昨年、「トスカーナの露天風呂」という記事を書きました。ドイツ人の友人(アレクサンダー・フォン・エルポンス)がトスカーナの山のなかに、和式露天風呂を作るに至った経緯を記したのですが、実はこの記事に表裏があります。どちらが裏か表かは問いませんが、もう一面は七味オイルの開発ストーリーです。日本の七味唐辛子の三大老舗(京都、浅草、長野)、長野善光寺前にある八幡屋礒五郎の七味唐辛子と、トスカーナにあるエキストラヴァージンオイルのデルポンテのコラボレーション商品の由来と対になっています。これは「ヨーロッパ文化部ノート」に書きましたが、今週、このデルポンテ製品のプロモーションビデオの撮影をしました。どういう背景で、このような商品ー和洋折衷の新しいかたちーが生まれるのかを知るのは、あらゆるプロジェクトのローカリゼーションのアイデアの参考になると思うので、ここでその風景を紹介します。
イタリアの有名ジャーナリストが所有していた邸宅を1987年母親が購入し、数年後、アレクサンダーがそれを遺産として受け継いだ本宅の門。周囲は林に囲まれている。

門の反対側には離れがあり、ここに七味オイルを作る工房がある。

七味オイルは工程として、日本から輸入した七味唐辛子を7グラム、ボトルに入れるところからはじまる。これはビデオ撮影のための実演。

その次にエキストラ・ヴァージンオイルを注入。これが従来あるペペロンチーノオイルと違うところで、オイルの香りと七味唐辛子の香りを同じレベルで調和させるために、新鮮なオイルを使用。辛いペペロンチーノでオイルの香りを隠すのは「あるべき姿ではない」という判断が商品構想のコアにあった。

オイルを入れた瞬間はまだオレンジ色にはならない。時間が経つとオレンジ色のオイルになる。この色がまた綺麗だ。

ボトルにキャップをする。

キャップに熱でカバーを被せる。

この工房から外を眺めると、こんな風景。

実は、この風景が、このようなプロジェクトを実現するにあたって思いのほか大切なことを忘れてしまいがちです。その風景を(2)でご紹介します。
「わたしは、東北の出身ですが、実家に戻ると皆の生活に無理がなく、ほんとうに生活らしさがあって、イタリアの生活に近いなあと実感することが多いですよね。美味しい食べ物はたくさんあるし・・・・。東京のガイドブックで沢山の情報を仕入れて駆けずり回って食べても、全然印象に残らないんです」と、今週会った方が話すのを聞いて、ぼくはアッと思いました。そう、目の前に美味しいものがあって、それを食べて満足しているのに、「いや、もっと美味しいものがあるはずだ」と検索エンジンに走る、そんな生活に追われすぎている日本、特に大都会の姿が目に思いかびました。

1990年代半ばの頃、2002年サッカーW杯日本招致を目指していたとき、日本の多くの建築関係者がヨーロッパのサッカースタジアムに大挙して押し寄せてきました。日本に10以上作らなくていけないサッカースタジアムのアイデア探しです。いわゆる視察です。確かに今世の中にあるもの、過去に誰かがやったことを事前に知ることが重要ではないということはありません。戦略としては間違っていないのですが、全てを見ないと何かがスタートできないというのは、精神構造の問題として褒められたものではないと思います。
ただ、それだけではない深刻な側面があるなと冒頭の会話で思ったのです。目の前で満足している人に対して、「それで満足するなんて馬鹿だよ。もっと世界中の美味しいものを探してみるべきだ」という余計なお節介が多すぎるのではないか、と。それも「お節介だ」と文句を言えばすむものではなく、常に何かに対する満足度をあえて下げる、「君はそこで満足しちゃあいけないんだ」と常時耳のそばでささやかれるゆえに、敗北意識だけはどんどん育っていくということになります。色々な国際比較データで、日本人の幸福度が低いことが取り上げられますが、こういう土壌を無意識に作っていることは否定しがたい事実です。

が、その土壌があるがゆえに、細部に渡って洗練することにエネルギーを注ぎ込み、その結果、工業製品の品質は世界的に評価されることになりました。工場の現場における改善運動は、「それで満足するな!」という追い込みをかけていくことで持続的な活動になります。つまらないレベルで「これでいいや」と満足してはいけない、ということを繰り返し言われてくると、何か目指すべきモデルを傍においておかないと不安にもなります。どこまで努力すれば、満足していいのかという枠組みは心理的安心の素として欲しいのです。これが「何でも視察ありき」の遠因でしょう。
「富士山を美しいと表現するのはいい。日本一と言うのは首をかしげるけど気持ちは分かる。しかし、世界一美しいというのは、井の中の蛙だ」というフレーズを加藤周一の言葉として何度か引用したことがあります。これを普遍性より固有性に拘る日本文化の特徴として紹介してきましたが、「ある文化圏のなかで一番いいよ」とは表現できるけど、違った文化価値体系にもっていて比較するのは愚かであるということです。ナポリの海の近くで食べる海の幸のパスタはものすごく美味しいですが、それを築地の寿司と比べてどちらが美味しいという議論は不毛なわけです。日本の匠の技術で作られた桐の箪笥をヨーロッパの家具と比較しても仕方がないのです。

イタリアは地方ごとの郷土意識が強く、自分のところの料理が一番だと主張します。これを聞いて日本の人は「イタリアはお国自慢が極端だからな。だいたい、隣の土地の料理を食べたことがない人も多いし」とやや醒めた口調で評することがあります。ミラノの人達でイカ墨のスパゲティを食べたことのないケースは多く、このような例を取り上げて、「井の中の蛙」であると言うのですが、ぼくはミラノとヴェネツィアの文化圏の違い、つまり文化価値体系の違いをまず認識しないといけないのではないかと思っています。そして、それらの価値体系やその代表的なものが、カタログ的に並んでいるのが世の中の生活のリアルなありようではないことを思い出してみるべきです。
冒頭の会話に戻ります。ぼくは、ああ、こういう意見が、日本のなかで増えていくといいのだろうなと感じました。美味しいものを美味しいと身体中で感じているときに、それを比較の上で70点とあえて低く点数をつけることは文化的洗練さを意味するのではなく、人間性の歪曲であり、100点と率直に言うことが大切で、願わくばそれが自然に受容される環境を作っていくことが、とっても大切なのだと思います。それが文化的洗練さの帰結すべきポイントではないはないか、と。
ピッツァはラーメンです。決してお洒落な位置づけではなく、どちらかといえば、とりあえずお腹を一杯にさせておこう、それも気楽に・・・というムードの強い食事です。両方とも「じゃあ、ちょっと・・・」という誘い文句が似合います。リストランテにはピッツァはなく、ピッツェリアに行かないとピッツァはありません。前菜、ピッツァ、肉か魚・・・という順に食べるのは、あまり一般的ではありません。プロシュート、ピッツァ、サラダというくらいの食べ方はしますが、パスタを中心としたような食事とは完全にコンセプトが違います。ピッツァを食べてからスパゲッティを食べるのは、ラーメンのあとにチャーハンを食べるようなもので、最近の日本の定食ではありえる組み合わせながら、イタリアのなかではちょっと「外れる」ラインです。だから、ピッツァはラーメンです。また、たまにムショウに食べたくなる頻度もお互い似ています。

ただ、それだけでなく、他にも共通点があります。ピッツァを食べるに、あまり会話に華を咲かせていると美味しくない。つまり話しをしている間にピッツァが冷えると、とても食べられるものではなくなるのです。ピッツァは猛スピードで食べてこそ美味しい。熱いうちに食べないといけないのは何でもそうですが、特にピッツァはその程度が大きい。それが伸びたラーメンが食をそそらないのと同じなのです。のんびり食べていると、大きな丸いピッツァの半分か4分の3くらいのところで、冷えて固くなってきたピッツァ、特に端っこなどは、学校給食の残り物のイメージさえ漂います。だから普段は食べるのがそうスピードが早くないイタリア人でも、ピッツァでは見事な食べっぷりをみせてくれます。日本人のラーメンの食べっぷりで、外国人から「サスガ!!」と褒められるようなものです。

ピッツァに合う飲み物は炭酸系です。コーラやビールです。水ならガス入りです。あのチーズの「ごにゃごにゃねばねば」したものが口に入っている状態をサッパリ系へと変化させてくれます。このリズムと温度変化がまた大事です。さて、そうなると、暑い日に食べるピッツァがちょうどよいのでは?とも思います。季節を問うものではありませんが、あの釜がお店の中に見える場所で食べるには、やや外気が下がってきたときがちょうどよいです。暑い日、あの空間に身をおこうと思うのは尋常ではありません。

さて、イタリア料理における問題とは何か? それはピッツァくらいしか、暑い夏の日、ダラーンと食べる脱力系の食事がなかったことです。食欲がそんなにないとき、サラダ、プロシュート、モッツァレッラチーズだけでは飽きます。本当をいえば、蕎麦やそーめんのような冷たい食事が求められ、確かに冷えたパスタという選択はありますが、そちらにいくと脱力系からずれるケースがあり危険(?)です。そこに寿司が嵌ったのです。寿司の定着には、このようなイタリア料理の弱みを衝いたという背景もあります。もちろん、地球温暖化現象が寿司の普及を助けるという面もあるかもしれません
今週もミラノは毎日30度以上、湿度も70%近いと予想されています。