本を読む の記事

Date:14/4/25

先月、『かないくん』を郵便で受け取り、一読した後、「えらいもの読んじゃったなあ」と思わずひとり言が出ました。ちょうど先月2回目の日本滞在からミラノに戻った翌日のことです。この本には副読本があるのに気づき、手にとってみました。監修をした糸井重里さんの言葉があります。

いよいよ『かないくん』が、みんなのところに届くことになった。その日を待ちながら仕事をしていたのだけど、しかも、それはとてもうれしいことなのだけれど、ほんの少しだけさみしい気持ちが混じっている。

釣りをしていて、思ったように魚が釣れて、それをもといた湖や川に放すことを「リリース」というのだが、そのときの気分に似ている。だって、その魚に出合うために釣りをしていて、釣りあげて出合ったのに、そいつと別れるということだからね。

そう、釣り糸を垂れている自分の前に、その稀少な魚がやってきた感じだったのです。その気持ちを何と表現して良いのか、なかなか分からず、1か月少々が経ちました。子供の時に出合う「死」を2つの視点からみるなんて考えてもみなかった。だいたい、この本を読んで、漢字の多い観念的な文章なんか書けないじゃない。ひらがなの多い文章が自然と出てくるまで待つことにしました。。

そういえば中学から大学にかけて何人かの友人を亡くしたけど、その時、自分が悲しかったんだ、ということをだんだんと思い出してきます。事故、病気、自殺と原因はいろいろだけど、ご両親はどんな想いでわが子をあの世に送ったんだろうとは、たぶん、ほとんど考えていなかった。今、10代や20代の人の死に接すると、まっさきに、こんなにも若くして子を亡くす親の辛さを思うことのほうが多いです。涙は下に流れるけれど、行き先が違うんじゃないか。

この年齢にして、太平洋の島々や中国本土に若き青年たちを送った戦争のむごさに、あらためて思いを馳せることになります。「若き青年」であったときは、人を殺す無意味さや戦場にいく怖さにばかり関心が向きましたが、年齢がふえ自分が子供を育てる立場になると、自らは死ぬ可能性が少ない地に留まるやるせなさが気になります。

また、別のことも思い出します。ぼくが日本のサラリーマンをやめてイタリアに向けて成田空港をたった1990年2月最後の日、友人と両親が空港に送りにきてくれました。その日、ぼくは新しい世界に向けて期待に胸を膨らませ意気盛んだったはずですが、友人が放った「発つ人間よりも、残される人間のほうが辛いんだよ」という言葉は、その後、何度も反芻することになります。

この1か月少々、ものすごく多くのことが胸を去来しました。先月、親父をあの世に送って以来、ぼくに伴走してきてくれたのが、「かないくん」です。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:14/2/2

クラシック音楽の演奏家を他のアーティストー画家や小説家ーと同じだと思うと誤解する。他の分野のアーティストといわず、作曲家や指揮者とも同じに見てはいけない。クラシック音楽の演奏家はアスリートと思うと納得のいく。なんでこんなに社会的な事象に対してナイーブな意見をもつのか、と疑問に思うこともあるが、文化の素養のある教養人だと思うから疑問に思う。別にアスリートを悪く言っているのではなく、演奏家の役割が違うことを強調したいがためにこう書いている。ベートヴェンは作曲家であって髪を振りみだして演奏するピアニストではない(少なくても後の世界の評価では)。

クラシック音楽の演奏の中心にあるのは、演奏家の感情や思想や自我の表現といったことよりも、まず作曲家の音楽的意図の実現なのである。

3ー4歳の頃から練習をはじめ、「神童デビュー」を夢見るなら毎日8時間も10時間も嫌になるほど反復運動を続ける。身体の一部を昔の人が作った曲を弾くために酷使する。だから演奏家に曲の歴史的背景の説明を求め、気の利いた答えが返ってこなくてもガッカリしてはいけない。演奏家が知っていればよいにこしたことはないが、知らなくてもすむことだ。したがってスポーツの世界で若い短期間の活躍で終わったがためにビジネスの世界に適合しづらいとの困難があるように、演奏家も同じ局面にぶつかる。

それにしても、だ。小さい時からレッスン代も含めて多額の投資をするわりにリターンの成功率は驚くほど低い。ソロのヴァイオリニストやピアニストとして世界のトップに立っても、F1やサッカーの世界で活躍するトッププレイヤーほどには稼げない。有名なオーケストラのコンマスや団員になるのも非常に少ない席を競いあうエリートなわけだが、ビジネスの世界と比較してみれば「わりに合わない」。しかも、クラシック音楽の演奏者は社会的にマイナーな存在である。それにも拘わらずプライドは高い。私たちは世界に普遍的な価値を実現する担い手である、との意識がある。

実にややこしい。えらい暗い話だ。それもヨーロッパで生まれた「普遍の顔をした地域主義」の音楽を扱うわけだから一筋縄ではいかない。次のような構図は全体を把握するに分かりやすい。

20世紀初頭のユダヤ系移民は多くの職業から閉めだされていたため、音楽は彼らがアメリカ社会で上昇しメインストリーム文化に同化するための数少ない道だった。それと同様に、言語能力や社会資本が限られているアジア系の移民にとっては、音楽はアメリカ社会に同化して受けいられるための道具となる、というのである。西洋高尚文化のひとつであるクラシック音楽の分野で成功するということは、西洋文化を信奉しマスターしたということの証明となる、と考えられるために、とりわけ有効に機能する。

キリスト教信者になると欧州でより生活しやすい、あるいはカトリックという知恵の集積をもっているとイタリアで生活しやすい、というのと似た話だ。そしてプロのアジア人の演奏家はいくばくかの理論武装をして生きている。本書ではその論理の特徴をこう指摘する。

第一には、特定の文化集団が他と比べてクラシック音楽をより正当に「所有」しているとはいえない、という論。第二に、今日のグローバルな情報社会においては、どんな音楽家も他の音楽文化を理解することが可能だ、という論。第三に、有能で才能のある音楽家は、自国で起源をもたないものを含め、あらゆる音楽的アイデアを理解し表現する能力をもっている、という論。そして、最後に、音楽的理解というものを地理的・文化的に制約されたものと考えるのは、偏狭であるだけでなく人種差別的な見方である、という論。

日本人のサッカープレイヤーが欧州のチームで、野球選手が米国大リーグで、体格やセンスの違いをどう克服するかを考えるより大げさな論理を展開しないといけないわけだ。本人たちがこういう発言をするから、演奏家=アスリートの図式を外部から見えにくくしている。なにせ演奏家は経済的価値の創造者ではなく文化創造者にスタンスを置いているから、市場の目は攪乱させないといけない。いや、もちろん意図的に攪乱させるのではなく、結果的にそういう風なカタチになっているといったほうが正しい。

本書の中には多数のアジア人(日本、韓国、中国、台湾の出身者かそれらの二世以降の米国人ー特にピアニストと弦楽器奏者)演奏者へのインタビュー記録があるが、「音楽は世界の普遍的言語」と語る人がだんだんと視野の狭い人に見えてくる(あくまでもぼくの印象だ)。一方で民族や国をアイデンティティのコアにおいて自国文化の曲に拘る演奏者はややエキセントリックにみえてくる(これもぼくの印象だ)。そういうなかでオーボエ奏者で音楽療法士の加藤香のフレーズにピンとぼくの頭が反応する。

たとえば・・・《Swing Low, Sweet Chariot》という歌があります。黒人霊歌で、天国や死についての歌です。でも、曲の感じからすると、私の日本的な感性からすると・・・へ長調なので明るい感じがするし、あまり暗く聞こえないんです。日本人だったら、誰かが死んだら、もっと暗い短調の曲を選ぶと思うんです。だから、患者さんがこの曲を歌いながら泣いているのを見ると、そういう音楽的感性を自分自身は理解したり共感したりするのが難しいと感じます。日本の音楽では、《さくら》だって短調ですし、たいていの子守歌も短調ですから・・・。

カトリック教会の讃美歌だって短調ではない。こういう差異をみないことにして「普遍」というのはやはり不自然だ。つまり逆にいうと「音楽は普遍」でなければいけないロジックを携えていないと自らの立場を確保ができないケースが多い、ということ自身に「仕方のないこと」としての悲劇が隠されている。

本書を読んでいて一つ欲求不満に陥るのは、クラシック音楽をメインテーマとしながらヨーロッパにおけるクラシック音楽をどう考えておくべきかの前提を、アメリカにおけるクラシック音楽を語る前に記していない点だ。各章の各所でヨーロッパにおけるクラシック音楽が演奏者の言葉で語られるのだが、著者自身の言葉が抜けている。そこでそうした各所で「軋み音」が聞こえてくる。あるいは「歪んだ画像」が見えてくる。多分、著者自身の中では決着のついている問題なのだろうから、どう解決したかを「はじめに」か「おわりに」に説明しておいて欲しかったと思う。あるいはオリジナルの英文版には書いてあるのかもしれない。

しかし、それを小さな問題に見せるほどに、この本が取り上げたテーマと多数のアングルからの突込みは凄まじい。本書は書店の音楽大学入試案内の書棚に必ず置かれるべき本だ。きっと大学側が買い占めて、高校生には読ませない禁書扱いにするだろうが・・・それほど、この本はこれから音楽の道に進もうと考える若い人にとって刺激が強い。または薬効が強いというのが適切な表現になるのだろうか。

 

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:14/1/31

世の中には地に足がついていないといけないものと、地に足がついていなくても構わないというか、逆に地に足がつかないフワフワしていたほうが良いものがある。フワフワしているからこそお金が流れるという領域があるわけで、夜の酒場にお金を落としていく客は、フワフワ具合に自己弁護を捻じ込めるようなところがある。もちろん酒場を経営しているオヤジは地に足をつけ、客がフワフワするような仕掛けを考えるけどね。要するに商売してお金を受け取る人自身がフワフワしていちゃあいけないのだけど、ぼくが昔からフワフワしているなあと思っているものの一つに、日本のカーメーカーの車名がある。あのクラウンとかいう名前。

これ、本当にフワフワしていていいのか。もっと外面も地に足がついて良くない?日本のマーケットで売り使うモノなんだけど、殆ど横文字。英語とかスペイン語とかイタリア語とか造語とか。ぼくが昔いた自動車メーカーで「アスカ」という日本語の名前のクルマがあったが、CMがダサかったこともあるけど売れなかった。恰好自身は悪くなかったのに、マークIIとかシルビアとかスカイラインとか、そういう名前のなかにあって「アスカ?ダセイ」っていう感じに受け取られた。GM世界戦略車の日本版ということもあって日本語の名前に拘ったのかもしないが、どうも日本語の名前が受け入れにくい市場のようだ。で、これに似たやつで、企業のキャッチフレーズなんかも、やたらフワフワ感がある。そして、何よりも陳腐な言葉がずらずらと並んでいる。今だと、イノベーションやコネクトとか。

企業のビジョンなんかもそう。山の中腹にある洞穴から満月に向かって吠えている狼みたいなところがあって、月光がなくなるとひょいとどこかに隠れてしまうみたいな・・・でも、それじゃあだめでしょう。特に異なった文化の人に自社を的確にアピールできないという実践的なマイナスがあるだけでなく、ある程度構造的な世界の作り方がみえないと考えが成熟しずらい。一方、現場からすごく具体的なディテールから構想をはじめるのはもちろんいいんだけど、これ、日本文化の罠にはまりやすい。なにがというと、日本文化の良さは職人技的なアプローチが素晴らしい。が、弱みは全てのことに職人技的アプローチを適用してしまうってことだ。それが、こうしたビジョンの話をする時に引っかかってくる。

「世界観?ちょっと青く臭くない?」とビジネス界でいうのは、今は状況が変わったみたいだけど、昔、クラシック音楽や文学は学生の読むもので成熟した大人は距離をもつのが日本社会だったという「過去」がどうもついて回っているような気がする。ビジネス誌なんかでは「世界観」という言葉が出てくるし、まあ、社長との話では出てくるけど、実際のビジネスミーティングで「世界観」がまともに議論されることは極めて稀だ。というのも、どこかで「世界観」が衒学的な色彩をもっているらしい。しかし、この「世界観」がトップから現場レベルまで噛み砕けている会社が成長するんだと思う。

また、もう一つ「世界観」の周囲には気になる現象がある。日本のビジネスパーソンはちょっと先入観があるみたいで、「グローバルに考え、ローカルに動け」というのがかなり動かせぬ基本フレーズになっている。でも、これ本当に真理? 真正面から違うとはいわないけど、そんな「グローバルに考える」って一番最初にできる?ってぼくは問いたい。すべての言葉は、君の身体のなかにある経験のかたまりから来るわけで、身体のなかにグローバルなんてなく、すべてはローカルのなかのディテールからしかない。経営者だって同じだ。先に書いたように、せっかくのボトムアップ的なステップを踏む日本文化の得意な点がまるっきり生かせないまま、言葉が不発で終わることをわざわざやっている。ローカル→グローバル→ローカルという循環が適切な表現で手順だろう。こうすると、借り物ではない言葉が内から出てくるはずだ。

ローカルのリアリティを世界に「普遍性」として価値を普及させたのがカトリック教会だと理解すれば、「グローバルから考える」というのが如何に危ういかが想像つく。いくら高度1万メートルの機内で世界を考えても、「グローバルに考える」ことにはならないのだ。このブログでもよく書いているように、「ブランドとは考えの痕跡の集積である」が、そこには志向性というか方向性が必ずある。まさしく、そこで茫漠と見える輪郭がビジョンに相当するのだが、茫漠であればこそ力強いタッチでカタチを描こうとしないといけないわけだ。事例としてはえらく大きな話になってしまうかもしれないけど、そうやって何十年もかかって実現したのがEUだったというのはビジョンの明文化の重要性を語るにベストなケースだ。

本書は物語形式とチャートや箇条書きの二本立てになっている。右脳と左脳の両方を攻める工夫がきいている。異なる文化の世界でビジネスをするにあたっての苦労がどんなところに潜んでいるかを知らせるに、思いっきり敷居を下げている。伝わらないメッセージの責任は受け手にあるのではなく話し手にある、という趣旨を実践している。しかし、この本の最大の貢献はビジネス書の新しいタイプを提案していることではない。どんなに敷居を下げて読みやすくしたところで、異なった文化の人たちとロジックの回転を噛み合わせるためのコツは習得するのはえらく難しいことに変わりがない。そのことをくっきりと浮き彫りにしていることだろう。その一つの例として、日本企業がビジョンの明文化を不得意としていることがあげられている。

 

 

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