
昨晩、池袋ジュンク堂に出かけました。比較文学の管啓次郎さんとフランス文学の清岡智比古さんのトークセッションです。テーマはフランス語圏やクセジュ。「フランス文学に神話性があった時代」にフランス文化に縁をもった人たちが、今、フランス文化をどう語るのかは、極めて重要なことであるとぼくは思っています。そして、岩波新書や中公新書とクセジュの間にある乖離が何を意味しているのかを常に注視しておくことは、抜群の定点観測地をもつことになります。ただ、両者の目録を眺めるだけでもいい。違った視座の存在を気にせざるをえないのです。
タヒチ、ハイチ、モントリオール、コルシカなどはフランス本土の文化からすると「周縁地域」でありますが、それらのゾーンからの発信が無視できない力と意味をもちつつあります。清岡さんが講師をしているNHKのフランス語講座でも、テキストに登場する人たちは全て、フランス本土出身ではありません。ここにリアリティがあるのです。しかし、文化融合であるクレオールを美しき文化交流の所産であるがごとくにいえば、それは受け入られません。それを清岡さんは、明治大学の中国研究の同僚のエピソードを出して話していました。文化融合は実質的には文化適合であり、往々にして一方通行の発信と受信の結果があり、そうなるべきプロセスの理由は厳然とあるのが普通だし、勝利感や敗北感なりが付きまとってくるのです。管さんも、この文化の衝突については、それまでと違う口調でした。

昨晩、トークセッションでぼくが考えたことは、今週、ファッション業界のパネルディスカッションを聞いたことが背景にあります。日本のファッション業界が壊滅的であることをどう打開するかを話し合っていたのですが、そのなかでとても違和感をもったのは、「日本のファッションは今、世界から注目されている。ヨーロッパのように作られたトレンドではなく、ストリートファッションのようにプランされない自然発生的なファッションに関心が集まっている。日本の強みは、この突発性にある」という発言をかなり本気で喋っており、何とかという業界の外国人大物がお忍びで日本を視察にきていることを、日本ファッションの高い位置の証明として「比喩ではないエピソード」として話していました。落ちぶれたといえど世界の経済大国・日本に、その程度のエピソードがあって当たり前であり、それがどうコンテクストを作りえているのか?が指標になるのではないか・・・とぼくは会場で質問しました。
トレンドを戦略的に作らずに突発的現象を期待することが日本文化のアドバンテージであると認識することはビジネス的にありえず、ヨーロッパにおけるトレンドも突発的現象の有効利用のうえにあり、基調となるトレンドがあるからこそ、「枠外の面白さ」を享受できると考えるのが妥当であるでしょう。イタリアのくすんだ色の街並みのショーウィンドウだからこそ映える刺激的なカラーの効用を、こういう方たちはよくご存知なのに、こと「日本文化の効用」になると違った方に思考がいってしまうようです。このあたりの認識差異については、Twitterでの公共政策が専門の西田亮介さんの呼びかけに応じた若手の論文集である「.review」における、渡辺明日香さんの「ストリートファッションの可能性」や松山基之さんの「これからのファッションブランドのあり方ー「あこがれ」から「コミット」への転換」でも感じたことでした。

アジアの国々の人たちが日本食やコンテンツに目を向けている。そこにビジネスチャンスがあると考える。それは当然の発想です。その時、それらの国の人たちが、日本に注目していることが事実であったとしても、「日本だけを見ているのではない」という事実を認識をすることがもっと重要です。タイの若者たちが日本のコンテンツに興味があることは、フランスのブランドを好きだとすることを否定しているのではないのです。昨年、出張で東京に来た30歳の韓国人女性が新宿の街頭に歩きながら、「日本の人たちはファッションデザインを自分たちで作っているわよね。感心するわ。でも私たちのセンスは、もっとヨーロッパとダイレクトかもしれない・・・」とぼくに語ったとき、ぼくは全く驚きませんでした。まさしく、その感覚をぼくはもっていました。
’90年代以降の米国を中心としたグローバリゼーションの時代において、ローカリゼーションはグローバリゼーションの対立概念ではなく補完概念であり続けたとぼくは何度も書いてきました。だから、米国には説得の方法であるローカリゼーションのノウハウがより多く蓄積しているわけです。これはローカリゼーションをすればよいということだけでなく、あえてローカライズしない選択肢をとることを意思決定することも含んでいます。家具のイケアはローカライズは極力回避してスタンダード化を図ることでコスト競争力を維持しようとしているメーカーです。コンセプトは「良いデザインを民主的な価格で提供する」と合理的でありながら、店舗の外観はスウェーデンの国旗の色を使い、店内ではスウェーデンビールやサーモンを売り、スウェーデン文化のディテールをトッピングとして使っています。
スカンジナビアデザインの伝統継承者であるように振舞うことがビジネス上有利だからだけでなく、合理性をスウェーデン文化で若干ラッピングで包むことにより、その合理性の説得力を強めているとぼくには思えます。このイケアの戦略を見るに、実は「クセジュ的」な視座の集積を想像するのです。明らかに現代新書だけの世界ではないし、またクセジュの世界だけではない。いくつかの文化世界の共通性から導き出した「ある種のユニバーサル」であり「ある種のローカリゼーション」の妥協をみます。「ある種」と書くのは、「ヨーロッパ文脈にある一つの範囲において」と限定しているからで、しかし、これが一定のマスになったとき、大いにユニバーサルらしくも振舞えます。ただ、あくまでも「らしく」であり、「らしく」は決して容易なレベルではないことをイケアは語っていると考えています。

今週、ヨーロッパのサイエンスの先端研究を長くフォローしてきた方とお酒を飲んだとき、彼が日本の弱点は多くの知識や情報があるにかかわらず、ユーザーの使えるアプリケーションに落とし込む翻訳能力が欠如していることだと指摘していました。いわば知識の現金化の弱さです。これはアートやデザインのトレンドのあり方をみても思うことで、「文化のキャッシュ化」というプロセスが殆ど作られていないのです。イケアのカタログを眺め、クセジュの目録に目を通してみる。それだけで何かヒントが得られなければ、視野がかなり硬直化していることを疑って良さそうです。
<上記との関連エントリー>
管啓次郎『斜線の旅』を読む
http://milano.metrocs.jp/archives/3294
管啓次郎X佐川光晴のトークセッション
http://milano.metrocs.jp/archives/2906
3月20日、六本木アクシスビル内のJIDA事務局にて20名あまりの参加者でローカリゼーションマップ研究会をキックオフしてそろそろ3ヶ月。このあいだ、Twitterの#lmap でローカリゼーションの事例や思いついたアイデアなどを集めてきました。当初3ヶ月間でアイデアをじっくり考え、その後に次のステップに移行すると計画していたので、第一ステップ終了ゴング直前というわけです。

一つよく分かったことがあります。ローカリゼーションという言葉が翻訳やソフトの現地化以外のビジネス分野ではあまり使われておらず、ローカリゼーション産業はまさしくこれらの分野だけを指し示すことが多いということが再確認できました。文化人類学において文化適合などの概念が、日本のビジネス世界で人事面で言及されても、ビジネス全般では一般的な体験談以上には認知されていません。最近、「デザイン思考」という表現が流布しており、ローカリゼーションを考えるときの有効なプロセスとして一部重なるような気もしますが、概念のレベルが違います。
したがって、ローカリゼーションを総括的に幅広く語った本は、少なくても日本語ではなさそうです。マーケティングやWEBサイトのテクニカルな本にそうした記述があったとしても、それが食やハードのデザインを語るには至りません。しかし、ぼくが何度も書いているように、それらは個々に独立した経験をユーザーに提供していますが、ユーザーは一人の人間としてそれぞれを連続性をもって経験し、ある経験は次の瞬間の経験のベースとなっていきます。ケータイの経験はカーナビにいっても引きずり、それをもってクルマのコックピットデザインへの期待度が変わってきます。

手元のiPhoneで瞬時にメールをチェックしていると、ノートPCの蓋を開け起動させ、ブラウザを開くなど二世代前の世界に思え、そのうちに全ての人はそうしたスマートフォンを持っているような錯覚に陥り、もっていない人を「不便な奴!」と罵ったりするのです。WEBや情報機器において期待されるローカリゼーションは認知的側面が強く、仮に高次元の満足度を与えた場合、このレベルのサービスに馴れ鋭くなったユーザーの感覚は、ハードを中心とした製品デザインにも適用されます。秀逸なスタイリングのノートPCのデザイン自体が古臭くみえたり、ケータイカメラに馴れると、ネット世界からは孤立している通信機能をもたないデジカメは「孤独感を漂わす」とそのユーザーの目には映るのです。
β版でスタートすることに馴れるには、もしかしたら洋服を変えないといけないのかもしれません。スーツにネクタイで企画9割完成させて肩肘はって一歩踏み出すより、カジュアルなファッションではじめるβ版的ゲリラ戦が歓迎される今ー歓迎というより、それでないとスピードについていけないー、この感覚の横断性はより強くなっています。だからこそ、統合的あるいは総合的イメージが重要視され、個人が前面に出るパ-ソナルブランドが構築しやすいーいわば生き方のレシピが世の中に溢れかえっているのは故なきことではないというわけです。

これがライフスタイル産業ーファッション、または食や日用雑貨ーへの注目度とリンクしてきます。日常をディテールに分割することは発想として、あるいは現実としてありえず、日常は全体としてしか掴みきれない。デザイン性に優れたインテリアと創造性溢れる食卓は当然リンクするしかないのです。リンクしないほうがおかしい。そして、それは言葉の表現の繊細さにも結びつく。やや遠回りしましたが、従来のローカリゼーション産業がライフスタイル産業により接近する必然性がここにあり、村上隆が英語翻訳に高い料金を払ってカタログを作成したことがNYTの美術評論での絶賛に結びついた一つの要因であると本人が書くように(『芸術起業論』)、思考と言葉への注意深い配慮をはずしてデザイン戦略は成立しないのです。こうした前提のうえで、抜群なスタイリング表現と併走できる世界ができます。全ての要素は必要不可欠であり、現在は、それらの間隙にあるエッセンスが見落とされるが故に全体系を作りえないことが多いと思います。
「世界を変えるデザイン展」のエントリーで書いたように、モノを介して文化を理解する大事さを知った人は多かったと思います。コンテクストの理解がまずありきであることが、あの展覧会で強調され、「そうなんだな。それって楽しい」と思った人は少なくなかったでしょう。これがローカリゼーションマップへの興味です。対象地域のユーザーのマインドマップを描き、それをベースにこちらの戦略を作る方法のヒントやノウハウを提供する。ローカリゼーションマップ研究会は、こういう道を作っていくことではないかとの思いをぼく個人、強く持ちつつあります。
六本木ミッドタウンのデザインハブ。『世界を変えるデザイン展』最終日のカンフェランス。「日本の製造業は先進国市場で負けが続いているが、その大きな要因は全体のコンテクストへの理解欠如だと思う。今回、この会場やアクシスでの展覧会をみると、盛んに現地のコンテクストを読み込む重要性を語っている。一体、先進国でできなかったことが、貧困国で可能だとお考えなのか?」と、やや「意地悪な質問ですが・・・」と前口上をおいてパネラーのメーカーや経済産業省の方にぼくは質問しました。

カンフェランスが終わって2時間くらいしてTwitterを覗き#sekai_design の一連の投稿をみて以下、@sekai_designが書いた、リコー総合経営企画室の早川さんのコメントがかなりRTされているのに気づきました。
日本の企業はまだまだ負けていないと感じている。コピー機もまだ強い。だがもう年齢が上の層がやってはいけない。柔軟性が足りないというのと、何より長期的な視点で継続して取り組むことが重要。もう十年後にいなくなる社員がやるのではダメだ。
RTされた内容はどちらに重点があったのだろうとまず思いました。日本メーカーがまだ負けていないという部分か、世代交代の必要性を強調しているパートか?会場は若年層が主流だったので後半をメッセージとして伝えたかったのだろうとは想像しながら、「元気になれる言葉が欲しい」という願望が多いのかなとも思いましたーしかし、限界を告白している限り「一時的元気」でしかありません。もちろん、ぼくは日本の製造業の全体的な傾向を指摘して全ての企業が敗退しているとは言っていないのですが、ある例外で全体的傾向を否定する思考がなければいいなと次に思いました。杞憂であればいいと願っています。

コンテクスト理解は、象徴的事例を言うならば、海外の日本料理市場をとっている(日本人経営ではない)中国人経営の日本料理屋に勝つことです。拙著『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』にも書いたことですが、世界の人が「日本料理ってこうだよね」と抱くメンタルモデルの大枠にマッチする日本料理を提供するビジネスセンスが必要です。日本料理とは日本人の舌を満足させるものであるという定義から脱する頭の切り替えがないといけません。こういう発想の転換ができないところで、貧困国へのデザインとは何か?を問うのはビジネス的に厳しいところがあります。なぜなら、コンテクストを理解するとは、状況の前提条件を理解することに他ならず、ごく一部の極小事例と全体的傾向にある事例の区別を明確に示すことができることを言うからです。

『世界を変えるデザイン展』は一ヶ月の開催で、デザインハブとアクシスで合計1万9千人の入場者があったようです。特徴はデザイン関係者の数より、社会意識・参加をメインにおく「ソーシャル系」の人たちが多かったとこのことで、だからかTwitterに「デザインとはカタチや色の話ではないと知った」というコメントもRTされています。この展覧会とカンフェランスで悩ましいと思ったのは、デザインの定義です。狭義のデザインと広義のデザインがあまりに混沌としておりーGKの田中さんは広義をプレゼンで語っていましたがー、文化人類学や社会学の文化の定義である「人間の内面的外面的行為の全て」(designs for life) で使われるデザインと意匠を示すデザインとの間にある大きな空白をどう埋めているのかが分かりにくく、デザインとい言葉を意識的に使ったことのない人たちには気持ちよい刺激ではありながら、結局、それはデザイン=モノという置き換えに留まったようにも思えました。

ただ、このモノを介する世界観理解に関しては、ぼくもローカリゼーションマップ研究会のテーマとしているように、肯定的におさえています。「加藤周一『日本文化における時間と空間』を読む」で建築や都市構造が如何に文化理解の手助けになるかを書いていますが、モノのあり方は、多くの人に文化ー抽象思考の表現ーを自ずと説明してくれます。ある意味、『世界を変えるデザイン展』は、そういった基本的理解がこの日本で忘れられていたことを認識させてくれたとも言えます。ですから、考えようによっては、ローカリゼーションマップ研究会の活動をしていくにあたっての風穴を開けてくれたところもあります。文化理解にプロダクトデザインは有効であるという、あまりに当たり前のことを大きな風になって伝えてくれたと。昨年11月、スイスのムスリムのミナレット建設禁止の国民投票が通過したことで、ヨーロッパにおける信教の自由の範囲が明らかになりましたが、この事例から知るべき動向が大切なように、モノや建築表現の文化読解能力の向上を図る教育は日本において力を注ぐべき分野の一つかもしれない・・・・そういうことを改めて思いました。