子育て の記事

Date:12/1/28

ぼくは宗教に関して典型的な日本人です。要するに無神論ならぬ脱宗教。だからイタリアで子供を育てていれば、どこかのタイミングで宗教の問題にぶつかるのは分かっていましたが、「そろそろだなあ」と思っていたら、そろそろがきました。小学校の宗教の時間も選択制でしたが、「キリスト教のことは知っていたほうがいいよ」と言って押し込んで(!)おきました。その時間、イスラム教の子たちは別の学習をしているのですが、息子は幼児洗礼をうけているほとんどの子供と一緒にキリスト教について勉強してきました。本人は面白いと言うし成績もよかったので親としてガードが甘くなっていました。

今年の9月からはじまる中学の申込書を書くにあたり、宗教の授業をどうするかが親子のテーマになりました。宗教のほかにも選択しはいくつかあります。1)第一外国語は英語で、第二外国語をフランス語かスペイン語 2)週の授業合計時間を30時間か36時間 3)給食をとるかどうか(とらない場合は自宅で昼食をとり学校に戻る) 4)カトリックの授業をとるか(とらない場合、他の学習をするか、早く帰宅するか、などの選択もある)  1)はフランス語であっさり決定 2)は若干もめたけど36時間 3)も若干もめたけど給食あり で話し合いがすんだのですが、4)が決まりません。

「今の宗教の時間でも、みんなは教会で(教理を教える)カテキズモをやっているから、どうしても差がでるんだ。お祈りのしかたを知らないし・・・・カテキズモをやっていればよかった」と言い、その差を味わうのが嫌だから宗教の授業はとりたくないというのです。そして「みなはもうカテキズモを終えている今、一人でカテキズモに行きたくない」と。カテキズモをどうするかを数年前に話し合ったとき、「親である自分たちが信じていない宗教の教理をかなりの時間を割いて無理をすることもないだろう。自分で宗教を考える年齢になったとき、勉強すればよい」という判断をしていました。

中学の宗教については当初どちらでもいいかなと思っていたのですが、息子のNOの理由を聞いているうちに、それも良くないなあと思い始めました。「そういう理由なら、宗教の授業をとるほうを勧めるよ。パパもママもキリスト教をもっとよく知っていたらいいなあと思うことはたくさんあるからね。でもだからといって勉強できていないんだけど」と説得を試みるのですが、どうもかたくなにNOと言い続けます。ぼく自身、なにかのときに教会のベンチー日本であれば寺や神社ーで思いにふけることがあります。宗教的な場がもつ雰囲気の大切さは認識しています。しかし、くキリスト教を知っているというにはおこがましい。

息子が赤ん坊のころから孫のように面倒を見てくれているイタリア人のお祖母さんに相談すると、「分かったわ。私が言って聞かせてあげる」と引き受けてくれ、翌日、息子を彼女の家へ一人で行かせました。「なにか話があるみたいだよ」と。結果はYESです。「何が決定打だったの?」とぼくが息子に聞くと、「宗教は文化のひとつだっていうこと」。彼女に「ケンはこれからもイタリアで長く生きていくに、イタリアの文化はよく知っていたほうがいいわよ。お祈りの言葉なんか知らなくてもいいのよ」とかなり長時間にわたって説かれたようです。「脱宗教」の人間が宗教は文化理解の一つであると説明しても説得性に欠けますが、毎週必ず教会のミサに通う信者に言われれば受けるほうも違いますーだいたい息子は両親がイタリア文化をよく理解していると思っていない!-。

中学の申し込み書には「宗教の授業を受ける」にしるしをつけ、授業を受けていて考えが変わればやめる、あるいはカテキズモを勉強することを息子が自分で判断することになりました。

やれやれです。

Date:12/1/5

この正月、日本人の友人と酒を飲みながら話題がイタリアの教育とアートのアーカイブになりました。イタリアの学校で重視されるのは口頭試問です。テーマに対して定義の設定から論理を構築していく力が試されます。どこかにある正解をなぞるのではなく、ある問題に対して自分なりの解釈をほどこすことが求められるわけです。それを書くのではなく話す。これが小学生の段階から徹底されています。一方アートの世界におけるアーカイブとは、批評空間に存在感があるという意味合いの話です。図書館でアート作品を検索すると、日本とは比較にならない桁の数で批評文が一つの作品について出てきます。よって、批評コンテクストでの位置づけを前提に作品を構想する訓練を作家は重ねることになります。

「自分の解釈を作る」という基盤があるから批評空間に存在感があると言えますが、時とともに生き残れる作品こそに価値があるという考えが強いので、批評の量と変遷にウエイトが置かれるのではないかと思います。言ってみれば、そこに石があること自身にさほど意味があるのではなく、そこになぜ石が置かれ、どのような年月をもって石が人に見られ、その石が何十年後にどのような価値をもつかが記述される・・・・マーケットを構成するシステムが「言葉が不要な感動」のみによって成立していないのです。

考えてみると人の人生も同じです。生きてきたプロセスを記録に残すことがセルフブランディングになります。年末から正月にかけ、少なからぬ人たちがフェイスブックに自分の幼少や青年時代の写真をアップさせていました。当たり障りのない話題提供や年の変わり目に過去に思いを馳せるという動機なのでしょうが、タイムラインに揺れ動く自身の姿の背景を知っておいてもらいたいとの欲求の表れなのだろうとも想像します。自分は身長が1.何メートルで体重が何十キロで過去現在の名の知れた人の顔に似ているかどうかではなく、世界で有史以来唯一である自分の生まれた瞬間からの営みの数々にしかーしか!-証がない。それは過去の誰とも同じではないし、将来、同じ人が出現することはありえない。人は「時」によってアリバイを獲得する存在なのです。

日記は自叙伝にまさり、自叙伝は作家が書いた伝記にまさるのは、その瞬間のありようは本人が一番の証言者だからです。これまで名の知れた人のライフヒストリーが評価されたのは、その人の世間的に認められた実績ゆえでありましたが、実は世間的に認められるシステムに入る「通行手形」をたまたま手にした幸運によるとの側面がなかったわけではありません。「通行手形」の入手が相対的に容易になった現在、何に対する証言者であるかがより問われます。ネットのおかげで証言者という地位はほぼ平等に与えられるのであれば、どこに証言者として立ち会うかがポイントになります。ゆえに、その点について意識をさらに高めることが自己肯定の契機になるとの理屈が幅を利かしそうです。証言者とは状況定義と解釈を開陳できる存在ですから、当然ながら、与えられた地位を十全に使いこなせるかどうかは別の問題としてあります。

やったことの結果もさることながら、どんな天気の時に、どんな道を辿っているかがセルフブランディングの肝になるわけです。ただし、初夏の暖かい日のヴェネツィアで昼寝をするのではなく、晩秋の霧の濃い海上でヴェネツィアへの足止めを食うことが証言者の生き方として重みがありそうで、実はそうではない。あまりに平凡な日常的な風景のなかで証言者であるー日曜日午後のイトーヨーカ堂の下着売り場で世界を語るーほうが存在感があるかもしれないのです。

文章の結を急ぐためにやや飛躍を許してもらえるなら、「今に生きる」ことが、かつてと比較にならないほど自己アイデンティティとブランディングのために重みを増していると考えてしかるべきです。無駄にできる時間はなにもないのですーいや、すべての時間はあなたが思う以上に価値がある。しかし、だから息苦しくなるのではない。逆に、だから開放された気持ちになるにはどうすればいいか?と考える人がー社会経済的に激しく揺さぶられるー2012年を生き残れるでしょう。

 

 

 

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Date:11/12/4

今日は息子が来年9月から通う予定の中学のオープンデイ。ステージのあるスペースで校長が親たちを前に概要を説明するのですがー何曜日が半日で何曜日が午後まで授業があるとかー、かなり「アバンギャルド」なムードに唸りました。マフラーをしたアーティスト風貌の2人が話している校長のすぐ前を通り過ぎ、親たちに「チャオ!」と軽く手を振って通り過ぎていく。隣の音楽室でその一人がガンガンとドラムを叩きはじめ校長の声が良く聞こえない。校長の話より音楽を聴きたい親は音楽室へ。校長が何度か演奏を中止するように音楽室に足を運ぶが、まったく無視でドラムの音が鳴り続けるのです。校内いたるところの壁いっぱいにイラストが描かれ、「ここは美大か?」という感じです。二人は音楽と美術の先生だったのです。

校内をぐるりとまわり学校を出て帰宅する途中、息子に「この学校でピアノとバスケットが得意ならスターになれるよ」とぼくは言いました。あのアーティストの先生を「友達」にすれば学校権力なんか怖くない!(笑)。第一外国語は英語で、第二外国語はフランス語かスペイン語を選択し、それによってクラス分けを決めるそうです。「どっちの言葉がいい?」と聞くと、「フランス語。スペイン語はイタリア語とものすごく近いから、あとで簡単にできそうだからね」との答え。うん、それはいい判断だ。「で、学校気に入った?」「壁中がアートでいいね!」

いちおうは、もう一つ別の中学も見学してみようかと思います。実をいうと、外観からこの中学にあまりよい印象をもっていなったのです。しかも、かつては評判も良くなかった。ぼくの友人も先生と喧嘩して放校処分になった・・・もちろん大昔です。が、この2-3年、体制が変わって抜群に良くなったという噂です。それでも息子には「別の学校もいいんじゃない?」とそれとなく言っていたのです。今日、あの「アバンギャルド」にはぼくも心が惹かれはじめ、別の学校見学は「いちおう」に格下げです。

ぼく自身、イタリアで学校教育を受けていないので、学校で生じるエピソード判断に迷うことが沢山あります。最近、息子の持ち物をクラスの友人にいたずらされました。それを息子が先生に訴えると、「それなら、いたずらをした彼に何か仕返しをしなさい」と言われたそうです。ぼくたちは教育上そりゃあないだろうと瞬時に思いますが、そういう考え方とは違う土壌に生活しているんだと気づかされます。人の話している前を遠慮なく通過するのはエチケットとして良くないにせよ、腰をかがめて小走りにいくー日本の会社の会議室で毎度お目にかかる風景ーのがつつましい態度として良いのかとも思うのです。

もちろんイタリア人の親たちの学校の評判も参考にしますが、そこそこに聞くしかないかとも思います。学校や先生に対する意見や感想は、自分の子供がどう扱われているかに大きく左右されー端的にいえば、成績の良い子にとって居心地がよいか、成績の悪い子にとって救われる場所かー、ぼくたちの子供にとってどうなのかは別の話になります。先生の話を聞くのも大切ですが、どうせいいことしか言いません。それにどの先生が担当するのかもわかりません。とするならば、校内に足を踏み入れ先生たちの様子を観察するしかないのです。

それに学校は先生のものではなく生徒たちで作っていくもの。その思いをあらたに、あの「アバンギャルド」に任せてみるかという直観が働いたので、かなりの確率で今日の学校に決めることになりそうです。

Category: 子育て | Author 安西 洋之  | 
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