本を読む の記事

Date:09/11/23

昨今、日本で「大きい政府」「小さい政府」という言い方が盛んにされますが、何をもって大小の指標としているかという問題はさておき、世界のトレンドが大か小かという議論になると、大いに首を傾げたくなります。フランスのような世界政治の重要な役割を担ってきた国が、一貫して国の権威を低めてこなかったことを脇において、そういう問題を語ることはあまり意味のないことでしょう。2008年の経済恐慌以来、国の役割が再度スポットライトを浴びているなかで、この国とは何を意味し、それは一般に生活する人たちにどう関係しているのかを見直すべきなのですが、およその場合、人とは「消費者」であり、民主主義の担い手としての「市民」ではない。そこに触れる(あるいは触れようとする)話題がどうも不足しているなと思っていたところで、本書を手にしました。

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2008年12月19日、東京の日仏会館で実施された「第五共和制五十年と<共和国>のゆくえ」という討論会を中心にまとめた新書ですが、かなり内容的に重い緊張感あふれる本です。何度もフランスの閣僚をつとめてきたシュヴェヌマンと比較憲法学の樋口陽一が、事前に練られたテーマについて話し、司会をフランス学の三浦信孝がつとめるという構成です。ポストモダン以降、「近代知」はシーラカンス的扱いであると自嘲しながら、しかし、その近代知が「再帰的近代」や「再帰的普遍主義」ーつまり反省を経たうえで再び獲得した価値ーに迫る時、その言葉はドシリとくるのです。

1980年代以降、日本でのナショナリズムは、実は「小さな政府」論と奇妙な共同戦線を形成してきた。日の丸・君が代の教育現場での強制を支持する政治勢力が、同時に、一連の規制緩和・撤廃を遂行し、「官から民へ」の標語のもとで国家の撤収という方向を進めてきた。それに加え外交路線での選択という場面での「日米同盟」依存を含めて、ナショナリズムは、国民主義でも国家主義でもなく、しかもその民族主義はもっぱらアジアとの関係だけで突出して主張されている。

と樋口は書くのですが、シュヴェヌマンも悪い意味でのナショナリズムの高まりをみつめ、「他方、コミュノタリズム(閉鎖的共同体主義)の反応も現れています。人間が市民としてではなく、自分の民族的宗教的ルーツによって自己を定義し、殻のなかに閉じこもる傾向です。原理主義はイスラム教の場合もありますが、ユダヤ教、キリスト教の場合もあります」との現象が世界中に生じていると指摘します。そして経済恐慌と並行してある民主主義の危機を次のように語ります。

このような民主主義の危機が起きたのは、アングロサクソンの経済が言う「ホモ・エコノミクス」が「市民」を凌駕したからです。ホモ・エコノミクスとは、自称合理的な、市場で自己を定義する経済主体のことです。過去二、三十年間の変化は、経済至上主義、過剰消費、「リベラルな超個人主義」の発展に対応します。つまりわれわれは市民であることを忘れ、消費者になったのです。まさに個人という概念、さらには個人という概念を、それだけが存在する権利であるかのようにみなし、一般意思、集団的な意志を定義する前に、個人の権利だけを重視したために、すべての権力、民主主義的な権力に対してまで懐疑心をもつようになったのです。

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シュヴェヌマンは常に左派であり、サルコジの方向にも異を唱えていますが、そのサルコジからも尊重される知識人は、実はマーストリヒト条約批准にも反対する共和国派です。反EUです。しかし、この人の来日エピソードからうかがえる人柄には感心します。日本への招待が決まった時の秘書とのやりとりを三浦がこう記しています。

秘書が夫人も同行したいので、シュヴェヌマン用に予約したフライトスケジュールを教えて欲しい、と言ってきた。夫人用の航空券は先方で手配する、というのである。このレベルの講師を招待するときはビジネスクラスが常識だろう。ところがエコノミーかビジネスかと秘書が聞いてきたのである。これはシュヴェヌマンがエコノミーでも旅行することを含意する。

結局、夫人は来日しなかったようですが、VIPが夫人の旅費を招待側に負担要求することが多いなかで、自分で負担しようとしたし、講師謝礼についても一切事前に問い合わせがなかったと言います。なるほど・・・・。以下に本人のブログも掲載されていますから、興味のある方は、こちらに↓。すごく精力的に発信しています。

http://www.chevenement.fr/

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/15

先月末、一橋大学大学院国際企業戦略科教授の石倉洋子さんの研究室でヨーロッパ文化やインターフェースについて話していたとき、石倉さんが「学生のためにロジカル思考について書かれた英語の本を探しているのですが、なかなか見つからなくて・・・日本語では沢山出ているのにね。外国人の学生には、大学院になっていまさらロジカル思考をあらためて学ぶ需要ってないんでしょうね」と語っていました。ロジカルに考えることが当たり前すぎるのでしょう。高校でラテン語やギリシャ語を学ぶのは、論理教育が目的であるのは知られたところですが、そういう課程を終えてきた学生にとって、ロジカルに考えるためのレッスンは意外感を伴うのです。

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以前、英国人の若いデザイナーが「本を読まない教養のないデザイナーって何なの?」とぼくの目の前でつぶやいた話を書きましたが、あるレベルの社会的文化的な関心をデザイナーの素養として当然のものとして語ったわけです。ぼくがヨーロッパのデザイナー達とつきあってきて思うことは、もちろん人によって差異があるにせよ、「デザイナーに教養はいらないよね」「デザイナーは本を読まなくてもいいんだ」と表立って言うことがないことです(無論、日本でもこうはっきりと言いませんが、この「当たり前率」が違います)。たとえば、雑誌TIMEで「イタリアの日刊紙はエリートによるエリートの世界を書いたエリートのためのメディアである」(だから一般人が読んでも理解しずらい記事が多い)との記事を読んだことがあります。そこには過剰で大げさな表現がありますが、1990年代にプロダクトデザインのコースができる前、建築学科で学ぶことがデザイナーの道であった時、そのような空気があったことは確かでしょう。ネットが主流になった今、新聞にそこまでのステイタスがありません。が、デザイナーもあるレベル以上の教養が当然視されるというのは、デザインを教える先生たちの本棚を眺めればすぐ分かります。

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デザイン雑誌のAXIS12月号は「アドバンスト・デザインリサーチ」を特集しており、米国や欧州の事例を紹介しています。よく日本のデザイナーから「表現の仕方が(ヨーロッパは)違うよね。考えていることはかなり似ているというか、同じと思うけどね・・・」という感想を聞くのですが、そのたびに、ぼくは「違うと思うんだけどな・・・」と独白します。表現が違うが考えていることが同じということはなく、表現が違うとは考えていることも違うからだ、とぼくは思うからです。そのことを、この特集記事を読みながら思いました。英文版を読む米国やヨーロッパの読者は、石倉さんのいう「ロジカル思考は基礎」という感想を抱き、日本語版を読む日本の読者は、「結構、同じところを考えているんじゃないの」という感じをもつのではないか、と。

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確かに似たようなリアリティを前にして、似たような手法でリサーチを行っているケースがありますが、それを同じというのではなく、違いを見出すことがリサーチの肝ではないかと思うのです。「ある違ったアングルからみれば、それは違った現実があると考えるべき」という考え方があることを事実として知っているべきなのです。後工程で類似項目を一つの共通項で同じカテゴリーに入れるにせよ、まずは一つ一つ、あるいは一人一人のディテールに目をむけたとき、同じとは言いがたいとみる見識と感性が要求されるでしょう。そして、それには多くの「読書による擬似経験」(立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』での佐藤優の発言)、すなわち教養が役立つはずです。このAXIS12月号の特集記事は、こういう観点に注意を払って読むのがいいと思います。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/15

最近、若い世代のクルマ人気の低下がよく語られています。が、子供、特に男の子の様子を見ていると、「クルマ離れは青年時の後天的(?)なもの」という感じがします。やはり俄然、動くモノへの興味が強く、機関車トーマスやプラレールの洗礼が伝統的でさえあります。床にはいつくばってミニカーを走らせているその姿は、大げさにいえば、まさに古典が今に生きています。任天堂DSでカーレースに興じるのにクルマに関心を失うのは、成長のうちのどこかに何らかの事件があったから?という気にさせられます。逆にいえば、子供時代のある事柄にたいする関心のもちようはそれだけ重要ですが、その維持も同じく大切だということになります。

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今日、明治大学の管啓次郎さんの東京新聞でのインタビュー記事を読みながら、そうだなあと思いました。ある時、ヨーロッパの伝統的な文学に大国主義的な匂いを感じ始め、かつての植民地から生まれてきた作品に惹かれていった管さんの言葉です。

「でも一九九○年代に多文化主義が流行したから、クレオール的な作品が書かれたのではない。移民や植民地化の長く過酷な歴史の中で、彼らは力強く優れた作品を生み出していた。それが時代の趨勢(すうせい)によって意味づけられ、出版市場と結びついて噴出した。また、そんな歴史的枠組みを念頭において僕も旅をしているわけではない。何でもない人々の生活や、誰もいない砂漠や荒野を眺めるのが好きです。文学の趣味も、ミステリーのように都市社会のなかで完結する物語は肌にあわない。自然界を探る博物誌や、いくつもの風景や暮らしの局面を素描する紀行文に魅力を感じます」

イタリアも植民地をもった側ですから同じではありませんが、ぼくもイタリアに住み始めてから、北ヨーロッパの論理がすべてではないことがよく見えてきました。もともと日本からみるヨーロッパということで、ヨーロッパは客観的にみる対象でしたが、ヨーロッパに住んでそのなかにあるロジックの前提で疑うべき点が沢山見え始め、そのうえで北と南のロジックの違いにも気づくようになります。ファビオ・ランベッリ『イタリア的』岡田温司『イタリア現代思想の招待』を読んで膝をはたと打つのは、強すぎる北ヨーロッパの論理に対する反発だけでなく、論理自身の無理をみるからです。

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そこでアナール学派のジャック・ル・ゴルフです。本書では、やさしい言葉で前半はヨーロッパ通史、後半は中世が語られます。かなり反省的な通史ですが、ここで満足する人がどのくらいるかなという意地の悪い見方が、ぼくのなかでもたげないわけではない。しかし、この本の白眉は、後半の中世の日常的感覚を説明したところではないかとみると、ぐっと面白さがでてきます。中世はローマ帝国が崩壊して古代が終わる5世紀からルネサンスがはじまる15世紀であるという通説に対し、産業革命のはじまる18世紀まで中世であった。なぜなら18世紀に西ヨーロッパの社会生活が大きく変革したからだ。これがル・ゴフの主張ですが、少なくても1000年以上の長きに渡って、よく否定的にとらえられる「暗い中世社会」だけが続いていたわけではないことは、生活する人々の感覚をみていくことで浮き彫りにされていきます。

中世は、たとえロマン主義者が好んで想像したような黄金時代ではなくても、欠点やわたしたちが嫌いな面があったとしても、ユマニストや啓蒙主義者がそのイメージを広めようとしたような、反啓蒙の悲しい時代などではありません。中世は総合的に考えられるべきです。古代と比較すれば、中世は数多くの点で進歩と発展の時代であることを、のちほど明らかにするつもりです。確かに<悪しき中世>は存在します。(中略) しかし今日、私たちはもっと多くのものを恐れていますし、そのうちのいくつかはずっと大きな恐怖を引き起します(たとえば、地球外生物への恐怖、とても現実的なのが原子爆弾の恐怖)。

加藤周一『日本文化における時間と空間』で日本文化は水平線が強調され、ヨーロッパのように垂直方向にいくことはなかったとありましたが、この垂直に対する説明が本書にあります。中世の住居はたいてい質素だったが、二つの例外的建物があったと指摘します。

(城砦と大聖堂)の二つの建築物が中世の人々の精神には不可欠であり、中世の重要なシンボルでした。すなわち騎士の住居であるある城砦と、神の住まいである大聖堂です。

この二種類の住居は、その高さによって、はるかな高さがもつ意味と、見上げるべき方向を、教養人にも民衆にも指し示したからです。中世には上下の対比が<空間に投影>されています。人びとは下から逃れることを願って、非常に高くて、よく目につく塔や城砦を建造しました。別の言葉で言うと、上と高さは偉大さ、美しさを表すのです。(中略) すなわち大聖堂の高さは、天にまします神の崇高さを反映しているのです。

中世に「ヨーロッパ」が誕生したがゆえに、中世に目をよく向けるようにル・ゴフは説きます。その時に生じる何らかの違和感ー管さんが感じるようなーをどう解消していくかが、特に非ヨーロッパ人の場合、問題になってくるでしょう。無論、ヨーロッパ人でも、いやだからこそ強くつきまとってくる問題でもありますが、日常生活でみる心性に踏み込むことがヨーロッパ再考の鍵であると、はっきりと言ってもいいのではないかと思います。ヨーロッパと動くモノ、クルマを対比するのは気が引けないわけではないですが、関心を引くアプローチの仕方として参考にしてもいいのではないか・・・と考えないでもありません。

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