本を読む の記事

Date:14/1/5

「石原裕次郎になるんだよ。世界観とか夢なんか、生きているうちに変わっていくものだ。そんなのあてにならない。君がこの女性をどうしても捉まえておきたい!そばにいないとそわそわして仕方がない、という動物的な感覚がなく伴侶を決めようなんてダメだ!俺は今だって女房に対してそう思っている」

結婚を決めたとボスに報告した時の強烈な一発でした。

「どうして決めたんだ?」と聞かれたので、ぼくは「彼女となら価値観や目標が共有できるそうだから」と小賢しく説明したのです。そうしたら、ガツンとやられたわけです。「もちろん、そういう気持ちがあるから・・・」と言葉をついたのですが、ボスの待っていた言葉が最初に出なかった。なにも彼を喜ばせたいとかいうことじゃなく、たき火を消すのに注射器で水を正確に差そうとするようなアホさ加減に自分でウンザリしたのですが、「結婚というのは約束なんだ。約束は守ることに意味があるんだ」と言われ、ぼくは結婚の2つのエッセンスを身体にドーンと投入され、かなりあたふたした覚えがあります。20数年前のことながら、今でも「人生冷や汗もの回想シーン」の筆頭にあがります・・・ということで、ぼくの男女論のベースはここにあります。

男女が知り合うにはいろいろな手立てがありますが、オンライン・デーティングもその一つです。ネットの「出会い系」で知り合うことの是非は、ネットがリアルの人間関係とまったく関係のない点にコネクトするために生じるリスクー信用の裏書がとれないとかーが懐疑派の上位にくるだろうと思いますが、本書を読んでいて感じたのは、「別れの突発性」という特徴です。リアルでの「オフィシャル」(あるいは実名のオープンなネットコミュニティ)な人の輪のなかでできた関係に比べて、相手が別れを切り出してくるタイミングが読みづらく、どうしても突発的に持ち出されることになってしまうことが多いということです。そして「突発的にくる別れ」と「偶然の再会がリアルで生じにくい」が表裏一体の関係になっています。

著者は話を面白くするためでしょう、男性に振られてそれを自分はどう客観的に受け止めたか? 一つ一つの別れを丁寧に書いているのですが(ただ筆者が振った数も少なくないと思われるが・・・)、別れた後も友人として長く付き合っている男性が多いと言いながら、やはり偶然の再会やその後の彼の噂を聞けるメカニズムが成立しづらい寂しさは拭えていないような気がします。しかし、本書でのもっと大きなテーマは、「人生が分かってくる」ことと「人生のパートナーの決め方」の関係です。

数回前のデートのときに、お互いの過去の恋愛の話をしていたとき、私の10年以上も前のボーイフレンドとの関係についての話になった。その彼と私とは、生い立ちも性格もなにもがまるで違う二人だったが、大学院での勉強を始めたばかりの初めの数年間の、精神的にとても辛い時期を共に過ごしたぶん、お互いのいいところも悪いところもさらけ出す、濃厚な関係だった、というのが私の話の主旨だった。私がヴィクターにこの話をしたのは、男女関係の密度というのは、性格がどれだけ合っているかなどということよりも、共有する時間や経験の密度によるものだと思う、ということを言うためだった。だが、ヴィクターはこの話を聞いてまったく違う解釈をしたらしい。「その相手とそんなに濃密な関係をもったんだったら、僕なんかじゃなくてその人と一緒になるのが君にとっても幸せだろう」というのだ。

濃密な時間をもつに相応しい相手なのか、濃密な時間をもつことによってパートナーが決まるのか、ということでもあります。筆者はこのヴィクターという男性との別れから、こういう感慨を持ちます。

どうしても、歳をとるにつれて、自分が心底受け入れられるものや共感できる相手というのは、より限定されてくるという気がする。自分の求めるものが特定化されてくるにつれて、「ケミストリー」といった、言葉にしにくいようなものも、実際どんどん重みをもってくるのかもしれない。(中略) そう思うと、ヴィクターと結ばれなかったことよりも、自分の将来全般について、なんだか悲観的な気分になってくる。

筆者は1968年生まれで2008年の出版なので30代後半から40代に差し掛かる時の文章です。年齢を重ねるにしたがい自分の好みや自分で変えられないところも分かってきます。パートナーの選択肢はどうしても少なくなります。だからこそ、共有する時間や経験でもなく、世界観や価値観でもなく、「あなたと一緒にいたい」というどうしようもならない気持ちになる相手との出会いの意味が重く深くなるのです。逆にいえば、その意味が分かるからこそ、「一生を棒に振る」中年男女の悲劇と喜劇が成立する・・・・。

本書をネット社会論や現代米国文化論として読むのもいいですが、恋愛論として読むのがまっとうではないかとも思います。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:13/12/16

ぼくはかなり長い間、クラフツマンシップが大量生産を支えるという論理に疑いをもってきました。手工芸品の世界と大規模ビジネスの間にあるギャップは大きく、これを一つの世界観で捉える無理を感じてきたのです。伝統工芸にみるような日本人の器用な手が素晴らしいディテールを表現し、その結果、高品質な大量生産品も実現したとの精神論の強い自画自賛的な物言いにウンザリしていたのが正直な気持ちです。しかも時代とともに「高品質」が「過剰品質」と変換されるに及び、「ああ、やっぱりそこにいっちゃったなあ」感が強い。それが1990年代以来の「ものづくり」論議に馴染みにくいぼくの心情であったというわけです。

だからモノとコトで構成された世界を広めていくとの方向にビジネスの舵をきることを盛んに説き、しかし、その一方で造形力が軽視されて良いわけがないことを強調してきました。その時の造形力はクラフツマンシップを含まないわけではないが、あまり大きな部分を占めず、どちらかといえばデザインの美的な側面に目が向いていました。が、今年に入って徐々に考え方が変わりつつあります。しばらく前に書いた「生産性の低さは思考の深さの表現か」では、「緻密性の要求される分野では緻密性を捨てる必要はなく、課題は緻密性の要求されない分野で緻密性をどう捨てていくか?」とのポイントにアクセントをおきましたが、クラフツマンシップへの理解を深める必要を自省しながら考えはじめました。

クラフツマンシップとは、特別にいいものをつくるためのプロセスだ。「フィット(部品間の段差や隙間が少ないこと))・アンド・フィニッシュ(仕上げ)」、細部へのこだわり、丹念、そして誇り。
工業製品の生産において、クラフツマンシップを無視するのは愚かなことだ。長い目であれば、自殺行為である。

こういうフレーズを読んでかつては「ああ、またこれか・・・」と嘆息せざるを得なかったのですが、世界的に徹底してコスト管理された普及品が充満している現実への危機感ーそれは人のものを見る目や考え方があまりに凡庸になる危うさーは抱かざるを得ないと思うに至ったのです。そして凡庸は往々にして品質レベルの低下を招きます。

クラフツマンシップは、表面仕上げのことだけをいっていると思われがちだ。だからこそ、どんなものであれ、手掛けるものすべてに関わろうとする姿勢が必要なことを強調したいのだ。もっとも表面仕上げであっても機能的な効果が見られる場合がある。故障はしばしば構造的ストレスの集中に関連して起こり、それは、製造中や組み立て中に発生した局地的な損傷や、熱処理や部品同士のこすれによる摩耗が要因となる場合が多い。熱効率は、たいてい流体通路の滑らかさや、細かなバーナー形状といったものに依存する。耐食性を支えるのは、厳密な表面剥離制御だ。挙げだしたらきりがない。品質は確実にディテールに依存し、ディテールはクラフツマンシップに依存する。

「ビジネスの不調の原因は品質への過剰投資にある」という批判を極度に恐れるあまり、米国製造業レベルまで落ち込まければなんとかなると品質への手綱を緩め過ぎ、そのうちに砂の穴に落ちていくように日本の製造業も足を掬われてきた・・・そして、その位置を挽回するのがデザインである・・・・とのロジックが幅をきかせ過ぎているのが、今の日本の状況ではないかと考えます。ぼくもデザインに長く関与してきたからこそ感じるのですが、どうも「品質」「デザイン」のロジック上のすり替えが行われている気がして仕方がないのです。本著でいう「美しいものをつくり人よりも『頭を使って仕事をする人』の価値を認める」社会的な傾向が、「価値の変換」の旗印のもとに品質の位置低下を画策してきたともいえます。

クラフツマンシップは学校や企業で議論し取り扱には難しいテーマだ。本能的なものであり、語彙も不十分だからだ。しかし、クラフツマンシップは人間にとって非常に重要であり、今後も消えることのないテーマだろう。

先進工業国では、クラフツマンシップを向上させるための動機が定期的に与えられている。たとえばアメリカが得意とする航空分野では、プロジェクト全体のコストに比べて仕上げ部品のコストが高くつくため、組み立ては必然的に慎重に行われ、航空力学の点からも仕上げや外装のディテールの完成度が押し上げられる。

永遠の重要なテーマであるわりに小さい範囲に押しとどめてきた・・・というのがぼく自身の反省の弁です。

クラフツマンシップは、必要に迫られてからではなく、その前に向上させたほうがいい。私がスタンフォード大学で工学部の学生によく出していた課題は、安い製品(1-2ドル)を買ってそのクラフツマンシップをどう高めるかを考える、というものだった。学生たちはたいてい、安っぽい塗装をやめるといった単純な方法で、課題をクリアできていた

ぼくたちが日常生活のなかで何を目をむけ、何をビジネスのなかに提案していかないといけないかのヒントが本書にあります。

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:13/8/12

ぼくがイタリアに来たのはカーデザインの巨匠であるジュージャロと一緒にイタルデザインを立ち上げた実業家の宮川秀之さんの元で修業するためであったことは、5年前に「ぼく自身の歴史を話します」で書きました。彼に教えてもらったことはたくさんあり、今もその言葉の数々が情景含めて耳に残っています。その一つに、こんなのがあります。

「ぼくはおカネがあり、社会的地位もあると言われる身だ。日本に行けば高級料亭の懐石料理をご馳走してもらう。でもね、本当をいえば、安いラーメンをおいしく食べる方が大事なんだよ。何もないところからどうなるか分からない不安だらけのプロジェクトをはじめ、やっと一息ついたところで食べるラーメンを美味しく思えるよう、どう自分をキープするか?なんだ」

ちょうど其のころ、イタリア都市史が専門の法政大学の陣内秀信さんと雑談していた時、「『イタリア都市再生の論理』のベースになる論文を準備している時、誰かに先を越されないか不安だったけど、そのドキドキがよかったんだね」と話すのを聞いて、「不安の解消の仕方」に宝が詰まっているのだと思いました。30代のはじめ、日本の会社をやめてイタリアで生活をはじめたころのことです。

また、宮川さんのこういう言葉も記憶に残っています。日本でバブルがはじけ3年ほどした時、「これから世界は大きく変わる。中世以来続いてきた売買関係とかの慣習が大きく変わっていくはずだ」と語りました。この言葉には数年前の「ぼくはイタリアに来て30年間、スペックはこうだ、金額はどうだ、サンプルはどうだ・・・ということをやってきた。でも、もう、そろろろ、この俺が言うんだから、そのまま契約しよう、と言われるビジネスにできないかと思うんだよ」というセリフとリンクしていたのではないかと後になって思ったのですが、ネット社会がスタートする前の言葉として含むところが多いです。


一方、今にして上記と関連があるなと思う友人の言葉があります。90年代後半、まだ夜回り先生と知られる前の水谷修さんが「明日は今日より良いという時代は終わったよ。昨日も今日も明日も同じ日が続く。明日が良いから希望が自動的にもてるというわけにはいかないんだよ。だからね、中世のような日々のなかでどう精神的なバリアを乗り越えるかが課題になるんだ」といった内容のことを話してくれました。

未来に向けた<シフト>について理解を深めれば、あなたはきわめて大きな選択を迫られるようになる。(中略) あなたがバランスの取れた生活を重んじ、やりがいのある生活を重んじ、専門技能を段階的に高めていくことを重んじるのであれば、それを可能にするための<シフト>を実践し、自分の働き方の未来に責任をもたなくてはならない。

そのためには、不安の感情に対する考え方を変える必要がある。自分が直面しているジレンマを否定するのではなく、強靭な精神をはぐくんで、ジレンマが生み出す不安の感情を受け入れなくてはならない。自分の選択に不安を感じるのは、健全なことだ。深く内省し、自分の感情にフタをしない人にとって、それはごく自然な心理状態なのだ。不安から逃れたり、不安を無視する必要はない。

と、グラッドンは書きます。しかも、「そのジレンマのなかにこそ、あなたが光り輝くチャンスが隠れている」とー悪い表現をすればー追い打ちをかけるわけです。380ページあまりの「未来の働き方」の本が実は「精神的な克服」をコアのテーマにおいている。不安との付き合い方は「強靭な精神をはぐくむ」ことにある。これは、一体どういうことでしょう。ぼくは「身体を鍛えるように、心は鍛えられない」とよく思いますが、それなら「不安な自分を面白がる」ことに突破口を見出すしかないことになります。

 

尚、本書には2025年の生き方が書いてあり、それを実践するための条件ークラスター重視や人肌のある環境ーが何度も出てきます。 ぼくは、これを読んでイタリア政府や自治体は、本書を使って2025年を生き抜く生活シーンはイタリアに揃っていると海外から優秀な人材と先進的企業を誘致すれば良いのにと思いました。

イタリア人が自国に自信をもつのも当然です。あと15年後の理想郷なわけですから 笑

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