ローカリゼーションマップ の記事

Date:12/2/11

今の世の中は複合的に動いているから、あるパーツだけを相手にしてもダメだということが盛んに言われます。ぼくもこのブログで繰り返して書いていることです。その一例として消費者の購入決定パターンがあげられます。店舗での実物、噂、TVのCM、オンライン広告、ブログ、SNSのコミュニティ・・・と数々のメディア接触が「この商品を買ってみようかな」という動機を生む。TVでタレントの使用シーンをみて「うん、決めた!」となる確率が落ちてきたわけです。だからサイトのインターフェースを斬新なものにすれば画期的な変化が起こる…と強すぎる願望をもってはダメだということです。ユーザーの一連の経験を総合的に捉えないといけないのです。どのように複数の経験が組み合わさると、どのようなタイプのユーザーの心は動くのか?

昨日、トリエンナーレでfrog design の本テーマに関するプレゼンターションを聞きながら、一人でこういうリサーチをするとしたら、どんなタイプの人間が良いのだろうかと思いました。通常、デザイナーやエスノグラフィーのエキスパートなどがチームを組みますが、まったく一人であればバックグランドよりも、「人間力」的な側面が重視されてくるでしょう。frog design のプレゼンテーターはミラノ工科大学にプロダクトデザインの学科ができる前の卒業でした。つまり建築学科卒業のプロダクトデザイナーです。カスティリオーニなどマエストロ達に育まれた世代で、幅広い視点でリアルを把握することが訓練されている…..ことが期待されて教育をうけた人です。

本は読めないものだから心配するな』にあるような読書体験とはあらゆる本の痕跡であり、それは旅も同様であると書く管啓次郎さんはぼくと同い年です。本は「はじめに」から「あとがき」までを一貫して読むことを教えられ、Aという本の1章目とBの本の2章目だけを読んでレポートを書くことがあまり推奨されなかった時代の「子供」です。しかし、ぼくはーたぶん管さんもーそうした章分けの息苦しさを感じながら生きてきたのです。だが、ここで書いておきたいのは、「はじめに」から「あとがき」までを通して読むことを否定しているのではなく、一冊の本の構成をしっかりと理解してこそ、あの本とこの本の「結合」ができるということです。分断された情報を一つのカタチにする能力は、一つのカタチとは何であるかを分かっていないといけないわけです

frog design のプロジェクトフィーがいくらかは知りませんが、冒頭に述べたようなリサーチを徹底すればするほど高額になってきます。統合したリサーチが必要とされればされるほど、その予算が組める大手の会社しか実施できなくなります。敷居が高くなるのです。予算が組めない会社は断片的なシーンしかつかめず、多面的なユーザー経験をはっきりとデータ化できずに負けが込む可能性が高くなります。それでは大手にしか勝ち目がないのか?と問えば、そうではありません。ある統合されたカタチは一人の人間の力でカバーすることが可能だからです。落し穴をなるべく減らし多様なアイデアを生むためにチームは生きますが、チームだけが勝算の唯一の道だけではないことも事実です。

世の中にイノベーションをおこすに人々が集まることは大事です。だからといって駒で生きるメンタリティであったはいけません。一冊の本ははじめから最後まで読み通し、しかし、それをすべて一冊の本として頭に入れておかないと気が済まないとのプレッシャーに耐えられないメンタリティであっては生き残れないということです。

非完璧主義」がここでも生きます。

Date:12/2/10

村上春樹の『1Q84』が各国語で出版され話題になり、ヨーロッパのどこの書店でも三島由紀夫やよしもとばななの本を見つければ、日本の作家の本はそれなりに海外で流通しているのだろうという気になります。ただ、それは日本の出版社が営業した結果がダイレクトな現象となっているというよりーこのあたりの事情は素人の想像ですがー、各国語の出版社かエージェントがリスクを負って翻訳本を出版してきた功績ではないかと思います。一方、アカデミックな研究者が世界で成果を評価されるには、一流の英語の学術誌に論文が掲載されないといけないと言います。このフィールドも疎いのですが、要するに「舞台」にのらないで観客席で何をやろうがー貴賓席であろうが!-それは評価の対象に入らないのです。しかし、そのサーキットにのりきっていないことが現実であることをいろいろなランキングで見せつけられます。

さらに学問の成果を世に問うには、雑誌掲載だけでなく書籍の出版という手段が必要です。京都大学学術出版会の斉藤至さんの『国境を越える学術出版ー英文共同出版の10年』という文章を読み、日本の出版社が英語の学術出版でほとんど主導権を握れていない事情を知りました。まず第一に、査読体制が不十分であるとの指摘があります。

特徴や評価基準の文化差から、相互の査読体制が食い違う(split)場合も生じるが、共同先に向けて企画の刊行意義を説得的に提案する工夫が求められる。

共同先とは海外の出版会を指しています。

日本からは英文書を海外に普及するまとまったチャネルが存在しない。北米ISBS社とはTPP社(豪のTrans Pacific Press)の仲介により2009年から直取引を開始した。ただし共同出版では、お互いが市場を侵犯せず共存するべく販売先を地域ごとに分担(share)し、小会が日本国内販売、共同先が日本国外販売を分担する。共同先の単独出版物を日本で販売する場合は小会が代行し、日本国外で直に普及が可能なのは、小会の単独出版物に限られる。

共同先と一緒に出版物を作っていくことがメインのビジネスであると想定されており、しかも、その書籍の企画を独自に推進するには敷居が高いようなのです。「なお契約上は、共同先の管轄しない地域ならば直販売できる。フランクフルトでのEurospan 社、南ムンバイでのAllied Publishers社との接触は、今後の有益な取引資源である」ともありますが、影響を及ぼしやすく商売のうまみもある市場へのアクセスが限定的であることが伺えます。が、かといって肩に力が入り過ぎてもいけません。

しかし問題は、英語化のトレンドに遅れるという焦燥に駆られ、地域の固有性を十分に経由せずして英語化へと走る事態であるように感じる。英語化のトレンドはむしろ英語をハブとした新たな翻訳交流を切りひらくものだろう。中心文化から周辺文化への侵略という言辞で「否定性」を煽り立てるのではなく、ローカリティに密着したユニークな知見を積極的に発信する好機として受けとめたい。

<中略>

また特に地域研究の分野でも、日本人が欧・米的な分析手法で対象地域を研究する著作よりも、各国人がそこから内在的に引き出した基準で各々の共通性と差異を比較しあう著作が有力な学術賞を多数受賞している。

これはとても示唆に富みます。現状、多かれ少なかれ、市場の流通と企画を先導できないのは日本の企業活動の弱点であり、学術出版が周回遅れであるわけでもありません。いやむしろ、学術出版の世界であらたなモデルを作ることが不可能ではないとの印象は与えてくれます。

デザインの世界のヒントがここにも満載されています。特にデザイン言語という見地で考えるべきことが多数あります。

 

Date:12/2/7

ミラノの街を歩いていてよく思うことがあります。この街の精神風土がなんらかのカタチで変わるとしたら、中国人街を起点にする以外考えられないのではないかということです。かつての倉庫や工房を中心としたゾーンに新しいアートギャラリーやスタジオが生まれたとしても、それは精神風土にはあまり影響を与えないかもしれない。やはり変化はマージナルやボーダーと定義づけられるゾーンと人々の「専売特許」ではないか。強いモチベーションをもたざるを得ない状況にない人たちが、自ら変化を求めることは遊戯に過ぎないでしょうー挑発的に言うならば。

「グローバル人材」という奇妙な言葉が流通をはじめてそれなりの時間がたちました。これを現象として眺めていてつづくづく思うのは、ユートピア志向を背景にした完璧主義のひとつなんだということです。「英語人間」はコモディティ化した買い替えのきく消費財であり、「グローバル人材」を付加価値の高い消費財である。ないものねだりに近い・・・。「インディジョーンズのように頭脳が柔軟で機転がきき、視野の広い教養あり、リスクを自らとる」なんてめったにいない人たちを理想像と描くのは精神的にきつすぎるように思えて仕方がありません。いっそうのこと、流暢な英語が取り柄であることが「グローバル人材」であると言い切った方がどんなに楽なことかーしかし、人々は決してそう言いたがらない。

人間は与えられた状況でそこそこのことをする存在です。あえていえば状況選択にしか人の能力の発揮するところがない。自分を追い込む能力とでも表現しましょうか。追い込まれた状況をもたざるえをえない人たちースイスやベルギーのような小国で多言語を操る人が多いーにおいて、インターナショナルはユートピアであるよりマージナルからの必然であるという側面が強いはずです。北欧の人たちが英語が上手いのも同じです。今日、ソーシャルイノベーションの教授と昼食をとりながら「非完璧主義」ーいわゆるβヴァージョン主義ーというのが、今、非常に大切になっているということを話し合いました。完璧主義では要請されるスピードとマッチせず前進できないことがあまりに多いのです。ぼくは、日本で言われている「グローバル人材」も、非完璧主義の視点で再考すべきではないかと考えます

現代の社会要求の変化の大きさとスピードを問題にしてβヴァージョンを選択するのであれば、そこに対応する人間もβヴァージョンであることを認めないとおかしい。それにも関わらず、状況が難しいから人間のレベルはより高次を求めるー気持ちはわかりますが、人間の質がそう自動的にあがるわけはなく、その難しい状況のなかで人は「生物」ーカメレオン的に!-として適応していくしかないと諦めるのが良いーと思います。すべてがコモディティ化していくから、コモディティ化しない小さなエリアを探していき、そこに傑出した人間であることを望むというのはストレスだけが積もりゆく見果てぬ夢ではあるまいか・・・それこそドンキホーテ的妄想に駆られている!

・・・・それにしても、変化の大きさとスピードの速さを前提に語っていますが、ここに疑問を投げかける必要はないでしょうか?どうもマッチポンプ的に状況をクリティカルにみせ、そこで「怪力グローバル人材」の登場を待望するように芝居が仕組まれているとも見えるんだよなあ・・・もっと深呼吸して腹を据えて世界を眺めてみようよ。

 

 

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