本を読む の記事

Date:09/11/15

最近、若い世代のクルマ人気の低下がよく語られています。が、子供、特に男の子の様子を見ていると、「クルマ離れは青年時の後天的(?)なもの」という感じがします。やはり俄然、動くモノへの興味が強く、機関車トーマスやプラレールの洗礼が伝統的でさえあります。床にはいつくばってミニカーを走らせているその姿は、大げさにいえば、まさに古典が今に生きています。任天堂DSでカーレースに興じるのにクルマに関心を失うのは、成長のうちのどこかに何らかの事件があったから?という気にさせられます。逆にいえば、子供時代のある事柄にたいする関心のもちようはそれだけ重要ですが、その維持も同じく大切だということになります。

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今日、明治大学の管啓次郎さんの東京新聞でのインタビュー記事を読みながら、そうだなあと思いました。ある時、ヨーロッパの伝統的な文学に大国主義的な匂いを感じ始め、かつての植民地から生まれてきた作品に惹かれていった管さんの言葉です。

「でも一九九○年代に多文化主義が流行したから、クレオール的な作品が書かれたのではない。移民や植民地化の長く過酷な歴史の中で、彼らは力強く優れた作品を生み出していた。それが時代の趨勢(すうせい)によって意味づけられ、出版市場と結びついて噴出した。また、そんな歴史的枠組みを念頭において僕も旅をしているわけではない。何でもない人々の生活や、誰もいない砂漠や荒野を眺めるのが好きです。文学の趣味も、ミステリーのように都市社会のなかで完結する物語は肌にあわない。自然界を探る博物誌や、いくつもの風景や暮らしの局面を素描する紀行文に魅力を感じます」

イタリアも植民地をもった側ですから同じではありませんが、ぼくもイタリアに住み始めてから、北ヨーロッパの論理がすべてではないことがよく見えてきました。もともと日本からみるヨーロッパということで、ヨーロッパは客観的にみる対象でしたが、ヨーロッパに住んでそのなかにあるロジックの前提で疑うべき点が沢山見え始め、そのうえで北と南のロジックの違いにも気づくようになります。ファビオ・ランベッリ『イタリア的』岡田温司『イタリア現代思想の招待』を読んで膝をはたと打つのは、強すぎる北ヨーロッパの論理に対する反発だけでなく、論理自身の無理をみるからです。

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そこでアナール学派のジャック・ル・ゴルフです。本書では、やさしい言葉で前半はヨーロッパ通史、後半は中世が語られます。かなり反省的な通史ですが、ここで満足する人がどのくらいるかなという意地の悪い見方が、ぼくのなかでもたげないわけではない。しかし、この本の白眉は、後半の中世の日常的感覚を説明したところではないかとみると、ぐっと面白さがでてきます。中世はローマ帝国が崩壊して古代が終わる5世紀からルネサンスがはじまる15世紀であるという通説に対し、産業革命のはじまる18世紀まで中世であった。なぜなら18世紀に西ヨーロッパの社会生活が大きく変革したからだ。これがル・ゴフの主張ですが、少なくても1000年以上の長きに渡って、よく否定的にとらえられる「暗い中世社会」だけが続いていたわけではないことは、生活する人々の感覚をみていくことで浮き彫りにされていきます。

中世は、たとえロマン主義者が好んで想像したような黄金時代ではなくても、欠点やわたしたちが嫌いな面があったとしても、ユマニストや啓蒙主義者がそのイメージを広めようとしたような、反啓蒙の悲しい時代などではありません。中世は総合的に考えられるべきです。古代と比較すれば、中世は数多くの点で進歩と発展の時代であることを、のちほど明らかにするつもりです。確かに<悪しき中世>は存在します。(中略) しかし今日、私たちはもっと多くのものを恐れていますし、そのうちのいくつかはずっと大きな恐怖を引き起します(たとえば、地球外生物への恐怖、とても現実的なのが原子爆弾の恐怖)。

加藤周一『日本文化における時間と空間』で日本文化は水平線が強調され、ヨーロッパのように垂直方向にいくことはなかったとありましたが、この垂直に対する説明が本書にあります。中世の住居はたいてい質素だったが、二つの例外的建物があったと指摘します。

(城砦と大聖堂)の二つの建築物が中世の人々の精神には不可欠であり、中世の重要なシンボルでした。すなわち騎士の住居であるある城砦と、神の住まいである大聖堂です。

この二種類の住居は、その高さによって、はるかな高さがもつ意味と、見上げるべき方向を、教養人にも民衆にも指し示したからです。中世には上下の対比が<空間に投影>されています。人びとは下から逃れることを願って、非常に高くて、よく目につく塔や城砦を建造しました。別の言葉で言うと、上と高さは偉大さ、美しさを表すのです。(中略) すなわち大聖堂の高さは、天にまします神の崇高さを反映しているのです。

中世に「ヨーロッパ」が誕生したがゆえに、中世に目をよく向けるようにル・ゴフは説きます。その時に生じる何らかの違和感ー管さんが感じるようなーをどう解消していくかが、特に非ヨーロッパ人の場合、問題になってくるでしょう。無論、ヨーロッパ人でも、いやだからこそ強くつきまとってくる問題でもありますが、日常生活でみる心性に踏み込むことがヨーロッパ再考の鍵であると、はっきりと言ってもいいのではないかと思います。ヨーロッパと動くモノ、クルマを対比するのは気が引けないわけではないですが、関心を引くアプローチの仕方として参考にしてもいいのではないか・・・と考えないでもありません。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/12

「グローバルに考えてローカルに活動せよ」とよく言われますが、「ローカルを見据えたうえでグローバルに視野を広げろ」というのが、六本木の国際文化会館理事をつとめた松本洋氏の主張です。人はグローバルな視点を最初のステップでもつのは無理である、との認識が前提になっています。これはもっともな意見で、宇宙船から眺めたような地球を常に思い描いて考えきれることは、そう多くないでしょう。チャールズ・イームズの「パワーズ・オブ・テン」でみるようなスケール変化を意識的に行うにせよ、適当なスケールから思考を出発することが何よりも肝心だと思います。最初は人の顔のみえるスケールであり、皮膚細胞に入りすぎても、あるいは大気圏の外にでても、妥当性のあるコンセプトを作るには至らないでしょう。

国際協力に多くの時間とエネルギーを割いた松本氏の人生を振り返ったこの書のなかで、ぼくがとても興味を覚えた部分は、日本道路公団でやった彼の仕事です。今でこそ道路公団は社会的攻撃の対象にされていますが、松本氏が入った1960年代は、日本で最初の高速道路である名神高速道路の設計・施工の時代です。何が面白いといえば、これから道路は土木のみの世界ではなく、建築の世界と統合されていくとの認識を一部の建築家などがもちはじめていたということです。当時サービスエリアはまったくの付属施設としか考えられず、いわんやそのサービス施設を道路をまたぐブリッジ形式にしてランドマーク化を図るなど論外だったといいます。時速100キロでの世界など殆どの人が経験していなかったのです。だから、多くの人にとって、サービスエリアがどうしてそれほどに重要なのかを知る術もなかったわけです。

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ITSの都市計画への組み込みに対する感度がなかなか得られない今の時代を焦燥感をもって眺めているぼくにとって、松本氏が50年近く前に抱いた気持ちは、リアリティをもって想像できます。また、時速100キロという状況にあわせた各種のサイン計画に取り組んだプロジェクトも、カーナビ情報の認知向上に係わる仕事をしているぼくには、頷く点が非常に多いです。PCという静的シチュエーションにおける認知と、カーナビというゼロ・コンマ秒がキーとなる動的シチュエーションでの認知には大きな乖離があることに注意を喚起することを常々話している人間にとって、それまで時速50キロ以下の世界しか知らない人たちが時速100キロでどう道路標示を認識するかに悩む姿には共感しまくりです。

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もう一つ、ここで知ったことがあります。IPS(インター・プレス・サービス)というメディアの存在です。「声なき声」を拾っていくことがモットーになっています。ロイター(英国)やAP(米国)あるいはAFP(フランス)という通信社は、所属する国の価値観でニュースが選択されていく傾向にあります。それは結局のところアングロサクソンやフランスなど大国の価値観で世界が構成されていることにさほど気づかずに、現実をフォローせざるえをえない国の人々を不利に追い込むことになります。IPSは大手通信社が拾わない、あるいは捨てるニュースを拾っていくのです。1970年代、国連の広報担当事務次長であった明石康氏が「もう一つのメディア」を作る改革を推し進めようとしましたが、これが英米諸国に潰されたというエピソードは象徴的です。松本氏はIPSジャパンの確立にも貢献しました。現在、このIPSは世界に450人ほどの特派員がいて、規模では世界で5番目の通信社です。日本語は少々更新の頻度は低いようですが、英語版をみると活発さが窺えます

IPSの活動意義は高いと思います。ヨーロッパに限定しても、色々な問題を共通のメディアで論じ合うということがなかなかできません。各国とも各国語のメディアがそれぞれ取り仕切っており、英国のエコノミストやFTなどの英語メディアが欧州トピックをカバーする傾向にあります。そういうなかで、各国紙の英語サマリーを更新しているユーロトピックスのようなオンラインメディアがあり、詳細は各国語のオンラインに飛ぶようになっています。しかし、これもEUの人たちがこれで同じ話題を語り合うというレベルにはとうていいたっていないのです。が、大切なのは多くの複数のメディアが存在することです。これを維持することが大事です。そういう観点からも、IPSのような存在自体が第一に貴重です。そして、いくつか、少なくても3つの視点を各個人がもてるようにすること。これがバランスある世界を作っていく必須条件かとぼくは考えています。

尚、松本洋氏は初代国際文化会館理事長の松本重治氏の息子さんで、この本には国際文化会館がロックフェラーの協力のもと設立され、その建物がどういう経緯で建て替えではなく保存されるに至ったかも記されています。ぼくも国際文化会館には時々出かけ、先日もそこの会議室で勉強会を開催しました。あの緑溢れる庭と静かな佇まいの空間には温かみがあり、快適です。

そういえば、吉田茂は何度か松本重治氏に駐米大使や国連大使を受けて欲しいと依頼したそうですが、その説得役はいつも松本重治氏の神戸一中の後輩、白洲次郎氏でした。しかし、国際文化会館に後半の人生をかけた松本重治氏が、その依頼を受けることはありませんでした。堅苦しい世界を拒否した面もあるかもしれませんが、自分の住まう場所を決めた人の言動とはそうだろうなとも思います。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/9

読書論あるいはブックガイドといったものにある時から関心を失いました。さらに言えば、本を読むこと自身に意義を見出しにくかった時期があります。ぼくの30代です。日本の会社勤めをやめ、イタリアに住み始めた頃からです。それまで、あまりに机上のロジックで生きてきたという自覚が生まれ、自分の経験でものを語ることに熱中しはじめた時とも言い換えられます。自分の言葉で自分を語れてなくして何の意味がある?というプレッシャーが強かったのです。学生時代から20代にかけて好みであった読書ガイドが、ぼくのもっとも敵対する対象に変化していったのです。その時代に買った本は、直接ビジネスに直結する本を除けば、その前後の時期と比較すると少ないです。哲学者のショーペンハウエル『読書論』のなかで、読書のしすぎは頭が悪くなると書いている、と佐藤優が紹介していますが、ぼくはこの言葉を学生時代に読んで、よく意味が理解できませんでしたが、それを30代で明確に把握したということでしょう。

現実の体験データがそれなりに満載になりはじめた時、あるいは自分の言葉でイタリア文化を語り始めていると自覚した時、じょじょに本にまた目がむかいつつありました。ただ、いわゆる「趣味の読書」には興味がむかず、それはサバイバルのためです。現実での理論武装という意味合いもありますが、第一優先は、自分の経験はどこまでの領域をカバーしえているのか?という自問に対する回答を探しはじめたとの色彩が強かったかもしれません。分野とか領域ではなく、どのあたりの地平線までぼくは目配せができ、どこに越えられぬ山があるか、という認識をしておきたいということだったと思います。また、その頃、インターネットが普及をはじめ、一般の人たちの教養がどんなものであるかが、いやおうなしに視覚化されるようになりました。そういう意味で、ネットの「暴く力」はすごいものがあります。自分とその人たちと同じ部分と違う部分に気づき始めたのです。ぼくの選んだ36冊は、以上のような経緯と背景をもっても語ることができます

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どの本を読むべきかの指針は、問題意識の設定の仕方でがらりと違ってきます。つまり、「えっ、こんな本を選ぶの?」という本も、「こういう時に、無用な場所に惹かれないために必要な力を養っていくためなんだ」という説明をうけると納得できるものです。よって読書ガイドというのは、現代をどう読むか?が大前提になるわけで、ガイドする人間の脚力というか投球力というか、もろもろの力量が試されることになります。佐藤優がマルクスの本をここで何冊も選んでいるのは、以下のような理由によります。

佐藤 今、マルクスがまたブームになっていますよね。私は、この傾向は危ないと思っているから、あえてマルクスの基本的作品をとりあげました。

立花 危ない?

佐藤 そうです。ナショナリズム運動も同様ですが、共産主義運動は、二流の知識人、あるいは二流のエリートがやる運動だと思っているんです。二流の知識人、二流のエリートにとって、ナショナリズムや共産主義は、一流のポストに上がるための、とても便利な道具なんです。そういう連中が高いポストに就いても、質が落ちるだけで、権力の暴力的な構造は全然変わらない。それに対する耐性をつけるためにマルクスのテキストの腑分けをする能力をつけておかないといけない。

立花 マルクス主義の正しい部分と、誤っている部分とを腑分けする、と。

佐藤 そうです。それができないと、新自由主義が進んで、社会がガタガタになる。そうすると今度は、ちょっと形を変えた共産主義運動が出てきて、日本の国が混乱に陥る。私はそれが嫌なのです。だから、マルクスの内在的論理をつかみとって、どこが優れているか、どこがイカれているか、ということをテキストとして読み取れるようにしないといけないわけですよ。

マルクスへの考え方の是非は別として、ぼくは佐藤のこの指摘はよいと思います。ある真空地帯を生まないための工夫が必要であり、その真空地帯をかぎつけてくる勢力にどう対抗する力をもつか、それが教養であると佐藤は言うのです。宗教に対する素養もまったく同じレベルで要求されてしかるべきで、今の日本のように宗教が力を失うどころか、その存在さえ認知されないー告別式の地位低下や火葬場での見送りだけという直葬の増加にみるような事態ー状況はぼくも危ういとみており、宗教心をもつかどうかではなく、宗教の力加減を認識しておくという意味で、宗教の教養が意義をもつのではないかと考えています。

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尚、アメリカとプラグマティズムに関する下記部分は傾聴に値します。引用しておきます。

佐藤 (前略) もう一つ、アメリカを考えるとき詰めて考えないといけないのはプラグマティズム。それでプラグマティストの代表者の一人ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』を入れました。

立花 ぼくはウィリアム・ジェイムズが好きで著作集は全部読みました。プラグマティズムはアメリカ的なものの考え方を理解する上で、いちばん重要なものの一つですが、日本では原典が読まれないから誤解している人が多い。ある観念が正しいかどうかは、それを現実化した時の結果によってのみ判定される。「樹はその実らす果実によってのみ判定される」という考え方です。それはイエスの教えだったし、キルケゴール哲学の基本でもあった。

佐藤 正しいことをやれば、どうして成功するのか、それは神様が判定しているからだ。これがプラグマティズムなんです。つまり、後ろに神様が隠れている。天によってサポートされているから成功するんだという、その一種の中世的なリアリズム(実念論)の構成になっているんです。だから、力によって戦争に勝利することを正当化することができる。アメリカにおいて、戦争で勝利することと、正しいことの間に乖離があるという感覚が生まれにくいという背景にプラグマティズムな発想がある。

これを読むと、日本のロジックは、このプラグマティズムの背景を知らずにアメリカの論理に侵食されている部分が少なくないことに気づくでしょう。

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