本を読む の記事

Date:09/12/4

「本を読む」というカテゴリーを設け、ブックレビューを書き始めてから、およそ5ヶ月がたちました。最初に書いたのが、6月29日、宮台真司『日本の難点』です。30冊以上について書き、「安西洋之の36冊の本」を入れると、70冊以上です。それまでも、本やオンラインの記事に触れることがありましたが、一つのシリーズとして書こうと思ったのは、6月末です。その動機がなにであったかといえば、ヨーロッパや文化について人前で語り始め、何度も何度も同じ論点を多様なアングルから話す必要性を痛感したことも一つあります。自分自身のメモにしようと考えたこともあります。理由は、挙げれば沢山あります。が、ないと言えばない。

ぼくは自分の本『ヨーロッパの目 日本の目』を出版し、変わったことがあります。それまでは、本を読んで(言葉は悪いが)悪態をつくことが多かった。「なんで、こんな馬鹿なことを繰り返し書くのだ」「この著者、ピントがずれている」「本当に、こんなレベルの内容の本を沢山の人が読むのか」・・・・多くの人が口走ることを、ぼくも同じように口走っていました。ネットでレビューブログを読むと、そうしたくそみそにけなした文章を散見します。正直に白状すれば、ぼくは、今もそういう思いをもつことがあります。しかし、それを他人に大声で言うことは極力避けるようになっただけでなく、実際にそう思うことが減りました。

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昔、和田誠が自分にとってつまらない映画はないと話していました。当時、あえてよいところを探す態度も疲れるよな、とぼくは感じていました。偽善ではないが、自分には適わない。が、自分で本を書き、人の批評を聞き、メッセージを伝える難しさが身にしみて分かってくると、そう簡単に公に人の本を批判できなくなったのです。「それで、お前の本はどうなんだ?」と反論される怖さではなく、どこかの主張が尖がっていたり、当然記述すべき部分がばっさりとないのは、著者の編集上の意図であったりすることが想像できるようになったのです。

意図的に排除したことを、「ないのはミス、甘い」と指摘するのではなく、「こういう意図で排除したと思うが、それはこうして入れるべきだった」と言わないと、著者にとっては「そんなこと、百も承知」と受け取られる。もちろん、「こんなに言われるなら判断ミスだった」という展開もあります。しかし、ぼくが言いたいことはここではない。もともと筆者のために本を読むのではなく、自分のために読むーそれも趣味の読書ではなく、サバイバルの読書ーという基本的態度が決まってくると、その本の完成度よりも、自分にとってどこがどう貢献するか?という読み方になってきます。だから、読んだ本にどんなに沢山欠点があっても、それはぼくにはどうでもいいことで、ぼくの考えることにどこかプラスになる情報や見方があれば、それでよしとするのです。

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ぼくが読んだ本について書いていることが、「ブックレビュー」と通常世間で言われるスタンダードとどう同じでどう違うか、そこにあまり関心をもったことがありません。ぼくの書き方は、まず本が扱っているテーマに対する自分自身の経験や考え方の整理をなるべく行い、そこに対して、この本がどうインパクトを与えているかにおよそ集中します。本全体の意図をサマリーすることはないし、目次を書き連ねることはしない。それは、ぼくの読み方ではないからです。そういう書き方をするには、別の読み方が必要だろうけれど、それはぼくの目標とすることではないということです。ぼくが言えそうなことは、本のために生きるのではなく、人と生きるにあたって、本を頼りにすることがあるとすれば、こんな読み方があるよ・・・・というサジェスチョンからもしれません。

Date:09/12/4

フランスという国は理念的に定義されており、それはドイツとは異なります。ドイツは民族主義的要素の強い国家ですが、フランスは理念が優先し、国籍も出生地主義をとります(以前、フランスの出生地主義は19世紀に兵力増強策として生まれた、という紹介をしたこともあります)。ヨーロッパ文化部ノートでも、この相違点について「ヨーロッパのナショナリズム」で言及しました。したがって、フランスの「共和国」のもつ意味は大きく、よく引用されるフランス政府の文化予算規模は、この国のあり方と深く係わってくるはずです。フランス文化省の2005年の予算は約4500億円で、国家予算の1%。日本の文部科学省は1016億円。国家予算の0.1%。外務省がもつアリアンスフランセーズは、文化交流やフランス語普及を担当しますが、世界137カ国にセンターをもっています。対して日本の国際交流基金は18カ国。(p 69)

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理念的国家概念の成立と文化が表裏一体の関係をなすことはもちろんながら、これは文化が好きであるとかではなく、文化が目に見えない権威をもつことをよく知っているからであると思います。しかも、それは時に無限大の威力がある。それを身近な例にもってくれば、ソムリエ制度です。フランスワインの営業制度としてソムリエを考えると、フランス文化の強さが実感できます。また一民間企業のビジネスですが、レストランの格付けをするミシュランガイドも、東京の食事がどんなに美味しいと評価しようが、結局においては、それは評価する側のフランスの料理価値観の権威付けに貢献することになります。日本の漫画やアニメがフランスにおいて人気を獲得することが、日本のサブカルチャーの地位を高めても、それは文化的権威を看板にするフランス以上にはなりきれない壁があります。

浮世絵が印象派に使われ、懐石料理がヌーヴェルキュジーヌにアイデアを提供し、日本が「世界に影響力をもった」と語るのは道半ばの段階なのです。日本市場の消費者が細かいことや品質に煩いことが外国企業を鍛えるということがあります。しかし、それらの外国企業が、日本市場で受けいられたことを、イメージ戦略のメインにもってくることはないでしょう。かつては、そのような振る舞いをした韓国企業も、今はそうではないと思います。相手に自分の影を踏ませない。そういう仕掛けが沢山あるのが、フランスであると言えるかもしれません。

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本書で、元フランス大使であった筆者は、「国のかたち」という表現を何度も繰り返します。この「国のかたち」がみえてこそ、フランスという国のブランドが強い存在感を放つという意味です。その第一に、フランスの文化重視政策を挙げているのですが、例は沢山あります。7月14日の革命記念日パレードに代表される式典。議会からも罷免をうけない強い大統領という元首(米国大統領はウォーターゲートでのニクソンに見られるように、議会から罷免をつきつけらる可能性がある)。冷戦時代を切り抜いた核外交とイラク戦争に強硬に反対した自主独立外交。特定の地域に産出する石油に頼らない原子力発電(発電量の80%。日本は40%)。

言うまでもないことですが、筆者は、これらと同じことを日本でやってブランド力を高めようと主張しているのではなく、ある理念的モデルとそれを構成する代表的要素に関しては、徹底して「考え方」を明確に示していく、それもできるだけ可視化していく重要性を説いています。よって、核放棄も「国のかたち」であり、より道徳的に高い位置にたった日本が、通常兵器と外交力で核の傘のマイナス地位をカバーすべきであるというわけです。思うに、実に難解な抽象性の高い次元に日本は入り込んでいるからこそ、「国のかたち」にもっと知恵と金を使わないといけないといけないはずで、まずは日本の重要な対外文化政策機関である国際交流基金とアリアンスフランセーズの比較を冷静にしてみることは重要です。中国が孔子学院という文化会館を世界中に設置して文化振興を図っている現状も、よく考えてみるべきでしょう。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:09/11/30

昨年6月に書いた「ぼく自身の歴史を話します」のなかで、ぼくが20代後半にヨーロッパを自分の活動の場にしていきたいと思ったことを以下のように書きました。

欧州の自動車メーカーにエンジンやギアボックスなどのコンポーネントを供給する仕事でした。その一つに英国のスポーツカーメーカーとのプロジェクトがあっ たのですが、英国人の頑固さと柔軟性に接しながら、ぼくは一つのことを思いました。「何か新しいコンセプトを作っていくには、米国ではなく、欧州のほうが 相応しいのではないか」ということです。もちろん、米国でも新しいコンセプトは生まれますが、過去の遺産と常に見比べながら将来を考える欧州の方に分があ るのではないか。そう思ったのです。

その頃、シリコンバレーがいいかと迷うことすらありませんでした。今でもヨーロッパから生まれる新しいコンセプトの価値をフォローし、それに関与していくのが自分の歩いていく道であると考えています。どんなにミラノのクリーニング屋や鉄道の駅員と喧嘩しようが、それはそれ。話は別です。どこにも嫌なことはあるし、いいこともある。今、目の前にある見える規模ではなく、将来新たな方向を生むかもしれない新しい価値とリアリティに常に関心の的があるのです。表層的なグローバリゼーションや英語の覇権に右往左往する様子を眺めるにつけ、世の中はこうは動かないだろうという確信をずっともってきました。

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EU統合の基本にあるのは、物・人・サービス・資本の自由移動です。そのために可能な限りの調整が各国間で行われ、例えば、ドイツ人がビールとは大麦、ホップ、酵母、水のみで製造されたものと限定することは、物の自由移動に反すると欧州司法裁判所で否定され(1989年、コミッション対ドイツ事件)、ベルギーではカカオの原料によるものだけをチョコレートと認めていましたが、それ以外が混入されているイギリス産の製品も「チョコレート」と呼ばなければならないとEU立法が定め、ベルギーもそれを受け入れることになりました(P 49)。

しかし、その一方で、公衆道徳や国民的文化財産の保護については各国間の調整が認められません。これは経済的な自由を確保するにあたり、文化の多様性の維持が必須であるとの前提に基づいています。経済的合理性が全てを覆うことはありえない。よって、EU市民はEU諸機関などに対し、EU加盟国の公用語のいずれの言語でも手紙を書き、同一の言語で回答を受け取れる権利が与えられています。現在、義務教育課程で、母国語以外に二つの外国語を教えているのも、ヨーロッパという「小グローバル社会」の実現の一端です。およそ単一言語やメジャー言語だけで社会が機能するとははなから思っていないのです。当然ながら、EUと各国の間での摩擦がおこります。次のような事例が具体的にあります。

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妊婦が国境を越えて産婦人科から合法的に妊娠中絶の処置を受けるとき、EU法上はサービスの自由移動(この場合はサービスを受ける自由)として扱われ、問題を生じない。しかし、宗教上の理由から加盟国憲法で禁止されることもある。

本書で例が挙がっているのがアイルランドです。中絶を禁じているアイルランドでは、年間8千人ものアイルランド女性が中絶のために英国に渡っています。今から20年ほど前になりますが、14歳の女の子が友人の父親にレイプされて妊娠するという事件があり、彼女の両親は英国で中絶手術を受けさせようとロンドンに彼女を連れて行きました。しかし、アイルランド当局はそれを違法としたため、彼女は帰国せざるをえなくなります。そして、アイルランドで女の子は自殺を考えはじめます。結果、最高裁判所は「妊娠中絶によってのみ回避できるような生命に対する真の危険が母親に差し迫っている場合には中絶を許容される」((p96) としたのです。そして、1992年、アイルランドの憲法自身が改正されるに至りました。

国は胎児の生命に対する権利を承認し、並びに、母親の生命に対する平等の権利に適切に配慮して、その権利を尊重すること及び実行可能な限りにおいてその権利を擁護し、かつ、主張することを法律により保障する。

本規定は、わが国と他の国の間を往来する自由を制限するものではない。

本規定は、法律により定める条件に服して、他の国で合法的に利用可能なサービスに関する情報をわが国において入手し又は利用に供する自由を制限するものではない。

上記の下線部分が改正されて追加されました。こういう調整を延々と継続している国々に、新しい社会圏の創造に向けたノウハウと知恵が蓄積されないわけがなく、ここに新しいコンセプトを生む萌芽があるだろうとぼくは睨んでいます。平板なグローバリゼーション論とローカリゼーション論に懐疑を抱く理由でもあります。残念ながら(?)、ぼくは古典的なヨーロッパ文化のファンではないのです。

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