本を読む の記事

Date:14/1/5

新興国のデザイナーの作品をみているとインターナショナルな様式の先端を追っていることを誇示するタイプがあります。それと反対にローカルアイデンティティを強調するものもあります。これは実は新興国だけでなく先進国にもある現象ですが、新興国においてその両者のギャップが大きいため目立ちやすいといえます。そこには経済のグローバリゼーションと文化的なグローバリゼーションとその反動としてのローカリゼーションが絡み合っています。

こうした状況を背景に、どの分野でもコンペやコンクールという形式の競争が増えています。今や大きな公共建築であれば国際コンペが実施されるのは普通だし、クルマのデザインも世界何拠点かの社内コンペで決まってくるし、各国機関のデザイン賞も国際スタンダードに沿うことで権威をあげています。クラシック音楽のコンクールが沢山あるのは、開催地の地域振興というメリットもあるでしょうが、市場のグローバル化に説得力をもたせる意味もあるのではないかと想像します。かつてなら親や先生の人脈で仕事をとれたかもしれないヨーロッパの若手ピアニストも、世界各地ー特にアジア圏ーのライバルと透明度が高いコンクールで名をあげる必要に迫られているわけです。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの審査員であるヨヘヴェド・カプリンスキーはこう指摘します。

若い音楽家が演奏の場を手に入れる方法としては、神童として子供のときに注目を浴びるか、指揮者や主催者となにかのつてで知り合って演奏の機会をもらうか、コンクールで入賞するしか方法がないのが現実です。

したがってコンクールの目的は一般の人が優勝者を賛美する観点とは違うところにあります。

コンクールというのは、XさんよりもYさんのほうがよい音楽家であると評価したり、または、優勝者がわれわれの時代の最大の芸術家であると判断したりといった目的のためにあるのではありません。単に、その時点でプロの演奏活動を始める準備がもっともできている人を見つける、それが目的です。

このコンクールの場合、優勝者は3年間、財団に演奏会のマネージメントをしてもらえるので至極当然のセリフです。しかし、一般の音楽ファンはこういう目でみないでしょう。殊に、日本の一般の人たちにその傾向が強く、音楽から料理に至るまでコンクールやコンペの位置づけを確認しないままに入賞者を持ち上げすぎるきらいがあります。コンクールに出場しなくてもやっていける道があることを知らないためでしょうか。あるいはオリンピックの陸上競技のように唯一の記録で評価されると同じ世界とどうしても錯覚してしまうのでしょうか。他方で、「あのコンクールは黒い」とわけもわからず酷評して優勝者の力量をまっとうに評価しようとしない。また、クライバーンの優勝者が必ずしもその後着実な実績をあげているわけでもないことを例に、コンクール否定論者になるわけです。このあたりは、ぼくがいつも違和感を抱くところです。

審査員のリチャード・ダイナーの言葉もなかなか面白い。彼はこう語ってもコンクール否定論者にならないのです。

『夜のガスパール』とかリストのソナタとか『ペトルーシュカ』ばっかりの演目のリサイタルを本当に聴きに行きたいと思う人がどれだけいると思うかい?コンクールではそういうひとにぎりの難易度の高い曲ばかりに注意が集中してしまうけど、実際にそんな曲ばかり弾いて演奏活動するピアニストっていうのはそんなにいない。そういう意味では、コンクールは、演奏されるレパートリーをつまらないカタチに歪めてしまっていると思う。

現実的なことをいえば、オーケストラを維持していくのには費用がかかるけど、室内楽は経済的にもっとやりやすい。シューマンのピアノ五重奏を弾いて活動するピアニストのほうが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番を弾いて活動するピアニストよりずっと多いんだ。ラフマニノフの協奏曲の演奏の機会っていうのは、独特の解釈をもっているベテランのピアニストか、ギャラの安い若造にいくようになっている。そうすると、若造の年齢を過ぎて中年ピアニストになったときには、誰もラフマニノフ三番を弾いてくれなんて頼んでくれなくなる。

クラシック音楽の市場がどういう消費者によって成立しているかが分かる話です。多くのコンサートホールや劇場は定番で客を確保し、現代の曲で挑戦的なプログラムを組むと客が寄り付かない。この苦境をどう打開してくれる新人を見つけるかがクラシック音楽ビジネスの課題なのだろうことが窺えます。演奏者のマネージャーは、このような文脈をどう読むかが問われるとして、演奏者本人が考えるべきことは、指揮者のコンロンの以下の言葉に集約されるでしょう。

芸術において、一番などというものはない。仲間と競争をしようなどと思うのは、才能のとんでもない浪費である。本当の競争は、自分がもっている精神的、知的、情感的な要素を引き出すための、自分自身との闘いであるべきだ。真の競争はひとつしかない。それは自分のもっている可能性を生きているうちにぞんぶんに引き出すための、時間との競争なのだ。

意地悪くいえば、こういう考え方自身がクラシック音楽市場を維持するに「必要」な要素であることも否定しがたいと思います。しかし、それを人の生きる道の真ん中に備え続ける意思は尊重しないといけないと思う態度も同時に大切です。

 

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:14/1/5

「石原裕次郎になるんだよ。世界観とか夢なんか、生きているうちに変わっていくものだ。そんなのあてにならない。君がこの女性をどうしても捉まえておきたい!そばにいないとそわそわして仕方がない、という動物的な感覚がなく伴侶を決めようなんてダメだ!俺は今だって女房に対してそう思っている」

結婚を決めたとボスに報告した時の強烈な一発でした。

「どうして決めたんだ?」と聞かれたので、ぼくは「彼女となら価値観や目標が共有できるそうだから」と小賢しく説明したのです。そうしたら、ガツンとやられたわけです。「もちろん、そういう気持ちがあるから・・・」と言葉をついたのですが、ボスの待っていた言葉が最初に出なかった。なにも彼を喜ばせたいとかいうことじゃなく、たき火を消すのに注射器で水を正確に差そうとするようなアホさ加減に自分でウンザリしたのですが、「結婚というのは約束なんだ。約束は守ることに意味があるんだ」と言われ、ぼくは結婚の2つのエッセンスを身体にドーンと投入され、かなりあたふたした覚えがあります。20数年前のことながら、今でも「人生冷や汗もの回想シーン」の筆頭にあがります・・・ということで、ぼくの男女論のベースはここにあります。

男女が知り合うにはいろいろな手立てがありますが、オンライン・デーティングもその一つです。ネットの「出会い系」で知り合うことの是非は、ネットがリアルの人間関係とまったく関係のない点にコネクトするために生じるリスクー信用の裏書がとれないとかーが懐疑派の上位にくるだろうと思いますが、本書を読んでいて感じたのは、「別れの突発性」という特徴です。リアルでの「オフィシャル」(あるいは実名のオープンなネットコミュニティ)な人の輪のなかでできた関係に比べて、相手が別れを切り出してくるタイミングが読みづらく、どうしても突発的に持ち出されることになってしまうことが多いということです。そして「突発的にくる別れ」と「偶然の再会がリアルで生じにくい」が表裏一体の関係になっています。

著者は話を面白くするためでしょう、男性に振られてそれを自分はどう客観的に受け止めたか? 一つ一つの別れを丁寧に書いているのですが(ただ筆者が振った数も少なくないと思われるが・・・)、別れた後も友人として長く付き合っている男性が多いと言いながら、やはり偶然の再会やその後の彼の噂を聞けるメカニズムが成立しづらい寂しさは拭えていないような気がします。しかし、本書でのもっと大きなテーマは、「人生が分かってくる」ことと「人生のパートナーの決め方」の関係です。

数回前のデートのときに、お互いの過去の恋愛の話をしていたとき、私の10年以上も前のボーイフレンドとの関係についての話になった。その彼と私とは、生い立ちも性格もなにもがまるで違う二人だったが、大学院での勉強を始めたばかりの初めの数年間の、精神的にとても辛い時期を共に過ごしたぶん、お互いのいいところも悪いところもさらけ出す、濃厚な関係だった、というのが私の話の主旨だった。私がヴィクターにこの話をしたのは、男女関係の密度というのは、性格がどれだけ合っているかなどということよりも、共有する時間や経験の密度によるものだと思う、ということを言うためだった。だが、ヴィクターはこの話を聞いてまったく違う解釈をしたらしい。「その相手とそんなに濃密な関係をもったんだったら、僕なんかじゃなくてその人と一緒になるのが君にとっても幸せだろう」というのだ。

濃密な時間をもつに相応しい相手なのか、濃密な時間をもつことによってパートナーが決まるのか、ということでもあります。筆者はこのヴィクターという男性との別れから、こういう感慨を持ちます。

どうしても、歳をとるにつれて、自分が心底受け入れられるものや共感できる相手というのは、より限定されてくるという気がする。自分の求めるものが特定化されてくるにつれて、「ケミストリー」といった、言葉にしにくいようなものも、実際どんどん重みをもってくるのかもしれない。(中略) そう思うと、ヴィクターと結ばれなかったことよりも、自分の将来全般について、なんだか悲観的な気分になってくる。

筆者は1968年生まれで2008年の出版なので30代後半から40代に差し掛かる時の文章です。年齢を重ねるにしたがい自分の好みや自分で変えられないところも分かってきます。パートナーの選択肢はどうしても少なくなります。だからこそ、共有する時間や経験でもなく、世界観や価値観でもなく、「あなたと一緒にいたい」というどうしようもならない気持ちになる相手との出会いの意味が重く深くなるのです。逆にいえば、その意味が分かるからこそ、「一生を棒に振る」中年男女の悲劇と喜劇が成立する・・・・。

本書をネット社会論や現代米国文化論として読むのもいいですが、恋愛論として読むのがまっとうではないかとも思います。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:13/12/16

ぼくはかなり長い間、クラフツマンシップが大量生産を支えるという論理に疑いをもってきました。手工芸品の世界と大規模ビジネスの間にあるギャップは大きく、これを一つの世界観で捉える無理を感じてきたのです。伝統工芸にみるような日本人の器用な手が素晴らしいディテールを表現し、その結果、高品質な大量生産品も実現したとの精神論の強い自画自賛的な物言いにウンザリしていたのが正直な気持ちです。しかも時代とともに「高品質」が「過剰品質」と変換されるに及び、「ああ、やっぱりそこにいっちゃったなあ」感が強い。それが1990年代以来の「ものづくり」論議に馴染みにくいぼくの心情であったというわけです。

だからモノとコトで構成された世界を広めていくとの方向にビジネスの舵をきることを盛んに説き、しかし、その一方で造形力が軽視されて良いわけがないことを強調してきました。その時の造形力はクラフツマンシップを含まないわけではないが、あまり大きな部分を占めず、どちらかといえばデザインの美的な側面に目が向いていました。が、今年に入って徐々に考え方が変わりつつあります。しばらく前に書いた「生産性の低さは思考の深さの表現か」では、「緻密性の要求される分野では緻密性を捨てる必要はなく、課題は緻密性の要求されない分野で緻密性をどう捨てていくか?」とのポイントにアクセントをおきましたが、クラフツマンシップへの理解を深める必要を自省しながら考えはじめました。

クラフツマンシップとは、特別にいいものをつくるためのプロセスだ。「フィット(部品間の段差や隙間が少ないこと))・アンド・フィニッシュ(仕上げ)」、細部へのこだわり、丹念、そして誇り。
工業製品の生産において、クラフツマンシップを無視するのは愚かなことだ。長い目であれば、自殺行為である。

こういうフレーズを読んでかつては「ああ、またこれか・・・」と嘆息せざるを得なかったのですが、世界的に徹底してコスト管理された普及品が充満している現実への危機感ーそれは人のものを見る目や考え方があまりに凡庸になる危うさーは抱かざるを得ないと思うに至ったのです。そして凡庸は往々にして品質レベルの低下を招きます。

クラフツマンシップは、表面仕上げのことだけをいっていると思われがちだ。だからこそ、どんなものであれ、手掛けるものすべてに関わろうとする姿勢が必要なことを強調したいのだ。もっとも表面仕上げであっても機能的な効果が見られる場合がある。故障はしばしば構造的ストレスの集中に関連して起こり、それは、製造中や組み立て中に発生した局地的な損傷や、熱処理や部品同士のこすれによる摩耗が要因となる場合が多い。熱効率は、たいてい流体通路の滑らかさや、細かなバーナー形状といったものに依存する。耐食性を支えるのは、厳密な表面剥離制御だ。挙げだしたらきりがない。品質は確実にディテールに依存し、ディテールはクラフツマンシップに依存する。

「ビジネスの不調の原因は品質への過剰投資にある」という批判を極度に恐れるあまり、米国製造業レベルまで落ち込まければなんとかなると品質への手綱を緩め過ぎ、そのうちに砂の穴に落ちていくように日本の製造業も足を掬われてきた・・・そして、その位置を挽回するのがデザインである・・・・とのロジックが幅をきかせ過ぎているのが、今の日本の状況ではないかと考えます。ぼくもデザインに長く関与してきたからこそ感じるのですが、どうも「品質」「デザイン」のロジック上のすり替えが行われている気がして仕方がないのです。本著でいう「美しいものをつくり人よりも『頭を使って仕事をする人』の価値を認める」社会的な傾向が、「価値の変換」の旗印のもとに品質の位置低下を画策してきたともいえます。

クラフツマンシップは学校や企業で議論し取り扱には難しいテーマだ。本能的なものであり、語彙も不十分だからだ。しかし、クラフツマンシップは人間にとって非常に重要であり、今後も消えることのないテーマだろう。

先進工業国では、クラフツマンシップを向上させるための動機が定期的に与えられている。たとえばアメリカが得意とする航空分野では、プロジェクト全体のコストに比べて仕上げ部品のコストが高くつくため、組み立ては必然的に慎重に行われ、航空力学の点からも仕上げや外装のディテールの完成度が押し上げられる。

永遠の重要なテーマであるわりに小さい範囲に押しとどめてきた・・・というのがぼく自身の反省の弁です。

クラフツマンシップは、必要に迫られてからではなく、その前に向上させたほうがいい。私がスタンフォード大学で工学部の学生によく出していた課題は、安い製品(1-2ドル)を買ってそのクラフツマンシップをどう高めるかを考える、というものだった。学生たちはたいてい、安っぽい塗装をやめるといった単純な方法で、課題をクリアできていた

ぼくたちが日常生活のなかで何を目をむけ、何をビジネスのなかに提案していかないといけないかのヒントが本書にあります。

 

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