子育て の記事

Date:10/5/19

イタリアの日曜ミサなどでも、神父の下らない説教の途中で赤ん坊が泣き出す事があります。

その泣き声がゴシック建築の教会の内部で響き渡るのですが、なぜか心地良さを感じた事がありました。とてもイタリア的だなあと思った事があります。「カオスな生を全肯定するような、、、」という意味で。

そして、赤ん坊の泣き声が見事な演出効果になり、下らない説教に多少の説得力を持たせていました。

多分、こういう感覚は、北ヨーロッパにはないんじゃないかなあ?今週は、出張でデンマークとイギリスに行ってきます。

昨日書いた「佐藤淑子『イギリスのいい子 日本のいい子』を読む」に対する仁木さんのコメントです。仁木さんはミラノに住む写真家です。とても良いポイントを衝いてくれました。ぼくは上記の本を読んでいて辟易するところがあり、それをぼくはブログの文中、「『そんなに大人と子供の時間と空間を分けることに熱心で、ちょっと肩が凝らないの?』と質問したくもなります」と表明しました。大人と子供は世界が違うんだ、お互いが無理しないように棲み分けさせないといけない。そこで無理させると赤ん坊はギャーとくる。だから大人の楽しみのために赤ん坊を引きずりまわしてはいけない・・・という英国の子育ての前提の記述に違和感を覚えたのです。正確に言えば、英国の子育てが悪いのではなく、教育論を語るにあたってのモデル設定のしんどさです。「おっしゃることは至極ごもっとも。でも、やや不自然では?」と。大人には大人の楽しみがあり、それを犠牲にしないのも、その反対も大切ですが、仁木さんの言葉を真似れば「カオスな生を受容しない」精神文化への肯定感が強く、堅苦しすぎてどうにもしっくりきません。

それに対して、仁木さんが例に出した教会のミサにおける赤ん坊の泣き声は自然です。葬式でも赤ん坊が大声で泣き、小さな子供が大人の周辺を走り回る。これが人の生きる世界で、こうして生は回転していくのだと実感させてくれます。人が死に、新しい命が死を意識することなく、エネルギーを振りまき、皆の頭が切り替わる瞬間です。いうまでもないことですが、それぞれの世界、赤ん坊も子供も大人も、全てが混在とも呼ぶべき状況にいればよいというわけではありません。それぞれに分割し棲み分けを図ることは大事ですが、「ゆるい棲み分けと、たまの混在を許す」精神構造が必要とされるのです。イタリアの子供たちも大人のお客さんが家に来る日は早く寝室に入ることもあるけれど、大人と夜遅くまでつきあうことも稀ではありません。レストランで赤ん坊が泣けば、せっかくのデートが台無しになったと悲嘆するのではなく、その赤ん坊を皆であやして時を過ごし楽しむと考えるわけです。しかし、スカラ座のオペラに子供は連れて行かない・・・。

これは音あるいは騒音に対する馴れとも関係するかもしれません。もともと声の大きなイタリア人の会話と隣のテーブルの他人には聴こえにくい声で喋る英国人。この大人の出す音との相対関係で英国では赤ん坊の声が突出してしまうという問題もあるかもしれません。しかし、それよりも何事も緩やかにしておくメンタリティが、レストランでの寛容な空気を作るのでしょう。だから、逆にイタリア人の会話にも「お願いだから、もう少し静かに話してくれ!」とぼくは思うわけですが・・・・。『イギリスのいい子 日本のいい子』という本は教育の専門家によりデータを駆使して書かれており、モデル化するために散文的であることを避けています。それに対してぼくなどが批判する点は何もありません。ただ、やっぱりラテン系文化がぼくには説得性があるかもな・・・と思うだけです。その「ゆるさ」という大人文化の一点だけにおいて。

Date:10/5/18

息子が2歳の頃、夏のバカンスを南仏ニースで過ごした時のこと。ある晩、旧市街のピッツェリアにイタリア人の友人親子と入りました。外のテーブルにすわり、まずは冷たいビールで乾杯。しかし、ピッツァがテーブルに届く前に息子がぐずり始めました。フランスもイタリアと同様、小さな子供を連れていてもあまり居心地が悪い国ではないと思うのですが、そのときは、周囲から「煩いなぁ」という視線を感じた奥さんが、息子を連れて近くの広場に散歩に出かけました。そして、ぼくがピッツァを食べた頃を見計らって戻ってきた奥さん。彼女がピッツァを食べている間に、今度はぼくが息子を連れ出す・・・という光景が繰り広げられた時、友人は「ヒロは冷たいビールを飲み、熱いピッツァを食べ、ミナコには醒めたピッツァを食べさせるのか。順序が逆じゃないのか!」と辛口の言葉がぼくを刺します。ああ、言われてしまった。子供を前にしても女性を優先するよう体が動かなかった新米パパは猛省したものです。その反省が今も生きているかどうかも、また怪しい・・・。

その翌年の夏は、オーストリアのインスブルックでアパートを借りました。三階建ての旧貴族邸を分割して宿屋として貸しているのですが、オーナー家族は一階に住んでいます。同じように小さな子供もいる彼らならと甘く見積もったのが大間違い。2週間の滞在中、「子供がバタバタしないよう注意してくれ!」と三度も勧告を受けました。ミラノでは比較的ちゃんとしたレストランでも、赤ん坊をベビーカーに乗せてあやしながら夕食をとれますから、イタリアの子供が出す騒しい音にも寛容さを期待してしまったのです。誰が出そうが、騒音は騒音。オーナーの奥さんにビシッと叱られました。それでドイツ的というかオーストリア的な厳しさはバカンスには不向きと、軟弱な(?)われわれ夫婦はその後、イタリアで夏休みを過ごすことに決めました。それぞれの文化があり、どれが良い悪いではなく、自分たちが納得できるゆったりとした時を過ごせる場所を選ぶことにしたのです・・・・が、自分たちの子供への振る舞いに他人の目が光っていることは変わりありません。このように子供を連れていくつかの国を旅すると、大人だけの旅では見えてこない文化差が見えてきます。

「日本人は自己主張が乏しく自己抑制が強い。そして米国人はその逆」という言い方がよくされます。そして他方、「これはステレオタイプな見方である」という逆襲があります。そのとき、「いや、英国人は自己主張もするけど、自己抑制もしっかりしている」と語るのが、本書の佐藤淑子です。小学校の頃に駐在員の父親に連れられてオランダで数年過ごし、修士は米国、博士は英国でとった著者は、米国と英国のある大きな違いを指摘したうえで、日英の幼児教育を比較していきます。自己抑制が強すぎるがゆえに的確な自己主張に欠け、それが「切れる」という現象の要因になっているのではないかと日本の状況を分析する著者は、英国万歳ではないが、自己主張と自己抑制の両方を重視する英国教育をモデルとして参考にする根拠をデータも添えながら書き出していきます。

イタリアに長年生活している身からすると、英国の子育てのエピソードに感心することは少なく、「そんなに大人と子供の時間と空間を分けることに熱心で、ちょっと肩が凝らないの?」と質問したくもなります。およそ青少年の問題ー飲酒、ドラッグ、性ーの欧州先進国である英国の子育ての例をとりあげる違和感がぼくにはあるのですが、規範への服従があまりに強く、集団所属意識が強すぎる日本の読者に示唆を教示するには、こういう方法でもいいのかなと思います。その証拠に、本書は8年間に11版で、アマゾンも実に肯定的なレビューが沢山並んでいます。これらを読んで、じゃあぼくもブログにもっと子育てネタを書いたほうが文化テーマも分かりやすいのかなと考えたほどですー実際、このネタを増やそうかと思っています。

最後に、本書のテーマである自己主張と自己抑制のバランスに戻すと、ミラノサローネ2010(27)で書いた「静かなニッポン人」と重なってきます。以下です。

どこかに動きを感じる作品の数々を眺めます。今回、日本のデザイナーの作品に接しながら、「どうして、こうも静かなんだろう」とその理由を考えました。今 週、ライターの方と話していたときに言われたのは「日本人は人とぶつかることを避けますからね」ということでした。そこで、説得的であることは平和を目指す態度ではない、暴力的要素を含むという認識を正すことが必要なのではないかということを話したと月曜日に書いたのです。同時に、トリエンナーレのボビザでみた作品の数々は完成度は低くても、説得的であることを厭わない風に見えるとも記しました。つまり、日本人の作品が静かであるのは説得を避ける態度に理由を見つけられるのではないか、とも考えたわけです。

説得的であることは規範の逸脱につながると考えやすいのではないか、ということです。ここに至り、日本のデザイナーの作品の静けさは自己抑制と密接であるだけでなく、日本で当然とされるレベルの自己抑制に馴れていない人たちにとって、この静けさは「不足感」「欠如感」を導き出すかもしれないと思わずにはいられません。

Date:10/5/13

今日、近所に住む息子の同級生が学校を休みました。その母親からウチに電話があり、「娘が学校に置いてきた教材を学校の帰りに持ってきてくれない?」と依頼がありました。そこで息子は彼女の教材を先生から受け取り、彼女の自宅に届けます。ぼくも一緒につきあったのですが、インターフォーンで「教材持ってきたよ」と息子が言うと、同級生の母親の「よかったら、エレベーターで上まで上がってきて」という声が聞こえます。それを聞いて、ぼくは「頼んでおいて、自分で降りてこないのかよ。よかったらもないだろうに・・・」とちょっと思います。怒るほどじゃないけど、ちょっとひっかかるなというレベル。「よかったら」はイタリア語で”se vuoi” 。英語なら”if you want”。「君が欲するなら、上まで来てよ」ということになります。

この”se vuoi”がひっかかるのは、ぼくがイタリア語を理解していないからだろうか。この動詞 volere(英語のwantでvuoiはvolere の二人称単数形)が丁寧な疑問形を作ると分かっていても、それを丁寧表現とは受け取れないのです。それはイタリア文化を理解してないからなのか・・・と前々から気になり、イタリア人にも意味を聞いてみたことがあります。理詰めで話すと、「そう、そういう場合は、se vuoi じゃなくてse puoi (できれば)が正しいかもね」という答えがきますが、その本人がそばから”se vuoi”を連発するから、頭と口は別機能なんだと分かります。これはイタリア文化という文脈のなせる業なのか。要はこういうことです。「この行為をするかしないかの決定権は君にあるということは尊重したうえで言っているんだ。無理にやれとも言っていないし、君のキャパや意思を無視して頼んでいるわけでもない。あくまでも君の判断なんだよ」という伏線をしいておいて、「で、君がぼくを助けたいなら、助けてくれよ」と読めなくもない・・・と思うこともあるから、気になるフレーズなわけです。

もちろん”se vuoi”の後が「食事に誘うよ」というなら別に何の問題もないのですが、冒頭のように明らかに頼み事をしている時の”se vuoi”は、どうも頼みを有利に運ぶための術のように聴こえてしまいます。それをまったく気にならないで聞けるのは、こういう文脈に馴れきっているからではないか。あるいは、ぼくもそのように馴れきらないといけないのだろうか。そう考えます。ぼくの倍近くイタリアに住んでいる日本人に聞いてみると、「そうしょっちゅう気に障っているわけじゃないけど、まったく気にならないといえば嘘になる」と。イタリア生活が長いフランス語が母国語の友人は「自分ではあまり使わないけど、それを聞くと嫌な感じというよりなんとなく釈然としない気持ちが残る」と答えてくれます。そうか、あえて大きな声で言わないけど、「なんかなぁ」とは思っているフレーズであることが分かります。でも、ぼくの息子は「決めるのはぼくだと言われていると思うだけ」とそっけない感想。

この”se vuoi”をまったく意識することなく堂々と使えないと、イタリア人の精神構造をマスターできたとは言えないのかなとボンヤリと思います。日本語で「すみません」を連発するようなものでしょうか。「すみません」本来の意味とは関係なく、この言葉を挟むと日本文化に嵌ったような気になるという意味で。多くの外国人が「どうして悪くないのに、すみませんと言うの?」という質問をするのと同じように、ぼくは「頼みたいくせに、やりたければなんて聞き方をするの?」と思ってしまう。どうしても、丁寧表現は遥か遠くに霞み、第一義が頭に直球で浮かんでくる。だからからか、日本であれば謝罪をするケースでも「すみません」と言うのではなく、「それは残念だった」「それはお気の毒」とコメントするイタリア文化が”se vuoi”を多発させるのかと勘ぐります。メンタリティは言葉によって作られ、言葉はメンタリティによって作られる・・・・こんなところでしょうか。

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