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	<title>さまざまなデザイン &#187; ミラノサローネ2010</title>
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	<description>ヨーロッパの目</description>
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		<title>世界の広さは自分で決める</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3583</link>
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		<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 13:27:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>
		<category><![CDATA[ローカリゼーションマップ]]></category>

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		<description><![CDATA[ミラノサローネ２０１０で書いたと思いますが、サテリテで日本人デザイナーの作品をみて感じるのは、対象マーケットの曖昧さです。「イタリアあるいはヨーロッパで売れればいいけど、米国だっていい。まあ、少なくても日本のメーカーが興 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ミラノサローネ２０１０で書いたと思いますが、サテリテで日本人デザイナーの作品をみて感じるのは、対象マーケットの曖昧さです。「イタリアあるいはヨーロッパで売れればいいけど、米国だっていい。まあ、少なくても日本のメーカーが興味もってくれないかなぁ」という欲があってもいいのですが、それがそのまま視線の拡張を招いている。「なんとなくの世界」「なんとなくのグローバル」に流されがちで、ＴＶ番組でみたよく分からぬカナダの家庭の風景、フランスの雑誌でみたスペインの別荘、自分で旅行したトスカーナ・・・で出来上がったヴァーチャルなグローバルイメージに自分のデザインを売り込もうとしているようにぼくの目に映ります。それに対して、ヨーロッパのデザイナーは、多くはヨーロッパを当然のように市場としています。それも、イタリア人であれば、実際に旅行したスイス、ドイツ、フランスあたりの日常生活経験をベースにコンセプトを考えているのがかなり明確です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/08/2709344333_54c9eeebfc.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3584" title="p1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/08/2709344333_54c9eeebfc-300x199.jpg" alt="" width="300" height="199" /></a></p>
<p>これは、世界各国の料理が外食レベルではなく、家庭料理として浸透している稀有の国である日本の文化的伝統をあらわしているともいえます。が、世界をマーケットにしたとき、あまり有効に働かない側面もあるというわけです。<strong>相手が曖昧だと考えるものも曖昧になるのです</strong>。「自分の相手は、ここだ！」と区切ったほうがコンセプトはメリハリのきいたものになります。その究極が、<strong>「俺の欲しいモノを作るんだ」という態度です。それはそれでちっとも悪くありません。それが問題になるのは、ある規模の企業が世界各地である規模の金をこれで動かそうという際、何らかの説得材料が必要になるときです</strong>。「そのマーケットのことは何も知りませんでした」と売れない敗因を語るわけにはいかず、だいたい、法規や言葉はいざしらず、習慣や趣向がまったく違って売れない市場をどこかと最低限でもおさえようとしないのは無鉄砲もいいところです。結局のところ、売れないとしかたない・・・。</p>
<p>だから、最初のコンセプトがどんなに局地的であってもいいーいや、局地的ほど面白いものが出る可能性があるーのですが、それをビジネスとして展開するときには、よりマーケットが具体的に見えていたほうがいい。その点で、ヨーロッパのデザイナーの方がギャップを持ちにくい事情があり、日本のデザイナーは不可避的にギャップを持たざるを得ない事情があるといえるでしょう。したがって、努めて市場の大きさを自覚的に把握する必要が日本企業にはあります。にもかかわらず、そこは米系企業の何歩か後ろをいっていることが多いのです。つまり、米系企業はグローバルとはどの程度の広さを指すかをより実感している。<strong>１０ヶ国語の言語範囲なのか？４０ヶ国語の言語範囲なのか？これらの違いをより知っている。だから、世界市場に販売するときのグローバルガイドラインーあるいはローカリゼーションガイドラインーを用意することが当たり前にできるのでしょう</strong>。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/08/7078BlkSummer2web.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3585" title="p2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/08/7078BlkSummer2web-199x300.jpg" alt="" width="199" height="300" /></a></p>
<p>今週の月曜日、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3541">ＪＩＤＡ事務局で「ローカリゼーションの基礎を学ぶ」という勉強会を開催</a>しました。定員を大幅に超える方たちが集まりました。翻訳やソフトウェアを対象にローカライズのプロセスをライオンブジッリ社の古河さんと永島さんに説明してもらいました。増加する機械翻訳やクラウドを使った翻訳メモリーなどテクノロジーの行方も含め、ぼく自身、大変興味深い話題が豊富でしたが、<strong>一番のポイントは、グローバルを自分で規定し、そこにおけるガイドラインを構築するという発想の重要性だと思いました</strong>。これができてこそ、プラットフォーム構築に取り掛かれます。<strong><span style="color: #ff0000;">何よりもまず、自分が世界の広さを決める・・・この覚悟です</span></strong>。これは前回、書いたi.schoolのＷＳにも通じることです。</p>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（３２）　モッツァレッラチェア　</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3387</link>
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		<pubDate>Tue, 25 May 2010 13:42:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[デザインはリアルに存在するカタチを模すことがあり、それが人の顔や姿であったり、あるいは動物のカタチをとることがあります。何回か書いたように雲をモチーフとすることにみるように、自然現象からイメージを引っ張ってくることもある [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/414-S4-300x224.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-3394" title="414-S4-300x224" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/414-S4-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>デザインはリアルに存在するカタチを模すことがあり、それが人の顔や姿であったり、あるいは動物のカタチをとることがあります。何回か書いたように雲をモチーフとすることにみるように、自然現象からイメージを引っ張ってくることもあるわけです。ところで息子の通った幼稚園では食べ物、例えば各種のタイプのパスタそのもので遊んだり、それらを作った工作が頻繁にあり、「食べ物を粗末にしてはいけない」と育ったぼくには、かなり刺激的であり挑戦的でした。ジュージャロのデザインしたパスタは、クルマのウィンドシールドの形状からヒントを得ていましたから、食品の擬似化とその反対（食品以外のイメージを食品に応用する）は一般にアリといえるでしょう。ただ、パスタを食べながらウィンドシールドを思い浮かべるのが食欲を増すかどうかという別の問題はあります。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/ms2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3389" title="ms2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/ms2-224x300.jpg" alt="" width="224" height="300" /></a></p>
<p>books（橋本潤さんと山本達雄さんの二人の苗字に共通してある「本」の複数形）の山本達雄さんがモッツァレッラチーズをモチーフとした作品をサテリテで発表したことは、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3131">サローネ開幕初日に書きました</a>。このチェア、確かに美味しそうです。肌触りもよさそうで思わず触ってみたい。しかし、正確に表現するなら、このチェアの形状を目にした時、タイトルも聞かずに真っ先にモッツァレッラチーズを思い浮かべるかどうかは分かりません。このいすは、どことなく愛嬌があり、どこに座っていいのか一瞬迷わせ、その後に腰を下ろしてポッコリと座面が沈むことを確認したときに安心感が生まれる・・・という特徴があります。そういう意味で、この作品はモッツァレッラチーズの形状を模したというだけでなく、モッツァレッラチーズを目にしてから口にするまでのプロセスを擬似的に体験しているのでは？とも思います。いすの名前を最後に聞いてより感動する。こういうタイプかもしれません。さらにこのフォルムについて言えば、食べ物とはリンクしずらいのですが、トイレのデザイントレンドと近いかなとも感じました。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/ms4.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3390" title="ms4" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/ms4-225x300.jpg" alt="" width="225" height="300" /></a></p>
<p>すなわち安心感を呼ぶ誰にでも愛されるデザインということでしょう。特に子供や女性の受けは抜群のようです。山本さんは昨年のサテリテで鹿を模したチェアを出し、橋本潤さんの「くものいす」が男性に評価が高く、山本さんの作品は女性に人気でした。比喩的表現は、女性のツボにはまるのでしょうか。男性は抽象的であることを評価するのでしょうか。いや、抽象的であるから評価するというより、抽象的であることに安心感をもつのではないかとも思います。どうでしょう。モッツァレッラチェアに話を戻すと、ぼくはやや小ぶりかなとの印象をもちました。山本さんももう少しサイズを大きくしたかったようですが、調達可能なストラクチャーに合わせるしかなかったようです。</p>
<p><a href="../wp-content/uploads/2010/05/ms3.jpg"><img class="aligncenter" title="ms3" src="../wp-content/uploads/2010/05/ms3-224x300.jpg" alt="" width="224" height="300" /></a></p>
<p>写真のおまけ。左側の女性はドリルデザインの安西（やすにし）葉子さん。さて彼女とぼくの間で撃沈された人は誰でしょう？</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/ms1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3391" title="ms1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/ms1-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
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		<title>佐藤淑子『イギリスのいい子　日本のいい子』を読む</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3342</link>
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		<pubDate>Mon, 17 May 2010 21:28:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>
		<category><![CDATA[子育て]]></category>
		<category><![CDATA[本を読む]]></category>

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		<description><![CDATA[息子が２歳の頃、夏のバカンスを南仏ニースで過ごした時のこと。ある晩、旧市街のピッツェリアにイタリア人の友人親子と入りました。外のテーブルにすわり、まずは冷たいビールで乾杯。しかし、ピッツァがテーブルに届く前に息子がぐずり [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>息子が２歳の頃、夏のバカンスを南仏ニースで過ごした時のこと。ある晩、旧市街のピッツェリアにイタリア人の友人親子と入りました。外のテーブルにすわり、まずは冷たいビールで乾杯。しかし、ピッツァがテーブルに届く前に息子がぐずり始めました。フランスもイタリアと同様、小さな子供を連れていてもあまり居心地が悪い国ではないと思うのですが、そのときは、周囲から「煩いなぁ」という視線を感じた奥さんが、息子を連れて近くの広場に散歩に出かけました。そして、ぼくがピッツァを食べた頃を見計らって戻ってきた奥さん。彼女がピッツァを食べている間に、今度はぼくが息子を連れ出す・・・という光景が繰り広げられた時、友人は「<strong>ヒロは冷たいビールを飲み、熱いピッツァを食べ、ミナコには醒めたピッツァを食べさせるのか。順序が逆じゃないのか！</strong>」と辛口の言葉がぼくを刺します。ああ、言われてしまった。子供を前にしても女性を優先するよう体が動かなかった新米パパは猛省したものです。その反省が今も生きているかどうかも、また怪しい・・・。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/pizza.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3349" title="n6" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/pizza-300x263.jpg" alt="" width="300" height="263" /></a></p>
<p>その翌年の夏は、オーストリアのインスブルックでアパートを借りました。三階建ての旧貴族邸を分割して宿屋として貸しているのですが、オーナー家族は一階に住んでいます。同じように小さな子供もいる彼らならと甘く見積もったのが大間違い。２週間の滞在中、「子供がバタバタしないよう注意してくれ！」と三度も勧告を受けました。ミラノでは比較的ちゃんとしたレストランでも、赤ん坊をベビーカーに乗せてあやしながら夕食をとれますから、イタリアの子供が出す騒しい音にも寛容さを期待してしまったのです。誰が出そうが、騒音は騒音。オーナーの奥さんにビシッと叱られました。それで<strong>ドイツ的というかオーストリア的な厳しさはバカンスには不向きと、軟弱な（？）われわれ夫婦はその後、イタリアで夏休みを過ごすことに決めました</strong>。それぞれの文化があり、どれが良い悪いではなく、自分たちが納得できるゆったりとした時を過ごせる場所を選ぶことにしたのです・・・・が、自分たちの子供への振る舞いに他人の目が光っていることは変わりありません。このように子供を連れていくつかの国を旅すると、大人だけの旅では見えてこない文化差が見えてきます。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/scuola-elementare-alunni-generica_173799.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3347" title="n5" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/scuola-elementare-alunni-generica_173799-300x200.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a></p>
<p>「日本人は自己主張が乏しく自己抑制が強い。そして米国人はその逆」という言い方がよくされます。そして他方、「これはステレオタイプな見方である」という逆襲があります。そのとき、「いや、英国人は自己主張もするけど、自己抑制もしっかりしている」と語るのが、本書の佐藤淑子です。小学校の頃に駐在員の父親に連れられてオランダで数年過ごし、修士は米国、博士は英国でとった著者は、米国と英国のある大きな違いを指摘したうえで、日英の幼児教育を比較していきます。自己抑制が強すぎるがゆえに的確な自己主張に欠け、それが「切れる」という現象の要因になっているのではないかと日本の状況を分析する著者は、英国万歳ではないが、自己主張と自己抑制の両方を重視する英国教育をモデルとして参考にする根拠をデータも添えながら書き出していきます。</p>
<p>イタリアに長年生活している身からすると、英国の子育てのエピソードに感心することは少なく、「そんなに大人と子供の時間と空間を分けることに熱心で、ちょっと肩が凝らないの？」と質問したくもなります。およそ青少年の問題ー飲酒、ドラッグ、性ーの欧州先進国である英国の子育ての例をとりあげる違和感がぼくにはあるのですが、規範への服従があまりに強く、集団所属意識が強すぎる日本の読者に示唆を教示するには、こういう方法でもいいのかなと思います。その証拠に、本書は８年間に１１版で、アマゾンも実に肯定的なレビューが沢山並んでいます。これらを読んで、じゃあぼくもブログにもっと子育てネタを書いたほうが文化テーマも分かりやすいのかなと考えたほどですー実際、このネタを増やそうかと思っています。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/scuola-studenti_584.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3346" title="n3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/scuola-studenti_584-300x256.jpg" alt="" width="300" height="256" /></a></p>
<p>最後に、本書のテーマである自己主張と自己抑制のバランスに戻すと、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3256">ミラノサローネ２０１０（２７）で書いた「静かなニッポン人」</a>と重なってきます。以下です。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">どこかに動きを感じる作品の数々を眺めます。今回、日本のデザイナーの作品に接しながら、「どうして、こうも静かなんだろう」とその理由を考えました。今 週、ライターの方と話していたときに言われたのは「日本人は人とぶつかることを避けますからね」ということでした。そこで、<strong>説得的であることは平和を目指す態度ではない、暴力的要素を含むという認識を正すことが必要なのではないかということを話したと月曜日に書いた</strong>のです。同時に、<strong>トリエンナーレのボビザでみた作品の数々は完成度は低くても、説得的であることを厭わない風に見えるとも記しました</strong>。つまり、日本人の作品が静かであるのは説得を避ける態度に理由を見つけられるのではないか、とも考えたわけです。</span></p></blockquote>
<p>説得的であることは規範の逸脱につながると考えやすいのではないか、ということです。ここに至り、<span style="color: #ff0000;">日本のデザイナーの作品の静けさは自己抑制と密接であるだけでなく、日本で当然とされるレベルの自己抑制に馴れていない人たちにとって、この静けさは「不足感」「欠如感」を導き出すかもしれない</span>と思わずにはいられません。</p>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（３１）　ハンドメイド・イン・イタリー</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3333</link>
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		<pubDate>Sun, 16 May 2010 20:48:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[ヨーロッパ文化部ノートに「ローカリゼーションワールドを考える」というエントリーを書きました。６月７－９日にベルリンで開催されるローカリゼーションワールドをサイトでチェックした感想を記したのですが、これを見て分かるのは、ロ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://european-culture-note.blogspot.com/2010/05/blog-post.html">ヨーロッパ文化部ノートに「ローカリゼーションワールドを考える」というエントリー</a>を書きました。６月７－９日にベルリンで開催されるローカリゼーションワールドをサイトでチェックした感想を記したのですが、これを見て分かるのは、ローカリゼーションインダストリーとは、現在大きく二つに分かれ、一つは翻訳です。仕様書やマニュアルを対象市場言語について　１）ローカルユーザーが瞬時に分かるように質の高い翻訳を提供　２）この作業を効率よく正確に行う　ためのサービスです。同じ内容の繰り返しをどうデータ化するかもビジネスのネタになります。二つ目はＩＴ業界、特にソフトウェアのローカリゼーションサービスです。基本的には翻訳と趣旨は同じですが、インタラクティブ画面のデザインのように視覚情報ー文字も視覚情報ですがーのローカライズもテーマになります。この翻訳とソフトウェアのローカライズから派生した形として、検索エンジンのＳＥＯ対策として、「この国のこの市場で受ける言葉は何か？」を国ごとに提供するというサービスもあります。ローカリゼーションインダストリーとはかなり限定された範囲にとどまっており、料理、食品、日用品などの世界でのローカリゼーションはインハウスのノウハウになっているのか、これは考えさせられる状況です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/h1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3336" title="h1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/h1-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>さて、この「ミラノサローネ２０１０」は、特に昨年１２月から今年３月にかけ、ヨーロッパを市場として考えサローネに参加する人たちを想定して書きました。そのなかでローカリゼーションの意味と必要性を色々なアングルから語ったのですが、ローカリゼーションワールドのサイトを見ながら、「これは、ローカリゼーションの重要性について、もっともっと色々な人が語り考えないといけないな」と思いました。<strong>「グローバルに考え、ローカルに活動せよ」というせりふは世の中に溢れかえっています。しかし、その割りに「ローカルに活動せよ」の中身がよく吟味されていない。</strong>そういう印象をもちます。もちろん、それはグローバルに考えるとは、いったいどういうことを言うのか？という前提が不明確であるということもあります。地球規模といっても、それがビジネスの世界で本当に文字通りの地球規模であるかどうかはあまり問われていません。普通は、かなり恣意的な文脈で使われています。しかし、それが悪いことではなく、<strong>今話しているグローバルとはどういう範囲で使っているのかの前提を明確にすることが大事</strong>なのです。そしてローカルも同じです。そういう前提をはっきりさせないために、「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」も分かったような分からないようなキャッチフレーズに留まるわけです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/h2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3337" title="h2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/h2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/2895">「山下範久『ワインで考えるグローバリゼーション』を読む」で、不法滞在の外国人を雇っているイタリアにある工場で作られたブランドのバッグに対抗し、「われわれの工場は１００％イタリア人の従業員である」と謳っている会社があることを以下の流れで紹介した</a>ことがあります。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;"><strong>グローバルな現象が多くなればなるほど、もう一方で生産地域の強調が行われます</strong>。メイド・イン・EUではス ペイン産と同じにみられていやだというイタリアの生産者は、メイド・イン・イタリーという表示にこだわり、南イタリアと差別化したいトスカーナの会社は、 メイド・イン・トゥスカニーを謳い文句にしようとします。地域を狭めることによって、自己の存在を際出せていくのです。しかし、ここにも落とし穴があり、 土地だけでなく、作る人の国籍はどうなのか？という課題があります。</span></p></blockquote>
<p>この生産条件の列挙は、もう片方で販売ターゲット枠の明白化をも意味します。「こういう価値、ああいう価値をあなたは見逃しませんよね」と迫ってくるわけです。「見逃すのは賢い消費者ではない証拠だ！」という反語表現を含んだアグレッシブさが、ここにはあります。押しつけがましいといえばそうなんですが、その迫力に押され気味になるのが悪くないと思える。そういう微妙なポイントに立っているといえます。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/h3.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3338" title="h3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/h3-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>メイド・イン・カッシーナという表記で限定化を図るアプローチがありますが、ハンドメイド・イン・イタリーと生産方法をアピールするのも一つです。<strong>ローカリゼーションは、基本的に市場への適合化ですが、情報発信の方法から考えるべき事柄ではないかとも思います。いわば、態度というか佇まいの次元から問われるテーマかもしれません</strong>。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（３０）　サローネにフィットするサイズとは？</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3314</link>
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		<pubDate>Sun, 09 May 2010 21:16:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[ネット上で既成マスメディアに対する批判が凄い勢いです。が、ネットを一歩離れると、「そんな風、どこに吹いているの？」という感じ。それがまたネット信奉者には頭がくるようです。ネットこそが時代を作っているのだという意識が強いか [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ネット上で既成マスメディアに対する批判が凄い勢いです。が、ネットを一歩離れると、「そんな風、どこに吹いているの？」という感じ。それがまたネット信奉者には頭がくるようです。ネットこそが時代を作っているのだという意識が強いからです。しかし、イソップの北風と太陽のように両方あってナンボの世界ですから、どちらが正解で世の中が成立することはありえないのです。全ての情報の編集権を人に委ねるか、自分で全ての編集権をもつかという選択は現実的にありえず、およそ<strong>全ての一次情報にタッチできる人間も機関も存在しません</strong>。つまり、すべてに対して現実感をもてるというのは幻想でしかなく、あることには現実感をもてるが、その他のことには「現実感らしい」ものがあり、それ以外は「現実感がまったくもてない」というレイヤーで世界は成立しています。だからこそ、「リアリティがあるね」という表現が優位性をもつのです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3315" title="mc1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc1-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3198">ミラノサローネ２０１０（２３）において、自動車メーカーの予算は家具・雑貨メーカーと比較して大きすぎるがゆえに、普段はカーディーラーのショールームで普通に見るクルマも、サローネ期間中にクルマの展示をみると違和感をもつことがあると書きました。そのときはシトロエンＤＳ３を槍玉にあげました</a>。上段のフレーズを使えば、リアリティとの乖離が問題となるわけです。かといってクルマの全てが「はずれ」というわけではなく、ＦＩＡＴ５００はかなり馴染んだ空気を作っています。これはサイズの問題でしょうか？シトロエンＤＳ３との関係でいえば、これはサイズではないでしょう。けれどサイズがまったく関係ないとも言えません。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc3.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3316" title="mc3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc3-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>何故サイズが関係ないとも言えないかと言えば、基本的に雑貨と家具の延長線上のサイズで無理がないことが重要だからです。いくら大きなサイズのソファを見た後であろうと、その次にビッグサイズのＳＵＶがくれば、「えっ！」と驚きます。あるサイズやある世界観で感性が研ぎ澄まされてきた時に、あまりに距離感のあるモノをみると、意外感が先立ってしまいます。意外感が強烈な印象を残すこともありますが、殊、雑貨・家具ラインとの協調性でいえばクルマは分がどうしても悪いです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3317" title="mc2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>サイズにプラスして見慣れたデザインかどうかも協調性を左右するでしょう。ＦＩＡＴ５００はオリジナルの復刻版であることが有利に働いています。目に馴れたモノは、若干サイズで延長線上を踏まなくても、それを許す目が受け手にはあります。だからこそ、これらの配慮をあえて全て無視した「個体」もアピール力があります。しかし、この場合、それは一つで十分です。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc4.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3318" title="mc4" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/mc4-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>リアリティという評価軸をサイズだけに絞って観察するのも面白いかもしれません。</p>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（２９）　９１１から何年経ったんだ？</title>
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		<pubDate>Mon, 03 May 2010 21:57:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[この春、小学生の息子が１週間の林間学校に行っているとき、同級生の母親が亡くなりました。同級生の女の子が沈み込んだその晩、クラスの何人かが「彼女を笑わせて明るくしようよ」と提案し、皆が一斉に同意したそうです。半年前に他のク [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/La_vita_e_bellamovie_wallpaper_pictures_photo_pics_poster140210010114la_vita_e_bella_5.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3307" title="L1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/La_vita_e_bellamovie_wallpaper_pictures_photo_pics_poster140210010114la_vita_e_bella_5-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>この春、小学生の息子が１週間の林間学校に行っているとき、同級生の母親が亡くなりました。同級生の女の子が沈み込んだその晩、クラスの何人かが「彼女を笑わせて明るくしようよ」と提案し、皆が一斉に同意したそうです。半年前に他のクラスの子が難病であの世に逝ってしまった経験をもつ彼らは、死が魂が単に雲の上に移動することではないことを分かっています。「とにかく、今夜は笑って過ごそうよ」と決めた彼らをみて、３年間担任を続けてきた先生は生徒たちの成長をとても眩しく感じました。その翌日、彼らは他の先生に連れられミラノ市内に戻るクラスメートの背中を眺めます・・・・。</p>
<p>前述した難病で唯一の娘を喪失した両親は、葬儀から半年ほどして二頭のポニーを学校に寄付しました。この学校はある有名な教育学者がはじめたいわゆる体験教育の実践校でありー開校した100年前には前衛的な教育方法だったはずー、市内にありながら、自然環境との積極的な関係を重視しています。広い校内には小さな牧場や畑があり、生徒はそこで科学などを学ぶわけです。そういう学校だから、二頭のポニーなのです。子供たちは亡くなった級友を偲び、親は娘が今も仲間に囲まれている・・・と思う。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/t979681a.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3308" title="l2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/t979681a-300x201.jpg" alt="" width="300" height="201" /></a></p>
<p>こういうエピソードを耳にし目にするにつけ、常に前向きであるとはどういうことなのかを考えます。親を亡くして沈んでいる友人と共に泣く。しかし、その後にすぐ気分を一転させようとする。しかも小学生。精神的にハイであることを良しとし、そのために必死になる。悲しむ友人をそっとしておくだけでなく、どうにかして前進の道を探る・・・・こういうことを先生は「成長した」と言う。停止は退歩であり、何かアクションすることで、次のモーメントをポジティブに作っていく気力の強さを思います。ロベルト・ベニーニ主演の映画『La vita e&#8217; bella』ー第二次大戦時、息子に対してはユダヤ迫害の現実を徹底的に笑いで隠し通したーは、世界の風景を自分で作っていく可能性を追及したともいえますが、友人の心の痛みを笑いで包み込んでやろうという小学生の発想はまんざら主題として無縁ではないとも感じます。</p>
<p>ぼくは<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3242">「ミラノサローネ２０１０（２６）　クラウドを巡る散策」で、クラウドをモチーフにしたデザインが目につく傾向を（１９）で示唆した内容を一歩進めてみました</a>。そこで<strong>「ものすごく大きな枠組みでボーダーを超えて考えることを希求する気持ちが雲状の表現にはあるかもしれないと思いつきます</strong>」と書きました。ここで次に言えそうなのは、<strong>雲状の表現とポップでカラフルな表現には共通する現状打破志向が潜んでいないか？</strong>ということです。<strong>曖昧性の肯定であり、曖昧性が纏う状況への希望</strong>ではないか、と。ここにはメンタルなタフさに裏打ちされた「とにかく、前に進んでみようじゃないか」という意思がある・・・ように思えてしかたがないのです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/la20vita20e20bella203.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3309" title="l3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/05/la20vita20e20bella203-300x274.jpg" alt="" width="300" height="274" /></a></p>
<p>それはなぜか？　<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3269">ピアノの演奏でミスしても、「それで人生が変わるの？」と食いさがる６歳の子</a>を傍にみて、親が亡くなって悲しい顔をした友人を笑って力づけようという仲間の存在を耳にして、そのタフさの存在は認めざるをえませんーそして、このタフさは世界の多くの地域で共通項としてあるー。そして、この２００１年の９１１以来どうにも淀んだ空気が一掃されずに右往左往する世界のなかにあってーそろそろ１０年経過も目の前に迫ってきて、われわれは新しい世界の予感をもっているのか？ー、その精神状況においては、この数年間あった「今、ミニマルな表現なんてやってられない」という空気が厳然とー焦りとともにー強く流れ出しているのを感じます。この気分の共有をどこまでできるかは、かなり大事なテーマなはずですが、２０１１年９１１まで予感への問いかけはさらに強まっていく一方でしょう。</p>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（２８） 世界観の把握と表現（４月２５日）</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Apr 2010 21:09:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[今日、ピアノの発表会がありました。奥さんがイタリア人の子供たちにピアノを教えていて、年度終了前の発表会をスフォルツェスコ城近くの音楽学校の部屋を借りて開催しました。そこで毎年感じることがあります。決して技術的に上手いとは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/sst3.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3273" title="sst3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/sst3-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>今日、ピアノの発表会がありました。奥さんがイタリア人の子供たちにピアノを教えていて、年度終了前の発表会をスフォルツェスコ城近くの音楽学校の部屋を借りて開催しました。そこで毎年感じることがあります。<strong>決して技術的に上手いとはいえなくても、「この曲って、こんな感じに弾くと、それらしくなるよね」という印象を受ける子供たちが多い</strong>ことです。指が滑らかに鍵盤の上を動かなくても、「それらしい」感じには聴こえる。これはどういうことでしょうか？ここでよく書いている、「世界観の把握」あるいは「世界観の構築」という問題にどこかで関わってくるのでしょうか？子供たちのレベルで、こういうことを語るのは大袈裟でしょうか？</p>
<p>一軒家ではなく何階かのビルにいると、外の天気にひどく疎くなります。雨の音も風の音も聞こえないし、窓の外を見ただけでは、かなりの量の雨ではないと視認しずらい。あるいは窓ガラスに雨が吹きつけていないと分からない。人の生活が自然現象とは無関係に進んでいる、あるいは進むことができると思い込んでしまうのもいたし方がないでしょう。そこで観葉植物で擬似自然共生空間を作ったりするわけですが、どう転んでも、これでは自然との一体感など得られません。だから、自然との一体感は意図的に機会を作らないとできないという状況にあります。また、精神的安定は往々にして自然と接することで得られるので、その意味でも自然との関係をどう維持するかは、極めて重要なことです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/sst1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3271" title="sst1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/sst1-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>さて、上記はサローネのサテリテで展示されていた作品に言及するためです。慶應大学のSurroundings Swellの作品、フリミフラズミを見て説明ブースで聞き、概要は理解できて面白いと思っても、それ以上には咀嚼しきれないままでした。コンセプトの説明は、<a href="http://xtel.sfc.keio.ac.jp/jp/2009/08/2009.html">「ユビキタスコンテンツショーケース２００９」</a>から借用します。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">フリミフラズミは、雨の兆しを照明の灯りと音響効果とで直感的に報せる間接照明型のプロダクトです。更新される気象予測をウェブから取得し、その予測変化 に呼応して、照明と音響の効果が変化します。フリミフラズミのコンセプトは、雨漏りの情景として設計してあり、雨の兆しを感覚的に報せるために、降水量予測の情報を取得し、その量や降り続く時間の変化によって、灯りと音が反応します。</span></p>
<p><span style="color: #000080;">降水量の違いで、雨粒の落ちるタイミングが変わる雨漏りの景色を連想する ような灯りと音の演出によって、雨の強さや降り続く長さを感覚的に報せます。さらに、複数あるフリミフラズミの効果が連携する仕組みを持たせることで、そ れぞれの音響効果の重なりが静かな環境音楽のように奏でる工夫をしてあります。フリミフラズミは、突然の雨にずぶ濡れることを防ぐだけでなく、気が沈みが ちな雨の日を楽しく演出したり、雨の静かな情緒を演出することも意図しています。</span></p></blockquote>
<p>ぼくが咀嚼しきれないのは、自分の想像力の欠如かなと思っていたのですが、<a href="http://vimeo.com/9552298">プレゼンのビデオを今日見てみて、「この動画がブースで見れるべきだったのでは？」と考え始めました</a>。ブースには、ビデオの中にあるスピーカー＋照明が置いてあるだけで、もちろんその周りは他のブースであり自然現象は建物の外に出ないと分かりません。そこにコンセプトの一部が物理的にあるより、システム全体が鳥瞰できる展示をしたほうが分かりやすかったのではと考えるのですが、<strong>このビデオで表現している情緒性から推測するに、ブースでは情緒性を前面に出しシステム説明はブラックボックス化するよう図ったのかとも想像</strong>します。これはずいぶんと勿体の無いことをしたのではないかと思います。できれば、ロジックを最初に説明したうえで、情緒性の演出をしたほうが、あのくらいの広さでは適当ではなかったのか？と思案するのですが、見学者のフィードバックはどうだったのでしょうか・・・。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/sst2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3272" title="sst2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/sst2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>いずれにせよ、<strong>少なくてもヨーロッパ市場を相手にした時は、世界観を理解させることを第一優先にするのが妥当</strong>であろうとぼくは考えています。子供たちでさえ、世界観などという言葉とは無縁でありながら、明らかにそうした総括的なコンセプトの掴み方をディテールより早く習得していると思えることを前提にすると、コンセプトの伝え方をサテリテでは自ずと変えていく必要があるのではないかと思うのです。フリミフラズミ自身は可能性の高い考え方を示しているコンセプトなので、このプロジェクトを実行した皆さん（上の写真）の今後に期待しましょう。</p>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（２７）　静かなニッポン人　（４月２３日）</title>
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		<pubDate>Fri, 23 Apr 2010 12:43:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[３月初め、東工大の世界文明センター主催のシンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」２日目、「日本的未成熟をめぐって」で、映画監督・黒沢清は自分の作品について海外でどう批評されるかを語っていました。それに関し、ぼくは以 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>３月初め、東工大の世界文明センター主催のシンポジウム「クール・ジャパノロジーの可能性」２日目、「日本的未成熟をめぐって」で、映画監督・黒沢清は自分の作品について海外でどう批評されるかを語っていました。それに関し、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3006">ぼくは以下のように書きました</a>。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">黒沢清が自分の映像を「スタイリッシュで静か」と受け止められることを発言の基点においていましたが、学生相手にベーシックな話をしたとすればそれはそれ でよいのですが、いずれにせよ、そうした「見られ方」をすること、あるいは自分自身でももう一つの視点にたつと「そう見えること」を当たり前の認識をもつ ことは基礎的な素養でしょう。</span></p></blockquote>
<p>ここでぼくが言いたかったことは、黒沢清の映像が「スタイリッシュ」「静か」と評されることを、まだあまり経験のない学生たちに「ぼくの作品はこう見られるんだよ」と教えているのなら結構。しかし、<strong>ビジネスをしている人達が、こういう話で感心していてはいけないということです。こう見られることを常識として知っていなければいけない</strong>のです。</p>
<p>今年、ファブリカ・デル・ヴァポーレではジョヴァンニ・レヴァンティ（Giovanni Levanti)の作品展を開催していました。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/1529">昨年のパオロ・ウリアンに引き続き</a>、巨匠と呼ばれる年齢ではないが２０年以上の実績をもつデザイナーの作品を陳列しています。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/gl3.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3257" title="gl3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/gl3-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>「そういえば、こういう作品を１０年近く前にサローネで見ていたな」と思い出します。Campeggiがマジストレッティの作品で印象に残るスタンドを作っていた頃、このレヴァンティは同じ時期か、それより少し後に上のような作品を発表していたのでした。「リラックスできる空間」が９０年代後半頃からスポットを浴び、若い層に寿司やマッサージあるいは温泉が普及しはじめたのは、この時期だったのではないかと頭の中の記憶を探ります。PCを膝の上にのせてネットを使うほどにはまだ無線が定着していなかったけれど、ケータイでだべることは可能になっていた・・・・そうか、<strong>リラックスとITは同時進行で普及している</strong>。いずれにせよ、リラックスには静けさを伴うことも多いですが、遊びのある高揚感は必ずしも静けさとは両立しません。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/gl1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3258" title="gl1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/gl1-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>どこかに動きを感じる作品の数々を眺めます。今回、日本のデザイナーの作品に接しながら、「どうして、こうも静かなんだろう」とその理由を考えました。今週、ライターの方と話していたときに言われたのは「日本人は人とぶつかることを避けますからね」ということでした。そこで、<strong><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3220">説得的であることは平和を目指す態度ではない、暴力的要素を含むという認識を正すことが必要なのではないかということを話したと月曜日に書いた</a></strong>のです。同時に、<strong><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3220">トリエンナーレのボビザでみた作品の数々は完成度は低くても、説得的であることを厭わない風に見えるとも記しました</a></strong>。つまり、日本人の作品が静かであるのは説得を避ける態度に理由を見つけられるのではないか、とも考えたわけです。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/gl2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3261" title="gl2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/gl2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>やはり今週、日本の広告業の方とこの話をしました。彼は「<strong>平和であるには、相手がどの点がOKでどの点がNGかを相互認識する必要があり、納得という状態が重要だ。それには対話が大切</strong>」と語ります。ぼくは、「<strong>あることに納得するのは、その全体像なり価値体系が分かるから。ある人の性格が分かることによって、その人の行為をエゴとは思わなかったりする。したがって、その全体を知るために対話が大事なんだと思う</strong>」と話します。対話がキーであることはお互い一致しています。こうして考えてみると、<span style="color: #ff0000;">日本人の作品が静かなのは、対話（あるいはコミュニケーション）を求める態度（意思）の弱さの反映なのだろうか</span>・・・ということになります。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（２６）　クラウドを巡る散策　（４月２１日）</title>
		<link>http://milano.metrocs.jp/archives/3242</link>
		<comments>http://milano.metrocs.jp/archives/3242#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 21 Apr 2010 23:20:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[４月１４日にサローネを巡りはじめ考えたのは、意図的に大きなサイズと雲状の表現です。こういう表現を少なくないデザイナーが採用するバックグランドには何があるのか？が気になったのです。以下は、ミラノサローネ２０１０（１９）「ク [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/28126_fuoco.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3244" title="28126_fuoco" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/28126_fuoco-300x190.jpg" alt="" width="300" height="190" /></a></p>
<p>４月１４日にサローネを巡りはじめ考えたのは、意図的に大きなサイズと雲状の表現です。こういう表現を少なくないデザイナーが採用するバックグランドには何があるのか？が気になったのです。以下は、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3131">ミラノサローネ２０１０（１９）「クラウドを感じるとき」</a>のいわば書き出しです。</p>
<blockquote><p><span style="color: #0000ff;"><strong>意図的にサイズを大きくすることにどういう意味があるだろうか</strong>・・・ということを上の写真のスタンドを眺めながら考えました。何年か雲状の表現が目につきますが、フワフワした気持ちの良いイメージ以上の何かを象徴するものとして考えたことはありません。が、上の大きな照明を見ながら、フッと「<strong>いや、雲がもつ収縮性や膨張性にポイントはないだろうか。雲が異常に大きく低く垂れ込んでも、その大きさを受容する土壌変化を物語っているのではないか・・・・</strong>」と思い始めました。</span></p></blockquote>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/415-bb1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3243" title="415-bb1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/415-bb1-300x225.jpg" alt="" width="300" height="225" /></a></p>
<p>サイズの大きさでいえば、ある抑圧的な空気に対する反動という見方ができるでしょう。単色のミニマリズムの時代が去り、カラフルで大げさな素振りが歓迎されるというわけです。上の写真のフロアランプもやや大ぶりです。そして<strong>雲状については「オーガニックではない自由な動き」</strong>という括りで考えていました。オーガニックなカタチとはこの場合、細胞で想像されるカタチを指しています。下記は雲のようにも見えますが、デザイナー本人に確認すると幾何学模様が発想の原点にあるといいます。「ここに雲の発想はないのか？」と確認しましたが、答えはNOでした。確かに、雲がイメージする膨張性には欠けるかもしれません。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/torcl.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3245" title="torcl" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/torcl-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>市内のホテルのロビーに吊るした紙でできたオブジェも、雲にモチーフがあるようにも思えますが、そこに本人はいません。ぼくは気になってしかたがありません。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/419-ghm.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3247" title="419-ghm" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/419-ghm-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>吉岡徳仁のクリスタルの球体は雲ではありませんが、霧がかった空間に浮かぶ作品は、雲の合間にみる恒星ではないかと考えることができるのではないかとも思えてきます。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/ysw.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3248" title="ysw" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/ysw-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>このように雲の意味を考え続けてきた時に、大聖堂の横にある王宮で「FUOCO（火）」という展覧会を見ました。現在、アイスランドの噴火でヨーロッパは大混乱をきたしていますが、こういう破壊的な役割をする火もある一方、火は再生の象徴であったり、光を生み出すエレメントでもあります。あるいは情熱を表します。古代から今に至るまでの火の概念の西洋史を、モノ、絵画、映像などで説明していきます。<strong>火は多義的な存在です。このように西洋の歴史において多義的な存在が生活の中心にあるのに、西洋は二項対立的に考える伝統があるという言い回しだけが流布してきたのだよなぁと、ぼくは思います</strong>。目が曇るというのは、こういうことなんだ。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/tobig.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3249" title="tobig" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/tobig-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>上の照明器具メーカーの人は「この大きさは屋根なんだよ。その大きさに覆われることによる何となしに感じる安心ってあるでしょう」と語ります。曖昧性は日本だけの十八番でもないし、その曖昧性を包括するのが大きな照明に象徴されているのかなと想像していたぼくは、FUOCOの展覧会において、<strong>ものすごく大きな枠組みでボーダーを超えて考えることを希求する気持ちが雲状の表現にはあるかもしれないと思いつきます</strong>。そこで、まったく雲とは関係のないカタチですが、昨年のアートフェアでみた作品が頭のなかでリンクしてきます。<strong>アルファベットを象ったミラーが周囲の事象をそのまま映し出す。その名もBORDERS（境界線）</strong>。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/borders.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3250" title="borders" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/borders-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p><strong><a href="http://milano.metrocs.jp/archives/2854">「仮想化」「拡張性」というクラウドコンピューティングの特性</a>は、デザインやアートの世界と切り離されているようでいて、実は深層のところでは液体が流れているのではないかと思うほどに考えの傾向を共通化させている</strong>・・・と感じる一瞬です。</p>
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		<title>ミラノサローネ２０１０（２５）　インテルがバルセロナに勝った日（４月２０日）</title>
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		<pubDate>Tue, 20 Apr 2010 21:36:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>安西 洋之</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミラノサローネ2010]]></category>

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		<description><![CDATA[先週、サンバビラ広場の近くで「ハンブルグにチャンピオンリーグ決勝を見に行こう」というパネルを背負った集団に出会いました。下に「４月１７日、スフォルツェスコ城においで」と書いてあり、どういうイベントが１７日のあるのかなぁと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>先週、サンバビラ広場の近くで「ハンブルグにチャンピオンリーグ決勝を見に行こう」というパネルを背負った集団に出会いました。下に「４月１７日、スフォルツェスコ城においで」と書いてあり、どういうイベントが１７日のあるのかなぁと思ったのですが、気になったのは、一人のカメラを抱えた女性。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cl1.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3234" title="cl1" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cl1-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>「ちゃんときちんと並びなさいと言ったでしょう！！」と怖い声で叱りつけながら、一眼レフカメラを彼らの背中に向けます。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cam.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3235" title="cam" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cam-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>するとパネルが言われるようにだらだらと整列しなおします。チャンピオンリーグが何か寂しさを漂わせるような・・・パネルを背負った顔の数々をみると、「しかたがないなぁ」という顔をしています。スポンサーが、この名前の上の会社なのでしょう。スポンサーから仕事をもらったカメラマンはちゃんと撮影しないといけないし、アルバイトの男たちは指示に従わないといけない。なにかピリピリしたムードがあって、このスポンサーにぼくはよいイメージを持たなくなりそうですーまあ、本論に関係ないですが・・・。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cl2.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3236" title="cl2" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cl2-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>そして今日、サンシーロスタジアムではインテルとバルセロナの対戦。アイスランドの噴火で飛行機が飛ばなくて、バスでミラノに来たであろうスペイン人たちが大声で街を練り歩いていました。</p>
<p style="text-align: center;"><a href="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cl3.jpg"><img class="aligncenter size-medium wp-image-3237" title="cl3" src="http://milano.metrocs.jp/wp-content/uploads/2010/04/cl3-300x224.jpg" alt="" width="300" height="224" /></a></p>
<p>およそサッカーのサポーターたちの行儀はあまり良くないですが、スペイン人たちの行動を見ていると、英国人やドイツ人よりはましかなという印象をもちます。昼間からの酔っ払い率が低いように思えます。試合は３－１でインテルが勝ったので、今ごろスペイン人たちは管を巻いているかもしれません。あるいはイタリア人にからかわれて口論をしている最中かも。しかし、基本を言うならば、ヨーロッパクラブサッカーにおいて国籍は二の次です。クラブが第一です。バルセロナを好きなイタリア人もいるし、インテルを好きなスペイン人もいるという風に。そして、<strong>この週日に行われるチャンピオンリーグが「ヨーロッパを意識する日」</strong>ー週末は各国リーグに嵌るーなのですが、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/2584">「ユベントスを応援するドイツ人」というエントリーを昨年１２月１７日に書いています</a>。</p>
<blockquote><p><span style="color: #000080;">市場適合性についても、これはかなり前提条件によって左右されます。市場は場所に限定されるのか？という質問があります。もちろん、違います。世代という 時間軸も入ってきます。違った国のある世代のある階層の人達が示す特徴は、同じ国にいる異なる世代の異なる階層にある共通項より多いかもしれません。いわ ば、文化のカテゴリーわけの話になります。しかし、チャンピオンリーグで地元のバイエルミュンヘンを応援しないでユベントスを応援するドイツ人とイタリア 人の間に共通の傾向があっても、Ｗ杯ではドイツ人はドイツをイタリア人はイタリアのチームを応援するでしょう。これは、<strong>ある嗜好性は、次元の違う世界に入 ると通用しないことがある事例です。人はあることを全ての場合において受容するのではなく、ある限定条件のもので受容する</strong>わけです。</span></p></blockquote>
<p>文化の多元性と人の多面性について触れました。ぼくは街中のバルセロナファンを見ながら、<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3198">トリエンナーレでみたYoung Creative Poland を思い出し</a>、上記の自分で書いた文章について考えていました。イタリアにおいて、スカンジナビアのデザインに対して敬意を表しながらも、同じ地中海エリアのスペインのデザインを好む層は少なくありません。が、明らかにオリエンタルよりスカンジナビアに親近性を持ちます。Aを評価する時には、BやCとの相対的な地図があります。問題は一人の人間が、あるいはある市場が「全てを同じように好きだと言い、全てを高く評価する」と明言することはありえないので、必ずパイの奪い合い、または椅子取りゲームの構造になっています。つまり<strong>知るべきは、ある趣向や傾向のデザインのそれぞれの市場規模を良く把握し、どのセグメントでこのプレイヤーが勝負に出ているか？です</strong>。そのために文化的なコンテクストを理解する必要がでてきます。<a href="http://milano.metrocs.jp/archives/3047">ローカリゼーションマップ研究会の趣旨は、この内容に対応します</a>。</p>
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