本を読む の記事

Date:11/12/3

どこも「可視化ばやり」である。アングロサクソン流の説得に屈したのか、なんでそうなったのかよく分からないが、かたっぱしから透明性が要求されていることと「文盲率」が高くなった、この二つが要因なのではないかと想像している。「文盲率」とは文字通りではなく、もちろん言語リテラシーを指している。コミュニケーションにおける文章への依存度が増しているのに、その理解力や表現力が比例していないから「文盲率」は相対的に高くなる。そして、ネットに「放出」される情報量は増大する一方であり、大波に溺れることに飽きたーあるいは力尽きたー人たちは古代的なライフスタイルを選択する。

そのためか、情報の流れ方や提示のされ方ー「しかた」ではない!-にとても敏感な人たちが育っている。ただこれも皮肉な見方をすれば、「文盲率」の高さゆえに「作法」で判断する部分が多くなっているとも言える。暗黙的な世界でより「作法」が重視されるとの同じレベルで、「文盲率」の高い世の中では「明示的である」ことが「作法」に堕している。実際、恥ずかしい話だが、ぼくも理解しずらい人の書いた文章によく出会いー君もぼくの文章を分かりにくいと言うかもしれないがー、「文盲率」の高さが自分の身に及んでいるのをひしひしと感じる・・・・。ああ、及んでいるのじゃなくて、もとからそうかもしれないが。

よってプレゼンばやりだ。「伝わらぬものは伝わらないんだ!」「伝わらないのは相手のレベルが低いんだ!」なんて口が裂けても言ってはいけない。そういう世知辛い世の中である。おばあさんでも分かるように、14歳でも分かるように・・・とキャッチフレーズをつけただけで、良心のありかが証明されたような気分が満ちている。ああ、いやだ。いや、ぼくもプレゼンの必要性については自分で語るから、全否定しているわけではない。それでも、やり過ぎなんじゃないかと思わないでもない、ということだ。

慶応大学の井庭崇研究室で作成した「プレゼンテーション・パターン」を読んだ。ヴィジュアルと言葉の両方でプレゼンのコツを語り尽くそうとの意思が見える。34のチェック項目が網羅されている。ぼくは、これですべてであるか、あるいは欠けている点があるかという目では見ない。これらのポイントのそれそれでいい線いったら十分じゃない。まず、無理だって。だいたい、これは方向性や態度を語っているのであるから、「いい線」という表現自体、馴染まない。

正直に書こう。ぼくは、プレゼンのやり方に関するマニュアルや本をほとんど読まない人間だ。ビジネス本も書き、たまにビジネス書のレビューをブログにも書くが、ビジネス書もほとんど読まない。読んだ冊数は、このブログにレビューを書いた数だけだ。だからプレゼンのコツをどう他人が語っているのかを知らない。しかしながら、プレゼンはこの34を手元においておけば他に何が必要なのか、さっぱり思い浮かばない。これは簡潔に肝心なことを指摘して、あとは読む人間が考えるようになっている。それでいい。

少なくても確信をもって言えることがある。プレゼンのマニュアルを読んでいる暇があれば、文学や歴史の本ー特に回想録ーを読むのが良い。もし、そうした本を読んでなお、プレゼンのマニュアルを読みたいと思ったら、それらの本をよく理解できていなかったと反省するべきだ。

あっ、基本的なことを書き忘れた。「明示化」のプレッシャーに対抗して「暗黙的である大切さ」を相手にどう説得できるか?というのは、重要な課題だ。これに負けると、プレゼンのマニュアルに走るわけだ。金を節約したいと考えるなら、何をすべきかは自明だ。

Date:11/12/2

いろいろな分野に人のネットワークがあると自分では自負していても、案外、「それでどうした?」と思われたりします。医者や弁護士のように機能が比較的理解されていると考えられる職業であれば、「そういう友人をもって便利だね」と言われますが、建築家だとちょっと遠のく。空間を設計する人の「機能性」は理解しずらい点があります。それゆえ、一般人に分かりにくい仕事の場合、まったく新しい言葉でそれを定義しなおすか、できるだけ皆が知っている職業カテゴリーにはめ込みます。「いろいろな分野」の「いろいろ」自身が視界に入っていないケースが多数なのです。

今週の月曜日、UXD Initiative 研究会で「イタリアンライフを題材にしたローカリゼーション・ワークショップ」後の懇親会で経験の統合に関して話していると、千葉工大の安藤昌也さんが「人には機能と役割があり、若い時は機能が優先し、年齢が増すにしたがい役割が大きくなる」とコメントをくれました。その表現を使うなら、普通、インダストリアルデザイナーは機能でしか見られません。医者が「心を落ち着ける相手」として役割を期待されるようにインダストリアルデザイナーが評価されることは稀です。

本書で引用されている2000年国勢調査によれば、グラフィックやファッションなどデザイナーで生計を立てている人は16万人。アーティストが約4万人、写真家が約5万人とあります。そしてデザイナーのインダストリアルデザイナーは約2万人であり、そのうちインハウスは60%、フリーランスが30%、残り10%が行政や学校に勤めています。

というわけで、中小企業が仕事で付き合えるフリーランスの工業デザイナーは日本中に6000人くらいしかいません。2万人に1人しかいない計算です。おまけにデザイナーの都道府県別の就業者数分布を見ると、東京・名古屋・大阪の大都市圏にデザイナーの8割が集中しています。

地方の地場産業の活性化に際しデザイナーが登用されても、なかなか難しい状況がこの数字から伺えます。地元事情をよく把握したデザイナーを期待することに無理があります。しかもデザイナーが考える「売り方」に本当の鍵があると思っていない企業が多く、色や形がマシになればそれでヒットするのではないかと期待をするものだから、大きな誤算がどんどんとつみあがっていきます・・・結果、デザイナーなんて役に立たないと思われてしまう。一方で「機能」だけでなく「役割」をも期待されたいというデザイナーも多く、交差しないお互いの思いが空を駆け巡っていることになります。

男性中心で、無名で、職人肌で、下請け受注で、「志」はあるけど営業も金銭勘定も苦手。中小企業によくいるタイプではないでしょうか?

日本のインダストリアルデザイナーはおしゃれじゃないけど腕時計だけは変わっているんだよなあ、との印象をもっているぼくとしては、こういう説明をデザイナーの著者がするーせざるをえないーことがとても皮肉に思えます。なにせふつうの人たちの日常には登場しない人たちなので、逆にアーティスティックなイメージをもたれ、おつきあいするには敷居が高いと中小企業に感じられている。これが両者の不幸を生んでいるわけです。「俺、みんなが思うほどモテないのに、どうも女の子は遠巻きに見るんだよね」というやつです(・・・かな?)。

そこでバシリーという表現は使っていませんがーでもいいからデザイナーを使いこなせ!と本書は書くわけです。企画の最初の段階にはじまり試作、場合によっては営業窓口にまでフリーランスのデザイナーは使い勝手が良い、と。それも嫌々やるのではなく、ビジネス全体の構想を描くところにこそデザインの意義があると説きます。デザイン的発想こそが、21世紀のビジネスのキラーアプリであると考えるのが妥当であるかどうかは判断しづらいですが、少なくても、この5年-10年についてはそうでしょう。

なお、対抗馬は、言葉の使い手である文学ーつまりは文学的思考ーか? というのがぼくの予想です。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:11/12/1

何事も自分でやらないと分からない。サッカーの面白さも自分でボールを蹴って分かるし、絵も自ら筆をとることで表現の濃淡が理解できる・・・と言われます。しかし、すべて「見る側」から「やる側」に立場を移さないと何も語れないとしたら、ほとんどの人はただ口を噤むだけになります。語る資格はない、と。本当にそうなのでしょうか?

クラシック音楽において「やる」とは何なのでしょう。楽器を演奏すること、オーケストラを指揮すること、歌うこと。コンサートやCDで「聴く」のは「やらない」側に入るのでしょうか? 遠い昔にこの世を去った楽譜を唯一のマテリアルとして演奏し、それを聴く観衆がいます。現代のポップスは最初に演奏したミュージシャンの解釈をベースとすることが一般的なのに対し、クラシック音楽はそうなっていません。作曲家が書いた楽譜のみが高い場所にたてます。その意味で、芸術のなかで特にクラシック音楽は特殊な位置にあります。

古代文学が現代の書き方でないため普通の人にはなかなか読みこなせないことはありますが、18-9世紀の文学であればかなり勘はつけやすいです。絵画も見方を学ぶ必要がありますが、少なくてもアーティストとアマの鑑賞家は物理的に同じモノを見ています。しかし、クラシック音楽においては両者ープロ演奏家とアマの鑑賞家ーが肝心のマテリアルを共有していないことが大多数なのです。ベートーヴェンの交響曲を楽譜で読み楽しむー正しくは、読めて楽しめるーアマは稀であり、いわゆるマニアーことにレコードマニアーは印象と演奏の比較に終始します。ベームとアバドのどちらのテンポが速いか、という話です。よって、小澤征爾はレコードマニアを好まない。

だから小澤さんは僕に「スコアを読めるように勉強したら」と勧める。「そうすれば音楽はもっとずっと面白くなっていくから」と。

<中略>

会話を交わしたことによって、小澤さんと僕との音楽に対する根本的な違いみたいなものが、僕にもより正確に、いわば立体的に理解できるようになったし、それはかなり大事な意味をもつ認識であったと思う。

村上春樹はクラシック音楽におけるプロの演奏家とアマの聞き手の距離を示しています。しかし、アマはここで絶望すべきではなく、なんらかの穴を見つけていくことに村上は意味を見出すのです。本書は村上春樹が小澤征爾に1年にわたってインタビューした内容で構成されています。興味をひくのは、前半で村上春樹がレコードで聴きながら指摘することが、かなり的を得ていると小澤に評価されるのですが、後半になるに従い、小澤のテンションがどうも低くなります。体調の問題だけではなく、穿った見方をすれば、プロの演奏家とアマの聞き手の間にある厳然たる差異を前にして、小澤の気力が続かなくなってきたのではないかという気がしました。

しかしながら、村上春樹の凄いところは、このギャップについて当たり前ながら自身で強く感じながら、それを容赦なく曝け出していることですーレコード1万枚のコレクションにどれほどの意味がある?と。乖離を無理に覆い隠さず正直に出すことで、ギャップの埋め方を探る大切さを淡々と説いています。

小澤はカラヤンが音楽の方向性を優先した点を強調し、カラヤンの特徴を分かりやすく教えてくれます。

要するに細かいところが合わなくてもしょうがないということです。太い、長い一本の線が何より大切なんです。それがつまりディレクションということ。いわゆる方向なんだけど、音楽の場合はそこに『繋がり』という要素が入ってきます。細かいディレクションもあれば、長いディレクションもあります。

前半で、小澤は村上にこのような説明をしました。が、小澤がスイスで毎年夏に開催する若い人を対象としたセミナーを見学した村上は、後半、小澤の指導の鍵がどうしても分からないと吐露します。引用しましょう。

小澤さんが出す指示のひとつひとつの意味は、僕にもだいだい理解できる。しかしそのような具体的な細かい具体的な指示の集積が、どうやって音楽全体のイメージをかくも華やかに立ち上げていくことになるのか、その響きや方向性がオーケストラ全員のコンセンサスとして共有されていくことになるのか、そのへんの繋がりが僕には見えない。そこの部分が一種のブラックボックスみたいになっている。いったいどうしてそんなことが可能なのだろう。

それはおそらく、半世紀以上にわたって世界的な一流指揮者として活躍してきた小澤さんの「職業上の秘密」なのだろう。いや、そうじゃないかもしれない。それは秘密でも、ブラックボックスでも、なんでもないのかもしれない。それはただ、誰にもわかっているけれど、実際には小澤さんにしかできないということなのかもしれない。

たぶんーぼくは楽譜を読むことができないし楽器も弾かないー、楽譜を読んで演奏する人なら分かるであろう全体の構成への道筋が村上には見えてこないのです。繰り返しますが、村上はそれを「見えない」と率直に書くのです。

プロがプロたるゆえんは、全体像の構想力とその実行力にある・・・ということが実に明快に分かる本です。それは小澤征爾のことだけを指しているのではなく、村上春樹のことも指していると理解すべきでしょう。

 

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
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