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	<title>さまざまなデザイン &#187; 安西洋之の３６冊の本</title>
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	<description>ヨーロッパの目</description>
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		<title>ぼくの書くブックレビュー</title>
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		<pubDate>Fri, 04 Dec 2009 09:54:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
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		<category><![CDATA[安西洋之の３６冊の本]]></category>
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		<description><![CDATA[「本を読む」というカテゴリーを設け、ブックレビューを書き始めてから、およそ５ヶ月がたちました。最初に書いたのが、６月２９日、宮台真司『日本の難点』です。３０冊以上について書き、「安西洋之の３６冊の本」を入れると、７０冊以 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「本を読む」というカテゴリーを設け、ブックレビューを書き始めてから、およそ５ヶ月がたちました。最初に書いたのが<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/1722">、６月２９日、宮台真司『日本の難点』</a>です。３０冊以上について書き、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/1942">「安西洋之の３６冊の本」</a>を入れると、７０冊以上です。それまでも、本やオンラインの記事に触れることがありましたが、一つのシリーズとして書こうと思ったのは、６月末です。その動機がなにであったかといえば、ヨーロッパや文化について人前で語り始め、何度も何度も同じ論点を多様なアングルから話す必要性を痛感したことも一つあります。自分自身のメモにしようと考えたこともあります。理由は、挙げれば沢山あります。が、ないと言えばない。</p>
<p>ぼくは自分の本『ヨーロッパの目　日本の目』を出版し、変わったことがあります。それまでは、本を読んで（言葉は悪いが）悪態をつくことが多かった。「なんで、こんな馬鹿なことを繰り返し書くのだ」「この著者、ピントがずれている」「本当に、こんなレベルの内容の本を沢山の人が読むのか」・・・・多くの人が口走ることを、ぼくも同じように口走っていました。ネットでレビューブログを読むと、そうしたくそみそにけなした文章を散見します。正直に白状すれば、ぼくは、今もそういう思いをもつことがあります。しかし、それを他人に大声で言うことは極力避けるようになっただけでなく、実際にそう思うことが減りました。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-2514" title="w" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/12/114695-184x300.jpg" alt="w" width="184" height="300" /></p>
<p>昔、和田誠が自分にとってつまらない映画はないと話していました。当時、あえてよいところを探す態度も疲れるよな、とぼくは感じていました。偽善ではないが、自分には適わない。が、自分で本を書き、人の批評を聞き、メッセージを伝える難しさが身にしみて分かってくると、そう簡単に公に人の本を批判できなくなったのです。「それで、お前の本はどうなんだ？」と反論される怖さではなく、どこかの主張が尖がっていたり、当然記述すべき部分がばっさりとないのは、著者の編集上の意図であったりすることが想像できるようになったのです。</p>
<p>意図的に排除したことを、「ないのはミス、甘い」と指摘するのではなく、「こういう意図で排除したと思うが、それはこうして入れるべきだった」と言わないと、著者にとっては「そんなこと、百も承知」と受け取られる。もちろん、「こんなに言われるなら判断ミスだった」という展開もあります。しかし、ぼくが言いたいことはここではない。もともと筆者のために本を読むのではなく、自分のために読むー<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/2305">それも趣味の読書ではなく、サバイバルの読書</a>ーという基本的態度が決まってくると、その本の完成度よりも、自分にとってどこがどう貢献するか？という読み方になってきます。だから、読んだ本にどんなに沢山欠点があっても、それはぼくにはどうでもいいことで、ぼくの考えることにどこかプラスになる情報や見方があれば、それでよしとするのです。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-full wp-image-2515" title="w2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/12/n74555288675_804.jpg" alt="w2" width="200" height="272" /></p>
<p>ぼくが読んだ本について書いていることが、「ブックレビュー」と通常世間で言われるスタンダードとどう同じでどう違うか、そこにあまり関心をもったことがありません。ぼくの書き方は、まず本が扱っているテーマに対する自分自身の経験や考え方の整理をなるべく行い、そこに対して、この本がどうインパクトを与えているかにおよそ集中します。本全体の意図をサマリーすることはないし、目次を書き連ねることはしない。それは、ぼくの読み方ではないからです。そういう書き方をするには、別の読み方が必要だろうけれど、それはぼくの目標とすることではないということです。ぼくが言えそうなことは、本のために生きるのではなく、人と生きるにあたって、本を頼りにすることがあるとすれば、こんな読み方があるよ・・・・というサジェスチョンからもしれません。</p>
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		<title>立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』を読む</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/2305</link>
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		<pubDate>Sun, 08 Nov 2009 17:16:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[安西洋之の３６冊の本]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[読書論あるいはブックガイドといったものにある時から関心を失いました。さらに言えば、本を読むこと自身に意義を見出しにくかった時期があります。ぼくの３０代です。日本の会社勤めをやめ、イタリアに住み始めた頃からです。それまで、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>読書論あるいはブックガイドといったものにある時から関心を失いました。さらに言えば、本を読むこと自身に意義を見出しにくかった時期があります。ぼくの３０代です。日本の会社勤めをやめ、イタリアに住み始めた頃からです。それまで、あまりに机上のロジックで生きてきたという自覚が生まれ、自分の経験でものを語ることに熱中しはじめた時とも言い換えられます。自分の言葉で自分を語れてなくして何の意味がある？というプレッシャーが強かったのです。学生時代から２０代にかけて好みであった読書ガイドが、ぼくのもっとも敵対する対象に変化していったのです。その時代に買った本は、直接ビジネスに直結する本を除けば、その前後の時期と比較すると少ないです。哲学者のショーペンハウエル『読書論』のなかで、読書のしすぎは頭が悪くなると書いている、と佐藤優が紹介していますが、ぼくはこの言葉を学生時代に読んで、よく意味が理解できませんでしたが、それを３０代で明確に把握したということでしょう。</p>
<p>現実の体験データがそれなりに満載になりはじめた時、あるいは自分の言葉でイタリア文化を語り始めていると自覚した時、じょじょに本にまた目がむかいつつありました。ただ、いわゆる「趣味の読書」には興味がむかず、それはサバイバルのためです。現実での理論武装という意味合いもありますが、第一優先は、自分の経験はどこまでの領域をカバーしえているのか？という自問に対する回答を探しはじめたとの色彩が強かったかもしれません。分野とか領域ではなく、どのあたりの地平線までぼくは目配せができ、どこに越えられぬ山があるか、という認識をしておきたいということだったと思います。また、その頃、インターネットが普及をはじめ、一般の人たちの教養がどんなものであるかが、いやおうなしに視覚化されるようになりました。そういう意味で、ネットの「暴く力」はすごいものがあります。自分とその人たちと同じ部分と違う部分に気づき始めたのです。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/category/%e5%ae%89%e8%a5%bf%e6%b4%8b%e4%b9%8b%e3%81%ae%ef%bc%93%ef%bc%96%e5%86%8a%e3%81%ae%e6%9c%ac">ぼくの選んだ３６冊は、以上のような経緯と背景をもっても語ることができます</a>。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-2306" title="bo" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/11/books-300x180.jpg" alt="bo" width="300" height="180" /></p>
<p>どの本を読むべきかの指針は、問題意識の設定の仕方でがらりと違ってきます。つまり、「えっ、こんな本を選ぶの？」という本も、「こういう時に、無用な場所に惹かれないために必要な力を養っていくためなんだ」という説明をうけると納得できるものです。よって読書ガイドというのは、現代をどう読むか？が大前提になるわけで、ガイドする人間の脚力というか投球力というか、もろもろの力量が試されることになります。佐藤優がマルクスの本をここで何冊も選んでいるのは、以下のような理由によります。</p>
<blockquote><p><span style="color: #0000ff;">佐藤　今、マルクスがまたブームになっていますよね。私は、この傾向は危ないと思っているから、あえてマルクスの基本的作品をとりあげました。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">立花　危ない？</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">佐藤　そうです。ナショナリズム運動も同様ですが、共産主義運動は、二流の知識人、あるいは二流のエリートがやる運動だと思っているんです。二流の知識人、二流のエリートにとって、ナショナリズムや共産主義は、一流のポストに上がるための、とても便利な道具なんです。そういう連中が高いポストに就いても、質が落ちるだけで、権力の暴力的な構造は全然変わらない。それに対する耐性をつけるためにマルクスのテキストの腑分けをする能力をつけておかないといけない。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">立花　マルクス主義の正しい部分と、誤っている部分とを腑分けする、と。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">佐藤　そうです。それができないと、新自由主義が進んで、社会がガタガタになる。そうすると今度は、ちょっと形を変えた共産主義運動が出てきて、日本の国が混乱に陥る。私はそれが嫌なのです。だから、マルクスの内在的論理をつかみとって、どこが優れているか、どこがイカれているか、ということをテキストとして読み取れるようにしないといけないわけですよ。</span></p></blockquote>
<p>マルクスへの考え方の是非は別として、ぼくは佐藤のこの指摘はよいと思います。ある真空地帯を生まないための工夫が必要であり、その真空地帯をかぎつけてくる勢力にどう対抗する力をもつか、それが教養であると佐藤は言うのです。宗教に対する素養もまったく同じレベルで要求されてしかるべきで、今の日本のように宗教が力を失うどころか、その存在さえ認知されないー告別式の地位低下や火葬場での見送りだけという直葬の増加にみるような事態ー状況はぼくも危ういとみており、宗教心をもつかどうかではなく、宗教の力加減を認識しておくという意味で、宗教の教養が意義をもつのではないかと考えています。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-2307" title="libri" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/11/libri-300x225.jpg" alt="libri" width="300" height="225" /></p>
<p>尚、アメリカとプラグマティズムに関する下記部分は傾聴に値します。引用しておきます。</p>
<blockquote><p><span style="color: #0000ff;">佐藤　（前略）　もう一つ、アメリカを考えるとき詰めて考えないといけないのはプラグマティズム。それでプラグマティストの代表者の一人ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』を入れました。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">立花　ぼくはウィリアム・ジェイムズが好きで著作集は全部読みました。プラグマティズムはアメリカ的なものの考え方を理解する上で、いちばん重要なものの一つですが、日本では原典が読まれないから誤解している人が多い。ある観念が正しいかどうかは、それを現実化した時の結果によってのみ判定される。「樹はその実らす果実によってのみ判定される」という考え方です。それはイエスの教えだったし、キルケゴール哲学の基本でもあった。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">佐藤　正しいことをやれば、どうして成功するのか、それは神様が判定しているからだ。これがプラグマティズムなんです。つまり、後ろに神様が隠れている。天によってサポートされているから成功するんだという、その一種の中世的なリアリズム（実念論）の構成になっているんです。だから、力によって戦争に勝利することを正当化することができる。アメリカにおいて、戦争で勝利することと、正しいことの間に乖離があるという感覚が生まれにくいという背景にプラグマティズムな発想がある。</span></p></blockquote>
<p>これを読むと、日本のロジックは、このプラグマティズムの背景を知らずにアメリカの論理に侵食されている部分が少なくないことに気づくでしょう。</p>
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		<title>３６冊のまとめと３００回目のエントリー</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/1973</link>
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		<pubDate>Tue, 11 Aug 2009 09:55:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[このブログについて]]></category>
		<category><![CDATA[安西洋之の３６冊の本]]></category>

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		<description><![CDATA[３００回目の投稿になります。昨年１月からスタートしたこのブログですが、１００回目も２００回目も何も気がつかずに通り過ぎたのですが、今回は２９６回あたりで「そうか、３００になるか・・・」と気になりました。少しはデータバンク [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>３００回目の投稿になります。昨年１月からスタートしたこのブログですが、１００回目も２００回目も何も気がつかずに通り過ぎたのですが、今回は２９６回あたりで「そうか、３００になるか・・・」と気になりました。少しはデータバンクになってきたかなと思いました。それはアクセスアナリシスを見ていて、検索エンジン経由のキーワードを眺めていて、「こういう言葉でも、ここに来るのか」という意外な言葉が多くなってきたことからも感じます。自分が狙った言葉とは違う言葉でアプローチされるところにこそ意味があると思うのです。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1974" title="tck" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/08/32766256picstrinitycollegelibrarybookofkellsmuseum10-300x225.jpg" alt="tck" width="300" height="225" /></p>
<p>また、ぼくの３６冊を選択してみて、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/category/history/page/9">去年書いた「ぼく自身の歴史を話します」と実に並行しているなあとの感慨ももちます</a>。自分で気づいていなくても、読んだ本は自ずと自らの歴史を語ってくれるのです。３６冊を選択してコメントを書いたレポートに付した感想を以下に転載します。</p>
<blockquote><p><!--  --><span style="color: #0000ff;">自分の考え方のコアをなす１２冊が、ほとんど１０代から２０代に読んだ本で、３０代になって読んだ本は一冊だ。これはあまりに勉強不足というべきか。やや驚かざるをえない。これはある意味、怖いことだ。しかし、振り返ってみて、３０代以降は人との出会いと触れあい、あるいは自分自身の活動で得た経験が、圧倒的に自分のコアを作っていることは確かだ。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">つまり、３０代以降に読んでいる本は、自分の専門とする分野か、現代性を主題とするカテゴリーに入る。「これは仕事に役に立つ」「これは今を知るのに良い」という視点が強くなっている。本当は、自分の判断の核をなす本として、最近読んだ本を入れたいと思って努力（？）もしたのだが、どうしてもそうはならなかった。もっと、自分の受け皿を柔軟に保つ工夫が必要だ。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">一方、３６冊を選びそれぞれにコメントをつけるという作業が、こんなにも面白いものとは思わなかった。このテーマを考えた管さんに御礼を申し上げたい。優れたアイデアだ。自分が考えてきたことが、このようにアッサリと視覚化されてしまい、呆気ないほどだ。ただ、留保をつけるなら、専門とする分野をどう設定するかで、３６冊の流れがガラリと変わってくるのではないかとも思った。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">今、ぼくはヨーロッパ文化をどう日本の人に伝えるかを考えている。そして、実際、本やブログも書き、多くの人の前で話すこともはじめた。もともと全体性の理解に対する拘りが強かったが、多くの経験を積み、それをある時点で統合しようと思ったとき、「ヨーロッパ文化」という具体的な名称で、ぼくの頭のなかに統合の事例として現れたのだった。</span></p>
<p><span style="color: #0000ff;">ただ、実を言えば、ヨーロッパ文化を伝えるとは、ヨーロッパに関する情報を伝えることと同義ではない。言ってみれば、新たな視点や考え方を提供するにあたってのネタである。しかし、それはよく言われる「〇〇で何が分かる」「〇〇に役に立つ」「〇〇に学ぶ」という次元とは距離をもつ。ぼくの狙いは、異文化の人達と一緒に何かをするための文化理解とは何か？を突き詰めることだからだ。そして、まずは、その目標ラインを「ビジネスのため」と限定している。あえて線引きすることで、伝える内容の構造が見えてくるのではないかと考えている。</span></p></blockquote>
<p>ただ、注釈が必要です。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/1957">（１）の自分を作った１２冊の本は入れ替えにくいと書きましたが</a>、正直なところ、自分の読んだ本を思い出せ切れないという事情があります。１９９０年３月イタリアに来たとき、これからどうなるかも分からないので、二つのスーツケースに入るものしかもってきませんでした。もちろん衣服が主体で書籍はありません。その後、日本の実家の本棚から少しは移しましたが、そのうちに僕の本棚からぼくの本は消えうせ、親父の本に入れ替わりました・・・。ぼくの本は物置にまとまってしまわれ、本棚にある本の背表紙を眺めながら過去を振り返ることができなくなったのです。今思えば、花田清輝、森有正、小田実などの本にも影響をうけたのですが、これは遠くなりつつあった記憶の中にある本なのかもしれません。しかし、書名なんて忘れて本望です。本のために生きるのではなく、本は生きるためのアシスタントなのですから・・・。</p>
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		<title>安西洋之の３６冊の本（３）－「現代性」を主題とする１２冊</title>
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		<pubDate>Mon, 10 Aug 2009 13:47:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[安西洋之の３６冊の本]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[３６冊の最後（３）は「現代性」を主題とする１２冊です。ここに入っている本は好き嫌いではなく、また良書や悪書でもなく、影響をうけたうけないでもなく、わりと最近たまたま読んだ本をあえて「現代性」を主題とした場合、どう読めるか [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>３６冊の最後（３）は「現代性」を主題とする１２冊です。ここに入っている本は好き嫌いではなく、また良書や悪書でもなく、影響をうけたうけないでもなく、わりと最近たまたま読んだ本をあえて「現代性」を主題とした場合、どう読めるか？という観点で選びました。（１）と違い、この（３）の入れ替えは比較的容易です。次回、この３６冊を選択しコメントをつけるという作業で抱いた感想を書きましょう。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1958" title="res" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/08/resources-242x300.jpg" alt="res" width="242" height="300" /></p>
<p>村上隆　『芸術起業論』（幻冬舎　２００６年）<br />
世界のアート市場で勝つためには、市場の文脈をよく知ることが必須で、且つ、作品を理解してもらうためには言語化された説明が重要であると、アーティストが自ら経験したロジックを説いている。これは日本で従来、アートは直感的な自由な受け取り方がキーで、作家自ら語るのは二流であるといわれてきたことの「嘘」を暴いている。アートの世界は文脈構築のアイデアが勝負である。この本を日本のビジネスマンはもっと読むべきだと思う。</p>
<p>水谷修　ほか　『いいじゃない　いいんだよ』（講談社　２００５年）<br />
先輩であり親友の水谷修さんの著書は沢山読んできたが、毎日新聞記者と医師の三人で行ったこの鼎談が一番面白い。彼の本領と一番リアルな言葉が記されている。約３０年のつきあいで、水谷さんが、ぼくに教えてくれたことは無数にある。どれだけ多くの視点をもち、それら視点の動かしかたによって、どんなに世の中が見えてくるかということが分かる。これも彼を通じて学んだことの一つだということを、本書を読んで気づいた。今、日本はまさに、新たな視点を獲得できずに苦労している。</p>
<p>近藤健　『反米主義』　（講談社現代新書　２００８年）<br />
週末マクドナルドに入るフランス人カップルは、路面寄りではなく、二階の奥に座る傾向があるという。第三国人で一杯だから「お洒落じゃない」という理由もあるが、米国発ファーストフードに対する距離感も出ているエピソードだ。反米主義はヨーロッパ圏からも「反」を唱えられるように、「近代」の変質に対する「反」という一面がある。ヨーロッパは普遍性を志向したが、米国には普遍性への原理主義的信念がある。これがイデオロギー、資本主義、文化、さまざまな面で魅力と「反米」を生んできた。</p>
<p>水村美苗　『日本語が亡びる時』（筑摩書房　２００８年）<br />
かつてのラテン語のように英語が普遍的な位置をしめつつあり、日本語などは現地語として存在低下していくという言葉に関する本。言語論として読むと、色々と粗が目立つ（特にグーグルの影響を過大評価）が、文化論として読むと面白い。日本の文学は、ディテールに優れ、世界観を示すという点では西洋文学に劣るというのは、日本のものづくりの完成品と素材や部品のポジションギャップにも通じる。しかし、この状況に甘んじてはいけない。</p>
<p>宮台真司　『日本の難点』（幻冬舎新書　２００９年）<br />
一人で日本の社会や政治の様々な問題点について語った。その「一人で」ということに宮台は拘り、その拘りにぼくは同感する。数多の専門家が語る切り取られた世界からは、次のアクションへの指針が何も見えない。郡盲像を撫でるに近い。そして、もう一点。包括的且つ文学的に語りつくすことを意図したという点。それが成功しているかどうかは疑問だが、その趣旨にも賛同。マニュル的に世界を語ることはありえないのだ。我々は曖昧性も含めてあらゆる問題の全体性のなかで生きている。</p>
<p>福野礼一郎　『クルマはかくして作られる』（二玄社　２００１年）<br />
今回の不況でみるように、自動車産業は相変わらず各国経済の屋台骨である。また金融は目に見えないが、ものづくりは目に見えるという。しかし、約３万点の部品からなるクルマの世界はあまりに膨大な組織が絡み合い、実は見えるようで見えないものだ。どこまでがクルマの世界とは言えないくらいに裾野が広い。この本は、さまざまな部品メーカーの現場を訪ね歩いて、開発や生産の実態をレポートしている。世界が理解できるというのは、こういうことを言う。</p>
<p>小山登美夫　『現代アートビジネス』　（アスキー新書　２００８年）<br />
村上隆や奈良美智などの作品を世の中に紹介し、日本のコンテンポラリーアート業界で先端を走っているギャラリストが、アート市場のメカニズムを語っている。基本は、アートの歴史を如何に作るか、そこにおいて、経済的要素は重要である。作品にどういった価格がつくかを、「金の話しじゃない」と軽く言ってはいけない。経済価値があってこそ、市場のなかに組み込まれ、美術史の文脈を作っていく部分があるのだ。「美しい」「きれい」「面白い」という形容詞だけでアートに接するべきではない。</p>
<p>Ishiguro  “The remains of the  day”<br />
第二次世界大戦前、英国の貴族の館で欧州各国と米国の外交官たちが秘かに集まり、対ドイツ対策について協議する場面がある。そこで米国の外交官が、ヨーロッパの方法はプロフェッショナルではなく既に古いと批判する。ヨーロッパの文化が、シリアスな局面で、バランスがとれているがゆえに甘さととられるところが、この２１世紀初頭においても起こっている。それでは米国のプロフェッショナリズムとは何だろうか？それが、どこまで長期的解決を導くのか？</p>
<p>ファビオ・ランベッリ『イタリア的―「南」の魅力』（講談社  ２００５年）<br />
ヨーロッパを対象とした文化人類学の歴史がまだ日が浅いなか、イタリアのコンテンポラリーなテーマに文化人類学的に切り込んでいる。そこに新しさがある。しかも、日本文化をよく知るイタリア人であるがゆえに、日本のどの文脈にあてはめれば良いかのツボを知っている。二番目のアドバンテージだ。そして、イタリアの後進性が生んだ文化の強みと弱みが、また限界を作っている悩ましい姿が残る。サッカーのカテナッチョが劣等感や狡猾性の産物というのが象徴的。</p>
<p>福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』（講談社現代新書）<br />
昨年からの経済恐慌にあわせて出た本ではない。ＩＴバブルがはじけて株式市場が低迷し、２００１年の９１１以降の米国の一方的な外交戦略が目立ってきた状況を背景に書かれた２００２年出版の本。副題が「アメリカ市場原理主義との決別」とあるように、「もう一つの資本主義」としてのヨーロッパ型資本主義を紹介している。ヨーロッパ各国で差異があるにせよ、「社会的」で「人の顔を見える」資本主義を目指している点では共通しているというのが趣旨。ヒューマンスケールが何事においても基本。</p>
<p>藤村信　『ヨーロッパで現代世界を読む』　（岩波書店　２００６年）<br />
パリに長く住んでジャーナリストとしての活動を行った著者の遺作。１９６８年より雑誌『世界』で連載された「パリ通信」は、多くのヨーロッパの今を見せ続けた。本書はブッシュ大統領によるイラク戦争、第二次世界大戦時の巨頭の動き、移民への寛容と極右の動向等に触れている。実は、正直に言えば「今更、藤村信の・・・」という感をもって書店で買った本だ。ノスタルジーで手にしたが、大いに裏切られた。政治に対するこの見方から若干距離をもっていた自分を猛烈に反省した。</p>
<p>フィッツジェラルド　村上春樹訳『グレート・ギャツビー』（中央公論社　２００７年）<br />
ぼくは大きな物語が好きだ。かつて日本の典型と言われた私小説の良い悪いではなく、社会全体を視野に据えた小説にぼくの趣味があるということだ。そういう点からすると、本書は微妙なところに位置するかもしれない。やや小さな物語に見えるからだ。が、必ずしも「ある場所」だけに佇んでいるわけでもない。そのあたりの「移ろい」をふくめると、世紀を大きく跨いでも「現代性がある」と表現できる小説かもしれない。村上春樹訳はその象徴だ。</p>
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		<title>安西洋之の３６冊の本（２）－「今回」専門とする分野の１２冊（ヨーロッパ文化・デザイン）</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/1953</link>
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		<pubDate>Sun, 09 Aug 2009 18:01:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[安西洋之の３６冊の本]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[課題では「専門とする分野の１２冊」なのですが、ぼくの場合、専門をもたない主義なので、表題にあえて「今回」という言葉を入れました。ヨーロッパ文化とデザインを対象としました。７月頃から「本を読む」というカテゴリーでレビューを [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>課題では「専門とする分野の１２冊」なのですが、ぼくの場合、専門をもたない主義なので、表題にあえて「今回」という言葉を入れました。ヨーロッパ文化とデザインを対象としました。７月頃から「本を読む」というカテゴリーでレビューを書いていますが、もともと、この管啓次郎さんの課題に取り組むというのが動機でした。したがって、いくつかはこのブログで書いたこととダブります。文字数は全然違いますが・・・。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1954" title="parasite" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/08/parasite_1-234x300.jpg" alt="parasite" width="234" height="300" /></p>
<p style="text-align: center;">
<p>ブローデル　神沢栄三訳『地中海世界』　（みすず書房　１９９０年）<br />
ぼくは「地中海世界には全てがある」と声を大にして言うタイプではないし、そこまで地中海世界が好きなのかどうか分からない。だいたいぼくはアフリカ大陸に足を踏み入れたことがない。それでも、地中海世界が語ることは気になる。地中海世界ならこう語るだろうと、北ヨーロッパ文化が発する言説に対して思うこともある。そのとき、ブローデルが描く地中海世界は、やはり強い。そこには高い質の時間と空間の具体例がある。参照せずにはいられないのだ。</p>
<p>佐藤和子『「時」に生きるイタリア・デザイン』（三田出版会　１９９５年）<br />
カーデザインを上におき、生活雑貨や家具のデザインを下に位置にみていた目を変えてくれた本。それまで、モノとしてのクルマへの愛着があり、経済規模の大きさからも自動車産業に関わることに意義を見出していた。デザインについても同様の目線をもっていた。しかし、イタリアデザイン史の主役はクルマより生活に関わる様々なモノのデザインであり、イタリア社会史や思想史とより密着な関係をもってきたのは後者であった。ミラノに生活する意味を自覚した。</p>
<p>武者小路公秀　蝋山道雄編　『国際学―理論と展望』（東京大学出版会　１９７６年）<br />
大学の国際論の教科書だった。その頃、鶴見和子の近代化論や武者小路公秀の国際関係論の章を真面目に読んだ覚えがある。特に鶴見の内発的発展論は繰り返し読んだ。だが、平野健一郎の「文化関係としての国際関係」は一通りにしか読めていなかった。この章の面白さに気づいたのは、卒業して約３０年後だ。そして、平野さんの研究室のドアを叩いたのだった。そこで紹介されたのが、以下の『国際文化論』である。</p>
<p>平野健一郎　『国際文化論』（東京大学出版会　２０００年）<br />
政治学者として国際関係論に文化人類学を持ち込んだ平野さんが、国際文化の見方について分かりやすく教えてくれた。文化の変化は「必要性による」という説明を読み、それまでモヤモヤしていた視界が一気に開けた。寿司もケバブーも、それぞれ「ヘルシー」という合理性によって普及しているのであって、日本文化やトルコ文化が先行しているのではない。これによって、文化性は商品開発コンセプトのコアにはなりえず、あくまでもコンセプトに「のる」ものであると認識した。</p>
<p>Ｄ．Ａ．ノーマン　野島久雄訳　『誰のためのデザイン？　認知科学者のデザイン原論』（新曜社認知科学選書　１９９０年）<br />
記憶とその再生は、日常世界におけるさまざまなモノや人を媒介にして行われる。人はその意味で極めてオープンな存在である。それがノーマンのいう「現実と結びついた認知」だ。人は事象やモノについて、それぞれに違ったメンタルモデルをもっており、それは地域や世代などにより、即ち文化によって異なってくる。したがって、対象とするユーザーのメンタルモデルを探求することが、商品開発上、極めて重要であり、そのベースとして文化の理解は必須となる。</p>
<p>ヤコブ・ニールセン　篠原稔和・三好かおる訳　『ユーザビリティエンジニアリング原論』（東京電機大学出版局　１９９９年）<br />
さまざまな言葉で記述される説明に文化の壁があることは常識だが、グラフィックで表現されるアイコンが、世界の全ての人に理解されるわけではないという事実に関しては、かなりの人がノーマークである。同じ視覚イメージも、文化や習慣によって、全く違ったものを想像されうることが現実である。欧州ではアイコンは文字通り概念を表現するが、日本では視覚的イミテーションにいく傾向がある。こういうことは、一つ一つ、ユーザーテストして確認してデータを集積していくしかない。思い込みは危険だ。</p>
<p>岩田誠　『見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス』　（東京大学出版会　１９９７年）<br />
網膜は健全なのに脳の一部に欠損があるゆえにイメージが歪む、見えない、イメージが思い出せない等の症状を実際にみていくと、脳神経の働きを前になにやら呆然としてしまう。しかし、全ての解明を脳科学に委ねるのもおかしく、それはあくまでも一部「説明担当」してもらうに過ぎない。そして重要な点は、アーティストは、１９世紀末からすでに脳の絵画―印象派―を描いていたということだ。脳科学者たちが視覚的記憶の文脈構造を研究しだしたのは、それから１世紀後だ。</p>
<p>森明子編　『ヨーロッパ人類学―近代再編の現場から』（新曜社　２００４年）<br />
主に非西洋を調査研究対象としてきて人類学が、１９８０年代からヨーロッパ自身を対象としてはじめた。その流れを日本で注目はじめたという。ヨーロッパを従来の目と違うところから把握できないか、そしてその実績をもっと実ビジネスに生きる形に応用できないかと考えていたぼくにとって、この「ヨーロッパ人類学」の趣旨は的中していた。しかしながら、この本の内容は、ぼくの狙っているポイントとは距離がある。それは待っているだけでなく自ら埋める作業をしないといけない。</p>
<p>エドガー・ホール『かくれた次元』（みすず書房　１９７６年）<br />
「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとってのホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。</p>
<p>ジャン・モネ　近藤健彦訳『回想録』（日本関税協会　２００８年）<br />
欧州統合に動いた仕掛け人の回想録。国際連盟設立や第二次世界大戦の舞台裏が良く分かり、最初の６カ国が欧州石炭鉄鋼共同体へと導かれる道筋がリアルに語られている。複数のグループを共生させるために必要な共通利益の可視化、それを実現させるための実践行動的プランの立て方、より優位性をもつモラルのキープの仕方。ここにはヨーロッパ人の文化のエッセンスとコラボレーションする場合のコツが記してある。</p>
<p>加藤周一『日本文化における時間と空間』（岩波書店　２００７年）<br />
故国を離れないと故国の全体構造は絶対見えてこない。生まれた国にそのまま住んできた人生では、決して気づかない部分がどうしてもあり、その部分が具体的に見えないと全体構造が眼前に現れてこない。これは人の才能の問題ではないだろう。もちろん、加藤周一の才能あってこそ、ここまで日本文化が見えてくるわけだが、仮に著者が殆ど日本で生きていたら、このような本は書けなかったに違いない。ヨーロッパを考える際、対比としての日本文化論として大いに活用できる。</p>
<p>“Magnificenza  e Progetto –cinque cento anni di grandi mobili italiani a confronto”　(Skira  2009)<br />
今年の４月、ミラノの王宮で開催されたイタリア家具５００年の歴史の展覧会カタログ。ぼくは展覧会をみても必ずカタログを購入するタイプではないが、この展覧会の意義に感銘をうけたぼくは、迷わず買った。時代順にセクションが分かれているのではなく、例えば、バロック様式とポストモダンの家具が同じ空間にあるのだ。３世紀前の目を通して２０世紀を見る。２０世紀の目で３世紀前を見る。これは歴史を再編しながらの新しい価値体系への探索だと思った。</p>
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		<title>安西洋之の３６冊の本（１）－感じ方・考え方・判断力の核をなす１２冊</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/1942</link>
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		<pubDate>Sun, 09 Aug 2009 17:20:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[安西洋之の３６冊の本]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[６月、明治大学大学院の管啓次郎さんのゼミの外部生として３６冊の本を選ぶ課題に取り組んでみるとの記事を書きました。以下です。 http://milano.metrocs.jp/archives/1691 ４月末に３６冊を選 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>６月、明治大学大学院の管啓次郎さんのゼミの外部生として３６冊の本を選ぶ課題に取り組んでみるとの記事を書きました。以下です。</p>
<p><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/1691">http://milano.metrocs.jp/archives/1691</a></p>
<p>４月末に３６冊を選んでみたのですが、その後少々入れ替えながら、７月、それぞれの本に２００文字のコメントをつけました。８月２日、一日がかりのゼミが東京で行われ、その模様が管啓次郎さんのブログに掲載されています。</p>
<p><a href="http://monpaysnatal.blogspot.com/2009/08/blog-post_02.html">http://monpaysnatal.blogspot.com/2009/08/blog-post_02.html</a></p>
<p>かなり刺激的なゼミだった様子が伺われます。外部生として参加した大洞さんのブログでも紹介されています。</p>
<p><a href="http://hobo.no-blog.jp/train/2009/08/post_904b.html">http://hobo.no-blog.jp/train/2009/08/post_904b.htm</a></p>
<p>そこで７月に管さんに送った２００文字コメントを、このブログで公開しておきます。３部に分け、（１）は考え方・感じ方・判断力の核をなす１２冊　（２）は今回専門とする分野（ヨーロッパ文化とデザイン）の１２冊　（３）は「現代性」を主題とする１２冊　です。まず（１）です。</p>
<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-medium wp-image-1943" title="yg" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2009/08/pope-300x218.jpg" alt="yg" width="300" height="218" /></p>
<p><!--  -->スタンダール　『赤と黒』（岩波文庫　１９５８年）<br />
このコメントを書くのに、３０年以上ぶりに本書を読み返そうかどうか考えたが、結局やめた。この本を読んだのは、桑原武夫が推薦していたからだ。この長編を１－２日で読み終え大いに心が昂ぶった。ジュリアン・ソレルの恋愛と野心、その両方に酔ったのだったろう。ただ、心動かされたソレルの「野心」は、出世欲のそれではなかった。いわば「世界観」を相手に格闘する姿だったはずだ。「はずだ」と書くのは、ぼくはその格闘のために仏文科に行こうと思ったのだから。</p>
<p>桑原武夫　『文学入門』（岩波新書　１９６３年）<br />
文学は血となり肉となればよい。そう書いてあった。高校生の時に、「血となり肉となる」意味は分からなかった。今の感覚からすれば実感などなかったに違いない。しかし、文学に限らず、全ての経験において「これが血となり肉となったか？」と自分に問いかける癖はできたに違いない。即ち、知識を振り回してもナンボのものにもならない。自分の内から自分のもののようにアウトプットされてナンボだ。それが生きるということだろう。</p>
<p>林達夫・久野収『思想のドラマトゥルギー』（平凡社　１９７４年）<br />
すごくエラソーな言い方になってしまうのだが、この対談を読んだ時、久野収が小者に思えてしまったほど、林達夫は目の前に大きく立ちはだかった。どこに抜け道を探し自分の行く先を決めればいいのだろう。そんなことを高校生のぼくは思った。恥ずかしながら、シェークスピアガーデンを自宅の庭に作ろうかとも夢想した。シェークスピアなんて、ちっとも興味がなかったのに・・・。何かものを語るに真っ向から向わない術というのは、林達夫に学んだのだろうか。</p>
<p>加藤周一『羊の歌』（岩波新書　１９６８年）<br />
あらゆることを相対的に考えるとはどういうことで、それはどういう意味をもつのか？　それをこの本で知った。数量的に世界一を誇れない場合は比較しずらいもの、あわれ、武士道で鼓舞しようとする戦前の日本を加藤は冷淡に見ていた。しかし、現在の日本のものづくりも、７０年前と同じ罠にはまっている。きめ細かい作業と品質管理以外には、日本の情緒や感性しか世界で勝つものがないと思いこんでいる。が、それは判断ミスだ。</p>
<p>庄司薫『さようなら怪傑黒頭巾』（中央公論社　１９６８年）<br />
現在の日本では「知性」という言葉自身が消えてしまったようだ。１９６０年代後半とは、知性のあり方が問われた最後の時代だったのだろうか。しかし、「今の時代に知性が不要になった」と聞いたこともない。やはり、人にとって最後の砦は知性なのだと思う。そう思う、あるいは信じるのは、高校時代に読んだ庄司薫の一連の小説の影響なのだろう。特に、シリーズのなかで一番心に残っているのが、この小説。岐路に立つ知性の姿を予感させたからか？</p>
<p>梅棹忠夫　『文明の生態史観』　（中央公論文庫　１９７４年）<br />
‘８０年代にできた「比較文明学会」の設立から何年間か会員だったが、それは学生時代に読んだ、この本の影響によるところが大だった。その頃、企業のサラリーマンだったが、一方の足は文明論にかけておきたかったのだろう。また、この学会はアカデミズムに留まらないことを旗印にあげていたことに惹かれた。とにかく梅棹は、人間的な尺度で自分がよく知っている日本をベースにして世界をつかむことを提示してくれた。重要なのは「世界観」をもつことだ。それを、この本は教えてくれた。</p>
<p>真木悠介『気流の鳴る音』（筑摩書房　１９７７年）<br />
長い間読み返していない本だが、明晰なことの裏を問い詰めながら、曖昧さを包括する考え方と姿勢は、実はこの本の影響も大きいのではないかと今にして思い至った。そのベースがあったからこそ、イタリアで生活するまでは嫌いだった「イタリアらしさ」を受容できるようになったのではないか。この本一冊が全てを決めたわけではないにせよ、重要な一粒の種だった。著者がゼミで「軽くて深いことが良い」と語ったことは、今も貴重な指針になっている。</p>
<p>バーガー＝ルックマン　山口節郎訳『日常世界の構成』（新曜社　１９７７年）<br />
なにか権威のあるものが世界を規定しているのではなく、何処にあるか分からぬ世界にオドオドするのではなく、まさしく自分が「いまここ」でみている世界が重要であることを知るのが最初。逆に言えば、だからこそ、その世界は全てではない。生きる全ての人達がみる世界はそれぞれに違う。しかし、全く違うわけではなく、どこかでオーバーラップする。それが主観的現実の希望のもてるところだ。日常世界を拠点としていく考え方を本書で知った。</p>
<p>『カーデザインの巨人　ジウジアーロ』（小学館　１９８５年）<br />
初代ＶＷゴルフ、いすゞピアッツァのデザイナーであり、現行フィアットグループのクルマも約７０％はジュージャロのデザインである。１９８０年代半ば、書店で何気なく本書を取ったとき、ただひたすらその美しいデザインに見とれた。時代の先端をいく感覚とは、こういうことを言うのだろうと思った。今、クルマそのものが過去の遺物的存在に語られることがある。ぼくもそう思うことがある。しかし、このデザインを古くは思わない。</p>
<p>『ピエール・ルイジ・ネルヴィ』（プロセス・アーキテクチャー　１９８１年）<br />
ミラノの我が家のベランダからピレッリビルが見える。１９５０年代、ジオ・ポンティが設計した高層ビルだが、構造設計はネルヴィだった。あの時代に、こんなスマートなデザインがあったというのが最初にそのビルをみた驚きだった。その後、ネルヴィ以外にもデザイン能力に優れた構造設計家がいることを知ったが、構造設計家でありながらデザインに強いということが、如何に新しい形を生み出すにあたって強力なバックボーンとなるか。ネルヴィは、それを認識する契機となった。</p>
<p>宮川秀之　『われら地球家族』（評伝社　１９８８年）<br />
１９６８年、上のジュージャロとカーデザイン会社を設立した実業家の半世紀を自ら記した。１９６０年、バイクでイタリアに辿り着き、実業で成功し、実子４人と養子４人を育て、麻薬追放などの社会貢献にも参加。人生を面白く生きるというのは、こういうことなのか、こういうふうに実現できるのだ、それを知った。読了後、数週間して宮川さんに手紙を書いた。「貴方のもとで修行させて欲しい」と。実現したのは、それから約１年後だった。</p>
<p>陣内秀信　『イタリア都市再生の論理』（鹿島出版会　１９７８年）<br />
この本には興奮がある。他の誰かが手がける前に形にしなくてはいけないとの切迫した気持ちが、冷静な文章に隠れて見える。都市の再生にあたり重要なのは、芸術的価値のあるモニュメント保存だけでなく、社会的経済的側面、即ち一般の人たちが生きられる空間を時間軸とともに考えることだ。イタリアで学んだ、この全体的な都市の把握手法に著者は興奮し、それがぼくに伝わった。イタリアに来た年に読み、即、著者にコンタクトをとった一冊。</p>
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