとってまさしくそれは一つのドリーム・ワールドの出現にもひとしかった。「衝動買い」というショッピング形態はまさにボンマルシェが誕生させたものである。

この期にデパート産業がスタートするのですが、主力製品は衣類であり、新品。これまで中古を買っていた新興ブルジョワジーが高級仕立てのコピー版への欲望が芽生え、既製服市場が活性化していったのです(p97)。ぼくが面白いなと思うのは、「衝動買い」と「既製服」の関係です。「既製服」があり「衝動買い」が成立する。王侯貴族が衝動的に仕立てを命じることはあったかもしれないけれど、できたモノをその場でハッと思って買うわけではなかったのです。

ブランドのプレスティージュは貴族の時代の終焉をもってしか始まらないのである。言葉をかえれば、ブランドの時代はデモクラシーと手を携えてやってくるということだ。

シャネルやフォードが生むマスマーケットの時代が、20世紀から本格化するのですが、キーワードに「衝動買い」があるともいえます。浮動票は「衝動」によって集約されていく。その筋道がある「考え方の痕跡の集積」によって示されていく。そう仮説をたてたとき、現在進行中の書籍の解体、つまり章分けされたより分断化された情報ーWikipediaなどー、ネットに流れる断片的な印象ーTwitterなどーは、どんな「筋道」と「衝動」によって一度は拡散して分散したとみられるエレメントが如何に集約されていくのか、より考えざるをえないことになっています。オバマの大統領選挙運動におけるメディアの使い方が象徴的です。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/3/8

先週の土曜日、この前に書いた東工大でのシンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性ー日本的未成熟を巡って」の後、神宮前のイタリアンワインバーに駆けつけました。2月はじめに書いたAZです。実は2月のあの晩、オーナーの平野さんと話していて、3月にトスカーナからデル・ポンテ社のアレキサンダーが来たときに、ここでパーティをやろうという話になりました。彼が飼っている豚、チンタセネーゼの肉を平野さんが料理し、色々な人を呼び、その場で新製品の七味オリーブも食べてもらおう、と。結局、20人近い人が集まり、イタリアや料理の話で盛り上がり、イタリアネタの強さに感心。

実は、その会の様子を撮影するのを忘れてしまいました。他の何人かはiPhoneで撮影し、Twitterに書いていたのですが・・・(そこで、上はFOODEXでのアレキサンダー)。ここに参加し、かつバンバンとTwitterに投稿していたのが八子知礼さん。彼は『図解クラウド早分かり』の著者で、ぼくは彼の本についてスマートグリッドとクラウドコンピューティングに焦点をあわせてブックレビューを書きましたが、この本について知ったのは、レビューを書いたその2-3日前。発売と同時ですが、彼のTwitterのつぶやきで知りました。そして、更に遡ると、その数日前、Twitterのデルポンテアカウントが八子さんをフォローして10分後に八子さんは七味オイルをオーダーしてくれました。ほぼ瞬時に、彼が並行してとった行動は、デルポンテのサイトにあるヨーロッパ関連ブログの著者、つまりぼくのブログーこの「さまざまなデザイン」-に数分後にたどり着き、ぼくのTwitterのアカウントのフォローをすることでした。多分、このあいだの時間は5分くらいでしょう。

そのとき、ぼくはミラノにいたのですが、日本に着いて新著について知り、この本はクラウドコンピューティングとスマートグリッドなど全体のシステムと動向で把握している点に関心をもち、読後即ブックレビューを書いたというわけですーなにせ、1時間で分かる!-。特に七味オイルを買ってくれたとかそういうことではなく、この方の視点の持ち方がブックレビューの対象になったのです。それから約2週間後、リアルでお会いしました。一橋大学での学生たちとの勉強会でぼくが話すことを八子さんはTwitter上で知り、日曜日の朝、国立のキャンパスに現れたのです。ここでまとめると、Twitter上でデルポンテアカウントからスタートした関係が3週間後に、ぼくの文化論の勉強会の出席者に発展したということになります。それから3週間後に、イタリアンワインバーでのパーティ参加、その翌日ーつまり昨日の日曜の午後ーに新著のテーマを中心とした中経出版で開催されたクラウドコンピューティング研究会に、ぼくが出席するというカタチに発展したのです。その後の懇親会では、前日に八子さんが投稿したイタリアンの写真が話題になる、という具合です。

こうした経緯について詳しく書いたのは、今の時代に流れる時間とスピード感、そして「交差感」です。「交差感」とは、情報があらゆる方面に飛び、同じくあらゆる方面から飛んでくるという感覚です。「クール・ジャパノロジーの可能性」で村上隆は盛んに仮説をたてて検証していく大事さを強調し、彼の一つ目の仮説検証に15年を要した。だから、今挑戦している仮説も15年後に結果が出るだろうと語っていました。しかし、本当に検証に15年かかるだろうか?という疑問をぼくは持っています。今の情報の拡散の仕方とスピードをみていてぼくが感じるのは、仮説→検証が、これまでの15年とは比較にならない少ないコストで短期間に行えることです。かつては大企業が二期1年の予算で仮説検証していたことを、小さいグループで12回できる可能性がでてきているのが現実です。前者よりは精度は下がるかもしれませんが、およそ、このフローのなかで精度のレベル自身が再定義されている今、コンテンポラリーアートで問う思考トレンドも影響を受けないわけがないと思うのです。

これもクライアント側に情報をもたず、「向こう側」の集積情報を適時利用するクラウドコンピューティングが実現していく、世界観変化のもう一つの側面なのではないか・・・と昨日の研究会でつらつらと思ったのでした。

Date:10/2/22

日本人は日本論や日本人論あるいは日本文化論が好きだとよく言います。しかし、ぼくが見る限り、多かれ少なかれ、どこの国の人もそれなりに自己分析は嫌いではないとの印象をもっています。なにせ自分のことを語るにはネタが尽きることがありません。「日本人は日本人論が好き」であることを否定的に捉えるのは、往々にして「・・・で、それでどうなの?」という反応と対である場合が多いのではないかと思います。「わかったよ、日本人って、そういう性質なんだね。じゃあ、今のこの前の問題にどう立ち向かうのかを示唆してくれるの?!」という焦燥感がつきまといます。もちろん、実際、それに回答はでないことが殆どです。しかし、その認識、つまり日本ってこうなんだ、と散々言い尽くされたことが何であるかを常に見直しておくことは重要である。ゆえに、それを日本の「辺境性」に焦点をあてて大雑把にまとめた。それが本書です。大雑把を括弧で括ったのは、著者が大雑把に立ち向かったと書いているからです。

本書は体系的ではないし、対象とする事象はさまざまに移ります。それはぼくにとって全然問題ない。事例は過去の他人が出したものを再利用するのではなく、できるだけ独自のものがよく、しかし、そこから得る認識は過去の知れた事例と同じであることを示すほうがいい。そして日常的な世界に近ければ近いほどよい。歴史的な薀蓄や一部の人にしか分からない高度なエピソードをもってこられても、それが妥当であるかどうかの判断は容易ではありません。できるだけ多くの人が妥当性を問える事例であればあるほど良いでしょう。それによって、主観の共有の度合いが高くなります。こういった内容は、正しい認識などなく、いわんや数値で導き出されるものでもありません。主観でしかないのです。が、主観であることを下にみるべきではなく、主観で我々は生きている事実を積極的な価値としてみないといけません。そういう意味で、日本を巡るあらゆる状況を、日本人の主観の傾向として描いた本書は、つまらないとは思われない工夫が施されています。

そして、一見、何かに頑張れとも言っていない。こうあるべき姿に向えとも語りません。徹底して変化のできない日本(人)の肯定や否定ではなく、「こうなんだ!」と繰り返し繰り返し、あの手この手で描写していくのです。それは見事です。こういう記述をヨーロッパの日常文化について書き連ねいくと、ぼくのヨーロッパ語りに絶好だ。そうぼくは、この本を読みました。文化理解をビジネスーそれも人事や国際戦略設定というレベルでない、もっとモノに近いレベルーにどう繋げるかを多くの人に分かってもらいたいと悪戦苦闘しているぼくにとって、この本はエピソードやロジックの説明の提示においてヒントになりました。だからこそ、筆者の内田氏が全然狙っているとは思われないパートへの突込みが、ぼくの進むべき道だと見えてくるのです。

すなわち、日本がGDP2位であるためとか、それが10位でもいいではないかという議論があったとしても、本書の内容を現状肯定としか読まなかった場合、それは本書の目標に沿わないのではないかと思います。「掃除」ー日本論の整理整頓ーにいちいち大げさな目標は不要ですが、本書の読み方は掃除をしたうえで他者と相対する場合に応用して意味があるのです。その応用の仕方は書いていません。自分で読者が、この本を使って発展させることに意義があります。あえて言えば、このような現状解釈の本がたくさんある一方、意志的に変革してあることを目指ざす本にこうした内容が欠如していることが、極めて日本的現象であるとは言えるでしょう。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
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