本を読む の記事

Date:09/11/26

ミラノのカドルナ駅に近いカスティリオーニのデザインスタジオは一見の価値があります。今は亡きデザイナーのスタジオがトリエンナーレと銀行の助成で、そのままの形で残されています。何がいいかって、カスティリオーニが「これ、面白いじゃない」と手にとって集めてきた玩具や雑貨の一つ一つが興味深いのです。彼がたまにそれらを手にとり触れて遊んだ風景が自然と思い浮かべられる。そして、「あっ、そうだ。これがいいんだ。これ、今のプロジェクトのあれの打開策になりそうだ!」と独り言を言ったであろう、そのプロセスも想起できるのです。それも彼の娘さんが案内してくれるわけですから、これはなんと言ってもお徳としかいいようがない!

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J.J.ギブソンらによる生態学的心理学の分野では、人間は動きのなかで物を認識し評価し利用しているといわれています。いわゆるアフォーダンスです。動きがなければ人間は物を立体視することすらできません。もちろん、それ以前にまったく動かさずにいるというのが人間にはできませんが(止まっているつもりでも眼球はつねに運動しています)。物の形というのは、そうした動きのなかでしか物を把握できない人間がちゃんと認識できるようになっている。

つまり、、物の輪郭には人間の動きが残像として残っているとみることができる。カスティリオーニはそうした物の形・輪郭に対して、自分自身の身体を通して迫ることで、その輪郭に残像として映った人間の動きを再生しようとしたのでしょう。まさに歴史家、考古学者的な身振りです。デザイン思考にはこうした姿勢も必要です。

棚橋氏は多木陽介『アッキーレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』を引用しながら、上のように述べ、「デザインすることで固定してしまう形態は動きは、道具を使う人びとの身体の動きや行為の軌跡を模倣している必要がある」と書いています。静的ではなく動的な状況把握の必要性を説き、動的痕跡の集積を如何に全体的に把握するかが大事だと語っているわけです。

これは少々敷衍し且つ逆にも置き換えると、多くのことについて言え、ぼくも何度も書いているように、静的状況に関する記述や解析は世の中に沢山ありますが、動的状況に対してどうかとみると、かなりまだまだお粗末なことが多い。それは理由は色々ありますが、時間軸を用いた把握というのは極めて難解な操作を伴わないといけないからでしょう。机上で地図を眺めて地理を把握することと、時速70-80キロでカウントリーロードを走るクルマのなかで地理を把握することは、明らかに違う次元での処理を求められているのに、相変わらず静的把握の応用でひっぱろうとする。カーナビのインターフェースのことにぼくは言及しているのですが、ここで頭の切り替えが必要なのに、その切り替えの必要性自身を認識できていないことが多々あるわけです。

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棚橋氏の指摘を更に別の観点でみたとき、「まさに歴史家、考古学者的な身振りです」という箇所に目がいきます。歴史家や考古学者となったとき、そこには政治学や社会学、経済学あるいは哲学も化学、全てが肩の荷にかかってくるわけですが、問題は、それらを全て背負うということは、それらの知識を全て獲得せよということではなく、可能な限りの視点を集めろということです。それが以下のユーザーテストにつながる説明でも分かります。

デザインとは生活文化をつくる仕事だといいました。商品やサービスをつくることがデザインのゴールではないんですね。それが現実の生活の場に適応できてはじめてゴールを達成したということができる。

この部分、ユーザー工学の黒須正明さんの提唱する人工物発達学と係わってくる点で、以前の引用をもう一度ここにペーストしておきます。デザインを考える意味が何なのかを想うとき、この二つの記述はリンクしてしかるべきでしょう。

人工物発達学は、特定の目標達成を支援する 目的で開発された人工物のデザインがなぜ多様であるのか、またその多様性には歴史的・環境的・社会的・文 化的な必然性があるのかどうか、またそこには認知工学的・人間工学的な合理性があるのかどうかを明らかにする研究領域である。つまり、同一の目標達成を支 援するために多様なデザインがあった時、それらが歴史的・環境的・社会的・文化的にみて、それなりに必然として成立したデザインといえるかどうかを分析評 価する。その上で、ユーザビリティの観点、つまり認知工学や人間工学の観点からみても最適となっているかどうかを分析評価する。

人工物には、たとえば歴史的必然性はあっても、認知工学や人間工学か ら見たときに合理性や必然性がないものもある。人工物発達学は単純に歴史や文化 を否定するものではないが、合理性がないデザイン、あるいは低いデザインについては、少なくともそうした認識は必要であり、またユーザが合理性や必然性を 追求する場合には、利用するデザインの切り替えが発生しても然るべきだと提唱者黒須正明は考えた。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/23

昨今、日本で「大きい政府」「小さい政府」という言い方が盛んにされますが、何をもって大小の指標としているかという問題はさておき、世界のトレンドが大か小かという議論になると、大いに首を傾げたくなります。フランスのような世界政治の重要な役割を担ってきた国が、一貫して国の権威を低めてこなかったことを脇において、そういう問題を語ることはあまり意味のないことでしょう。2008年の経済恐慌以来、国の役割が再度スポットライトを浴びているなかで、この国とは何を意味し、それは一般に生活する人たちにどう関係しているのかを見直すべきなのですが、およその場合、人とは「消費者」であり、民主主義の担い手としての「市民」ではない。そこに触れる(あるいは触れようとする)話題がどうも不足しているなと思っていたところで、本書を手にしました。

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2008年12月19日、東京の日仏会館で実施された「第五共和制五十年と<共和国>のゆくえ」という討論会を中心にまとめた新書ですが、かなり内容的に重い緊張感あふれる本です。何度もフランスの閣僚をつとめてきたシュヴェヌマンと比較憲法学の樋口陽一が、事前に練られたテーマについて話し、司会をフランス学の三浦信孝がつとめるという構成です。ポストモダン以降、「近代知」はシーラカンス的扱いであると自嘲しながら、しかし、その近代知が「再帰的近代」や「再帰的普遍主義」ーつまり反省を経たうえで再び獲得した価値ーに迫る時、その言葉はドシリとくるのです。

1980年代以降、日本でのナショナリズムは、実は「小さな政府」論と奇妙な共同戦線を形成してきた。日の丸・君が代の教育現場での強制を支持する政治勢力が、同時に、一連の規制緩和・撤廃を遂行し、「官から民へ」の標語のもとで国家の撤収という方向を進めてきた。それに加え外交路線での選択という場面での「日米同盟」依存を含めて、ナショナリズムは、国民主義でも国家主義でもなく、しかもその民族主義はもっぱらアジアとの関係だけで突出して主張されている。

と樋口は書くのですが、シュヴェヌマンも悪い意味でのナショナリズムの高まりをみつめ、「他方、コミュノタリズム(閉鎖的共同体主義)の反応も現れています。人間が市民としてではなく、自分の民族的宗教的ルーツによって自己を定義し、殻のなかに閉じこもる傾向です。原理主義はイスラム教の場合もありますが、ユダヤ教、キリスト教の場合もあります」との現象が世界中に生じていると指摘します。そして経済恐慌と並行してある民主主義の危機を次のように語ります。

このような民主主義の危機が起きたのは、アングロサクソンの経済が言う「ホモ・エコノミクス」が「市民」を凌駕したからです。ホモ・エコノミクスとは、自称合理的な、市場で自己を定義する経済主体のことです。過去二、三十年間の変化は、経済至上主義、過剰消費、「リベラルな超個人主義」の発展に対応します。つまりわれわれは市民であることを忘れ、消費者になったのです。まさに個人という概念、さらには個人という概念を、それだけが存在する権利であるかのようにみなし、一般意思、集団的な意志を定義する前に、個人の権利だけを重視したために、すべての権力、民主主義的な権力に対してまで懐疑心をもつようになったのです。

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シュヴェヌマンは常に左派であり、サルコジの方向にも異を唱えていますが、そのサルコジからも尊重される知識人は、実はマーストリヒト条約批准にも反対する共和国派です。反EUです。しかし、この人の来日エピソードからうかがえる人柄には感心します。日本への招待が決まった時の秘書とのやりとりを三浦がこう記しています。

秘書が夫人も同行したいので、シュヴェヌマン用に予約したフライトスケジュールを教えて欲しい、と言ってきた。夫人用の航空券は先方で手配する、というのである。このレベルの講師を招待するときはビジネスクラスが常識だろう。ところがエコノミーかビジネスかと秘書が聞いてきたのである。これはシュヴェヌマンがエコノミーでも旅行することを含意する。

結局、夫人は来日しなかったようですが、VIPが夫人の旅費を招待側に負担要求することが多いなかで、自分で負担しようとしたし、講師謝礼についても一切事前に問い合わせがなかったと言います。なるほど・・・・。以下に本人のブログも掲載されていますから、興味のある方は、こちらに↓。すごく精力的に発信しています。

http://www.chevenement.fr/

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/15

先月末、一橋大学大学院国際企業戦略科教授の石倉洋子さんの研究室でヨーロッパ文化やインターフェースについて話していたとき、石倉さんが「学生のためにロジカル思考について書かれた英語の本を探しているのですが、なかなか見つからなくて・・・日本語では沢山出ているのにね。外国人の学生には、大学院になっていまさらロジカル思考をあらためて学ぶ需要ってないんでしょうね」と語っていました。ロジカルに考えることが当たり前すぎるのでしょう。高校でラテン語やギリシャ語を学ぶのは、論理教育が目的であるのは知られたところですが、そういう課程を終えてきた学生にとって、ロジカルに考えるためのレッスンは意外感を伴うのです。

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以前、英国人の若いデザイナーが「本を読まない教養のないデザイナーって何なの?」とぼくの目の前でつぶやいた話を書きましたが、あるレベルの社会的文化的な関心をデザイナーの素養として当然のものとして語ったわけです。ぼくがヨーロッパのデザイナー達とつきあってきて思うことは、もちろん人によって差異があるにせよ、「デザイナーに教養はいらないよね」「デザイナーは本を読まなくてもいいんだ」と表立って言うことがないことです(無論、日本でもこうはっきりと言いませんが、この「当たり前率」が違います)。たとえば、雑誌TIMEで「イタリアの日刊紙はエリートによるエリートの世界を書いたエリートのためのメディアである」(だから一般人が読んでも理解しずらい記事が多い)との記事を読んだことがあります。そこには過剰で大げさな表現がありますが、1990年代にプロダクトデザインのコースができる前、建築学科で学ぶことがデザイナーの道であった時、そのような空気があったことは確かでしょう。ネットが主流になった今、新聞にそこまでのステイタスがありません。が、デザイナーもあるレベル以上の教養が当然視されるというのは、デザインを教える先生たちの本棚を眺めればすぐ分かります。

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デザイン雑誌のAXIS12月号は「アドバンスト・デザインリサーチ」を特集しており、米国や欧州の事例を紹介しています。よく日本のデザイナーから「表現の仕方が(ヨーロッパは)違うよね。考えていることはかなり似ているというか、同じと思うけどね・・・」という感想を聞くのですが、そのたびに、ぼくは「違うと思うんだけどな・・・」と独白します。表現が違うが考えていることが同じということはなく、表現が違うとは考えていることも違うからだ、とぼくは思うからです。そのことを、この特集記事を読みながら思いました。英文版を読む米国やヨーロッパの読者は、石倉さんのいう「ロジカル思考は基礎」という感想を抱き、日本語版を読む日本の読者は、「結構、同じところを考えているんじゃないの」という感じをもつのではないか、と。

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確かに似たようなリアリティを前にして、似たような手法でリサーチを行っているケースがありますが、それを同じというのではなく、違いを見出すことがリサーチの肝ではないかと思うのです。「ある違ったアングルからみれば、それは違った現実があると考えるべき」という考え方があることを事実として知っているべきなのです。後工程で類似項目を一つの共通項で同じカテゴリーに入れるにせよ、まずは一つ一つ、あるいは一人一人のディテールに目をむけたとき、同じとは言いがたいとみる見識と感性が要求されるでしょう。そして、それには多くの「読書による擬似経験」(立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』での佐藤優の発言)、すなわち教養が役立つはずです。このAXIS12月号の特集記事は、こういう観点に注意を払って読むのがいいと思います。

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