本を読む の記事

Date:09/7/20

歴史というのはややこしいものです。歴史家の木村尚三郎でさえ、「今の時代のことだって分からないのに、どうして過去のことが分かると思うのか?」と語っていました。同時代には目に見えること、目に見えないこと、まったく無数の事実と想いが表出され、これをひとまとめにしてこうだとは言い切れないものです。あくまでも、こういう前提で、こういう解釈が可能だと思うというところまでしかいけないでしょう。

多くの「史実」が時代によって二転三転するのは当たり前であり、その二転三転自身を含めて、時代は作られていくのでしょう。かつて、「ヨーロッパ文化部ノート」で友人が「日本の文化はヨーロッパ文化史からいえば、ゴシックだ」と語った話を書きました。世の中には類似や同類のことがさまざまにあり、この同類を違った地域のなかでも見出せば、「文化的共通点」があると言われたりするわけです。しかし、とあえて書きますが、しかし、どこでも探せば同類はある程度見つけ出すことができるのも一理で、大事なのは、どういう文脈であるいは時代のどういう層で、これら違った地域のなかに共通点を見出すかをはっきりさせることです。

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フェルナン・ブローデル『地中海世界』を読むと、明治大学の管啓次郎さんではありませんが、歴史は「擬人化」という表現がピッタリします。作家では司馬遼太郎や塩野七生であったりが、日本の幕末やヴェネツィア共和国の姿を自分の目で書いたわけです。別の人間が同じ時代を描けば違ってくるので「〇〇史観」「〇〇の歴史」と言われます。そこで「ブローデルの歴史」は強烈です。

歴史とは、われわれを取り巻き、悩ませている諸問題や好奇心ーさらには不安や苦悩ゆえに過ぎ去りし時代に絶えず問いかけをしてゆくことをおいてない。人間が住んでいる他のいかなる世界にもまして地中海世界はそのことを証明している。地中海世界は絶えず自らについて語り続け、自らを生き直すのを止めたことはなかった。それはおそらく楽しみゆえにやってきたことであろうが、それに劣らず必要に迫られてのことでもあったのだろう。かつて存在したことは今も存在することの条件である。

この「まえがき」の文章は、かなり多くを語りつくしています。ここでいう地中海世界とは地中海沿岸よりもっと広い世界を指していますが、次の文章が、「地中海世界をみる意味」を表現しているといえます。

文明の十字路に立つ地中海世界、異文化が混じりあう地中海世界はわれわれの記憶の中では、自然の景観の点でも人間的景観の点でもまとまった一つのイメージとして、すべてのものが混じりあい、そこから再び独特の統一体に構成されてゆく一つの組織体としての姿を保っている。

こう書かれて、「いや、そうじゃない」とはなかなか言えるものではありません。それだけの「実力」が地中海世界にあるということが、この世界の片隅に住んでいるぼくにも、身をもって分かります。どこの時代を切り取っても、それなりの独特のものが出てくるのですが、それらが一つのイメージのなかに包括されやすいのです。それは水平移動しても同じです。時間軸と空間軸がそれぞれの軸において、お互いに相互作用し続けている結果ではないかと思います。それも、その相互作用がものすごく強い。これは「魅力」とかいう言葉では言い切れない、何か言葉を新たに創らないといけない世界ではないかといつも考えています。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/7/13

自分が生まれた国のことは、長い間、国の外に出て生活してみないと分からないと思っています。国の良さや悪さという散文的な感想ではなく、国の「かたち」というべき全体構造が外からでないと見えてこないのです。外国に住んで、多くの人と何らかのことを営み、喜んだり悲しんだりしていかないと自分の生まれた国のことが分からない。それはぼくの経験では、最低、10年くらいを要するのではないかとも感じています。

よく「自分の生まれた国のことも、感覚を鈍らせないように・・・」とか言う人がいますが、こういう人は、異文化と時をともにするということがよく分かっていない人です。ある世界に住むのは、他の世界の何かを捨てることです。何も捨てずに、新しい世界の中身を取り入れることはできません。捨ててこそ、見えてくる世界の価値を認識すべきでしょう。加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店)には、長く外国に住んだがゆえに見えてきた日本ーもちろん、中国、日本、ヨーロッパ、その他の地域に対する深い造詣があるのは当然ですがーがあります。

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全体に対して部分を重視する傾向である。時間における「今」の強調は、時間の全体に対しての部分の自律性(自己完結性)の強調と考えることもできる。したがって空間における「ここ」の重視、さらにはここ=限られた空間を構造化するのに全体の型よりも部分の質に関心を集中する態度と呼応するだろう。「全体から部分へ」ではなく、「部分から全体へ」という思考過程の方向性は、「今=ここ」の文化の基本的な特徴である。

加藤周一は「始めと終わりがある時間、両端の閉じた有限の直線(線分)として表現されるような歴史的時間の表象は、ユダヤ・キリスト教的世界の特徴」とし、近代ヨーロッパの時間概念はユダヤ教的時間によるところが大きく、ギリシャ的時間ではないとしながら、日本の時間概念には「始まりと終わりがない」がないとみます。それを文学形式では連歌を例にとりあげます。

連歌の流れはあらかじめ計画されず、その場の思いつきで、主題を変え、背景を変え、情緒を変えながら、続くのである。その魅力は、作者にとっても、読者にとっても、当面の付句の意外性や機智や修辞法であり、要するに今眼の前の前句と付句との関係の面白さである。面白さは現在においても完結し、過去にも、未来にも、係わらない。連歌とは、過ぎたことは水に流し、明日は明日の風に任せて、「今=ここ」に生きる文学形式である。

これが日本の「随筆」についても言え、ヨーロッパでいう「エッセー」のように「建築的構造」をもたず、「各瞬間における生活」を描いていると指摘しています。要するに、有限的な時間概念をもつと、そこにストラクチャーを構築するという発想が生まれますが、始めと終わりがはっきりしない時間のなかでは、「建築的構造」が成立しにくいのです。これが「世界観」や「概念」の捉え方の違いにでてきます。ヨーロッパの普遍主義を相手にこういう説明があります。

異民族や異文化を支配するためには、物理的な暴力による強制とともに、支配を正当化する言説を必要とする。その言説は、被支配者に対しても説得的でなければならない。あるいは少なくても支配者の側が、説得的であり得ると考え、主張することのできるものでなければならない。そういう言説が生み出されるのは、境界の開かれた文化圏のなかからであって、閉じた地域文化のなかからではない。


この部分、特に「説得的である得ると考え」というが重要です。開かれた文化として異文化と常時接しながら説得的である言説を試みるというのは、ぼくが主張している「ユニバーサルとは言葉で納得できることだ」ということをバックアップしてくれる内容です。日本の建築の特徴では、ぼくは加藤周一の言う「建て増し」論を引用してきましたが、この本では「奥の概念」「「水平線の強調」もあります。ヨーロッパのゴシック教会で象徴される垂直ではなく、日本では水平線が強調され、五重塔でさえ、そこには垂直線を隠す、「塔の非塔化」が見られるのです。これが街となった場合、その全体を定義する明瞭な原理がないとなります。芦原義信『東京の美学ー混沌と秩序』の「カオス」に、こう意見します。

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東京の機能(安全、公衆衛生、郵便、電話等)の効率を強調し、それを「隠れた秩序」とよんだのである。そのことにも私は賛成する。しかしそこから「美学」について語るのは無理だろうと思う。水道の水をそのまま飲んで下痢をしないのは、素晴らしい機能である。しかし公衆衛生の高い水準を支える秩序は、美的秩序ではない。

この「水平線の強調」や前に述べた部分重視がアンシンメオリーの文化とどう繋がるか?そのロジックがここにあります。加藤周一が語るそれぞれの「要素」が、こうやって構築された論理になるとの一例です。

細部は全体から独立してそれ自身の形態と機能を主張する。それが非相称的美学の背景にある世界観であろう。その世界観を時間の軸に沿ってもれば「今」の強調であり、空間の面からみれば「ここ」、すなわち眼前の、私が今居る場所への集中である。時間および空間の全体を意識し、構造化しようとする立場に立てば、相称的美学が成り立つ。相称性は全体の形態の一つだからである。時空間の「今=ここ」主義を前提とすれば、それ自身として完結した部分の洗練へ向うだろう。

ここで部分主義はとても大きな構造の中で語られており、それは単に「日本人はコンセプトを作るのが苦手で品質に向う」というところで話しが終わってはいけないことに気づくはずです。そして、内面化された文化の特徴を翻せないとは、加藤周一は語っていないのです。こういう特徴を悲観的にとるのではなく、あるいはそのまま逆手に取るだけではなく、変化するための動機としても利用すべきではないかと思います。それが、この本を読んで痛切に感じるところです。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/7/9

フィンランドの携帯電話機メーカー、ノキアのメッセージはConnecting People ですが、これは実に上手く現代と企業コンセプトを説明しているなと思っています。モバイル機器メーカーでこれほど印象に残るメッセージを送っている会社は他にないでしょう。先日紹介した宮台真司『日本の難点』でも書いていますが、技術革新が進み個々の孤立化が進めば進むほど、あるいは経済社会の効率化が進めば進むほど、それと同時に生活世界における密着性ー人の顔の見える関係ーがより重要になってきます。ノキアは、この時代の動きと自分のサービスコンセプトの両方のポイントをカバーしている点で優れているとぼくは考えました。

お互いに、自分は自分、他人は他人ですが、同時に結び合いもしたい。かつての共同体のように、家族であれ村であれ、四六時中、私のない生き方をしたいわけではなく、私は私で、他とは違う意識は、今のように共通目標がなくなったからこそ、かえって強くなっています。にもかかわらず、まさに共通目標がないからこそ、一人ぼっちは限りなく寂しい。

これはヨーロッパ中世史が専門だった木村尚三郎『ヨーロッパ思索紀行』(NHKブックス)の文章です。「二つの間、つまり一人でいるということと、人はお互いに結び合って生きていることの間を、現代人は絶えず往復しているといわざるを得ません」といいます。哲学者の大橋良介は「切れつづき」という言葉で、切れているようでつながっている、つながっているようで切れている、という状況を表現したと紹介しています。

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上の絵はマチスの「ダンス」(1910年)ですが、草原の上で手を取り合っている男女5人のうち、一つのポイントで手を取り合おうとするのですが繋がっていません。これが現代であると木村尚三郎は言ったのです。そして、もう一つ現代の特徴として彼が挙げたのが、「動く」ということです。

動くということは、かつては非日常の世界へ入ることでしたが、今は、動くことを通して、日常生活を、くらしといのちを最高に輝かせたいという方向に変わってきています。動きながら情報のやりとりできるツールは、これから大きく発展していく可能性があります。

冒頭にノキアの企業メッセージを紹介したので、この文章がノキアをヨイショしているように誤解される可能性があります。しかし、ぼくが言いたいのは、この文章にリアリティをもつにはノキアの事例が有効であり、こういう例がないと、歴史家や思想家の想いはなかなか一般には伝わりにくいかもしれないということでもあります。思想家も普通の家庭人であり、それはノキアの開発現場で働くエンジニアとさほど違わない世界であり、したがって、両者とも同じようなリアリティを経験しています。それが最終アウトプットとなった時、その二人を繋ぐものが見えなくなりがちで、これを再構築していく作業が必要です。誰かがやらないといけません。

動くことについて木村は、日本文化の特徴であるとも語っています。

中華料理の回転テーブルも、日本から始まったものです。文楽の場合でも、義太夫語りの席がグルリと回って突然出てきます。お化け屋敷もそうです。急激に状況の一切を変える発想は、ヨーロッパ人には馴染みが薄いようです。これは日本人には得意なことであって、折り紙がそうです。

四角い折り紙が次には三角になり、あれよあれよという間に鶴になります。いわゆる生成発展の結果少しずつそうなるのではなくて、急に事態が変わるのを、フラクタル現象というようですが、この折り紙の発想でできているのが、宇宙ロケットの太陽光を受ける受光板です。東京大学工学部の先生の名を取って、ミウラ折りと言われます。

これは回転寿司が日本的発想であることの説明でもあります。「急激に状況の一切を変える発想」という部分は、評論家の加藤周一がいう、日本文化の時間と空間では、「ここ」と「今」が一番重要であるという視点と繋がっていると思います。西洋の構造化された世界観では馴染みにくい発想である、即ち「過去は水に流す」という世界と、「動く」世界は、同一線上にあると言って良いかもしれません。だからといって、ぼくは構造化が重要ではない、その位置が相対的に低下しているという文脈で言っているのではないので、ご注意を!

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