本を読む の記事

Date:09/8/12

ぼくはイタリアに来た当初、トリノに住んでいたのですが、トリノはバロックの街です。いわゆるイタリアの迷路性溢れるイメージとは程遠く、「小さなパリ」とも呼ばれた都市です。道路が碁盤の目になっていて、そこにはバロック建築が軒を並べています。また実際、文化的にフランスの色が濃いのが特徴です。実は、滞在して数ヶ月は、このトリノの街から圧迫感をうけていました。馴れぬ新しい土地での生活というプレッシャーもあったと思いますが、あのゴテゴテしたバロックの連なりが趣味の悪さにしか思えなかったのです。

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浅はかなものだったと後になって気づきました。住み始めてから数ヶ月を経たころ、あの装飾性の高さのなかにエネルギーを感じ始めたのです。それも溜め込んだ噴出する直前のエネルギーを。何か読んだのでもなく、誰かに聞いたのでもなく、ただ毎日生活しているうちに、建築デザインにそういう威力をぼくなりに察知したのです。イタリアの魅力という沼地に足がズブズブと引っ張られる。それを自分のからだで感じたのは、このころです。ぼくはバロックを、このときより肯定的にみるようになりました。

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1980年代半ば、イタリアやフランスの思想界でバロックが脚光を浴びていたとは知らなかったのですが、そのバロック再評価は19世紀後半のスイスの美術史家に端を発していたとはもっと知らなかったのですが、ー「生成」「運動」「不協和」といった、「ルネサンス芸術にとっては未知の世界を切り開いた」バロックのもたらす、「刺激」「恍惚」「陶酔」にも深く魅了されていた、とハインリッヒ・ヴェルフリンについて岡田は書くーバロックを過去のものにはしえないバロックの執拗さに、ぼくはトリノの街で説得されたのだろうかと思います。

「<クラシック>という語で理解されるのは、実質的に、一定に秩序づけられた基準適合性へと向う判断のカテゴリー化のことである。これにたいして、<バロック>という語で理解されるのは、システムの配置に強い刺激を与えて、それをあらゆる部分でぐらつかせ、揺らぎと乱れのなかにもたらすことである」

オマール・カラブレーゼの文章をこう引用しています。これは、多分、イタリアに、トリノに住んでいなかったら、よく分からなかった内容ではないかと思いながら読みました。さて、ここで岡田がバロック評価について解説している「鏡」としての時代にポストモダンを映しこんでいるのですが、バロックとポストモダン・・・・そういえば、今年のミラノサローネ期間の王宮で開催されたイタリア家具500年の歴史で、バロックとポストモダンの家具が並列されていました・・・それを思い出しました。なるほどな、とぼくは感心した理由が分かりました。

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この本で「おっ、これだ!」と思った部分を最後に紹介します。ベルニオーラの思想の解説部分です。修辞とコンセプトの捉え方です。(一部、漢字がそのまま転載されていません)

バロックが培ったのは、言語の技術としての修辞ー「機知」、「才知」、「奇想(concetto)」はその代表ーである。それゆえ修辞とは、たんに外面的な言葉の彩にすぎないものでもないし、ましてや、主体がみずからの主義主張を他者に押し付けるための道具とみなされるものでもない。そうではなくて、修辞とは、人間存在にとってもっとも根源的で本質的なものであり、美的でかつ倫理的、実践的でかつ政治的なものである。

ととえば「奇想(コンチェット)」を例にとってみよう。わたしたちは「奇想」というとき、「コンセプト」としての「概念」のことを考えがちである。だが、それは実際には、カント以来のドイツ哲学が練り上げてきた「概念(Begriff)]とは根本的に異なるもの、否、むしろ正反対のものですらある。というのも、ドイツ語の「概念」は、「つかむ、握る」という意味の動詞greifen に由来するが、「コンチェット」は、逆に、「受胎する、いだく」という意味のラテン語conceptoに由来するからである。つまり、何かを自分のものにするのではなくて、何かに場を与えることを意味しているのであり、客体を把握しようとする主体の動きではなくて、そうした主客構造を超えて、外から到来する何ものかを受け入れる心構えのことをさしているのである。それゆえバロックの修辞は、アイデンティティや「リアリティ」やジェンダー等をめぐる近代に支配的なイデオロギーにたいする異議申し立てにとってもまた、有効な武器を提供してくれることになるのだ。

なかなか、刺激的な内容でしょう?

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/8/11

少々前の記事になりますが、日経ビジネスオンラインで興味惹かれる記事がありました。作曲家同士の対談で、伊東乾氏と湯浅譲ニ氏です。毎回10ページ近い対談が3回に渡って紹介されていて、かなりのボリュームですが3回目の分だけでも読むと良いと思います。デザインと直接繋がってくる話題です。URLは以下。抜粋してコメントをつけていくことにします。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090702/199162/?P=1

湯浅 僕は伝統のいい面を受け継いで、それを敷衍(ふえん)していきたいと思う側の作曲家だと思うんですよ。じゃあ、そこで「伝統」は何かという問題ですよね。例えば邦楽の伝統というのは、ペンタトニック(五音音階)であるとか、そういうことか、と言うと。

―― ドレミソラ、とか、レミファラシとか、演歌みたいな四七抜き音階(4番目と7番目の音がない)であれば伝統だ、なんてバカな話があるわけもなく・・・。

<中略>

湯浅 ですから伝 統的なものは、例えば尺八じゃなくてフルートでもできるし、あるいは電子音楽でさえもできるとずっと思っていたんですね。僕の最初の電子音楽の 「Projection Esemplastic(プロジェクション・エセムプラスティク)」なんかも、完全に僕は日本の伝統を意識しているんですね。

―― 実際、時間の構造というか、持続の経験が、お能のそれのように感ぜられます。

湯浅 そう、伝統 とは何かというと、僕は具体的な伝統の現象を作り出してきている精神構造の問題だと思うんですよね。ですから、物の考え方、ウェイ・オブ・シンキングと か、あるいは感じ方とか、そういうものを受け継いでいって、表現するのは、何も伝統的なものとして残っている表現技術じゃなくて全くいいと思うんですね。

伝統を何とおさえるかですが、伝統とは精神構造の問題だというのは、デザインの世界ではかなり一般化した常識になりつつあるのではないかと思いますが、現代音楽の世界でこういう「ベタな伝統」をあえて否定するように論じられているところが気になります。しかし、これは現代音楽の専門家を読者として想定していないので、あえて位置関係を明確にするための会話かもしれないとも思います。

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いずれにせよ、デザインの世界で常識化したといっても、相変わらず「ベタな伝統」に引っ張れる作品が少なくないところをみると、頭でわかっても、表現となるとなかなか行き着かない領域であるともいえます。新しい復刻を試みたVWのビートル、ミニ、FIAT500、これら三つのクルマを比較して「どれが一番ベタではないか?」といえば、FIAT500に軍配をぼくはあげたいです。多分、三つのモデルとも精神構造を引き継ぐという点では賞賛に値するでしょうが、それが表現されたとき、「上手くやったな」と多く評価されているのは、FIAT500でしょう。

以下、西洋と日本の差を時間の問題だとする指摘は、ぼくも同感です。

湯浅 ですから、 まず時間の問題というのが・・・一番僕の中で西洋と日本との決定的な差は時間の問題だと思って、それを西洋楽器でやる場合にどうやって記譜していくかとい うことで、僕は何十年も悪戦苦闘してきたと、振り返るとそういうふうに思えるんです。ですから伝統を受け継いでいくというのは、それを作り出してきた大本の精神構造というか、物の考え方とか、感じ方とか、そういうものを受け継いでいくべきだと思うんですね。そこから、実際の表現メディアが何であっても。

この次に語られる「普遍的無意識」は、もう少し説明が欲しい部分です。ぼくは、これまで音楽といえども、その作品と良いと思うには聞くトレーニングを必要とすることを強調してきました。湯浅氏は後述するように、ユングをリファーして普遍的無意識を指しているようですが、西洋クラシック音楽に感動する日本人、日本の旋律に息をのむ西洋人、これらの学習ステップと「普遍的無意識」の深さ加減をもう少し、素人にも分かるように解説して欲しいのです。

湯浅 それにもか かわらず普遍的無意識というのは、太古の時代から人間の脳幹に宿って、もしかしたら眠っているかもしれないようなものも含めて僕はあると思うんですね。そ こで僕は音楽の話をするわけですけれども、例えばドイツにも、ウィーンにも行ったことがないような人が、モーツァルトやバッハに感激しないかというと感激するわけです。そうするといったいそれは、ベートーベンにしても、モーツァルトにしてもフォークロリック(民謡的)なものはいっぱい持っていますし、ドイ ツ的なものがあるからこそ出てくるものも、それはあるんですけれども、そんなこととかかわりなく、バッハにしろ、ベートーベンにしても、日本人が感激する のは、おそらく彼らの音楽の何かが普遍的無意識に訴えてくる力を持ってくるんじゃないかなと僕は思うわけです。

<中略>

湯浅 そうすると 音楽はこうでなければならないということは、本質的に言えないということを、僕はみんな作曲する時に考えた方がいいと思うんですね。いろいろなものがあっ ていい。それは自分のコスモロジーから出てくるものだと思うということですね。日本語で考えるのは、言語はやっぱり思考をドミネートしますから、言語は支 配しますから、そうすると我々は日本語によって支配されていることは、ウェイ・オブ・シンキングだけではなくて、感性の面でもすごくあるんですね。

―― 本質的なポイントですね。

これは伊東氏が頷くように重要な部分です。ぼくは36冊のなかに入れたエドガー・ホール『かくれた次元』に以下200文字コメントをつけましたが、まさしく、この違った感覚世界に住んでいることを湯浅氏は指摘しています。

「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとっての ホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない 文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。

この話題はまだ続きます。英語でピッタリする言葉がない日本語表現の話題を日本人はことのほか好みますが、湯浅氏はそこで日本人の感性が素晴らしいなどと単純な発言をしません。

湯浅 外国に15 年もいると、英語圏ばかりではなかったので、感性の面で文化圏によって違ってくることがいろいろとあるわけですね。日本語でしか表現できない言葉もありま す。例えば「すがすがしい」とか、英語で言おうと思ったら、クールで、クリスピーで、クリアで・・・とか、いろいろ言わなきゃならないわけです。

―― 「すがすがしい」。とてもいい言葉の例ですね。

湯浅 それと逆に、英語で1語で、こんなにうまく言えるかということもあるんですね。それで、例えば学生の博士論文なんて読まなければならないと、もう、こんなの本当に、どうしても辞書を引かなきゃならなければいけない言葉っていっぱいあるわけですよ。

―― 米カリフォルニア大学サンディエゴ校の教授時代ですね。

湯浅 それを 4~5日で3人分見なきゃならないなんていうのは、すごく大変でした。けれど、ああ、こういういい英語があるかというのを時々見たりしてね。ですから、文 化圏によって、それぞれ言語によって人間の考え方、感性というのは違ってくる部分もあるし、それにかかわらず、最終的には人間全体の共有するコスモロジー とは何かという、本当は、僕はそこでユングの話をするんですけど、無意識が3段階に分かれていて、意識とつながっているわけですけれども、一番表層には個 人的無意識があって、真ん中には社会的無意識があって、一番底には普遍的無意識がある。

やや長いですが、内容を強調する目的で、これだけの分量を抜粋しました。丸山真男の「古層」など、歴史における層別の考え方はいろいろな人がしていますが、湯浅氏がユングを使ってコスモロジーを表現しているのは面白いです。それが普遍的無意識という層になるわけですが、これは何かの事象に嬉しいとか哀しいという層ではない、という点には注意しておくと良いと思います。

以上、記事の紹介ですが、ここから更にビジネス的に思うことは、ヨーロッパ文化部ノートに書くことにします。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/8/10

36冊の最後(3)は「現代性」を主題とする12冊です。ここに入っている本は好き嫌いではなく、また良書や悪書でもなく、影響をうけたうけないでもなく、わりと最近たまたま読んだ本をあえて「現代性」を主題とした場合、どう読めるか?という観点で選びました。(1)と違い、この(3)の入れ替えは比較的容易です。次回、この36冊を選択しコメントをつけるという作業で抱いた感想を書きましょう。

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村上隆 『芸術起業論』(幻冬舎 2006年)
世界のアート市場で勝つためには、市場の文脈をよく知ることが必須で、且つ、作品を理解してもらうためには言語化された説明が重要であると、アーティストが自ら経験したロジックを説いている。これは日本で従来、アートは直感的な自由な受け取り方がキーで、作家自ら語るのは二流であるといわれてきたことの「嘘」を暴いている。アートの世界は文脈構築のアイデアが勝負である。この本を日本のビジネスマンはもっと読むべきだと思う。

水谷修 ほか 『いいじゃない いいんだよ』(講談社 2005年)
先輩であり親友の水谷修さんの著書は沢山読んできたが、毎日新聞記者と医師の三人で行ったこの鼎談が一番面白い。彼の本領と一番リアルな言葉が記されている。約30年のつきあいで、水谷さんが、ぼくに教えてくれたことは無数にある。どれだけ多くの視点をもち、それら視点の動かしかたによって、どんなに世の中が見えてくるかということが分かる。これも彼を通じて学んだことの一つだということを、本書を読んで気づいた。今、日本はまさに、新たな視点を獲得できずに苦労している。

近藤健 『反米主義』 (講談社現代新書 2008年)
週末マクドナルドに入るフランス人カップルは、路面寄りではなく、二階の奥に座る傾向があるという。第三国人で一杯だから「お洒落じゃない」という理由もあるが、米国発ファーストフードに対する距離感も出ているエピソードだ。反米主義はヨーロッパ圏からも「反」を唱えられるように、「近代」の変質に対する「反」という一面がある。ヨーロッパは普遍性を志向したが、米国には普遍性への原理主義的信念がある。これがイデオロギー、資本主義、文化、さまざまな面で魅力と「反米」を生んできた。

水村美苗 『日本語が亡びる時』(筑摩書房 2008年)
かつてのラテン語のように英語が普遍的な位置をしめつつあり、日本語などは現地語として存在低下していくという言葉に関する本。言語論として読むと、色々と粗が目立つ(特にグーグルの影響を過大評価)が、文化論として読むと面白い。日本の文学は、ディテールに優れ、世界観を示すという点では西洋文学に劣るというのは、日本のものづくりの完成品と素材や部品のポジションギャップにも通じる。しかし、この状況に甘んじてはいけない。

宮台真司 『日本の難点』(幻冬舎新書 2009年)
一人で日本の社会や政治の様々な問題点について語った。その「一人で」ということに宮台は拘り、その拘りにぼくは同感する。数多の専門家が語る切り取られた世界からは、次のアクションへの指針が何も見えない。郡盲像を撫でるに近い。そして、もう一点。包括的且つ文学的に語りつくすことを意図したという点。それが成功しているかどうかは疑問だが、その趣旨にも賛同。マニュル的に世界を語ることはありえないのだ。我々は曖昧性も含めてあらゆる問題の全体性のなかで生きている。

福野礼一郎 『クルマはかくして作られる』(二玄社 2001年)
今回の不況でみるように、自動車産業は相変わらず各国経済の屋台骨である。また金融は目に見えないが、ものづくりは目に見えるという。しかし、約3万点の部品からなるクルマの世界はあまりに膨大な組織が絡み合い、実は見えるようで見えないものだ。どこまでがクルマの世界とは言えないくらいに裾野が広い。この本は、さまざまな部品メーカーの現場を訪ね歩いて、開発や生産の実態をレポートしている。世界が理解できるというのは、こういうことを言う。

小山登美夫 『現代アートビジネス』 (アスキー新書 2008年)
村上隆や奈良美智などの作品を世の中に紹介し、日本のコンテンポラリーアート業界で先端を走っているギャラリストが、アート市場のメカニズムを語っている。基本は、アートの歴史を如何に作るか、そこにおいて、経済的要素は重要である。作品にどういった価格がつくかを、「金の話しじゃない」と軽く言ってはいけない。経済価値があってこそ、市場のなかに組み込まれ、美術史の文脈を作っていく部分があるのだ。「美しい」「きれい」「面白い」という形容詞だけでアートに接するべきではない。

Ishiguro “The remains of the day”
第二次世界大戦前、英国の貴族の館で欧州各国と米国の外交官たちが秘かに集まり、対ドイツ対策について協議する場面がある。そこで米国の外交官が、ヨーロッパの方法はプロフェッショナルではなく既に古いと批判する。ヨーロッパの文化が、シリアスな局面で、バランスがとれているがゆえに甘さととられるところが、この21世紀初頭においても起こっている。それでは米国のプロフェッショナリズムとは何だろうか?それが、どこまで長期的解決を導くのか?

ファビオ・ランベッリ『イタリア的―「南」の魅力』(講談社 2005年)
ヨーロッパを対象とした文化人類学の歴史がまだ日が浅いなか、イタリアのコンテンポラリーなテーマに文化人類学的に切り込んでいる。そこに新しさがある。しかも、日本文化をよく知るイタリア人であるがゆえに、日本のどの文脈にあてはめれば良いかのツボを知っている。二番目のアドバンテージだ。そして、イタリアの後進性が生んだ文化の強みと弱みが、また限界を作っている悩ましい姿が残る。サッカーのカテナッチョが劣等感や狡猾性の産物というのが象徴的。

福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』(講談社現代新書)
昨年からの経済恐慌にあわせて出た本ではない。ITバブルがはじけて株式市場が低迷し、2001年の911以降の米国の一方的な外交戦略が目立ってきた状況を背景に書かれた2002年出版の本。副題が「アメリカ市場原理主義との決別」とあるように、「もう一つの資本主義」としてのヨーロッパ型資本主義を紹介している。ヨーロッパ各国で差異があるにせよ、「社会的」で「人の顔を見える」資本主義を目指している点では共通しているというのが趣旨。ヒューマンスケールが何事においても基本。

藤村信 『ヨーロッパで現代世界を読む』 (岩波書店 2006年)
パリに長く住んでジャーナリストとしての活動を行った著者の遺作。1968年より雑誌『世界』で連載された「パリ通信」は、多くのヨーロッパの今を見せ続けた。本書はブッシュ大統領によるイラク戦争、第二次世界大戦時の巨頭の動き、移民への寛容と極右の動向等に触れている。実は、正直に言えば「今更、藤村信の・・・」という感をもって書店で買った本だ。ノスタルジーで手にしたが、大いに裏切られた。政治に対するこの見方から若干距離をもっていた自分を猛烈に反省した。

フィッツジェラルド 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』(中央公論社 2007年)
ぼくは大きな物語が好きだ。かつて日本の典型と言われた私小説の良い悪いではなく、社会全体を視野に据えた小説にぼくの趣味があるということだ。そういう点からすると、本書は微妙なところに位置するかもしれない。やや小さな物語に見えるからだ。が、必ずしも「ある場所」だけに佇んでいるわけでもない。そのあたりの「移ろい」をふくめると、世紀を大きく跨いでも「現代性がある」と表現できる小説かもしれない。村上春樹訳はその象徴だ。