本を読む の記事

Date:09/8/3

ぼくは高校生の頃に、ものごとの全体をつかむことに関心を覚えたと記憶していて、それは仏文学者の桑原武夫の著書による影響が大きかったとずっと思ってきました。それが確かである一方、同じ頃、評論家の加藤周一の考え方にも魅了されていました。彼が40代後半で出した、自身の生まれから40歳周辺までを書いた『羊の歌』『続 羊の歌』は繰り返し読みました。しかし、彼の生き方に関する叙述にあまり惹かれることはなかったと思い込んでいました。

昨年、『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』を上梓するに際し、本の帯にお願いしたい方がいるか?と出版社から聞かれました。ヨーロッパ各国の専門家はたくさんいますが、ヨーロッパを全体的に見渡している人は加藤周一であろうと思い、氏の名前を挙げました。しかしながら、そのときー確か去年9月末ー加藤周一氏は病床にあり、本を読める状況ではないということを残念ながら知るに至ります。その約2ヵ月後、彼の死が新聞各紙で報じられることになります。

11月末、ある方がぼくの本を読んでくださり、献本すべき人のリストを送ってくれたのですが、そのリストに加藤周一の名前がありました。ぼくの意図が通じたようで、とても嬉しかった。しかし、それから数週間にも満たないタイミングで氏が亡くなったのです。それ以降、『羊の歌』をじっくりと読み返す機会を探ってきました。約40年を経てそれをどう読むか(読めるか?)と新たな発見を期待しながら、二冊の本をこの数日で読了しました。

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彼の女性との出会いや想いがさまざまに書き連ねられ、それが書物による知識やその他の文化論議にも優先する想いとなっており、それが基調になっていることに再び(多分、再びなのだと思います)驚きます。そして、もうひとつが政治に対する態度に感心します。その場、その場で、乏しい情報に基づきながらも、乏しい能力の許す限り、自分の暫定的な答えが出なくてはいけない。道義ではなく情報分析と理屈の問題として、それが処理されるべきである・・・すべての政治的な行動の値打ちは、相対的なものにすぎないと書く背後には、大戦や安保を巡る経験が渦巻いています。

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条件付きでないと回答ができないと語ること自身に大きな意味があります。条件なしで何が良く何が悪いとは断定できない。政府や経済のシステムも、それ自身の判断にあまり意味はなく、その時とその場でどういう立場で関わるかで、「回答」の中身は変わってきます。だから、回答を控えるのではなく、条件を述べたうえで暫定的な回答をすることに意義があると考えるべきなのです。それが現実を前に推進させる力になります。加藤周一が「左翼知識人」の限界を示したと難じる人たちが今の世の中にいますが、本人が生きた時代において、ある暫定的な回答の無限の力と、暫定的であるために有限でしかない力、そのありようであるとしか言いようがないのではないかと思います。

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冒頭に書いた、今回あらためて気になった、彼の生き方に触れた部分を最後に書いておきます。

私は血液学の専門家から文学の専門家になったのではない。専門の領域を変えたのではなく、専門化を廃したのである。そしてひそかに非専門化の専門家になろうと志していた。その後、今日まで、私は、竹内好や安保条約や源氏物語絵巻について書き、日本の近代思想史やヨーロッパの現代思潮ということについても書き、また大学の教室で、「正法眼蔵」や「狂運集」のことを喋った。そういう意味は、外からもとめられたのではなく、それぞれの機会にみずから択んだのであり、私にとって互いに関連のないものではなかった。はじめからはっきりしていたのではなく、次第に私自身に見えてくるようになった一種の関連・・・しかしそれはもっと後になってからの話である。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/7/24

ぼく自身、ヨーロッパで外国人として生活しているわけですが、非常に奇妙なポジションにいるなあとよく思います。ヨーロッパ各国の移民対策や移民反対の運動とある部分で現実的にかかわり、ある部分ではまったく無縁であるからです。外国人は外国人なので制度的な面で不便を蒙ることがありますが、実生活のなかで外国人であるがゆえにあからさまに差別を受けることは殆どありません。また、それこそ「移民」とカテゴライズされるとちょっと違ったニュアンスになるのは、アフリカ、中東、南米などの人達とやや環境や条件が違うこともありますが、「親戚も含めたコミュニティがここにある」世界とは全く無縁であることが一番の特徴でしょう。最近、各国で「統合化政策」の一つとして自治体レベルの選挙権を与えるなど外国人へのアクセスがありますが、これを外国人が全面的に歓迎して積極的に参加しているかといえば、そうではないところが国籍あるいはシティズンシップの問題の見えにくい部分です。

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住んでいる国と一体化したいかどうかといえば、そう思い切ることはなかなか簡単ではなく、特に日本のように二重国籍を認めない国の人間にとっては、かなり重い決断を迫られます。実際、外国人と結婚しても日本のパスポートをもっている人は少なくありません。いわゆる「帰化」というのが、必ずしも外国に住む場合の最終型になっていません。帰化してどういうメリットがあるのか?という問題があります。また、フランスのアルジェリア第二世代や第三世代にも見られますが、「帰化しても、どうせ、俺たちを移民扱いするに変わりないさ」という諦めも背景としてあります。お互いが歩み寄るような工夫はあの手この手で施しても、なかなか距離が縮まらないのです。

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社会学者の宮島喬『ヨーロッパ市民の誕生ー開かれたシティズンシップへ』(岩波新書)にも、ドイツが国籍は血統主義から出生地主義に変えても、移民が諸手を挙げてドイツ国籍をとるわけではない状況が書かれています。出生地主義では、生まれた場所を重視することで、国籍取得を容易にします。したがって、移民受け入れのための重要なキーになっていますが、これを必ずしも「善意」としてとってはいけないというのが、フランスの出生地主義であると本書には説明されています。19世紀後半、ベルギーと接した地域で工業が盛んになった際、多くの外国人労働者が住み着きます。これに目をつけたのが軍部であり、労働者である限り外国人であることは問題となりませんが、徴兵としてとる場合、外国人を徴兵するわけにはいかず(いわゆる外人部隊を別にして)、いわば兵力増強の一環として出生地主義が採用されたのです。

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宮島喬は、最後に日本の事情をとりあげており、日本国籍には独特の付可視な基準が期待されており、戸籍制度とも関連しますが、「日本人らしい」ということと「血」の二つが両立することが社会的に暗示されていることを指摘しています。身体的に日本人らしい、あるいは日本語を日本人らしく話すという面が見られると同時に、日本人の親のもとに生まれるという「文化的であるとともの生物学的」が、日本人のメンバーシップ基準であるといいます。これがいわゆる「在日」の問題と繋がってくるわけです。大きな政府か小さな政府かが政治の世界で問われるとき、移民受け入れに積極的なのが大きな政府であり、消極的なのが小さな政府という傾向をみますが、これは効率性や経済性への見方の違いだろうとぼくは考えています。そして大きな政府は、移民を文化問題として考えるということもいえると思います。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/7/23

ヨーロッパが近代社会を迎え、技術を中心とした猛烈な社会革新が生じて以降、繰り返し「技術によって世界は均質化されてゆく」ということが言われてきました。新しい技術製品が世の中に普及するたびに「今度こそは・・・」という思いに駆られてきました。電話などの通信システムもさることながら、飛行機の発達により、人々の国境を越えた移動が容易になったことも文化の均質化を促すことになっています。Wallpaper で名をあげたTyler BrûléによるMonocle という雑誌は、いわば身体的にボーダレスを生きている人達を対象にしたライフスタイルマガジンですが、「均質化を共有する層が増加しつつある」という認識に基づいているのでしょう。昨日は香港、今日はドバイ、来週はサンパウロという行動をとる人たちが、何かを作りつつあるのではないか?という感覚が根底にあるようです。

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このような感覚、世界はだんだんと同じになりつつあるというのは、1980年後半から、つまりベルリン壁崩壊以降の米国中心のグローバリゼーションやネットの発達でさらに加速した感があります。ヨーロッパもEUとなり、ユーロの導入で更に国境の壁は低くなり、異文化という言葉がなくなるのではないかという勢いが一時ありました。しかし、「皆、同じ文化に生きているよね」という感覚を実際にもつのは、電子デバイスやネットでのある特定の事象に対してであったりーiPod, Facebook, Twitter などーであり、それでも日本のブログやFacebookが圧倒的に匿名によって成立していることが特徴としてあげられるように、文化的差異は常に再び浮かび上がってきます。スマートフォンの普及の地域差をみても、それは言えるでしょう。故障したときに自分で店にもっていける製品は、店にもっていけない大物家電と比べると、文化差が出にくいとも言われますが、前者でも好まれるインターフェースは地域によって違います。

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自動車も同じで、クルマのエンジンチューニングやエアロパーツをつけるカスタム化はドイツやスイスに多く、イタリアでは相対的に人気がありません。アーサー・D・リトルの川口盛之助さんは、以前お会いした時にデコトラ文化圏というのがあるのではないかという話しをしていました。デコトラとは、飾り立てたピックアップトラックのことで、東南アジアや南米に見える現象です。(ぼくの観点では)このようなモノ(*)の文化差をユーザ工学を基点に探求していこうというのが黒須正明さんの提唱する以下、人工物発達学です

(*)正確には「人工物」で対象はハードウェア、ソフトウェア、ヒューマンウェア、システムを含みます。ハードウェアには、文房具や食器、大工道具、家電機器、オフィス機器、AV機器、情報通信機器、医療機器、車載機器、教育機器、工作機器、さらには自動車、列車、あるいは建築物や道路の植栽などの構築物。ソフトウェアは、OS,アプリケーションソフト、(携帯電話などの)組み込みソフト、イメージ、サイン、シンボル等の有形無形の表現、小説、新聞記事、映画など。ヒューマンウェアは、人が関与するサービス(営業活動、博物館の説明員、配送や保守点検活動など)です。

人工物発達学は、特定の目標達成を支援する目的で開発された人工物のデザインがなぜ多様であるのか、またその多様性には歴史的・環境的・社会的・文 化的な必然性があるのかどうか、またそこには認知工学的・人間工学的な合理性があるのかどうかを明らかにする研究領域である。つまり、同一の目標達成を支 援するために多様なデザインがあった時、それらが歴史的・環境的・社会的・文化的にみて、それなりに必然として成立したデザインといえるかどうかを分析評 価する。その上で、ユーザビリティの観点、つまり認知工学や人間工学の観点からみても最適となっているかどうかを分析評価する。

人工物には、たとえば歴史的必然性はあっても、認知工学や人間工学から見たときに合理性や必然性がないものもある。人工物発達学は単純に歴史や文化 を否定するものではないが、合理性がないデザイン、あるいは低いデザインについては、少なくともそうした認識は必要であり、またユーザが合理性や必然性を 追求する場合には、利用するデザインの切り替えが発生しても然るべきだと提唱者黒須正明は考えた。

近江地方の木沓(きぐつ)の写真を見たとき、世界夫々の地域にある履物との違いがどうして生じたのかと思ったそうです。オランダの木靴は有名ですが、近江地方のそれは歩行に適しておらず、オランダのそれは日常で使用される。これは、どういう違いから、どういったプロセスと背景をもっていることに起因するのか。前者は「寒風でさらされる湖上での網の引き揚げ作業の防寒具として開発され」、後者は「湿った土地や砂を多く含んだ土地での農作業の際、断熱効果の大きい木を利用して開発された」ということですが、この人工物発達学で面白いのは、「何故、それが発達しなかったのか?」という疑問をも追及する点です。効率性だけで人工物が発達してきたわけではなかった「それ以外の要因」が、この研究によって明らかにされていくであろうことがぼくには興味が惹かれます。

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去年10月に総合研究大学院大学から発行された『人工物発達研究』を黒須さんから受け取り、これを読み、今まで文化人類学や民俗学で見てこなかった(見えてこなかった)ポイントにずばりと的中していることが分かりました。ケータイなどの通信システムの使用調査(国内各地やタイなど)だけでなく、ブリガリアで行った「ヨーグルトをめぐる食文化の経営人類学的研究」も興味深い内容です。また、中国や韓国では箸を食卓に置くとき、ユーザーの体に垂直におきますが、日本では体に並行に置きます。これはぼくも以前から不思議だったのですが、効率からいくと中国型のほうが優れています。にもかかわらず、日本では横置きが定着したのですが、本誌ではこの問題にも触れ、理由は不明で、これから研究していくとあります。ぼく自身、インターフェースの地域差からヨーロッパ文化論の見直しをする必要を考えはじめたので、この人工物発達学はぼくが考えているフィールドと非常に近いところにあります。ですから、この学問の提唱が行われたことが、ぼくには率直に嬉しいです。

+「ヨーグルトをめぐる食文化の経営人類学的研究」は「ヨーロッパ文化部ノート」(以下)に概要を紹介しました。

http://european-culture-note.blogspot.com/2009/07/no.html

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