コンテンポラリーアーティストの 廣瀬智央さんのアトリエを前回のエントリーで紹介しました。そして、今日、彼から今回の「アートとしての家」の構想と、それに至る経緯を書いた長いメールをもらいました。この内容は非常に面白く、ご本人の許可を得て、ここに作品の画像とともに抜粋することにしました。
1991年からイタリアに住むようになった彼は、日本で活動していた時より広い意味でアートを捉えるようになりました。その契機がイタリアで直観した「アートと生活」のダイレクトなありようだったと言います。つまり、自分自身で「価値の地図」を作れることに気づいた。言葉を変えれば、自分なりのリアルな現実の見せ方がアート表現の一つになると考えるに至ったのです。「必然としてのアート」、とでも言えばよいでしょうか。それが、アトリエ内の家という発想に繋がっています。
ぼくがよく書いている、「自分目線での文化理解の正当性」と同じことを指していると思ってよいと思います。それでは、彼の文章を引用しましょう。
「家シリーズ」の元になる最初の作品が, 1994年に制作した「塩の家」という作品です。これは、角砂糖で造った家の形態をした立体の内側に塩が詰まっている作品で、文字通り塩のための家なのです。見えないけれどそこに在る。現実的に存在する塩ですが、実際に見えているのは砂糖だけで、想像力によって見えないものが見えるというような可視と不可視をテーマにした作品です。想像力によって把握された空間は、精神の豊かさによって生きられるのだとおもいます。
その後、1995年~1998年にかけて造った「紙幣の家」シリーズに続き、2002年〜2006年と「家シリーズ」作品が続きました。紙幣の家の作品は,旅先で紙幣を両替する事がきっかけで始まりました。EU統合前でよかったです。3年かけて旅で集めた紙幣で作った家を一緒に並べて展示しました。紙幣は現前に実在するけれど、どのように存在するのか?そこには両替するたびに見えてくる見えない差異が存在し、価値は常に変化していて、それぞれの紙幣を相対的に見ることで、価値そのものが曖昧であるということ、絶対的な安定的なものはなく、すべてが変化し続けているというような、見えないものが紙幣を通して見えてくるという作品です。余談ですが、紙幣2枚を使って折り紙の作法で家を造るのですが、必ず各紙幣の屋根の部分にその国の偉人?が顔をあらわすとういう偶然の発見もありました。
2003年の家の作品シリーズあたりから、家そのものもつ機能を意識化するようになり、存在や現象の根幹に関わる物の理について抽出しようという段階になりました。まず思い浮かんだ家のイメージは、私的で限定された空間です。個そのものの空間であり、国家や共同体のアイデンティティーのメタファーとし作用させようと思いました。もし、家を内部とするならば、外は外部であるといえますが、家が本当に『いき』られるのは、内部も外部も内ない風通しの良い家にする必要があります。
理想で言えば、家の現実的な境界がなくなる状態で、存在を安心させるその空間は無限に伸縮変化可能であることが了解されるはずですが、壁(境界)がある以上、内部も外部もない家というのはあり得ないので、それはいかに想像力や認識に働きかける詩学的側面が必要になってくることになります。そして、幾重にも切断された空間の地政学的分析こそが必要かと。(ローカリゼーションマップと言い換えてもいいかもしれません。)
分節され、空間の境界を自由に往来するようなイメージで、事物と事物、事物と状況の関係性に思考が及びます。ものをものとして存在せしめる状況や、関係性に新しいアートの可能性を自覚することになりました。このころ、同時に、雑誌『フィガロ』の連載のため、イタリア各地を旅し、ローカルの持つ食材や文化の豊かさに感動し、ローカル・アイデンティティーのもつ食材や日常的なものを、作品素材としてよく使用していました。
そのような中で生まれた作品が、2004年のナポリの家(コーヒーのための家)という作品で、日本の茶室空間をリアルサイズで造り、茶室を反転させて、ギャラリーに宙ぶらりんに展示しました。その状況はカフェテリアを反転させことでできるナポリ式カフェそのものであり、茶室にあるのはコーヒーの粉で、コ-ヒーのための家です。遠く離れた異なる二つの文化が近くに遭遇する瞬間です。
コーヒー文化も茶文化もコミュニケーションを取る文化という意味では、一見相反するものが、詩的行為によって調和を得て全一性することになります。しかし、二つの文化は決して交わらない差異があります。その両義的空間を反映するように、作品が宙ぶらりんの状況になっています。ギリシャ以来の西洋美術史をつらぬく形而上学的な諸問題、すなわち存在論から現象論、そしてそれらを越えて行く関係性の問題へと突入することになります。家シリーズの着地点は、ものとものの関係性から、生活空間自体をアートとして投入して、観客までも巻き込んで行くところまで及ぶ予定です。
これを読んで分かることがあります。アーティストの考えていることが、エンジニアやビジネスマンの考えることと切り離されていると思うことは、大きなミスを招く。いや、アーティストが表現した作品に、日常生活に潜むー底流的なものであれー思考傾向が表れており、これを文化を読むヒントとして大いに活用できると気づいて欲しいと思います。ぼくは日常生活に近いところにあるモノのローカリゼーションへの期待度から文化を読み解く可能性を探っています。一方、アーティストも似たことを考え、ただアーティストはダイアグラムや記述ではなく、こうした三次元のインスタレーションや二次元のペインティングで表現しているのです。これでデザイナーの作品であれば、工業製品やグラフィックに「思考の痕跡」をみるわけです。
注意して欲しいのは、冒頭で「自分自身で『価値の地図』を作れることに気づいた」と書きましたが、これは「文脈を無視して作る」という意味ではありません。「文脈」と「リアリティ」を武器(あるいはフックという位置づけもある)にすれば、何も臆せずに先に進める道が常に開けていると解釈すべきです。あまりに暗黙知の地平が広いと落胆するのではなく、あまりに暗示の多い世界にぼくたちは生きているのだ、と考えられる。この反転のさせ方が、前回書いた、「ゼロから1」の出発点に立つコツではないか・・・そうぼくは思案しています。
<以下、上から順に写真の解説>
塩の家,1994.
砂糖、塩、紙、大理石. 6.5x30x9.5cm
Photography by Tartaruga
Copyright © 2011 satoshi hirose All Rights Reserved.
私は100,000リラで家を建てた. 1995.
3.5×3.5x5cm。Photography by Tartaruga.
CourtesyTomio Koyama Gallery, Tokyo.
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紙幣の家 シリーズ.1995-1998.
Photography by Tartaruga.
Courtesy Sagacho Exhibit Space, Tokyo
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ナポリの家 (カフェ), 2004
201,4×201,4x300cm.
木、ワイアー、カフェ、アルミニュウム、鉄、梯子
Installation view at Umberto Di Marino Arte Contemporanea, Naples, 2004.
Photography by Fabio Donato
Courtesy Umberto Di Marino Arte Contemporanea, Naples.
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