本を読む の記事

Date:13/8/12

ぼくがイタリアに来たのはカーデザインの巨匠であるジュージャロと一緒にイタルデザインを立ち上げた実業家の宮川秀之さんの元で修業するためであったことは、5年前に「ぼく自身の歴史を話します」で書きました。彼に教えてもらったことはたくさんあり、今もその言葉の数々が情景含めて耳に残っています。その一つに、こんなのがあります。

「ぼくはおカネがあり、社会的地位もあると言われる身だ。日本に行けば高級料亭の懐石料理をご馳走してもらう。でもね、本当をいえば、安いラーメンをおいしく食べる方が大事なんだよ。何もないところからどうなるか分からない不安だらけのプロジェクトをはじめ、やっと一息ついたところで食べるラーメンを美味しく思えるよう、どう自分をキープするか?なんだ」

ちょうど其のころ、イタリア都市史が専門の法政大学の陣内秀信さんと雑談していた時、「『イタリア都市再生の論理』のベースになる論文を準備している時、誰かに先を越されないか不安だったけど、そのドキドキがよかったんだね」と話すのを聞いて、「不安の解消の仕方」に宝が詰まっているのだと思いました。30代のはじめ、日本の会社をやめてイタリアで生活をはじめたころのことです。

また、宮川さんのこういう言葉も記憶に残っています。日本でバブルがはじけ3年ほどした時、「これから世界は大きく変わる。中世以来続いてきた売買関係とかの慣習が大きく変わっていくはずだ」と語りました。この言葉には数年前の「ぼくはイタリアに来て30年間、スペックはこうだ、金額はどうだ、サンプルはどうだ・・・ということをやってきた。でも、もう、そろろろ、この俺が言うんだから、そのまま契約しよう、と言われるビジネスにできないかと思うんだよ」というセリフとリンクしていたのではないかと後になって思ったのですが、ネット社会がスタートする前の言葉として含むところが多いです。


一方、今にして上記と関連があるなと思う友人の言葉があります。90年代後半、まだ夜回り先生と知られる前の水谷修さんが「明日は今日より良いという時代は終わったよ。昨日も今日も明日も同じ日が続く。明日が良いから希望が自動的にもてるというわけにはいかないんだよ。だからね、中世のような日々のなかでどう精神的なバリアを乗り越えるかが課題になるんだ」といった内容のことを話してくれました。

未来に向けた<シフト>について理解を深めれば、あなたはきわめて大きな選択を迫られるようになる。(中略) あなたがバランスの取れた生活を重んじ、やりがいのある生活を重んじ、専門技能を段階的に高めていくことを重んじるのであれば、それを可能にするための<シフト>を実践し、自分の働き方の未来に責任をもたなくてはならない。

そのためには、不安の感情に対する考え方を変える必要がある。自分が直面しているジレンマを否定するのではなく、強靭な精神をはぐくんで、ジレンマが生み出す不安の感情を受け入れなくてはならない。自分の選択に不安を感じるのは、健全なことだ。深く内省し、自分の感情にフタをしない人にとって、それはごく自然な心理状態なのだ。不安から逃れたり、不安を無視する必要はない。

と、グラッドンは書きます。しかも、「そのジレンマのなかにこそ、あなたが光り輝くチャンスが隠れている」とー悪い表現をすればー追い打ちをかけるわけです。380ページあまりの「未来の働き方」の本が実は「精神的な克服」をコアのテーマにおいている。不安との付き合い方は「強靭な精神をはぐくむ」ことにある。これは、一体どういうことでしょう。ぼくは「身体を鍛えるように、心は鍛えられない」とよく思いますが、それなら「不安な自分を面白がる」ことに突破口を見出すしかないことになります。

 

尚、本書には2025年の生き方が書いてあり、それを実践するための条件ークラスター重視や人肌のある環境ーが何度も出てきます。 ぼくは、これを読んでイタリア政府や自治体は、本書を使って2025年を生き抜く生活シーンはイタリアに揃っていると海外から優秀な人材と先進的企業を誘致すれば良いのにと思いました。

イタリア人が自国に自信をもつのも当然です。あと15年後の理想郷なわけですから 笑

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:13/8/1

20代、ぼくは横浜でよく酒を飲み遊んでいました。ちょうどそのころ、桜木町にあった三菱重工の造船所が撤退し新たな都市開発が行われることが仲間の間で「噂」として広がりました。商業施設ができるとか、美術館ができるとか・・・ナニ?という感じでした。NOと言うわけじゃないけど、なじみのある風景を短い時間で急変させることに違和感を持ちました。そこで遊び仲間と「とりあえず、跡地を大きな空地にしようよ。そして次の世代にあの土地の利用を考えてもらおう」と言い始め、ああだこうだ、と議論が始まりました。オープンカフェなどというものがとんと普及していなかった時代、ぼくたちは街の中で質の高い空間を味わう経験がアピールには必要だと思い、日本銀行の前の大通りの並木の下で日曜日に集まることにしました。

道を正々堂々と使うわけです。警察に許可をお願いすることもなく。もちろん大通りのど真ん中でやるわけじゃないですが、ぼくのビッグホーン4WDや友人のBMWなどを駐車させ、そのクルマのまわりに椅子を並べ昼食をとったのです。80年代前半、そういう風景がパリにはあっても日本の都市にはない(と、思い込んでいた)。それは街の扱い方でもっと工夫する余地があるのではないか、という提案でした。通りかかりの人たちとも軽くコミュニケーションをとり、「街の軽い空気」を自ら演じることが大切だと思ったのです。

その後、仲間は増え山手のイギリス館で、横浜市長や都市計画局の人たちとのミーティングをもったりして、なんとかして「空地構想」を実現しようと動いたのですが、「みなとみらい」という既定路線は、当然のことながらビクともしませんでした。あ~あ~と開発が進むのを横目に見ながら、結局、ぼくは横浜を離れてイタリアにきました。だから、イタリアに来てから十年以上はほとんど横浜に足を運びませんでした。余談ながら、欧州風を吹かすバーのうさん臭さにも嫌気がさして、そういう店にも一切顔を出すのをやめました。

まあ、ぼくにとって「空地構想」は横浜のもつ「ニセ西洋」からの脱皮でもあったんだな、とも思います。ただ、一部でもいいから都市の空白を残しておきたいという欲求は特に日本の美学でもなく、同世代のイタリア人の友人たちが空地や路上でサッカーボールを蹴った日々を風景としても残しておいて欲しかったと語るのを耳にするにつけ、都市構造やランドスケープに本当のところ、どこまで文化性が問われるのかは、常に眉に唾つけて聴いておかないといけないと感じます。

いったい風景や景色というものは、そんなに変わるものなのだろうか。何年も何十年も、ばあいによっては百年の月日が必要にも思われよう。

が、東西の歴史を振り返れば分かるのだが、実はわれわれは景色を変えることしかやってこなかったのである。レバノン杉はすぐになくなったし、パリは変貌し、福岡のシーサイドは一変した。それが文明であり、文化というものだ。

文化や文明とは、その景色の変え方に本質がある。問題はその変え方だ。都市計画や環境計画や景観学や庭園学では、こうした変え方を「造景」「設景」「修景」などという。まとめて環境デザインともランドスケープデザインともいわれる。

こう松岡正剛は書いています。この話って、盛んにローカリゼーションマップで言っている、プラットフォームは同じでも文化が違うとアプリや使い方、あるいは売り方が違うという話と大分似たところにいます。空地で野球をやるかサッカーをやるかは違ったけど、空地が似たようなガラスと鉄骨のビルに変わるのは同じかもしれません。

過去形と現在形の狭間や過去形の遺し方の多様性にこそ注目すべきなのでしょう。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:13/7/31

ぼくの幼少時の外国人体験を思い起こすと、家の近くにあった教会の米国人神父家族、米軍の軍人、横浜中華街の中国人といった人たちとの接触ーといっても、直接コミュニケーションをもったのは神父家族程度だったと思うーでした。これはぼくの個人的な経験という偶然もありながら、同世代の一般的な傾向が如実に出ていると言ってよいでしょう。

現在、ミラノに住んでいて南米人とのコンタクトはクーリエサービスの運転手やアパートの守衛あるいは掃除をする人たち、アフリカの人たちは露天のモノ売りであることが多いです。そして中国人は飲食店や小売の人たち。もちろん、これはあくまでも街で出会う人たちであり、ビジネスや教育関係の世界に入ると彼らも全く違った登場の仕方をしてきます。一方、韓国人はビジネスかプライベートな生活でのレイヤーが圧倒的に多く、中国人のように小売やサービス業でこちらが客として偶然に知り会うことが少ないです。これも日本人の個別の事例というより、普通に生活しているイタリア人の体験とそう変わりません。

すなわち多くの国籍、多くの民族の人たちに囲まれて生活しているように見えながら、実は非常に限定的な側面しか見ていない。そういうのをあえて超えるには、子供の学校ー特に公立の小学校ーの親と沢山付き合ったり、社会貢献的な活動に精を出すことですが、自らの殻を取り除くためという名目では継続的な活動は続けにくいものです。とするならばー話はかなり飛躍しますがー、この「敷居」の高さは、飲食店や小売りで世界にネットワークをもつことが、ある国の経済を活性化させる「情報収集」に如何に役に立つかの反証にもなります。

華僑や印僑のことを言っているわけですが、上海発でシルク素材をコンテポラリーなデザインで表現し、一流中国ブランドの確立に的を絞った戦略を着実に実行しているアナベル・リー・シャンハイの創業者が日本留学時代に向き合わざるをえなった現実がもつ意味は、ビジネス面からも示唆するところが大です。

1988年、父に半ば強制されるようにして、彼女は日本の地を踏んだ。日本語の予備知識ひとつなく、文字どおり西も東もわからない。(中略) 彼女の場合も、持ち帰り弁当店などでアルバイトをするかたわら、日本語の勉強に精を出す苦しい毎日が始まった。若いからこそ耐えられる、それは肉体的にも精神的にも過酷な日々だったに違いないけれども、彼ら彼女らはそういう暮らしを通じて、日本人とはどういう人々であるか、濃厚な集中講義を受けるにも等しい。一人の平均的日本人が付き合う階層的な範囲を大きく超え、学のある人ない人、カネのある人ない人、ウソをつく人つかない人・・・、彼らは実に多様な日本人と接していく。

現在、上海の中国人の100人に一人は日本留学経験者「留日生」と言われていますが、彼らの間でも「視点の交換」が濃密に行われてきたことを想像すると、商品開発からブランド戦略に至るまで、彼らの底力のソースを片っ端からリストアップしてみたくなります。

こうして生まれるいわゆる知日派は、ライシャワー的な、英語を喋る日本人ハイソサエティとの付きあいが生み出してきた類のそれとは随分と違うものになる。(中略)アナベル・リー・シャンハイのブックカバーが文庫本にジャストフィットしていて、しかもロゴふうの印をあしらったしおりがついていて読みかけのページをマークできるようになっていることなど、彼女が日本で、同世代の娘たちが電車の中で本を読みふける姿をじっと見ているだろう様子を想像させるものである。来店する日本人女性客は、必ずといっていいくらいこれを買っていく。

貪欲に生活しながら、読書習慣の妙に入り込んでいます。この例も「路地裏」と呼んでいいのかどうかわかりませんが、最近の日本食の海外プロモーション流行りーというか政策的な枠組みに入った、というべきーのなかで、その先に「路地裏経済の大きな地図」が描けることが分かると、スカスカ感の強い食周辺の論議ももう少しレベルアップするのではないかと思うことしきりです。

 

 

 

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