ビジネスというのは正しい方向に向かっていても、さまざまな要因で頓挫することがあります。しかし、それは正しい方向を否定するものではなく、たまたまやり方に問題があったという手段の是正のレベルですむことが多々あります。ぼくがよく言うことがあります。「ヨーロッパ経済統合が何十年をも経て完成したのは、何か失敗したときに、目標設定が悪かったと釈明して目標自身をゼロに戻すという文化がないからだ。上手くいかないのは、目標ではなく、方法に誤りがあったからだと反省する。それがヨーロッパだ。あるいは、ヨーロッパ以外でも通じるロジックだ。が、日本では目標の未達は道徳的な指弾を受けやすく、アイデアから含めて全てミスであったと言わないと周囲が満足しにくいところがある。これが新しいコンセプトへの挑戦を阻害する理由となっている」

インクスという1990年に設立した金型開発・製造会社は、従来45日かかっていたケータイの金型を45時間に短縮することを可能にした会社です。しかし、2009年はじめ、民事再生法の申請をしています。どうして頓挫したのかという理由は、2003年に出版された本書には記載されていないので分かりません。プロセステクノロジーで人の判断を極限まで排除していったことが、大量の受注を物理的に裁けることを意味していなかった。2003年時点でこう書かれていますが、その後、これがどう解決されたのか、解決されなかったのか。それははっきり分かりません。それでも、この本で語られている内容は今も生きています。
今後日本の製造業は次々と旬の製品を開発し、ユーザーの嗜好が続いている旬の瞬間に売り切らなければならないということだ。生産もかつてのようなフラットな生産から、大きな波のある生産に変わりつつある。その中で生き残れるのは、次々と旬の時に旬の製品を開発できる力をもった企業だけである。
これが45日を45時間に短縮させた原動力。暗黙知満載の熟達の職人の仕事を粒さに観察し質問を連発し、2年後にできたマニュアルで新人も同じ金型ができるようになる。「もうこれ以上、恥をかかせないでくれ」と職人が去っていく辛さを残しながら、プロセスの形式知化が推進されていきます。

日本の製造業の弱点は、タイムリーな製品が出せてもヒストリーを作る製品がなかなか出せない点にあるとぼくは考えていますが、必ずしもタイムリーな製品にNOと言っているわけではありません。旬の製品「も」必要であり、しかしながら「旬」の製品だけが世の中に溢れかえる状況は褒めたものではないといいたいのです。「旬」の製品を出しながら、時代を作る製品も並行して出していく、その割合の問題に何処まで敏感になれるか?が、いつの時でも必要な素養です。そういう鋭敏さをもつためにも、逆説的に聞こえるかもしれませんが、45時間に拘るべきだと思います。
クルマのような動的状況における情報認知をテーマにすると、デスクワークのような静的状況での認知に関するデータで「使えない」ことが多くありますが、本書は金型開発が動的状況として把握されているのではないかと思えます。次の部分です。
人間が、モニターに表示された意思を受け取り、再びモニターに意思を戻すまでの伝達のスピードは次のようになる。
1、モニターから目までは、光速
2、目から脳へ視覚信号が伝わるまでに、0.1秒
3、脳での判断は、人によって差が生じ、0.4秒~無限
4、脳での判断をネットワークに入力するために、脳からマウスをクリックする指に信号が伝わるまでに、0.1秒
意思が、コンピューターネットワークから離れ、画面の文字や絵などを通じて人間の体の体内にあるとき、最も時間がかかるのである。
プロセステクノロジーがユーザーインターフェースと密接な問題であることが指摘されています。ここにおいてもう一つ残されたテーマは、この状況における人間の心。心の状態が判断の時間をどれほどに左右するか、ということ。悲しいときに、時間が余計にかかり、嬉しいときに、即断ができるのか?その逆か?結局、この課題を突き詰めていくと、旬の製品つくりから、時代をつくる製品つくりに論理がじょじょに移動していきます。文化の要素も強くなります。だから、繰り返しますが、45時間への挑戦は無意味ではないのです。論理の移動の仕方に配慮を重ねるだけです。あるいは手法の問題に徹することです。
製造業を「ものづくり」という言葉で括ったことが、良かったのか、悪かったのか。製造業が人件費競争によって全てが決まるようなことがあまりにざっくりと言われます。実際には装置産業のように人件費比率の低いジャンルでさえ、一緒くたにされます。中国に日本の製造業が移転はじめた頃、人件費競争の罠に嵌ったなと思いました。人件費がメインファクターである限り、工場は常に人件費の低いところに流れます。しかも、人件費の安さとは、為替の問題と表裏一体です。そのような曖昧といえば曖昧な要因で成立しているメカニズムに自らの運命を積極的に委ねる危険性に覚悟をもつ気なのか・・・大いに危惧がありました。案の定、産業によりますが、今、生産は西に移りつつあります。
製造業を「ものづくり」という言葉で括ったことが、良かったのか、悪かったのか。日本の丁寧な作りこみや繊細な表現、いわば改善に改善を積み重ね磨きかけるプロセスの評価を自らの分析の結果、表看板としようとしたがゆえに、変に自らの首を絞めることになっていないだろうか、という気がします。「ものづくり」なぞというやわい言葉を言わずに、製造業と味気なく言い放つ必要が実はあったのではないか、とも思います。「ものづくり」という言葉を口にするようになって、いよいよ逆に製造業は弱体化したのではないか、と。言葉だけの問題ではないが、そこに何らかの「精神性依存症」があるような感じがしてしまうのです。

「ものづくり」だけでは将来には見込みがなく、サービス業に力を入れないといけないと盛んにいわれます。大いに結構。製造業以外でも金稼ぎをすべきでしょう。ただ、「ものづくり」という限定された世界を与えられてしまった人々は、もののコンセプトやものを売るアイデアを考えるのは苦手だという意識を無駄に植え付けられてしまったところがあります。確かにまったくものを介さないサービスもありますが、多くのサービスはものと何らかの関係があって成立しています。だから、もっと社会全体に目が行かないといけない。サービス業と製造業がコンビで考えられないといけないというわけです。

梅原真は高知に住むグラフィックデザイナー。しかし、その仕事はビジネスプロデューサー的。特徴は、高知県の一次産業を強くすることに力を入れていることです。
一次産業がうまくいっていないなぁ、と思い始めてから世の中はおかしくなってきた。では、ボクに何が出切るのか?一次産業にDesign をかけあわせる
新しい価値が生まれる
新しい価値は経済となる
経済がうまくいけばその一次産業は生きのびる
そして風景が残る。
1987年の夏。カツオ一本釣り漁師が訪ねてきた。このままでは船がつぶれるといった。一次産業にDesign をかけあわせたら、やがてその商品は年商20億円の産業となった。土佐に一つの風景が残った。「一次産業XDesign=風景」
この方程式でニッポンの風景を残そう。そう考えるようになりました。
本書の書き出しです。この本で紹介されている商品を見る限り、地場産業育成でよくみるようなデザインのしすぎがなく、基本的には「何を伝えるか?」のコミュニケーションの秀逸性に目がひかれます。カツオを「漁師が釣って、漁師が焼いた」というコピーで売る。一般の人は、漁師が器用なコピーなぞ考えないだろうと思っている。そこにすっぽり嵌る強いメッセージを出しています。これが20億円の商売に急成長しました。この漁師はある事件で土佐を追われますが、焼津で鰹タタキで50億円のビジネスを作ります。それにも梅原はデザインする。
こういうストーリーを読みながら、ぼくは世界観の狭い「ものづくり」が日本の生き方を隘路に招いているなぁと思います。製造業は第二次産業。梅原の方程式に似せれば、「二次産業X Culture = 世界における日本」ではないかなと思います。ここでいう Culture がコンテクストを作るのです。もちろん、日本の精神性に溺れた Culture ではありません。要注意!
今はとりとめのないことを肯定的に考えられる時です。整理されインデックスがついていることが、それだけで価値があるとみられるより、整理されて落とされた情報に「自分向けの情報」があるのではないかと疑念をもたれるかもしれません。あらゆるものは混沌にしかなく、一見、連続的であり、一見、非連続的である。連続性があると見えるのは、自分の地図がそうであり、非連続性であると見えるのは、自分の地図の粗のせい。

管啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』は、書評集です。ちょっと変わっている本で通常ある目次はありません。そもそも紐付けする各章のタイトルがないのです。悪い表現をすれば、だらだらと色々な本の感想が書き連ねてあります。しかし、読む進むなかで、よくあるタイトルがないことが全然気にならず、およそ読書体験とは、雑読で得た記憶の痕跡がバラバラに散在しているもので、しかし、ある視点をもつと、CGのように一気にそれらの痕跡がある有機的カタチを帯びてくる・・・ということが身をもって分かります。

博報堂DYグループエンゲージメント研究会『「自分ごと」だと人は動く』は、大量と形容するのでは足りない大海以上の情報をスルーされないために、どのように「他人ごと」から「自分ごと」に受け取ってもらうかの仕組みを書いています。メディアからの一方的情報の波に押し流される受身の「被害者」ではなく、積極的に情報を選択して動く「主体者」としての生活者の存在を前提に、この生活者とどのようにすればコミュニケーションをとっていけるか?が、マーケティングや広告の課題であるといいます。

幼稚園の頃から、「自分ごと」としての実践生活者であり、とりとめのなさに文脈を読み取ろうとしていたのが、柳本浩市さんではないかと思います。彼の本書『DESIGN=SOCIAL』は、『本は読めないものだから心配するな』のデザイン版であるとも言えるでしょう。柳本さんはKDDIのiidaブランドのデザインプロデューサーでもありますが、子供の頃から徹底的に「デザインと社会のつながり」に尋常ならざる関心を抱き続け、小学生の頃に既にあらゆる種類のコレクションの売買でかなりの金額のやりとりをしていました。彼はLPレコードを買えば、どういうコンテクストを作れば、それに価値が付加されるのか?を社会メカニズムとして興味をもち、実際に自らそれを実行したわけです。コレクターという名で柳本さんを呼ぶのは、正確に彼の生業を表現していません。
子供の時にやっていたことを趣味として持ち続ける大人は少なくないですが、それがそのまま生業になっている人は稀です。ピアニストやスポーツ選手は、早期教育の一環としてはじまった子供の時の実践が経済リターンに結びつくことが多いですが、柳本さんの場合は彼らとかなり違います。本を読むのが好きで作家になる人もいますが、およそ個人で完遂できる世界です。が、社会とリンクしながらは簡単ではない。まあ、いい。とにかく、本書は年期が入った活動の一部が紹介されています。しかも、とりとめもなく。ブラウン、シトロエンのカタログ、コカコーラのポスター、スイスのグリッドデザイン、エアラインのカラーリング・・・と話題は拡散するようでいて、そうはならない。それらの社会文脈の読み込みが「締める」のです。「世界で用いる赤の理由」では、ロシアアバンギャルドと革命の赤、注意を喚起するサインと価格サービス、世界の郵便カラーと事例を挙げていきます。
そう、冒頭に書いたように、自分の地図があると、あらゆることが連続的にみえてくるのです。もちろん直線だけではなく、あらゆる種類の曲線が交差しながらも広がっています。マッピングがいかに重要か。本書を読むとよく理解できるでしょう。