本を読む の記事

Date:09/11/8

10月末、明治大学の大学院で管啓次郎さんのゼミに参加したとき、フリードリッヒ・キットラー『グラモフォン フィルム タイプライター』を精読していました。メディア論がテーマです。管さんがホワイトボードに書き綴る言葉は、「文学作品も科学論文もある時代に特有の考え方を表現しており、それらは対象をあらゆるジャンルで問い続ける」「発明や発想は組み合わせでできている」・・・・という説明で続きますが、「メタファーの思考は思い出すこと」であり、それは何らかの痕跡から思い出すことだと語調を強めた時、管さんにとって「痕跡」という言葉がキーワードなんだと気づきました。

sa

その日頂戴した新刊『本を読めないものだから心配するな』を数日間に渡って読み進めましたが、やはり「痕跡」が重要な役割を担っています。

読書とは、一種の時間の循環装置だともいえるだろう。それは過去のために現在を投資し、未来へと関連づけるための行為だ。過去の痕跡をたどりその秘密をあばき、見出された謎により変容を強いられた世界の密林に、新たな未来の道を切り拓いてゆくための行為。(中略)読書の戦略とはさまざまな異質な過去を、自分だけでなく無数の人々が体験しその痕跡によってなぞってきた過去を、どのようにこの加速の機構をつうじてひとつに合流させてゆくかということにほかならない。そしてこの流れだけが想念に力を与え、自分だけでなく、「われわれ」の集合体の未来を、実際にデザインしてゆく。

冒頭に近い文章です。ここに既に「痕跡」は二度登場しています。ぼく自身、この痕跡がもつ意味について随分と今まで気にしてきたはずなのに、どうして「痕跡」という言葉を用いなかったのかが不思議だ、と思うほどに「痕跡」という言葉を使うことで新たな地平が開けてきた感がします。そのためか、先週書いたぼくのブログでは今まで使ったことがない、この「痕跡」をあえて使ってみたほどです。読書を書棚に並ぶ本の列をなぞることではなく、自分の頭の中に入り込む連続性あるテクストの生成プロセスとしてとらえています。それらに発揮する消化能力と結合能力の主体が読書人です。多分、その観点からでしょう、この本には目次がないし、章分けもありません。ここにあるのは「痕跡」に至るプロセスと「痕跡」を再生するプロセスです。そして、もう一つキーとなる言葉があります。「翻訳」です。

もっとも単純にいって、翻訳とはある記号体系と別の記号体系の間に対応関係をうちたてることです。そして、この対応関係が、ひとつの自然言語と別の自然言語のあいだにうちたてられるときのことを、常識的な意味で、常識的な意味で、われわれは「翻訳」と呼んでいます。

そして、「翻訳しようとする意志において、人は類似性と差異を同時に発見するのだといっていいでしょう」と管さんは指摘しますが、引用しているメキシコの詩人オクタビオ・パスの文章は、ぼくが考え続けている「文化と商品ローカリゼーション」の問題にも多大な示唆を与えてくれます。長いですが、そのまま引用を書き写しておきます。

翻訳はある言語と別の言語のあいだのさまざまな差異を克服するが、同時にそうした差異をいっそうよく暴き出すことにもなる。翻訳のおかげで、われわれは隣人たちが、われわれとおなじようには考えもしないことを、意識するようになる。一方で、われわれにむかって提示される世界は、類似点を集めたものだ。だが他方で、それはどんどん積み重なるテクストの山、しかもそれぞれが先行するテクストから見て少しずつ異なったテクストの山なのだ。すなわち、翻訳の翻訳の翻訳。それぞれのテクストはたったひとつのものだが、同時に、それは他のテクストの翻訳でもある。どんなテクストも完全にオリジナルではありえない。なぜなら言語それ自身が、その本質そのものにおいて、すでに翻訳だからだー最初は、非言語世界からの翻訳であることから。とはいえ、この論理の逆もまた完全に有効ではある。あらゆるテクストはオリジナルだといってもいい、なぜなら個々の翻訳は、それ自身のはっきりした特徴をもっているから。ある程度まで、個々の翻訳は創造なのであり、したがってひとつしかないテクストを作りあげている。

Sibe

コミュニケーションは問題解決と問題発生の両方の原因になります。ここにあるように、「類似性」と「オリジナル性」の見極めは、題材そのものに既に内在しており、これは悲観的にとらえるか、楽観的にとらえるか、そのバランスがわれわれに厳しく問われています。100%の解釈はありえないし、100%のコミュニケーションもありえない。そこを前提とした時、「解釈の許容」をお互いの駒として認め合う態度をどう維持するか、あるいはできるか、これが世の中にあるすべての問題のかなり多くを占めるテーマでしょう。「翻訳」という行為や仕事は、一般的に、実質以下の見方をされていることが多いと思いますが、これは大きな間違えであることが、本書を読めばよく理解できるはずです。「翻訳」こそが、鍵であると思い至ります。また、各ジャンの専門家というのが、いかほどにものが見えない立場であることが、声を大にせずとも自ずと分かってくる、そういう効果(?)も本書にはあります。爽快になる気持ちのよい本です。

<2010年2月13日、「管啓次郎X佐川光晴のトークセッション」を書きました>

http://milano.metrocs.jp/archives/2906

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/2

韓国の世論調査では「好きな国」に北朝鮮が上位に入るといいます。同胞の国であるのは当然ですが、「米国に対して言いたいことを言っている国」が北朝鮮で、韓国人の強い共感を呼ぶ一因になっているようです。国の好悪は常に相対的な位置にあり、三国関係でみないと、よく分かりません。昔から、米国ー中国ー日本もその三角関係のなかにあり、米国が中国に力を入れるときは日本の位置が低くなり、日本が米国より重んじられているときは、米国にとっての中国は冷遇されている時代です。

wci

アイルランドは何百年もの間、英国の植民地であったのですが、苦労に苦労を重ねる期間が長く続いたがゆえの反英運動は、英国に反旗を翻した米国独立運動を支える重要な役割を果たしました。自国の立場を有利にする大きな動きのなかで、自分の立場を巧妙にとっていくプロセスが本書では上手く語られていますが、ぼくがこの本で一番興味をひかれたのは、日韓関係と英(イギリス)愛(アイルランド)関係の対比です。1930年代の矢内原忠雄の指摘を引用しながら、以下の類似点を挙げます。

1)植民地化の歴史が両国関係に大きな影を落とし、長きにわたって憎しみと蔑みの関係が続いたこと
2)歴史的には被支配者の方が、先進的であった
3)被支配者側は、政治軍事的に支配側の戦略利益を扼(やく)する立場にあったこと
4)経済的に相互依存関係が強いこと
5)植民地解放後、南北に分断されたこと
6)天皇の訪韓とエリザベス女王のアイルランド訪問がともに懸案として残っていること

本書では経済関係などの数字を並べていますが、とても象徴的な現象は以下だと思います。アイルランドへの渡航者は年間770万人(2007年)で、人口400万人の倍近く、英国からの渡航者数は400万人(2006年)と50%近い数にのぼります。逆にアイルランドから海外への渡航者数は680万人(2006年)と人口の150%で、そのうちイギリスを訪問したのは290万人です。アイルランドの3人に2人は英国に出かけていることになります。

一方、韓国を訪れる日本人は223万人(2007年)で、韓国から日本は260万人です。英国の6000万人、韓国の4847万人、日本の1億2700万人という人口で、これらの数字を勘案すると、英愛間の人的交流が日韓関係と比べて圧倒的に存在感があることが分かります。苦悩の時期が延々と長かったがゆえに、憎悪からの脱出への出口にたどり着いてきたアイルランドですが、日韓併合は30年ほどであったために、逆にくすぶりが消えにくいということも考えられます。

rr

EU加盟国パートナーとして共同目標を目指す材料がある、一人当たりのGDPで英国を抜くという経済優位性の確保、北アイルランド問題の解決が英国とアイルランド両国の共通目標があった、これらの状況が日韓関係と違う点です。ただそれだけでなく、英国にいるアイリッシュ系600万人の存在(人口の10%)に例をみるように、人を介したというか、人そのものの移動が生む文化的社会的共通感覚が、歴史に内在する多くの矛盾を乗り越える大きな要因になっていることは疑いようがありません。

すなわち、日韓が英愛と同じような相互関係をもっている感覚をもつには、少なくても今の人的交流の10倍以上に達成しないとリアリティをもってこない。逆にいえば、このくらいのレベルの人数が往来する仕掛けを作ったとき、二国間関係は必然的に大きく変わるだろうという見込みがたてられることになります。今、日本政府は現在年間800万人程度の日本への渡航者を1000万人以上に増やそうと努力していますが、このキャンペーンのもつ意義がどんなものか、英愛の数字が物語ってくれます。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/10/11

昨日、ITや家電分野の見本市であるCEATECに出かけてきました。幕張に行くには東京駅で長い通路を歩いて京葉線に乗らなくてはいけないため、やや苦手意識があるのですが、乗ると海が見えて気持ちよい路線です。車内には若いカップルも多く、土曜日の午後らしいムードが溢れています。そして、その多くの人たちは海浜幕張で降車しメッセに向かいます。かつてモーターショーに熱心に出かけていた人たちよりソフトだよな・・・と思いながら、会場に入ります。大手と中堅の両方のブースをめぐりながら、だんだんとひとつの思いにとらわれます。「相変わらず、ユーザーの立場にたった統合的なサービスが提案されていないな。発想自身が、どこかの大手を中心としたツリー構造がもとになっている。これはどうしようもないのか・・」と。クルマとインフラの関係をまとめて面倒みるべきITS(Intelligent Transport System)の実証実験では、交差点付近での事故が多いのに注目し、物陰にある人や物体の存在を検知し、ドライバーに警告を発するシステムをアピールしています。ナビがその警告のインターフェースに考えられているようですが、交差点という一番注意を要する地点での警告はパニック情報になる可能性もあり、インターフェースの面からすれば一番難しい局面です。しかし説明を聞く限り、それは「他人事」です。

「●●社様とお付き合いさせていただいております」(●●は大手の会社)という表現に象徴されるように、やたら丁寧な物言いはするのですが、それは自社の(短期的な)経営的信頼性を増やすことであっても、ユーザーサイドにとってはあまり関係ない。そういう展示が極めて多いという感想を抱いたのです。ある一人のユーザーにプッシュ型の情報を24時間提供をしようとするなら、そこではデバイスは複数あるべきでー携帯電話、ナビ、PCなどー、それをひとつのデバイスですべてをカバーするのは本末転倒で、「ひとつであるべき」なのは、パーソナライズしたユーザーインターフェースの方であるという発想がないといけないと思います。時刻を知るのに、個人ベースでもベッド脇の置時計があり、台所の壁時計があり、携帯電話があり、腕時計があるように、デバイスをひとつに限定するのは、ある時点までは有効ですが、ある時点からオーバーキャパになるのが一般的で、それをすべて解決するインターフェースが使いやすいかどうかということもあります。したがって、ある程度の複数デバイスを前提としたうえで「ユーザーにとっての」統合化のための意思と努力をサービス提供側は示していかないといけない、そのためにはもっともっと企業間のオープンな協力関係を推進していくメンタリティの変革が必要だなと再認識しました。

一橋大学大学院国際企業戦略科教授の石倉洋子さんの『戦略シフト』では、21世紀に入ってからの大きな環境変化をうけての企業の戦略シフトの必要性を書いています。すべての境界ー国境や業界などーが消失しつつありオープン化が実現しつつあります。そのなかでダイナミックに物凄いスピードで状況が刻々と変化していきます。「昨日の私は今日の私ではない」世界がいやおうなしに迫りくるシーンにどう立ち向かうべきか?ということです。7日に丸の内で開催された出版セミナーに参加したとき、石倉さんは面白い表現をしていました。「今、世界はヨーロッパの高速道路のようなスピード感で動いているのに、日本の多くの企業は首都高並みの遅さだ。田舎道ではない。都会だが、遅い」と。ヨーロッパの高速道路は時速140-50キロ程度で走っていますが、首都高は3割程度遅いでしょう。まさしく、そうです。韓国や中国の会社などでも、日本の何倍ものスピードで意思決定をしていきます。ただ、この比喩は、ぼくは別の意味でも使えるかなと思いました。そもそも都市構造上、ヨーロッパの都市に「首都高」はありえないのです。中世の城郭内には高速長距離鉄道も入ってこないし(皇居の前には東海道新幹線が止まる!)、いわんや高速道路などもってのほか。長距離鉄道の駅は市の中心よりやや外れた位置にあるし、高速道路は環状線になっています。コア部分にヒューマンスケールの都市をキープし、外でそれを超えたスケールを実現し、二つを混合させない文化背景の説明に使えるかなと考えたのです。

話がずれました。石倉さんは「ORをANDに変える」という、二項対立で他方を排除するのではなく、両方の共存があるのが現代であるから、それを前提に考えるべきだと語ります。共存を寛容に受け入れるという次元ではなく、そもそも以前であればORと問うたものに対し、ORとする問題の設定自身を疑えということだと思います。あるいはバージョンアップで実践的にコンセプトを練り上げる必要性を書いています。ベータ版で市場のありかを探りつつ、適時、バージョンアップしていくことで完成品に近づけるという発想です。実は、これを読んでいて、南ヨーロッパ的な発想と行動パターンが経営学の世界でも浸透してきているなと感じました。『イタリア現代思想の招待』のレビューでコンセプトについて、「何かを自分のものにするのではなくて、何かに場を与えることを意味しているのであり、客体を把握しようとする主体の動きではなくて、そうした主客構造を超えて、外から到来する何ものかを受け入れる心構えのことをさしているのである」という考え方に近いと思うのです。ミラノサローネ2008で書いた、自由な関係性やコンセプトとは大きくゆるく作るべきということを前提にしないといけないという点と近接していると考えます。このような点で、ぼくにとって『戦略シフト』は、およそのところ違和感を覚えることはあまりなく、ぼくが日常考えていることが経営学のなかでこう位置づけられるのか、という気持ちで読めました。

最後のほうで、ITSは日本が世界に共通プラットフォームを提案するに好都合な案件であると書いてあることにも賛成です。細かいことをいえば、「今、必要なのは、インターフェースが共通なグローバルな協調インフラシステムであり、自動車メーカー独自のプラットフォームではない」という部分は、冒頭に書いたように、パーソナライズされたインターフェースを可能とするストラクチャーをもつ共通プラットフォームの実現を目指すべきというのがぼくの考えで、そのために共通プラットフォームを構成するにあたり、ユニバーサル文化の把握が極めて重要であると常々書いているわけです。実をいえば、経営学の先生の書いた本をあまり読まないのですが、ぼく自身のビジネス感覚とさほど距離感がなく、この方面の本にやや距離感を持っていた自分を反省した次第です。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Page 32 of 41« First...1020303132333440...Last »