
従来の枠組みを大きく変える、あるいは脱却した発想が必要であることが散々言われるようになってどのくらい時間がたつののだろう・・・と考えると、これはどんな時でも喧伝されてきたのではないかと思います。常に世代間でもあった論争でしょう。しかし、「今までの考えでやっていけばいいんだよ」ということも並行していつも言われていて、どちらの表現もどの時代にも流通するのですが、冷戦の終焉と情報革命によるグローバル化は、何事も変革が求められるプレッシャーがより強くなり、特に「失われた20年」に入りはじめた日本では、旧来派が生きる隙間がどんどん減っていっています。ミラノの刃物のセレクトショップのロレンツィが語ったような台詞は、そうは思っても小さな声でささやかざるをえないムードがあります。
つまり、製品そのものの理解に時間がかかり、かついわば抽象性の高い製品であるということですが、それだけでなく、彼らの扱い商品点数はなんと1万5千点 にものぼるということもあるでしょう。セレクトショップとしては膨大な点数です。これを全てPC管理しているわけではなく、約半分しかデジタルデータ化し ていません。後は手書きです。それが「商品知識が身につく」コツだといいます。お客さんの要望を聞いて、ピンとくるには、商品と触れる絶対的な時間量が要 求されるのです。どの店員も一流ホテルのコンシェルジュのようなムードがあります。そして、お客さんもそれなりの年齢以上。「どうして、人生経験の乏しい 30代以下で良いモノを見極めることができるのか?」と言われたとき、ぼくもハッとしました。
実を言えば、全てに変革が必要なのではなく、ある分野やある事柄に変革が必要なのであり、例えば、男女の社会的役割に変化が要求されたとしても、男女の恋愛感情に変化が求められているわけではないのです。そして、変わらぬものをいかに見極めそれを維持していくかも重要です。バチカンの生命倫理に関する言説が時に人を苛立たせても、多くの支持も得るのは、社会的変化は常に過去との対話によって成立することを多くの人が認識しているからでしょう。もちろん、これはブロックされて機能不全に陥っている部分を肯定しているわけではなく、訂正や修正・変更あるいはジャンプすべきポイントは積極的に推進するようにしないと、惰性で悪化する方に流れるに決まっている水を逆流させることはできないでしょう。
とにかく、イノベーションを引き起こすことが今の日本に必要とされる分野や事柄が少なくないことは確かで、それを目的としたワークショップやセミナーが全国いたるところで開催され、出版物も「どうしたらイノベーターになれるか?」と突きつけてきます。ただ、多分に精神論に流されているところもあり、これは要注意です。個人の認知の変化によって状況が好転すべきことが、イノベーションを大きな声で語ることで全てが前進するような錯覚を無用に煽りたて目を曇らせてしまうことがあります。繰り返しますが、ぼくはイノベーションという言葉が嫌いとか好きとかではなく、とにかくその言葉が意味する内容を推進するには、それなりのメンタリティを伴っていないと火傷するだけだろうと言っているのです。

さてイノベーションという言葉の周辺を巡ったのは、先週に引き続き今週も東大にでかけi.schoolを見学してきたからです。知の構造化センターの実施する教育プログラムで、ワークショップなどを行いながらイノベーションを生み出すメカニズムを研究し、イノベーションサイエンスを作っていこうとの目的がエグゼクティブ・ディレクターの堀井秀之さんによって語られています。
私たち i.schoolが目指すのは、これまで世界に存在せず、誰も生み出しえなかった、新しい答えを創り出す人材の育成です。分野・領域の枠を越えて、横断的・統合的な視野を持つ。論理的な思考の先に、クリエイティビティを羽ばたかせ、いままでにない発想を産み出す。人間中心に考え、人間の幸福を見据えて行動する。イノベーション —-画期的な価値の創出につながる新しい変化 —-を創り出す人間こそ、 21世紀の行政・産業・学術をリードする人間になる。i.schoolはそう考えています。
今週、10回に渡る2010年度の第二回目ワークショップ「新聞の未来をつくる」のプレゼンがありました。5チームが寸劇や紙芝居形式で発表。パワーポイントの使用は禁止です。どの学生たちもプレゼンはそれなりのレベルで、会場からの質問にも当意即妙の回答が返ってきます。それはそれで感心するのですが、色々な人に新聞の問題点を生活者目線でインタビューしてどう感じてどう考えた、最初の部分のコアが最終アウトプットにどれだけ効いているのかがよく分からない・・・という不満は残りました。しかし、それもまとめ方が上手いがゆえに生を出し切れないということもあり、なかなか悩ましいです。

素直な生の声をいつも自分の耳に響かせるのは難しいものです。ぼくが今まで実際に色々な人と接してきて思うことは、イノベーションのようなジャンプができる人というのは、まずは一人で突っ走れる性格が非常に重要で、革新的なアイデアはその猛烈な走り込みのなかでランニングハイのようなタイミングで出てくるような気がします。もちろん、性格だけではありません。以前「イタリア人の遅刻の理由」で書いたジグザグ歩行も、言ってみれば、他人とのアポより自分の心に忠実であることを言っています。
アポの時刻があっても、道を歩きながら店のウィンドウに何か素敵なものをみつけたら、吸い寄せられていく。そして時間がないにも関わらず、店に入っ て商品知識を得ようとする。つまり、この一瞬が大事。そして道の向こうにも目をひくものがあれば、そっちにも行ってしまう。ジグザグ歩行です。だから、目的地への到着が遅れのです。
しかし、このジグザグ歩行にイタリア人のクリエイティビティが隠されています。アイデアは、こういう歩行途中、もしかしたら向こうの道に渡っている 時に、ひらめていたりするものです。そして情報が集積し、それらがお互いにつながり、統合されたイメージをもつその直前にハッと思うことがあります。
そして、心に余裕をもち、いつも心と頭に遊びの部分がもてないと、このジグザグができないのです。ちょっと飛躍した言い方になりますが、これこそが「生活の質」のリアルな側面です。隣に弱った老人がいれば手を貸し、小さな子供が転べばじっと立ち上がるのを見ててあげ、子供と老人の会話が成立する。こういうところから、生活者目線の状況把握力がついてくるはずで、いったいi.schoolの学生たちはそのあたり、どうなんだろう・・・というのがぼくが知りたいところで、今後もよく見ていきたい点です。経験の幅を自然と広げられない人間には、所詮、新しい時代を作るようなイノベーションなど無理なのです。ですから、このポイントにi.schoolが注目しているなら、これは将来に期待したいです。
先週は刺激を受ける旅でした。月曜日はデザインハブでのトークセッション「世界を変えるデザイン展 2.0」。火曜日は日本財団で「金融という文化ー金融危機と金融社会論」。コーネル大学人類学科准教授の宮崎広和さんの発表。水曜日は東大のi.schoolでのワークショップ見学。ビジネス・エスノグラフィーの田村大さんがディレクターです。木曜日はまた日本財団。「女性就業者の2種のネガティブ・ステレオタイプについての予言の自己成就メカニズムとその対策について」をシカゴ大学社会学部長の山口一男さんがプレゼン。

それぞれのイベントに関連あるわけではありませんが、世の中の人たちが今どういう領域まで踏み込み、どういう方向に進みたいのだけどなかなか到達できない・・・ということが、何となく見えてきます。何が読めないといって、現状そのものが読めない。「あそこの国はこういう文化だから」という表現があるところまでは相変わらず通じる一方、全く予想もつかないタイミングで「えっ、あの国もそういう文化を受け入れるの???」という変化が起きる。二つの要素、普遍的な要素とそうではない要素が入れ子状態になっていて、それを解明することがテーマ。特に、どういう条件が揃ったときに変化が生じるかに関心が強い・・・ということが、何となく見えてきました。
そして、これは他ならずぼく自身がものすごく興味深いテーマであるわけで、根拠なく自分も時代の最前線で悩みを共有しているような気になってきます。こういう感覚は、実は何もアカデミックな世界の話ではなく、現実に日常を生きている人たちにかなり共有される感覚であろうと思いますが、アカデミックに研究している人たちもそのことを関心の先においていることを知ると、(ぼくのケースでは)やる気が更に出てくるから不思議です。実際には、アカデミズムは既に起こった現象を後追いすることが多いですが、世の中の変化の本質に普通の人より関心の高い人が多いので、その感受性は一つの道しるべになるでしょう。

自分が日々感じていることが、世の中でどんなポジションにあるのだろう・・・という疑問は誰でも昔からあったことですが、今、ネットで発信される無名な意見の数々を背景に、およそのマッピングをしてくれるような気になります。が、Twitterのフォローの人が違うことでタイムラインが全く違って見えるのと同様ーある人には「世の中の全ての人がW杯に熱中している」と見え、ある人には「案外、W杯に興味のない人が多いんだ」と見えるー、あらゆることは極めて主観的に見られています・・・・ということまで、ある程度は客観的な証拠を見せ付けられる状況が生まれています。幸か不幸か。
極めてストレスフルな現象が眼前に繰り広げられるからこそ、ネットがもつ楽観的な解放性が、逆にそうならない結果に対して暗部を際立たせます。「なんで、あの人はブログでちょぼちょぼ書いていたのに、一気に名が知られるようになったのだ?それに比べて自分は・・・」と今までなら知らずにすんだ他人の過去を知るようになるから、自分の過去のあり方も反省的な色合いでみてしまいがちになる。しかし、これも幸か不幸か、ネットでさほど本質的な把握には至っていないことが圧倒的に多くーぼくも反省的に思うならー、それがゆえに、リアルに多くの人と出会い刺激を受けることが結局は頭の切り替えをする大きな契機になる・・・ということになります。

・・・というわけで、凄く回り道をしましたが、ローカリゼーションマップ研究会の今月の勉強会でやるべきことも、随分と固まってきました。詳細は追って書きますが、以下の要領です。
7月24日(土)15-17時 at なかのプラットフォーム
「明日の日本を描く試み」をデザインジャーナリストに45分ほど話して頂き、残りを議論の時間とする。これまでの日本デザイン動向、世界を変えるデザイン展、サローネなどもトピックに入ります。
7月31日(土)16-19時 at 六本木JIDA
「アジアに向けたローカリゼーション」をテーマにアジア研究の視点の持ち方、住宅機器メーカーのローカリゼーション事例などを紹介しながら、ローカリゼーションとは何か?を議論します。
「今、カーデザイナーが語ることが一番面白いかもしれない・・・」ということを、六本木ミッドタウンのデザインハブでトークセッションを聞きながら思いました。クルマの人気がどこの先進国でも下降気味で、EV時代の幕開けで都市との関係が更に問われ、スタイリッシュで高性能のスポーツカーが即憧れには繋がりにくい時代において、カーデザイナーは「次なるクルマ」へ悶々としています。その悩み具合は、他の製品をデザインしている人たちよりも切迫感がある。EVといえどデザイナーの存在は欠かせませんが、デザイナーはEVがもつ世界観を図りかねていることが多いという点において、切迫感は期待感と表裏一体です。その点で、今、カーデザイナーの語りに注目すべきです。

先月終了した「世界を変えるデザイン展」は色々な問題点と課題を提示しましたが、昨晩のトークショーのパネラーのなかで元アウディのデザイナーであった和田智さんの言葉に一番力があったのはーぼくはそう思ったー、何よりもカーデザイナーがゆえに直面する問題の大きさがゆえではないかと考えました。もちろん、全てのカーデザイナーが同じであるわけではなく、その悩める世界に意識を集中させた人間だけがもつ言葉です。和田さんはテクノロジー競争が生む過剰スピードの危険性を指摘し、如何にそこに嵌らないかの重要性を「日本における時間軸の欠如」とともに語りました。ビジネスにおいてタイムリーであることは大事ですが、それ以上にヒストリーを作ることに力を注ぐべきだろうと思います。なぜなら、ヒストリーを作ることを意図するのは、価値体系への尊重とその積み上げを意識することであり、それがブランドとしての価値を作っていくからです。
アジアの新興国市場がもっぱらの話題ー昨日はBOP諸国がテーマでしたがーになっていますが、それらの国で商売が成功するためには、タイムリーであることだけを追うのではなく、彼らのヒストリーに重ね合わせられる価値を見極めていくことがポイントになっています。しかし、それは価値を抽象的に語るだけでなく、基本的には、市場にある「必要性」に応えるカタチでハードであれソフトであれ提案していかなくてはいけません。価値の可視化です。ここにデザイナーの役割が期待されています。

デザイナーはよりメッセージ性の高い可視化ー目立てばいいという意味合いではないーの能力があるだろうと思われる時、狭義のデザインー意匠・スタイリングーから広義のデザインー社会を形づくるーの両方に目配せができないといけません。が、ベーシックは狭義のデザインであり、ここで圧倒的な力を発揮しないと説得力をもつことは難しいでしょう。要するに造形力の勝負に勝てないといけない。それでは、アジアの新興国で発揮すべき日本のデザインとは何か?が課題になります。

昨日のトークで和田さんがアウディで働き始めた頃、ご自身のデザインが「かっこいいけど軽い」と同僚から言われ、文脈の読み替えを迫られたエピソードを話していました。そして、日本のデザインは草のように弱いが、その草の有様を美しく表現するところにしか日本人デザイナーが生きれる道はないのではないか?という希求とも言うべき発言がありました。これはぼくも何度かここで書いている「オリエンタリズムの軽さと西洋の重さと軽さの感覚と文脈の違い」に対応するものですが、アジアのボリュームゾーンを狙うときにどちらを使うのか、どうハイブリッドするのかというのが論議になるでしょう。そして、ボリュームゾーンも所得上昇と一緒に趣向が変わってくる可能性が高い。これが、「管啓次郎X清岡智比古のトークセッション」で書いた内容とリンクしてきます。
アジアの国々の人たちが日本食やコンテンツに目を向けている。そこにビジネスチャンスがあると考える。それは当然の発想です。その時、それらの国の人たち が、日本に注目していることが事実であったとしても、「日本だけを見ているのではない」という事実を認識をすることがもっと重要です。タイの若者たちが日本のコンテンツに興味があることは、フランスのブランドを好きだとすることを否定しているのではないの です。昨年、出張で東京に来た30歳の韓国人女性が新宿の街を歩きながら、「日本の人たちはファッションデザインを自分たちで作っているわよね。感心す るわ。でも私たちのセンスは、もっとヨーロッパとダイレクトかもしれない・・・」とぼくに語ったとき、ぼくは全く驚きませんでした。まさしく、その感覚を ぼくはもっていました。
この部分に、「草のようなデザイン」をする日本人デザイナーがどう関わってくるかです。この前のエントリーでも書いた、仏教的ともいえる曖昧さをそのまま受容し明確な言語化を避ける日本文化の傾向は、その反対の傾向をもつ西洋文化に対して今後優位的な方向を示す可能性はありますー現ローマ教皇が枢機卿時代にドイツの大学で「キリスト教にとっての脅威はイスラム教ではなく仏教である」と自然との共生という価値観が優勢になることを示唆したのが一つの事例ーが、これがデザイン言語の選択という場面で具体的にどう実行されるのか?これがテーマになってきます。そこで、安易な日本らしさに逃げないことーレクサスのデザインコンセプト L Finess を反面教師とするーへの覚悟が必要だろうと思いながら会場を後にしました。これが夜中にTwitterに書き綴ったことです。