
今日、日曜日の朝、国立の駅で改札口を出た瞬間、国立は約30年ぶりであることを思い出しました。不思議なもので、国立に出かける前までは、ただちょっと距離があるなあという感想だけだったのですが、街を眺めたと同時に急に過去の体験を遡ることになったのです。これが北海道のどこかであるとか、物理的距離がそれなりにある場所であると、「そうか、30年ぶりに出かけるんだ」という感慨を出発前にもつものですが、首都圏で可視圏内にあると距離と時間の経験を並行してもっている気になるーJRにのっていれば、車内にある路線図はいつも行っている気になるーようです。
しかし、そうすべてを網羅しているわけではない。だから実際に足を運ぶ前はぜんぜん懐かしくないのに、身体的な経験を得たときに、時間軸がわが身に押し寄せてくる・・・ということを思いました。もちろん、これはぼくが通常ミラノにいるからで、ミラノから遠くにみる日本、そのなかの小さな首都圏という鳥瞰図が普段のぼくのメンタルモデルであるがゆえに、最近頻繁に眺めるJR・地下鉄路線図がリアルな動きと接近していると感じる度合いが強いーあるいは誤解する度合いが強いーのでしょう。

さて、一橋大学の学生を中心とした勉強会に参加。その内容はTwitterの#hitu_st を見ると分かります。いくつかの点でぼくのメッセージが正確に伝わっていないと思う点もありますが、どういう点をメモ要と参加者が考えたのかが分かり、ぼくにとっても別の観点で使えるメモです。学生たちの理解とアナロジーへの展開がスピーディーで気持ちよく、結局、昼食時間も含めると5時間近い時を一緒に過ごしたことになりました。ぼくが発信するインプット/アウトプットに対する学生たちのフィードバックに接し、ぼく自身がぼくのプロジェクトーローカリゼーションマップの構想ー次のステップをぼくの頭のなかで描いていけ、予想以上に得るものがありました。
その昔、クルマが憧れの存在だったとき、どんなタイヤを履くとかサスペンションのチューニングをどうするかと熱く話し合った世代と、Twitterなどのメディアやソフトの使い勝手を話し合う今の世代に、根本的な差はないと思います。しかし、どんなタイヤを履いても太平洋はそのまま渡れませんが、Twitterではそのまま地球が一周できるという結果において、世界観の差が当然生じます。同じようなエネルギーをあることに注ぎ込んだとき、そのアウトプットと影響に格段の差があるわけですー往々にして「肥大」という表現も使われますー。ユニバーサルとローカルの意味と価値の認識がより重要になってきていることを、こうした学生たちの反応をみていて再認識することになりました。
サスペンションはドイツのアウトバーンではどうか?という話にしかならず、高速道路の各国比較に持ち込むことは稀だったのに対し、ITの世界ではそれより多い頻度で文化差を考える対象になる必然が生じるのです。これがぼくの人間工学+認知科学をポイントにおいた文化・ビジネス論につながってくるのですが、この観点において、タイヤで文化を語る人と、ITで文化を語る人、その両方がいかに同じグループに入っていけるか?です。どちらか片方ではなく、両方でないと意味がありません。今日会った学生たちが、そうした統合性を目指していって欲しいものです。それが、やや飛躍に聞こえるかもしれませんが、EVを新しいシステムのパラメーターとして見ることにもつながっていきます。
昨晩、年末に放映された日本のTV番組をみていて、少々考えさせられました。内容は日本のコンテンツを輸出するプロジェクトの紹介です。秋元康がプロデュースしているAKB48を「ネタ」に海外市場でビジネス化を図るというものです。「ネタ」としたのは、ビジネス化はAKB48そのものの紹介より劇場コンサート、TV、ネットをセットにし、このビジネスモデルを売るからです。現在、各国で似たTV番組ーオーディション番組やクイズ番組などーがそれぞれの国のタレントで放映されていますが、それはフォーマット販売の成果です。AKB48も、各国で各国の「可愛い女の子」が日本と同じシステムで競い合うことを提案しています。週刊ダイヤモンドWEBに番組の要旨が紹介されています。秋元の言葉があります。
「私の学生時代は欧米にあこがれていました。音楽もファッションも、そんなものを作りたいと思っていました。しかしAKB48は違います。アメリカ風に もフランス風でもないこれが日本だというもの。つまり納豆なのです。クリームチーズを入れて食べやすくしたりしません。海外のバイヤーにとって異質で、強 烈な経験だったことでしょう。だから逆にそれに惹かれたと思います」
コンセプト自身については、一切、ローカライズを考えない、いわばプレイステーション的発想です。プラットフォームを自分で構築する考え方です。フォーマット販売というコンセプトは良いと思うし、秋元がカンヌの見本市での商談から「簡単に外国人に納得されないのは、いいことだ。すぐOKと言ってもらえるものは、中身が薄い。NOの回答が続く内容にこそ、容易に真似されない濃さがある」といった主旨をインタビューで話しています。かなり意味深です。これは「考え方の輸出」ですから、説得には時間がかかります。だからこそ、エッセンスを守れるというのは傾聴に値する意見です。

ヨーロッパで東洋人と結婚をした男性たちが、割とよく語っていることに、「強すぎない女性がいい」という表現があります。どんなに強いと思われる東洋人でも、ヨーロッパの弱い印象を与える女性よりは「癒される」と言った意味合いが含まれています。AKB48のドキュメンタリーを見ながら、考えたのは、このことです。AKB48に熱い人達はネットで日本のアニメなどに情報を集めている人達ですが、そういう存在は確かに一定の層を占めています。その彼らが、社会のメインの価値を作る人ではないが、無視できるほど小さくもなく、且つそのレイヤーは増加することはあっても、減少することは当分なさそうです。
米国と違いヨーロッパのサブカルチャーは、もっとメインカルチャーと対峙しています。そして、それがメインカルチャーあるいは社会の風景のなかに視覚化されることは少ないです。今のところポケモンの飛行機がヨーロッパの空を飛ぶことはないでしょう。イタリアにかなり強烈なポップ調銀行(以下、インテリア)があります。

まったく銀行らしからぬインテリアですが、これがアニメのキャラクターで親しみを強調することはないのです。ですから、AKB48的な「可愛い女の子」を受け入れる社会のなかでのスペースの広さとポジションが常にチェックの対象になります。そこには、往々にして「幼児性」というイメージが想起されるからです。これは社会的に視覚化するのではなく、個人的に隠す方向にいく傾向にあります。
今朝、たまたま日経ビジネスオンラインを読んでいると、アウディのデザイナーであった和田智さんが書いている記事に目がとまりました。「「こども店長」に感じる違和感 ドイツのおやじはなぜカッコイイのか」というタイトルです。
仕事以外でも日本とドイツは真逆な国と感じることが多くあります。日本の男性に、「美人と可愛い女性、どちらがいい」と尋ねれば、9割方が可愛い女性と答えるのではないでしょうか。私の印象では、ドイツには美人はいても可愛い女性はほとんどいませんでした。
概して独立心が強く、男性に媚びたりしない。男性、女性にかかわらず個人としての意識がとても高い。そこで「女性に優しいデザインです」「女性のためのデザインです」なんて言ったらぶっ飛ばされるのではないかと思うほどです。したがってドイツにはかっこいい商品はあっても、可愛い商品はまずないのです。媚びたり、甘えたりたりする商品が許されないのです。
先に書いたように、「可愛い」の視覚化はメインカルチャーと馴染まないもので、またドイツのクルマ文化とも縁遠いものですが、ランチャのイプシロンクラスであれば、違った文化もあるでしょう。要するに趣味は多様だし、視覚化していないけれど心の底では抱えているフラストレーションがあることを今まで書いたわけです。そのフラストレーションへの対応としてAKB48がマッチするかどうか、これがテーマになると思うのです。外国語版のグーグルの画像検索で日本をインプットすると、ロリータ系の画像も多いですが、これをどう読むかです。
もう一点、和田さんの視点で気になったのは、この後に和田さんは日本では子供に媚びていると書いています。水谷修さんの『ドラッグ世代』のレビューで引用した部分をペーストしておきます。もう少し時間軸と社会全体への目配せが、和田さんの主張に加わるといいだろうと思いました。
これまで大人たちは、若者が努力して大人に近づこうとすることを当たり前の こととしてきた。これは、大人に権威があり、子供が大人になることを夢として持つことができた時代の話である。今は、通用しない。若者たちは、多くの大人 がただ自分たちより年をとっているつまらない存在であると感じている。私たち大人が若者に近づいていかなくてはならない。そして、大人も捨てたものではないことを若者に伝えなければならない。
昨日、スイスに出かけました。朝、7時10分のミラノ発の電車に乗り込み、チューリッヒに到着したのは12時半。予定では10時半でしたから2時間の遅れ。雪のためにダイヤが大幅に狂い、チューリッヒまで電車を三回も乗り換える羽目になったのです。次の電車を待つ間、しんしんと降る雪を眺めるしかなく、12月なのであたりまえなのですが、意外なところに潜んでいた冬の襲撃を受けたような気分です。下は車窓からの眺め。

ヨーロッパ文化部ノートにメモしたように、この日曜日、スイスでは国民投票が実施されました。イスラム教寺院の尖塔建設を禁じる法案にYESとするかNOとするか。57%がYESでした。これはイスラム教自身の問題でもないし、イスラム教信者の移民の行動の問題でもなく、「目に見える異文化」への心理的不安感を煽った結果ではないかと思えます。プロテスタントとカトリックの教会の形状の違いではなく、じょじょに増加するイスラム教の人達(スイスの外国人は約20%で、イスラムは40万人)がイスラム教の形状に象徴されるとなったとき(まだ4つの尖塔しかないが)、宗教の自由の「かたち」が表面に出てきたともいえます。EUに加盟していないスイス政府が、ルクセンブルグの欧州司法裁判所に絡んでもらうよう働きかけるかどうかなど色々な可能性があるでしょうから、この問題は行方を注視していこうと思います。

チューリッヒでは、駅からタクシーで10分くらいの高台にあるお宅を訪問しました。上の写真は居間からテラスをみたところ。今から10年ほど前、スイスの全体像を描く本を編集した女性の自宅です。自然、政治、宗教、経済、教育、建築・・・・全てを、それぞれのエキスパートが書いた稀な本です。そして写真の質が抜群。彼女はチューリッヒの大学の元学長で経済史が専門の方も一緒に招いてくれていて、昼食をご馳走になりました。彼女は「以前なら市内の書店に日本関係の書籍が沢山あったのに、最近はまったくない。中国の本ばかり。日本には素晴らしい文化があるのに、それはディテールで語るのみで、全体のかたちに落とし込むのが苦手で、非常に損をしている」と嘆きます。日本通であるからこそ、その存在感の低下に危機感をより募らせます。居間にある下の作品は中国のものです。

ぼくの持論である、加藤周一に代表される知識人がヨーロッパ文化について書いてきたことを、ビジネスに応用できるようにどう統合して視覚化するかが重要だと話すと、「ここには加藤周一さんも来ましたよ」と言われ、それなら話しは早いと、ぼくの舌ものりはじめます。狭義の文化のための文化ではなく、広義の文化のための文化を説明していくための具体事例についてディスカッションです。要するに経済的価値を生む文化理解の事例です。スイスの文化面だけでなく政財界にも顔の広い彼女も主旨に賛成してくれ、どんどんと人を紹介していこうと言ってくれます。彼女のように日本(中国やインドにも造詣が深いようですが)をよく知り、かつその問題点を痛感しているスイス人が味方になってくれると心強いです。

もちろん、上述した国民投票についても話題になりましたが、57%という数字を前にして、「あれは極右の運動だから」と弁解できない苦しさが感じられました。多文化に関心の強いインテリだからこその苦しさです。住宅地から市内に戻ると、もう暗く、クリスマスのイルミネーションが迎えてくれます。駅の構内では、クリスマス用品などを売った店が立ち並び、「スイスの師走」ぶりです。遠くにみえる白いツリーは、スワロフスキー製です。


ミラノに戻る電車は、やはり到着が遅れています。それで駅内をぶらぶらしていて、気づいたのが以下のH&Mの広告です。ソニア・リキエルがデザインしたようですが、このナイトガウン、KIMONOと書かれています。美容院に行っても、「KIMONOを着てください」と言われるし、息子の空手のイタリア人の先生も空手着をKIMONOと呼んでいます。ボタンがなく身体の前面で生地を合わせてヒモなりでとめるものを、全てKIMONOと呼んでいるようです。日本人とすれば、浴衣でもKIMONOと呼ばれたくない気持ちがあると思いますが、これは中国人の作る日本料理と同じで、KIMONOの再定義であると考えるべきでしょう。
