
今日、近所に住む息子の同級生が学校を休みました。その母親からウチに電話があり、「娘が学校に置いてきた教材を学校の帰りに持ってきてくれない?」と依頼がありました。そこで息子は彼女の教材を先生から受け取り、彼女の自宅に届けます。ぼくも一緒につきあったのですが、インターフォーンで「教材持ってきたよ」と息子が言うと、同級生の母親の「よかったら、エレベーターで上まで上がってきて」という声が聞こえます。それを聞いて、ぼくは「頼んでおいて、自分で降りてこないのかよ。よかったらもないだろうに・・・」とちょっと思います。怒るほどじゃないけど、ちょっとひっかかるなというレベル。「よかったら」はイタリア語で”se vuoi” 。英語なら”if you want”。「君が欲するなら、上まで来てよ」ということになります。

この”se vuoi”がひっかかるのは、ぼくがイタリア語を理解していないからだろうか。この動詞 volere(英語のwantでvuoiはvolere の二人称単数形)が丁寧な疑問形を作ると分かっていても、それを丁寧表現とは受け取れないのです。それはイタリア文化を理解してないからなのか・・・と前々から気になり、イタリア人にも意味を聞いてみたことがあります。理詰めで話すと、「そう、そういう場合は、se vuoi じゃなくてse puoi (できれば)が正しいかもね」という答えがきますが、その本人がそばから”se vuoi”を連発するから、頭と口は別機能なんだと分かります。これはイタリア文化という文脈のなせる業なのか。要はこういうことです。「この行為をするかしないかの決定権は君にあるということは尊重したうえで言っているんだ。無理にやれとも言っていないし、君のキャパや意思を無視して頼んでいるわけでもない。あくまでも君の判断なんだよ」という伏線をしいておいて、「で、君がぼくを助けたいなら、助けてくれよ」と読めなくもない・・・と思うこともあるから、気になるフレーズなわけです。
もちろん”se vuoi”の後が「食事に誘うよ」というなら別に何の問題もないのですが、冒頭のように明らかに頼み事をしている時の”se vuoi”は、どうも頼みを有利に運ぶための術のように聴こえてしまいます。それをまったく気にならないで聞けるのは、こういう文脈に馴れきっているからではないか。あるいは、ぼくもそのように馴れきらないといけないのだろうか。そう考えます。ぼくの倍近くイタリアに住んでいる日本人に聞いてみると、「そうしょっちゅう気に障っているわけじゃないけど、まったく気にならないといえば嘘になる」と。イタリア生活が長いフランス語が母国語の友人は「自分ではあまり使わないけど、それを聞くと嫌な感じというよりなんとなく釈然としない気持ちが残る」と答えてくれます。そうか、あえて大きな声で言わないけど、「なんかなぁ」とは思っているフレーズであることが分かります。でも、ぼくの息子は「決めるのはぼくだと言われていると思うだけ」とそっけない感想。

この”se vuoi”をまったく意識することなく堂々と使えないと、イタリア人の精神構造をマスターできたとは言えないのかなとボンヤリと思います。日本語で「すみません」を連発するようなものでしょうか。「すみません」本来の意味とは関係なく、この言葉を挟むと日本文化に嵌ったような気になるという意味で。多くの外国人が「どうして悪くないのに、すみませんと言うの?」という質問をするのと同じように、ぼくは「頼みたいくせに、やりたければなんて聞き方をするの?」と思ってしまう。どうしても、丁寧表現は遥か遠くに霞み、第一義が頭に直球で浮かんでくる。だからからか、日本であれば謝罪をするケースでも「すみません」と言うのではなく、「それは残念だった」「それはお気の毒」とコメントするイタリア文化が”se vuoi”を多発させるのかと勘ぐります。メンタリティは言葉によって作られ、言葉はメンタリティによって作られる・・・・こんなところでしょうか。

ネットサーフしていたら、日本の方が「ローマで中華料理屋に入ったら中華とは思えぬ料理がでてきて呆然した」と書いた記事をみつけました。今まで似たような文章や感想をこの20年間見聞してきたぼくは「またかよ・・・」とややうんざり。でもこれに対するぼくの意見は何度でも書き続けないといけないとの想いもムクムクと出てきます。
まず、ローマに旅して中華料理を求める場合にそんなパーフェクトを求めるものか?というのが第一点。多分、この方なりの「中華料理」の基準があり、不幸にもそのレベルに達していなかったのでしょうが、日本の山奥に一軒しかないバス停の前にある何でもありの飲食店で出てきた美味くないラーメンを、「これをラーメンとは呼べない!」と批評するのとは少々意味合いが違っています。「これはラーメンではない」というのは極めて個人的義憤に近い、あるいは逆に表現上のあやともいえます。しかし、冒頭の人は、どうも個人的レベルではなく文化的問題として怒っている様子である・・・つまり、文化伝達が正しくない、と。
この方が中国本土や香港あるいは台湾の中華料理を指しているのか、日本における中華料理を指しているのか分かりませんが、世界5大陸に数多ある中華料理をもって中華の定義づけをしているのではなさそうです。およそ日本と日本に近い場所の中華料理をメンタルモデルとして、そこからの差異に許容度が低かったといえますが、ローマでの中華料理も中国系ーイタリア国籍がどうかは別にしてーが作っていたであろうことを想像すると、それを日本人に「君のは中華じゃないよ」と言われても店の人は「この人、何言っているの?中華の何を知っているの?」とキョトンとするだけでしょう。和食もそうですが、国名を前にした〇〇料理の定義は素材や調味料あるいは調理法のどこかに伝統に通じるものがあれば、〇〇料理と称する。これ以上の定義は存在しないとするのが、料理のそもそもの成り立ちではないかというのが二点目になります。つまり、イタリア料理が大航海時代以降にトマトを使い始めた、ポルトガルに祖先をもつ天ぷらを事例に持ち出すまでもなく、料理とは異文化交流の賜物であると考えるのが普通であるということです。

日本の飲食店で家庭で「こんなの和食じゃない!」と叫んだことありますか? 「なんだ、このまずいの」と言っても、和食の定義に合わないという考え方はしないはずです。懐石スタイルのフランスのヌーヴェルキュジーヌを東京で食べるとき、「これは和食じゃない」と評するのではなく、「和食の世界が広がっていいね」と感嘆することが多いでしょう。東京の本格的イタリア料理屋で和風だしのスパゲッティに海苔がのっていると、イタリアらしくないと思うのではなく、和風パスタ専門店のようだなと想起するだけでしょう。しかし、それを通常イタリアに住むイタリア人が東京で食べれば、「これはイタリア料理ではない」と言ってあまり見向きもしないでしょう。ご飯や肉に醤油をかけて美味しいというイタリア人であってさえ、醤油味スパゲッティには関心が低くなる可能性が高いのです。一方、フリットと似た天ぷらには、その洗練さに感嘆をする。以上を三つ目として挙げるのは、料理の異文化交流への評価は極めて主観性が強く、同じものであっても、評価する当人の価値体系のありかによって大きく変わる点です。それも習慣の変化によって変貌する。ミラノの和食屋で20年前に食べたズッキーネの天ぷらはかぼちゃの代替であると思ったとき寂しさを覚え、東京にズッキーネが普及した現在、同じものを「天ぷらの進化」として喜ばしく思ったりするのです。
意図的な異文化交流は先進的にみられ、意図的ではない異文化交流は無知としてしかみられない。しかも、本人の意図など食べる人間はそこまで知らない。とすると、意図的か否の判断は、その店のデザインやサービスあるいはムードなど料理以外の要素で判断することになります。これらによって、価値体系をサービス側から可視化するわけです。「それは料理の本質ではない」という声も聴こえてきそうです。が、料理とは異文化交流の結果であることを常識とするのは、1) だしのうまみは世界共通で評価されやすいと言われること 2)かなり多くの味は食べなれることによって美味しいと思えるようになる という二つの要因によって成立しているからであると思われます。ビールを子供の時に飲んで苦いと思い、大人になってこんなに美味い飲み物はないと思うのは、飲み慣れた結果であるといえます。

そして寿司がダイエットをキーワードに世界中に流行しているのは、食べなれるのは、食べ続けるための動機を維持したからと言えます。最初に生魚の匂いにヘキエキとしてもー特に日本の外で寿司を食べる場合ー、寿司を食べるのは健康に良いと合理的概念を頭で理解したがゆえに継続性を保てます。あるいは、これを食べることで流行のなかにいると認知されると思う、これを食べることで大人の世界に入れるーうにの寿司をカウンターで大将に注文するのはかっこいいことだと若者が認識するー、という価値体系との組み込みへの希求が動機を生むこともあります。もちろん、食べなれたことがなくても、だしのうまみでなくても、「これは美味い!」と初体験で遭遇することもあります。しかしながら、異文化の〇〇料理といわれるものが、こうした初体験で評価されることは確率として低く、自分の知っている料理の近似値かどうかが確率アップの理由となることが多いと考えるのが妥当でしょう。
こうしてみてくると、異文化料理の普及ー日本での外国料理や海外での日本料理ーにあたって必要なことは、ユニバーサルな課題をどう解決するかであることが分かってきます。それぞれにおいて素材の選択から調理法まで技術的なレベルでの意思決定は千差万別でしょうが、テーマはコンテクストのセッティングである点において何ら変わらないといって過言ではないと思えます。「これは日本文化のエッセンスだから、そのまま外国人にも分かってもらいたいんだ」という気力や情熱だけでは殆どものにならず、コンテクストのレイヤーとディテールそれぞれへの丹念な読み替え作業ー時代の流行がこれを楽にしてくれることはありますがーの成果こそがほぼ唯一の道ではないかと考えます。そしてローカリゼーションマッププロジェクトで書いているように、この読み替え作業の領域とスピードは、狙う市場の規模と成熟度によりますから、あえて「読み替えない」という選択肢もタイミングによっては選択の一つであることは頭に入れておくべきです。
<関連エントリー:以下以降のFOODEXの関連記事>
http://milano.metrocs.jp/archives/2978

昨日、ミラノに戻るJAL機内で和食を選び甲州の白ワインをオーダーしてみました。日本のコンクールで金賞をとったとメニューに記してあるので試してみようと思ったのです。サービスしてくれた女性に「このコンクールって何社くらい出るのですか?」と聞くと、「何社か知りませんが、最近、日本のワインは美味しくなりましたね」との答え。別に意地悪ではなく、好奇心で「どう美味しくなったと思います?」と質問すると、「日本食とすごく合うようになりました」との返事が返ってきました。このコメントでぼくが真っ先に思い出したのは、3月初めのFOODEXで日本酒メーカーの欧州営業に聞いた話です。「ヨーロッパで日本酒が売れるのは、英国か北ヨーロッパ。これらの地域の日本食レストランが大きなマーケットです。スペイン、フランス、イタリアというワイン産地ではダメですね」「家庭で日本酒が飲まれることはあまりないです。あわせる料理がないんですよ」
ワインと日本酒は基本的に食事とのコンビですから、料理自身が変わらないとそのままワインや日本酒が飲まれるには若干の無理を強いることになり、日本におけるウィスキーの水割りが日本のウィスキーメーカーの売り込み方によって生まれたのは、料理との相性を考慮した調整結果だったわけです。つまり、JALの乗務員が語った「日本のワインは日本食とすごく合うようになりました」というのは、それまで西洋料理とマッチするワインを目標にしていたのが、日本料理とのフィットに軌道修正した結果であるということを意味することになります。ワインの日本のローカリゼーションの一つである、と。

2月のはじめに「失われた地中海料理」というエントリーを書きました。
数十年前の元町も同じだったのかもしれませんが、あの時代は地中海料理という表現が一般的であったように、やや雑駁な文化受容だったと思います。それにたいして、現在はディテールで嘘がないことを示していく必要がある時代なのだと感じます。
もろん文脈はそのまま伝播できず、ディテールの数々は違った位置づけをされていくのですが、それでもディテールの重みがリアリティを提示し、そのディテールがより検証可能な今は、数十年前とは違った店になっていくのが当然です。しかも、そのディテールは必ずしもすべての視点からみた客観的真実であるよりーそういうこととは、昔でもありえなかったのですがー、君自身の視点で「これ!」と言えれば良いという価値観に我々は生きているという自覚がより強くなっています。だからこそ、「地中海料理」という逃げが通用しなくなったとも言えそうです。
これを書いてから約2ヶ月、ぼくは東京を中心にずいぶんと沢山のレストランに行き、上記を少々修正しないといけないかもしれないと思い始めました。確かにディテールで嘘がない店が増えている一方、「地中海料理」というカテゴリーは逆に拡大しているかもしれないという印象もうけました。2008年のリーマンショック以降、一般にコースの価格が高いフルサービスのフレンチが大いに行き詰まり、そこで生じている業態変更はフレンチからイタリアンではなく、フレンチから地中海と呼ぶにふさわしいミックスした料理が増えているとみたのです。特に15人程度の席数の店ーシェフがメインで多忙な時はホールをアシスタントがサービス。フランスのカテゴリーだとブラッスリーやビストローが増加しているようで、このような店でゆるりと幅の広い料理を提供することで、多くの客の要望を掬って行くことを狙っているように思えました。しかし、これを退歩とみるのではなく進化とみるなら、中華料理やタイ料理からアジアン無国籍と動いたトレンドと同じで、フレンチ、スパニッシュ、イタリアンの無国籍化と位置づけた「地中海」と考えるべきなのだろうかとも考えました。

一見すると、米国経由のピザ(イタリアダイレクトのピッツァではなく)が平均的な層では相変わらず主流ではないか、そこに経済的要因で回帰したのではないかーあまりフルサービスのレストランだとカップルで店に入ってきても、女性が「こんな贅沢そうな場所は恥ずかしい」と帰ってしまうことも少なくない、とあるレストランで聞きましたーという疑問もあります。そういう一面も否定できないでしょう。しかしながら、そのようなトレンドを表面的にみるだけでなく、そこに新しい萌芽をみることも欠かしてはいけないとも強く思うのです。ローカライズとは一直線に進むのではなく蛇行して進むものだとするならば、今の地中海化現象の読み方には注意が必要であると認識すべきでしょう。