今週、ミラノの工科大学で数人でミーティングをしているとき、「学術誌に載せるテクニカルパーペーで重要なのは、ディスカッションポイントだ。テストの目的や方法の記述ももちろん大事だが、このペーパーでどんな方向で議論できるかを色々と示すことがさらに重要視される。それが日本とヨーロッパの大きな違いだ。日本でディスカッションポイントは、そのような扱いを受けていないことが多い」という発言がありました。ヨーロッパ各国での研究経験が豊富な日本人エンジニアの言葉です。「だから、今までのテスト結果を使って、これがどう世に問えるかを早く示すことを優先すべき」と言葉が続きます。
これは二つの点で示唆的です。「ある事柄に対して120%十分なテストデータが出し切れる人は世界に誰もいない。したがって、このエリアは自分がイニシアチブをとると早く宣言をするのが勝ちである。これまでのデータで何がカバーでき、何がカバーできておらず、しかし、こういう方向とああいう方向の発展的議論が可能であるとヴィジョンを示すことができれば、有利な立場にたてる。それを第一優先にすべきだ」ということは、あるエリアで主導権をとるには、価値体系のありかを提案することが重要であるということになります。しかも、そこでいう価値体系とは、徹底した緻密さよりも、多くの人の考えを包括できる幅の広い。が、方向性だけは複数あっても明確なものということになります。

今日、朝日新聞グローブでの一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授の石倉洋子さんの「ダボス会議は見に行くところではない」を読んでいて、上述との重なる部分を考えました。ぼくがここでよく書いている「全体性を掴む」ということが如何に大切かを、石倉さんは、以下のように書いています。
いま、世界級の人材に求められている能力とは何か。特定の分野について最新の情報を集めることは、グーグルなど検索エンジンを使えば、高校生でもできる。 必要なのは、いくつもの分野を横断的に俯瞰して判断すること、細部にとらわれず広い視点から考えること、断片的な情報から大きな構想をまとめること、全く 別の分野からアナロジー(似た事例)を探して新しい解決案づくりのきっかけにすることである。
これは全体を鳥瞰的にみれないと、価値体系の勝負どころが分からないということでもあります。勝負で有利に立つ、それも長期戦で有利に立つのは、ディテールの繋ぎ合わせでの評価ではなく、コンセプトの統合性で立ち向かわないといけないということです。よく日本のメーカーはモデルが多いと言われます。クルマも同じ会社のものとは思えないくらいに多い。そこで「何故、メルセデスやBMWのように、ブランドの統一感を図ってサイズで変化をつけていくことをしないか?」と日本メーカーに問うと、「彼らは、モデルが少ないからできるのだ。我々のように沢山のモデルを扱っていると、そうした統一性は出せない。いや、そうしたバラバラさことに、我々のアイデンティティがあると言って良い」と答えが返ってきます。

要注意! この回答には、「我々はブランドをきちんと構築する思想に欠けていたので、結果的にこれだけモデルが増えたのだ」という反省点がありません。バラバラさの正当性の主張は言い訳であり、たまさかアジア的迷路が想起するカオスの魅力を味方につけて、事なきを得ようという気配を感じます。で、実際、ヨーロッパの人達に本音を聞いたとき、アジア的カオスが日本ブランドの良さであると積極的評価をすることはほぼありません。「ブランドとは思想であり考え方である。視覚化されるものはごく一部の結果であり、考え方を人々の頭に痕跡として残していくものである」と認識している人達に評価してもらうには、価値体系の構成が肝であることを知らなければならず、そこで、全体性です。
ダボス会議は、世の中に世界の課題を指し示す役割は果たす。だが、一つの解決策で意見がまとまることはほとんどない。
したがって、上記のようになるのです。それが世界のありようです。具体的な方法論ではなく、お互いがどこを見ようねと確認することに優先順位が高く、よって、そのなかでよりヴィジョン性の高い視点や価値体系を提示できた人が、次の具体的なレベルにおいてもリードすることができるのです。「そういう大局的で抽象性の高い話はごめんだ。具体的な段階になったら参加するよ」というのは、試合を初めから放棄していることと同義です。
約1ヶ月の日本滞在を終え、今週末にミラノに戻ります。この1ヶ月ヨーロッパ文化やビジネスのことを話してきましたが、その「媒体」としてデザインを多く使ってきました。かつてハイカルチャーの美術を介してヨーロッパを語ることはあっても、サブカルチャーとしてのデザインを通じてデザイン関係者以外にヨーロッパ文化を語りかけるという試みが少なかったように思います。デザインという視覚化され日常生活に密着しているフィールドを基にすることが、文化理解の及ぼす範囲を大きく広げてくれるのではないかと考えたのです。
それは、今もそう思っていますが、それだけでは足りないということも考えています。デザインはデザイン関係者にはもちろん通じるツールですが、デザイン関係者以外には、クラシック音楽やファインアートと同じく、「ピンとこない」世界です。橋本潤さんの椅子を「これはオリエンタルな軽さである」と表現しても、一度もデザインを真正面から考えたことのない人にはやや距離感があります。「日本では最初に全体のカタチを考えず、ディテールからはじまるが、西洋では最初にコンセプトと全体のカタチを考え、そこから分割したディテールを追っていく」という話も、パリの街の写真と、近所の商店街の写真を見比べて「あっ!」と思うものです。


日々の生活に近接している話題であるとぼくが思っても、それは勝手な思い込みであることもままあります。それに対して、料理や味の話をすると首を大きく縦に振ってくれます。ぼくが「ユニバーサルとは言葉で納得できることを指し、(ある程度のビジネスの世界では)心でそのまま通じ合えるとは思わないことだ」と話すと、首を傾げる方ができてますが、「子供が小さいときから、刺身を美味しいといってパクパク食べますか?うになんか、かなり難題でしょう。外国人で寿司を食べた瞬間に美味いと思う人はどれだけいると思いますか?」というと、「そうか・・」と思ってくれます。すべからく学習の成果によって「美しい」「美味しい」という評価ができていることを忘れている方が思いのほか多いのです。
ここでいう学習とは一人一人の生き様の結果であり、どこかに「学習指導要綱」があるわけではありません。何度も書いているように、現状とはどこかにある秩序だった世界にあるのではなく、あなた自身を含む世界であり、あなた自身の解釈と定義によって成立するものです。寿司を美味しいと思い、そう語る。寿司はやはりまずいといって、そう語る。これが現状のシンボリックなあり方なのです。「寿司は美味しいといわなくてはならない。さもないと無粋とレッテルが貼られる。それは日本人として恥ずかしい」と思わないメンタリティが大事なのです。ちなみに、ぼくは寿司が大好きですが・・・。
アゴラにピンとくるコラムがありました。以下、引用しておきます。自分の舌を徹底して信じることです。
経典主義者たち(「受験エリート」といいかえてもいいかもしれません)による、不毛な「模範解答探し」を聞き及ぶにつけて、私は量子物理学者、リチャード・ファインマン博士の次の言葉を思い起こし、時には安易な道に進みかねない自分を戒めています。
「私は迷うこと、不確かなこと、そして無知を恐れない。知らないことに囲まれて人生をおくる方が、間違っているかもしれないことを信じて生きるよりも、よっぽど楽しい。」
昨日、三島の料理屋で社会学者の八幡さんと酒を飲み交わしながら話した内容を、少々かいつまんでメモしておきます。日本に滞在して約1ヶ月になりますが、この1ヶ月で「やはり」と「えっ!」を交互に感じたエピソードや人の言葉を思い出しながら、ぼくの今考えていることを話していき、それに八幡さんが多くのコメントをくれました。
「世の中で一番長期にわたって一定のポジションをとれるのは、思想性のあるものの普及だ」というコメントは、ぼくが強烈に実感していたことです。人の考え方に影響を及ぼすことがブランドの強さであり、よく言われるブランドの作り方や仕掛けはいわば二の次です。「アマゾンもグーグルも成功する前から、そこには強い思想性というか哲学性を感じた」ということです。先週、御嶽山に滝修行に一緒にいったアイルランド人が「自分の名前が売れることより、いつのまにか自分のコンセプトが世の中に普及していることに最大の喜びを感じる」と語っているとぼくがいったら、「それは聖書の考え方だね」と八幡さんは答えました。

それでぼくは前々から思っていたこと、「松下幸之助や本田宗一郎などが語る哲学は成功しはじめてからの内容が強く、事業をはじめる以前に本当に考えていたことはどれだけあるのか・・・」という疑問を提示し、彼らが事業家として大成功したことと、彼らのブランドが世界で「哲学的に」定着しているか、という二者に乖離があるのではないかということについて、八幡さんも同様の感想をもっていました。ネスレ、P&G、ユニリバースなど大きなシェアをもっている会社は、そこにいやおうなしにあるフィロソフィを感じますが、それと同様のことを日本企業で感じることは稀である、と。
「面白い考え、革新的な思想の多くはケンブリッジやオックスフォードから出ていて、ハーバードじゃないんだな。後になって本人を米国に連れてくることはあるけど・・・」と八幡さんがシンボリックなエピソードを出してくれましたが、有用の学からではなく、今の世の中では無用の学といわれがちなフィールドこそが、世の思想を引っ張っていることを認識すべきでしょう。先週、明治大学の管啓次郎さんも「経営学はその社会で通じる言葉を習えるかもしれないけど、それ以上のものではないよね」と言っていましたが、八幡さんは「経済学のように数学的に把握できる内容が学問の成熟度をあらわすとしたら、哲学は一体どうなるんだ?」と語ります。ぼくはこうした内容を反芻しながら、東海道線の上り電車に乗り込みました。

ビジネスに関する多くの論議のなかで、この長期的戦略のベースになるもののコアが、実は空虚であることを指摘する人がいても、それはビジネス的ではないと退けられがちです。しかしながら、結局のところ、ブランドの裏づけとなる思想を確固としたものに形作らないと、それは効率の悪いビジネスの再生産を繰り返すことになります。聖書は毎年億の数で出版されているのです。これをブランドビジネスの面から考えてみてください。
そして、これはデザインについてもまったく同じです。英国人の若いデザイナーが「教養のないデザイナーってナンボのもの?」と語ったとき、ぼくは「これでは、日本のデザイナーは負けるな」と思いました。日本の製造業が海外に拠点をどんどんと移し、日本のデザイナーがデザインをする舞台を失った時、日本のデザイナーに何が求められるのでしょうか? 頭と心の両方に痕跡を残す試みがどうしても必要です。何を見て、何を見ないか・・・の選択を前にした判断が大事です。そして、それは人を頼ることなく、一人の領域を意図的に広げてやることです。