安西洋之の36冊の本 の記事

Date:09/8/10

36冊の最後(3)は「現代性」を主題とする12冊です。ここに入っている本は好き嫌いではなく、また良書や悪書でもなく、影響をうけたうけないでもなく、わりと最近たまたま読んだ本をあえて「現代性」を主題とした場合、どう読めるか?という観点で選びました。(1)と違い、この(3)の入れ替えは比較的容易です。次回、この36冊を選択しコメントをつけるという作業で抱いた感想を書きましょう。

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村上隆 『芸術起業論』(幻冬舎 2006年)
世界のアート市場で勝つためには、市場の文脈をよく知ることが必須で、且つ、作品を理解してもらうためには言語化された説明が重要であると、アーティストが自ら経験したロジックを説いている。これは日本で従来、アートは直感的な自由な受け取り方がキーで、作家自ら語るのは二流であるといわれてきたことの「嘘」を暴いている。アートの世界は文脈構築のアイデアが勝負である。この本を日本のビジネスマンはもっと読むべきだと思う。

水谷修 ほか 『いいじゃない いいんだよ』(講談社 2005年)
先輩であり親友の水谷修さんの著書は沢山読んできたが、毎日新聞記者と医師の三人で行ったこの鼎談が一番面白い。彼の本領と一番リアルな言葉が記されている。約30年のつきあいで、水谷さんが、ぼくに教えてくれたことは無数にある。どれだけ多くの視点をもち、それら視点の動かしかたによって、どんなに世の中が見えてくるかということが分かる。これも彼を通じて学んだことの一つだということを、本書を読んで気づいた。今、日本はまさに、新たな視点を獲得できずに苦労している。

近藤健 『反米主義』 (講談社現代新書 2008年)
週末マクドナルドに入るフランス人カップルは、路面寄りではなく、二階の奥に座る傾向があるという。第三国人で一杯だから「お洒落じゃない」という理由もあるが、米国発ファーストフードに対する距離感も出ているエピソードだ。反米主義はヨーロッパ圏からも「反」を唱えられるように、「近代」の変質に対する「反」という一面がある。ヨーロッパは普遍性を志向したが、米国には普遍性への原理主義的信念がある。これがイデオロギー、資本主義、文化、さまざまな面で魅力と「反米」を生んできた。

水村美苗 『日本語が亡びる時』(筑摩書房 2008年)
かつてのラテン語のように英語が普遍的な位置をしめつつあり、日本語などは現地語として存在低下していくという言葉に関する本。言語論として読むと、色々と粗が目立つ(特にグーグルの影響を過大評価)が、文化論として読むと面白い。日本の文学は、ディテールに優れ、世界観を示すという点では西洋文学に劣るというのは、日本のものづくりの完成品と素材や部品のポジションギャップにも通じる。しかし、この状況に甘んじてはいけない。

宮台真司 『日本の難点』(幻冬舎新書 2009年)
一人で日本の社会や政治の様々な問題点について語った。その「一人で」ということに宮台は拘り、その拘りにぼくは同感する。数多の専門家が語る切り取られた世界からは、次のアクションへの指針が何も見えない。郡盲像を撫でるに近い。そして、もう一点。包括的且つ文学的に語りつくすことを意図したという点。それが成功しているかどうかは疑問だが、その趣旨にも賛同。マニュル的に世界を語ることはありえないのだ。我々は曖昧性も含めてあらゆる問題の全体性のなかで生きている。

福野礼一郎 『クルマはかくして作られる』(二玄社 2001年)
今回の不況でみるように、自動車産業は相変わらず各国経済の屋台骨である。また金融は目に見えないが、ものづくりは目に見えるという。しかし、約3万点の部品からなるクルマの世界はあまりに膨大な組織が絡み合い、実は見えるようで見えないものだ。どこまでがクルマの世界とは言えないくらいに裾野が広い。この本は、さまざまな部品メーカーの現場を訪ね歩いて、開発や生産の実態をレポートしている。世界が理解できるというのは、こういうことを言う。

小山登美夫 『現代アートビジネス』 (アスキー新書 2008年)
村上隆や奈良美智などの作品を世の中に紹介し、日本のコンテンポラリーアート業界で先端を走っているギャラリストが、アート市場のメカニズムを語っている。基本は、アートの歴史を如何に作るか、そこにおいて、経済的要素は重要である。作品にどういった価格がつくかを、「金の話しじゃない」と軽く言ってはいけない。経済価値があってこそ、市場のなかに組み込まれ、美術史の文脈を作っていく部分があるのだ。「美しい」「きれい」「面白い」という形容詞だけでアートに接するべきではない。

Ishiguro “The remains of the day”
第二次世界大戦前、英国の貴族の館で欧州各国と米国の外交官たちが秘かに集まり、対ドイツ対策について協議する場面がある。そこで米国の外交官が、ヨーロッパの方法はプロフェッショナルではなく既に古いと批判する。ヨーロッパの文化が、シリアスな局面で、バランスがとれているがゆえに甘さととられるところが、この21世紀初頭においても起こっている。それでは米国のプロフェッショナリズムとは何だろうか?それが、どこまで長期的解決を導くのか?

ファビオ・ランベッリ『イタリア的―「南」の魅力』(講談社 2005年)
ヨーロッパを対象とした文化人類学の歴史がまだ日が浅いなか、イタリアのコンテンポラリーなテーマに文化人類学的に切り込んでいる。そこに新しさがある。しかも、日本文化をよく知るイタリア人であるがゆえに、日本のどの文脈にあてはめれば良いかのツボを知っている。二番目のアドバンテージだ。そして、イタリアの後進性が生んだ文化の強みと弱みが、また限界を作っている悩ましい姿が残る。サッカーのカテナッチョが劣等感や狡猾性の産物というのが象徴的。

福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』(講談社現代新書)
昨年からの経済恐慌にあわせて出た本ではない。ITバブルがはじけて株式市場が低迷し、2001年の911以降の米国の一方的な外交戦略が目立ってきた状況を背景に書かれた2002年出版の本。副題が「アメリカ市場原理主義との決別」とあるように、「もう一つの資本主義」としてのヨーロッパ型資本主義を紹介している。ヨーロッパ各国で差異があるにせよ、「社会的」で「人の顔を見える」資本主義を目指している点では共通しているというのが趣旨。ヒューマンスケールが何事においても基本。

藤村信 『ヨーロッパで現代世界を読む』 (岩波書店 2006年)
パリに長く住んでジャーナリストとしての活動を行った著者の遺作。1968年より雑誌『世界』で連載された「パリ通信」は、多くのヨーロッパの今を見せ続けた。本書はブッシュ大統領によるイラク戦争、第二次世界大戦時の巨頭の動き、移民への寛容と極右の動向等に触れている。実は、正直に言えば「今更、藤村信の・・・」という感をもって書店で買った本だ。ノスタルジーで手にしたが、大いに裏切られた。政治に対するこの見方から若干距離をもっていた自分を猛烈に反省した。

フィッツジェラルド 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』(中央公論社 2007年)
ぼくは大きな物語が好きだ。かつて日本の典型と言われた私小説の良い悪いではなく、社会全体を視野に据えた小説にぼくの趣味があるということだ。そういう点からすると、本書は微妙なところに位置するかもしれない。やや小さな物語に見えるからだ。が、必ずしも「ある場所」だけに佇んでいるわけでもない。そのあたりの「移ろい」をふくめると、世紀を大きく跨いでも「現代性がある」と表現できる小説かもしれない。村上春樹訳はその象徴だ。

Date:09/8/10

課題では「専門とする分野の12冊」なのですが、ぼくの場合、専門をもたない主義なので、表題にあえて「今回」という言葉を入れました。ヨーロッパ文化とデザインを対象としました。7月頃から「本を読む」というカテゴリーでレビューを書いていますが、もともと、この管啓次郎さんの課題に取り組むというのが動機でした。したがって、いくつかはこのブログで書いたこととダブります。文字数は全然違いますが・・・。

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ブローデル 神沢栄三訳『地中海世界』 (みすず書房 1990年)
ぼくは「地中海世界には全てがある」と声を大にして言うタイプではないし、そこまで地中海世界が好きなのかどうか分からない。だいたいぼくはアフリカ大陸に足を踏み入れたことがない。それでも、地中海世界が語ることは気になる。地中海世界ならこう語るだろうと、北ヨーロッパ文化が発する言説に対して思うこともある。そのとき、ブローデルが描く地中海世界は、やはり強い。そこには高い質の時間と空間の具体例がある。参照せずにはいられないのだ。

佐藤和子『「時」に生きるイタリア・デザイン』(三田出版会 1995年)
カーデザインを上におき、生活雑貨や家具のデザインを下に位置にみていた目を変えてくれた本。それまで、モノとしてのクルマへの愛着があり、経済規模の大きさからも自動車産業に関わることに意義を見出していた。デザインについても同様の目線をもっていた。しかし、イタリアデザイン史の主役はクルマより生活に関わる様々なモノのデザインであり、イタリア社会史や思想史とより密着な関係をもってきたのは後者であった。ミラノに生活する意味を自覚した。

武者小路公秀 蝋山道雄編 『国際学―理論と展望』(東京大学出版会 1976年)
大学の国際論の教科書だった。その頃、鶴見和子の近代化論や武者小路公秀の国際関係論の章を真面目に読んだ覚えがある。特に鶴見の内発的発展論は繰り返し読んだ。だが、平野健一郎の「文化関係としての国際関係」は一通りにしか読めていなかった。この章の面白さに気づいたのは、卒業して約30年後だ。そして、平野さんの研究室のドアを叩いたのだった。そこで紹介されたのが、以下の『国際文化論』である。

平野健一郎 『国際文化論』(東京大学出版会 2000年)
政治学者として国際関係論に文化人類学を持ち込んだ平野さんが、国際文化の見方について分かりやすく教えてくれた。文化の変化は「必要性による」という説明を読み、それまでモヤモヤしていた視界が一気に開けた。寿司もケバブーも、それぞれ「ヘルシー」という合理性によって普及しているのであって、日本文化やトルコ文化が先行しているのではない。これによって、文化性は商品開発コンセプトのコアにはなりえず、あくまでもコンセプトに「のる」ものであると認識した。

D.A.ノーマン 野島久雄訳 『誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論』(新曜社認知科学選書 1990年)
記憶とその再生は、日常世界におけるさまざまなモノや人を媒介にして行われる。人はその意味で極めてオープンな存在である。それがノーマンのいう「現実と結びついた認知」だ。人は事象やモノについて、それぞれに違ったメンタルモデルをもっており、それは地域や世代などにより、即ち文化によって異なってくる。したがって、対象とするユーザーのメンタルモデルを探求することが、商品開発上、極めて重要であり、そのベースとして文化の理解は必須となる。

ヤコブ・ニールセン 篠原稔和・三好かおる訳 『ユーザビリティエンジニアリング原論』(東京電機大学出版局 1999年)
さまざまな言葉で記述される説明に文化の壁があることは常識だが、グラフィックで表現されるアイコンが、世界の全ての人に理解されるわけではないという事実に関しては、かなりの人がノーマークである。同じ視覚イメージも、文化や習慣によって、全く違ったものを想像されうることが現実である。欧州ではアイコンは文字通り概念を表現するが、日本では視覚的イミテーションにいく傾向がある。こういうことは、一つ一つ、ユーザーテストして確認してデータを集積していくしかない。思い込みは危険だ。

岩田誠 『見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス』 (東京大学出版会 1997年)
網膜は健全なのに脳の一部に欠損があるゆえにイメージが歪む、見えない、イメージが思い出せない等の症状を実際にみていくと、脳神経の働きを前になにやら呆然としてしまう。しかし、全ての解明を脳科学に委ねるのもおかしく、それはあくまでも一部「説明担当」してもらうに過ぎない。そして重要な点は、アーティストは、19世紀末からすでに脳の絵画―印象派―を描いていたということだ。脳科学者たちが視覚的記憶の文脈構造を研究しだしたのは、それから1世紀後だ。

森明子編 『ヨーロッパ人類学―近代再編の現場から』(新曜社 2004年)
主に非西洋を調査研究対象としてきて人類学が、1980年代からヨーロッパ自身を対象としてはじめた。その流れを日本で注目はじめたという。ヨーロッパを従来の目と違うところから把握できないか、そしてその実績をもっと実ビジネスに生きる形に応用できないかと考えていたぼくにとって、この「ヨーロッパ人類学」の趣旨は的中していた。しかしながら、この本の内容は、ぼくの狙っているポイントとは距離がある。それは待っているだけでなく自ら埋める作業をしないといけない。

エドガー・ホール『かくれた次元』(みすず書房 1976年)
「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとってのホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。

ジャン・モネ 近藤健彦訳『回想録』(日本関税協会 2008年)
欧州統合に動いた仕掛け人の回想録。国際連盟設立や第二次世界大戦の舞台裏が良く分かり、最初の6カ国が欧州石炭鉄鋼共同体へと導かれる道筋がリアルに語られている。複数のグループを共生させるために必要な共通利益の可視化、それを実現させるための実践行動的プランの立て方、より優位性をもつモラルのキープの仕方。ここにはヨーロッパ人の文化のエッセンスとコラボレーションする場合のコツが記してある。

加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店 2007年)
故国を離れないと故国の全体構造は絶対見えてこない。生まれた国にそのまま住んできた人生では、決して気づかない部分がどうしてもあり、その部分が具体的に見えないと全体構造が眼前に現れてこない。これは人の才能の問題ではないだろう。もちろん、加藤周一の才能あってこそ、ここまで日本文化が見えてくるわけだが、仮に著者が殆ど日本で生きていたら、このような本は書けなかったに違いない。ヨーロッパを考える際、対比としての日本文化論として大いに活用できる。

“Magnificenza e Progetto –cinque cento anni di grandi mobili italiani a confronto” (Skira 2009)
今年の4月、ミラノの王宮で開催されたイタリア家具500年の歴史の展覧会カタログ。ぼくは展覧会をみても必ずカタログを購入するタイプではないが、この展覧会の意義に感銘をうけたぼくは、迷わず買った。時代順にセクションが分かれているのではなく、例えば、バロック様式とポストモダンの家具が同じ空間にあるのだ。3世紀前の目を通して20世紀を見る。20世紀の目で3世紀前を見る。これは歴史を再編しながらの新しい価値体系への探索だと思った。

Date:09/8/10

6月、明治大学大学院の管啓次郎さんのゼミの外部生として36冊の本を選ぶ課題に取り組んでみるとの記事を書きました。以下です。

http://milano.metrocs.jp/archives/1691

4月末に36冊を選んでみたのですが、その後少々入れ替えながら、7月、それぞれの本に200文字のコメントをつけました。8月2日、一日がかりのゼミが東京で行われ、その模様が管啓次郎さんのブログに掲載されています。

http://monpaysnatal.blogspot.com/2009/08/blog-post_02.html

かなり刺激的なゼミだった様子が伺われます。外部生として参加した大洞さんのブログでも紹介されています。

http://hobo.no-blog.jp/train/2009/08/post_904b.htm

そこで7月に管さんに送った200文字コメントを、このブログで公開しておきます。3部に分け、(1)は考え方・感じ方・判断力の核をなす12冊 (2)は今回専門とする分野(ヨーロッパ文化とデザイン)の12冊 (3)は「現代性」を主題とする12冊 です。まず(1)です。

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スタンダール 『赤と黒』(岩波文庫 1958年)
このコメントを書くのに、30年以上ぶりに本書を読み返そうかどうか考えたが、結局やめた。この本を読んだのは、桑原武夫が推薦していたからだ。この長編を1-2日で読み終え大いに心が昂ぶった。ジュリアン・ソレルの恋愛と野心、その両方に酔ったのだったろう。ただ、心動かされたソレルの「野心」は、出世欲のそれではなかった。いわば「世界観」を相手に格闘する姿だったはずだ。「はずだ」と書くのは、ぼくはその格闘のために仏文科に行こうと思ったのだから。

桑原武夫 『文学入門』(岩波新書 1963年)
文学は血となり肉となればよい。そう書いてあった。高校生の時に、「血となり肉となる」意味は分からなかった。今の感覚からすれば実感などなかったに違いない。しかし、文学に限らず、全ての経験において「これが血となり肉となったか?」と自分に問いかける癖はできたに違いない。即ち、知識を振り回してもナンボのものにもならない。自分の内から自分のもののようにアウトプットされてナンボだ。それが生きるということだろう。

林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』(平凡社 1974年)
すごくエラソーな言い方になってしまうのだが、この対談を読んだ時、久野収が小者に思えてしまったほど、林達夫は目の前に大きく立ちはだかった。どこに抜け道を探し自分の行く先を決めればいいのだろう。そんなことを高校生のぼくは思った。恥ずかしながら、シェークスピアガーデンを自宅の庭に作ろうかとも夢想した。シェークスピアなんて、ちっとも興味がなかったのに・・・。何かものを語るに真っ向から向わない術というのは、林達夫に学んだのだろうか。

加藤周一『羊の歌』(岩波新書 1968年)
あらゆることを相対的に考えるとはどういうことで、それはどういう意味をもつのか? それをこの本で知った。数量的に世界一を誇れない場合は比較しずらいもの、あわれ、武士道で鼓舞しようとする戦前の日本を加藤は冷淡に見ていた。しかし、現在の日本のものづくりも、70年前と同じ罠にはまっている。きめ細かい作業と品質管理以外には、日本の情緒や感性しか世界で勝つものがないと思いこんでいる。が、それは判断ミスだ。

庄司薫『さようなら怪傑黒頭巾』(中央公論社 1968年)
現在の日本では「知性」という言葉自身が消えてしまったようだ。1960年代後半とは、知性のあり方が問われた最後の時代だったのだろうか。しかし、「今の時代に知性が不要になった」と聞いたこともない。やはり、人にとって最後の砦は知性なのだと思う。そう思う、あるいは信じるのは、高校時代に読んだ庄司薫の一連の小説の影響なのだろう。特に、シリーズのなかで一番心に残っているのが、この小説。岐路に立つ知性の姿を予感させたからか?

梅棹忠夫 『文明の生態史観』 (中央公論文庫 1974年)
‘80年代にできた「比較文明学会」の設立から何年間か会員だったが、それは学生時代に読んだ、この本の影響によるところが大だった。その頃、企業のサラリーマンだったが、一方の足は文明論にかけておきたかったのだろう。また、この学会はアカデミズムに留まらないことを旗印にあげていたことに惹かれた。とにかく梅棹は、人間的な尺度で自分がよく知っている日本をベースにして世界をつかむことを提示してくれた。重要なのは「世界観」をもつことだ。それを、この本は教えてくれた。

真木悠介『気流の鳴る音』(筑摩書房 1977年)
長い間読み返していない本だが、明晰なことの裏を問い詰めながら、曖昧さを包括する考え方と姿勢は、実はこの本の影響も大きいのではないかと今にして思い至った。そのベースがあったからこそ、イタリアで生活するまでは嫌いだった「イタリアらしさ」を受容できるようになったのではないか。この本一冊が全てを決めたわけではないにせよ、重要な一粒の種だった。著者がゼミで「軽くて深いことが良い」と語ったことは、今も貴重な指針になっている。

バーガー=ルックマン 山口節郎訳『日常世界の構成』(新曜社 1977年)
なにか権威のあるものが世界を規定しているのではなく、何処にあるか分からぬ世界にオドオドするのではなく、まさしく自分が「いまここ」でみている世界が重要であることを知るのが最初。逆に言えば、だからこそ、その世界は全てではない。生きる全ての人達がみる世界はそれぞれに違う。しかし、全く違うわけではなく、どこかでオーバーラップする。それが主観的現実の希望のもてるところだ。日常世界を拠点としていく考え方を本書で知った。

『カーデザインの巨人 ジウジアーロ』(小学館 1985年)
初代VWゴルフ、いすゞピアッツァのデザイナーであり、現行フィアットグループのクルマも約70%はジュージャロのデザインである。1980年代半ば、書店で何気なく本書を取ったとき、ただひたすらその美しいデザインに見とれた。時代の先端をいく感覚とは、こういうことを言うのだろうと思った。今、クルマそのものが過去の遺物的存在に語られることがある。ぼくもそう思うことがある。しかし、このデザインを古くは思わない。

『ピエール・ルイジ・ネルヴィ』(プロセス・アーキテクチャー 1981年)
ミラノの我が家のベランダからピレッリビルが見える。1950年代、ジオ・ポンティが設計した高層ビルだが、構造設計はネルヴィだった。あの時代に、こんなスマートなデザインがあったというのが最初にそのビルをみた驚きだった。その後、ネルヴィ以外にもデザイン能力に優れた構造設計家がいることを知ったが、構造設計家でありながらデザインに強いということが、如何に新しい形を生み出すにあたって強力なバックボーンとなるか。ネルヴィは、それを認識する契機となった。

宮川秀之 『われら地球家族』(評伝社 1988年)
1968年、上のジュージャロとカーデザイン会社を設立した実業家の半世紀を自ら記した。1960年、バイクでイタリアに辿り着き、実業で成功し、実子4人と養子4人を育て、麻薬追放などの社会貢献にも参加。人生を面白く生きるというのは、こういうことなのか、こういうふうに実現できるのだ、それを知った。読了後、数週間して宮川さんに手紙を書いた。「貴方のもとで修行させて欲しい」と。実現したのは、それから約1年後だった。

陣内秀信 『イタリア都市再生の論理』(鹿島出版会 1978年)
この本には興奮がある。他の誰かが手がける前に形にしなくてはいけないとの切迫した気持ちが、冷静な文章に隠れて見える。都市の再生にあたり重要なのは、芸術的価値のあるモニュメント保存だけでなく、社会的経済的側面、即ち一般の人たちが生きられる空間を時間軸とともに考えることだ。イタリアで学んだ、この全体的な都市の把握手法に著者は興奮し、それがぼくに伝わった。イタリアに来た年に読み、即、著者にコンタクトをとった一冊。

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