デザインを見方の重要なキーとすると書きましたが、デザインで全てを語ろう、あるいは語れるとは到底思っていません。それは経済学であれ、なんであれ、一つの分野で全てを語れることはありえない。しかし、往々にして、人は何かに依拠することで安心したいという思いがある。こういうことはあるでしょう。例えば、脳科学は今まで人類にとって未知であったことを沢山明らかにしてくれると思いますが、だが全てではないはずです。心理的な不安解消のために一つのツールに頼りすぎるのはよくない、ということです。ある専門の分野を深く知ることに意味がないと言っているのではありません。ただ、もう一つ、違った頭の使い方をしないといけない。これが重要なのです。
極めて直感的で叙述的な頭の使い方です。ぼくがこのブログでもよく書いている、一人で全体を把握するための頭の使い方です。これは専門の水平展開では間に合わないでしょう。あるいは、他の専門の人との共同でも不十分です。隣同士にある隙間により敏感であるためには、それは上空から見ないと分からないのです。知らない街のなかで、歩きながらいろいろな店をみつけて喜ぶ発見。そこで出会う人とのふれあい。これは上空からでは不可能です。歩かないといけない。絶対に。これなしに上空から眺めても、分かることは限定的です。しかし、それだけでは自分が何処までを見たか、街のどんな部分を見たかが分かりません。地図はそのために必要です。

ここで気をつけないといけないのは、いつ地図を使うかです。新しい人との出会いで会話に夢中になっている最中に地図を広げてはいけません。具体的な現実の世界にいるときに、それを抽象化してはいけないのです。それはそれとしてあるべきで、それを他のなにかに置き換えすぎてはいけない。「ああ、それって、こういうことでしょう?」と要約しすぎるのは駄目です。「ああ、それって、よくあるよね」というと、目の前にある現実が良く見えなくなります。だいたい、それを重ねていると、「しらけた奴だ」と冷たい目で見られるのがオチです。だから地図は現実に歩く前か後に使うのです。それによって、道に迷ったときに、通りすがりの人とコミュニケーションをとるというメリットがあります。それが現実の経験を深くさせる契機になるのです。
(1)で書いた内容に対応させると、道を歩くことが「生活シーンを重視」になり、地図を見るのが「ビジネスを視座においた水平展開」になります。ここでいう水平展開は各専門の横断というより、全体そのものの輪郭を掴むという意味になります。誤解が生じやすいかもしれないので、別の適当な言葉を探すべきかもしれませんが、今はこのままにしておきます。さて、ここで問題があります。街を歩く比喩として地図を挙げましたが、実際、ヨーロッパ文化の地図なぞ存在しないでしょう。過去なら多少の輪郭が描けないこともないですが、また誰かが描いたものを参考にすることはありえますが、現在については自分が主人公になって作業するしかありません。だから、やや腰が引ける話しになります。だから、どうすれば腰が引けないか?を考えないといけないことになります。
→つづく
個人的経験が本当に身につくというのは、どういうことを言うのでしょうか。ぼくもよくありふれた表現、「血となり肉となる」を使いますが、これが「そうだ!」とはなかなか指摘することができません。指摘できる段階では、まだ「血となり肉となっていない」のかもしれません。あることが分かるとは、あることを分かると自覚するステップを越えることかもしれません。どうして、こういうことを書いているかと言えば、ぼくがヨーロッパの文化をどう伝えるのが一番いいのかを常日頃考えているからなのですが、ぼくが自覚してない分かっていると思われることをどう見つけどう表現するか、です。これは人に伝えて指摘され初めて分かることが多いです。
まず一つ言えそうなことは、ぼくが語るヨーロッパ文化は、生活して分かることから発しています。生活するというのは、電話屋さんと口論したり、子供の学校の先生の振る舞いに怒ったり、思わぬところで道行く人から優しい行為をうけるとか、そういう24時間の全てを含みます。そして、できるだけ世間に境界線がないことではないかと思うのですが、実はそうは言っても、かなり境界内で生きています。どういう境界かといえば、いわゆる日本人駐在員の生活圏とは離れています。しかし、例えば中東や南米かの移民の人達とは仕事圏をかなり異にしています。だが息子の学校に行くと、かなり自然にそういう世界があります。アラビア語やスペイン語も交差しており、久しぶりに出かけると、日々狭い世界にいるなと痛感します。

『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』を書くとき、ぼくが立てるポイントを考えました。世の中に数多くある「生活記録モノ」と呼ばれる本は沢山のエピソードが満載され、それらの多くはぼくも経験のないものであることも当然ながら珍しくありません。しかし、それらの本で満たされないもの、それはカバーしたいと思いました。満たされない点を救うとは、そのエピソードの数々を鳥瞰的に眺めてみることです。「ああ、トラブルにあたって大変だったね」では終わらない、個別の事例を如何に水平展開するかです。そのような本は、ヨーロッパ人と一緒になった人の手によることもあり、そのなかの経験はぼくには知らない濃さをもっていることもあります。
そして、その水平展開に目的をもつことも考えました。そして、文化調査レポートなどにある観察記、あるいはアカデミックなフィールドでの分析にある不自然さを超えること、これがぼくの課題です。「この事件は、カントの生まれた国ゆえのものだ」と今目の前にあるアクシデントに対して言われても、それは「あなたの考え方は、新井白石の国ゆえのもですね」と言われるのと同じで、「それはそういうことも言えないこともないけど、それは、確率の問題かもしれませんね」としか言いようがないです。語ったようで語っていない。ヨーロッパのことを、何でも狩猟民族とキリスト教で説明できるわけがないのです。これは避けなければいけない、そう思ったのです。目的はビジネスに何らかの面で貢献することです。

生活シーンを重視すること、水平展開ではビジネスを視座におくこと、このような点を自分の立ち位置として想定したのですが、もう一つはできるだけ視覚化された材料も使いたいという点です。アートも一つですが、デザインのほうがより生活に近い、かつグローバルでの比較がしやすいという観点から、デザインの見方を基点にすることを考えたわけです。もちろん、ぼくがデザイン業界に足を突っ込んでいるということが大きいですが、サブカルチャー的な側面からもデザインは重要な要素キーであると思います。
→次回に続く。
ある製品を開発するにあたって必要なのは「普遍性」であり、それは言葉で説明できるものではなくてはならず、それをユニバーサルの説明とするべきだと書いてきました。固有の文化性は、そこにプラスするのであって、文化性をコンセプトのコアに据えてはいけない、と。また、そういう話もしてきました。そこでいう文化性とは「固有性」を指し、別の表現に置き換えれば、「コンテクスト依存」ということになります。あるいは加藤周一の引用でいけば「今とここ」です。
異民族や異文化を支配するためには、物理的な暴力による強制とともに、支配を正当化する言説を必要とする。その言説は、被支配者に対しても説得的でなければならない。あるいは少なくても支配者の側が、説得的であり得ると考え、主張することのできるものでなければならない。そういう言説が生み出されるのは、境界の開かれた文化圏のなかからであって、閉じた地域文化のなかからではない。

こういう問題意識からヨーロッパ文化理解の意義を語っているぼくとしては、シリコンバレー在住の海部美知さんの「『おさいふケータイ』が世界に広がらなかった理由」というブログエントリーについて触れないわけにはいきません。前半にぼくがコメントする部分はあまりないのですが、後半に少々意見を加えます。
iPhoneならば、「使いやすさ」「カッコよさ」といった、シンプルで普遍的な魅力とアップルの世界ブランドと、すでにある程度世界に普及したiTunesのインフラのおかげで、コンテクストを超越できる。かつてのウォークマンのような日本の大成功した家電ブランドや、自動車なども同じ。「魅力」の核となる部分が、シンプルで普遍的であり、コンテクストに依存しないことが、「世界」で成功するために必要な条件である。
ウォークマンは新しい世界観を提示したがゆえにヒットして、かつ音楽プレイヤーとしての普遍性あるポジションを獲得したわけですが、新しいカテゴリーを作ったことで評価の高いのは「これくらい」であり、基本的には高品質と適正価格でブランドを作ったのが家電であり自動車であったといえます。上記の「魅力のコア」は品質と価格です。コンテクスト依存型が目立つようになったのは、この段階の次に高機能・多機能で高価格というステップがきてからだと思います。何度もぼくが書いているように、デザインの面でも「日本のコンテスト重視」がかなりはっきりでています。特にクルマのエクステリアよりインテリアあるいはコックピットのインターフェースに、それが見られます。
日本の携帯業界は、世界の中でももっとも「進んでいる」と言われるけれど、具体的に何がどう進んでいるか、ということを考えると、「日本的」なコンテクストに深く依存した部分が、この非常に高度に発達したコンテクストの中で末端肥大的に進んでいるのであり、世界のユーザーや世界のキャリアに対して広く訴えかけられるシンプルで普遍的な魅力とはいえない。
海部さんが書くように、「進んでいる」という表現が大いなる誤解を生んでいます。確かに日本以外の地域にいる人は、「日本の技術は進んでいる」という表現を一見肯定的に使いますが、そこには暗に「自分たちの文化やニーズとはあっていないけどね・・・」というニュアンスが隠されていることが多々あります。「進んでいる」こととは、「末端肥大的」ではなく、より大きな観点に立ったときに世界観を含めて新境地を提示できているかどうかが一番の評価軸になります。
世界に通用するモノを作るためには、「普遍的」な魅力のあるものを作らなければいけない。グーグルの検索広告モデルやホンダのバイクのように、それがたとえ経緯としては偶発的にできてきたものであっても、提供側が「普遍性」の抽出と拡大再生産に継続的に注意を払うということが、必要と思うのだ。
この文章でのキーは「継続的に注意」ということだと思います。開発の当初には、そういう意識があっても開発途上では全てに振り回されてしまい、オリジナルの世界観が消失してしまうことが珍しくないと思います。あるいはモデルチェンジ毎にどんどんとオリジナルのコンセプトから逸脱して「日本型」になることもあります。ただ日本型が悪いのではなく、コンセプトの基本レイヤーにあるユニバーサルなコアを侵食することが悪いのです。それをキープしたうえで、日本固有の文化を尊重したレイヤーがのる、いわばローカライズに関しては積極的に進めるべきで、その点で、ぼくはヨーロッパ向けのローカライズの重要性を語っているのです。つまり日本のコンテクスト依存型を作るのと同じエネルギーで、ヨーロッパ依存型を作れば売れますよ、ということです。でも、両方を最適化するのは無理だろうから、まずユニバーサルですよ・・・ということです。
そして、このユニバーサルを掴むに、ユーザー工学の黒須正明さんの提唱する人工物発達学が有効であろうと考えています。
尚、参考までに6月3日に日欧産業協力センターでのセミナーの内容をリンクしておきます。
http://eujapan-live.ashleyassociates.co.jp/data/current/dataobj-303-datafile.pdf