本を読む の記事

Date:10/8/6

ある市場を狙うときに唯一の手法があるわけではないことと同じく、ローカリゼーションも一様であるはずがない。同じ市場に同じカテゴリーの商品で攻め入るに、その二つが同じ手法をとるわけがない。それなのに、こういう国にこういう商品を投入するときは、こういうパッケージでこういう表現をしないといけない・・・と思い勝ちである。しかし、実際はそうではない。それぞれに個々の事情があり、個々のポジションがあり、同じカテゴリーであっても対抗馬と正反対の手法をとるほうが成功に近いかもしれない。その意味で、ローカリゼーションの教科書は世界観の一部の事例を示すだけといえる。しかし、その断片の集積で見える世界を知ることは大切だ・・・というのが、本書を読んでの感想です。のっけから結論的ですが、これしかない。

スーパーで売っている日常生活で使うモノや食べるもの。この日本ブランドが世界の各国市場でどうパッケージされているのか?を追った本です。日清食品のチキンラーメンのシズル写真の場合・・・・

チキンラーメンでのハードルは「卵」の扱いだ。食品としての生卵に抵抗がないのは日本くらい、と言われる。日本のシズル写真の生々しい卵が、外国向け商品の場合、炒り卵やゆで卵、鶏肉に置き換えられている。また、スープの量、具と麺の割合などを見ると、それぞれの国なりの「チキンフレーバー麺」のイメージの違いが分かる。

出前一丁では・・・

「日本はつゆだくな感じが良いとされるが、香港の商品は麺を浮き上がらせ、量が多いイメージ。具材は炒めたものを載せる場合が多く、整然と具材が並ぶ日本風は冷たい感じがすると思われてきた。だが最近では、若い人は日本をそのまま受け入れる許容力があり・・・・」

という変化がみられます。カルビーの「かっぱえびせん」は、「米国ではえびの絵をグロテスクに感じる人がいるのでえびは描かれていない」「1970年代の発売当初は各地にあわせてローカライズをしてきたが、1990年代後半からブランド統一を図るため日本オリジナルに近いものが出ている」。しかし、米国は既にえびなしでイメージができてしまっているので、そのままのパッケージを継続している、というわけです。これらの例をみても、市場の文化が発信国のそれに近づいてくる場合、市場があまりに強固になり過ぎたためにあえて変化のリスクをとらない場合、二つの方向があります

東京の飲食店がわざわざアジアの猥雑なムードを出すことに努めるのは、アジアへの親近感より、あまりに暗部を消去しすぎた都市開発の反動ではないかと思いますが、香港の若い人たちが出前一丁にあえて渾然とした具材イメージを求める日がくるかもしれません。つまり、時間軸と相対的位置が入らない指標が意味することはあまりないのです。和風を強調するほうが外国製競合品が多い時には有利になることがありますがーヱスビーのチューブ入りわさびー、サントリーの伊右衛門の米国市場戦略については次のような解説があります。

日本の伊右衛門は竹筒形のPETボトルが評判を呼び、2004年の発売当初、あまりのヒットに生産が追いつかなくなったという逸話をもつ。しかしこの竹筒形というデザイン言語は日本でしか通用しない。特に米国では特殊な消費者心理が働くと(サントリーデザイン部アートディレクター)水口氏は説明する。

「竹のような形から凛としたイメージを喚起させる手法は米国では通用しない。恐らく本物感は感じるが、凛としたイメージというところまでは伝わらない。米国にはさまざまな海外文化を取り入れる吸収力があるが、自分たちの生活に合うように取り入れるため、十分なカスタマイズが必要。また、日本茶の本格的な雰囲気を押し付けてしまえば、顧客は逃げてしまう。例えば、いかにも和風な筆文字は陳腐だと見なされ、尊敬されない。漢字が多すぎればアジア圏向けで、自分たち向けに作られたものとは感じてもらえない」

日本茶という新しいジャンルゆえに紅茶のイメージを援用するなどし、相手文化で拒否反応が生じないことに注力するコメントです。このタイプの「警告」は、ぼくもヨーロッパ市場をベースに何度も書きました。これがローカリゼーションの最右翼にあり、香港における出前一丁の受容が最左翼としてあるのでしょう。どちらも真実であることを認識することが重要で、どちらか一方に楽観視したり悲観しすぎない文化的素養が必要です。「もう、日本のファンが沢山育っているんだから、昔と違うんだから」というなら、韓国や中国のメーカーがその近いところまで到達しつつあることに危機感を覚えないといけないし、「日本はやっぱりだめなんだ。二番手も危ういね」というなら、徹底して相手の懐に入る術をもっともっと駆使しないといけない・・・ということだろうと思います。

Date:10/7/4

ネットが西海岸文化の影響を大きく受けているがゆえなのか、ネット上で交わされる意見や考え方がリアル以上に楽観主義的であると思われるところがあります。1990年代後半のブーム時には「インターネットが戦争をなくす」という言葉がそう珍しくなく見かけられました。バブルがはじけ2001年911があり、ネットはテロの実施にも役立つことを証明してしまいました。それでも、ネットでの言説には、わが世の春を謳わないのは愚かであるとでも言わんばかりの勢いを感じさせることがあります。ぼくは、こうやってブログを書いているし、iPhoneでTwitterを眺めそれなりにネットの世界にも生きていますが、アーリーアダプターのもつメンタリティとは距離があります。ぼくはその意味でいつも遅れている・・・・。

今年のはじめ、Twitterで西田亮介さんが「.review」のアブストラクトを募集しているのを眺め、最初はわりと丁寧に追っていました。しかし、彼の投稿でぼくのタイムラインが染まり、流れを追いきれないと思ったとき、ぼくは彼のアカウントをリムーブしました。あの熱気を離れることによる若干の寂しさも感じたのですが、ぼくに「熱気自身」は不要だと思いました。2月、一橋大学の学生と勉強会をやったとき、そこに参加していた天野彬さんや小野塚亮さんが「.review」のプロジェクトに参加していると知ります。正直言って、ぼくはそれがどんな意義を彼らに与えていたのか良く理解できていませんでした。学生や若手研究者がリアルに何をどう考えているかをフォローするのは大切であるとは思いますが、それも程度問題であろうかと考えたわけです。

その後、ネットのなかで認知されるメディアになりゆくのを知りながら、実際、アブストラクトの中身を知ろうとはしなかったです。いわんやサイトでその論文を読むという行為に移ることはありませんでした。若手研究者たちが新しい発表の場を求め、それを紙媒体ではなくネット上に求めることは自然な流れであり、それが社会的に認知を受ければ当人たちはハッピーだろうと想像する以上の思いを抱くことはありませんでした。先月、小野塚亮さんと溜池のANAホテルで会ったとき、印刷された「.review」を受け取りました。アブストラクト募集告知から数ヶ月のうちに、こういうカタチになったことには驚き、感心し、そしてあまりに小さな活字に「参ったな・・・」と思いながらも、しばらくは電車の中でこの本にある論文を読んでいってみようと決意しました。出遅れた人間の責務です。

その一部、ファッション分野への感想を前回のエントリーで触れましたが、冒頭の対談で宮台真司さんが指摘しているーというより西田さんを暗に煽っているー言葉の数々は、ぼくにも同感するところが多いのですが、宮台さんの同世代としていうなら、こうエラソーなことを我々の世代は果たしていないよな・・・と思います。ぼくは高校時代から、自分たちの世代は前の世代よりレベルが低いと自覚しておりー全共闘世代は「右手に少年マガジン、左手に朝日ジャーナル」と揶揄されたが、それは朝日ジャーナルが片手にあるだけマシだったー、ぼくの世代が世の中のコアになったときのことを大昔から危惧してきました。だいたい、宮台さんが言うような希代の大物なんて何処にいるんだ?というのが率直なところです。およそ、どこを見ても、バックボーンが弱くもう数センチの幅に欠ける人間が多いのが我々の世代ではないのか?と思うわけです。あることはよく知っているけれど、その隣の向こうにはとんと勘がつかず、そこに思い切って足を踏み入れる人間が少なすぎる、ということです。で、この世代が若い世代を批判する資格なんかあるのか?というのが、ぼくのいつも抱いている疑問です。

さて、少々宮台さんの発言に具体的に触れると、以下の部分はメモです。

例えば、アングロサクソンは核家族ユニットの代表が激烈に競争するイメージがあるので、それが対外的な新自由主義のイメージを形作った面がある。親族の相互扶助ネットワークが大きいラテンは、逆にアングロサクソンが市場から調達する部分を相互扶助から調達するので、対外的には新自由主義から遠いように見えるというわけです。

しかし、(エマニュエル・)トッドも注目するように、本質は違わない。市場に乗り出しているのは、共同体代表としての個人であって、むき出しの個人じゃない。むき出しの個人が市場にさらされているということは、アングロサクソン社会にさえあり得ない。アングロサクソンだろうが、ラテンだろうが、市場と共同体を両立可能性を志向する点は同じなんだよ。

ところが日本人はそこを勘違いした。もともとは拡大家族主義なんだけど、それを直系家族主義に置き換えるだけならまだしも、小泉改革を翼賛した国民をみる限り、アングロサクソン社会にさえありえない「むき出しの個人が市場で競争するのが良い」という勘違いに陥ってしまった。こうした勘違いが横行したのは先進国では日本だけです。

ぼくは日本をみていて思うのは、なるべく言語化しないで混沌をそのまま受容する文化は、対西洋という観点でみるとき、ある種「解を呼ぶかもしれない」志向性があります。それを精神生活というレベルで肯定するのですが、現代の産業のロジックはそう動いておらず、そこに大きなギャップと悩みがあります。プロテスタンティズムと資本主義がリンクされても、仏教が市場主義を支えるロジックを提供することは今のところはない。エコ活動を支えるかもしれないが、その部分はまだ少ない。それゆえに、逆に「日本の心」をそのまま商品に作りこもうという焦りがどうしても出てしまう不幸があります。宮台さんが指摘する「むき出しの個人が市場で勝負という勘違い」も、精神世界と経済活動のロジックの間にある陥穽から生じた可能性がないわけではないかもしれない・・・と思いながら読みました。これは日本にとってものすごく大きな問題点でしょう。しかし、ここにしか問題はないかもしれないとも言えます。

これを悲観主義ととりますか?楽観主義ととりますか?

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/6/14

六本木ミッドタウンのデザインハブ。『世界を変えるデザイン展』最終日のカンフェランス。「日本の製造業は先進国市場で負けが続いているが、その大きな要因は全体のコンテクストへの理解欠如だと思う。今回、この会場やアクシスでの展覧会をみると、盛んに現地のコンテクストを読み込む重要性を語っている。一体、先進国でできなかったことが、貧困国で可能だとお考えなのか?」と、やや「意地悪な質問ですが・・・」と前口上をおいてパネラーのメーカーや経済産業省の方にぼくは質問しました。

カンフェランスが終わって2時間くらいしてTwitterを覗き#sekai_design の一連の投稿をみて以下、@sekai_designが書いた、リコー総合経営企画室の早川さんのコメントがかなりRTされているのに気づきました。

日本の企業はまだまだ負けていないと感じている。コピー機もまだ強い。だがもう年齢が上の層がやってはいけない。柔軟性が足りないというのと、何より長期的な視点で継続して取り組むことが重要。もう十年後にいなくなる社員がやるのではダメだ。

RTされた内容はどちらに重点があったのだろうとまず思いました。日本メーカーがまだ負けていないという部分か、世代交代の必要性を強調しているパートか?会場は若年層が主流だったので後半をメッセージとして伝えたかったのだろうとは想像しながら、「元気になれる言葉が欲しい」という願望が多いのかなとも思いましたーしかし、限界を告白している限り「一時的元気」でしかありません。もちろん、ぼくは日本の製造業の全体的な傾向を指摘して全ての企業が敗退しているとは言っていないのですが、ある例外で全体的傾向を否定する思考がなければいいなと次に思いました。杞憂であればいいと願っています。

コンテクスト理解は、象徴的事例を言うならば、海外の日本料理市場をとっている(日本人経営ではない)中国人経営の日本料理屋に勝つことです。拙著『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』にも書いたことですが、世界の人が「日本料理ってこうだよね」と抱くメンタルモデルの大枠にマッチする日本料理を提供するビジネスセンスが必要です。日本料理とは日本人の舌を満足させるものであるという定義から脱する頭の切り替えがないといけません。こういう発想の転換ができないところで、貧困国へのデザインとは何か?を問うのはビジネス的に厳しいところがあります。なぜなら、コンテクストを理解するとは、状況の前提条件を理解することに他ならず、ごく一部の極小事例と全体的傾向にある事例の区別を明確に示すことができることを言うからです。

『世界を変えるデザイン展』は一ヶ月の開催で、デザインハブとアクシスで合計1万9千人の入場者があったようです。特徴はデザイン関係者の数より、社会意識・参加をメインにおく「ソーシャル系」の人たちが多かったとこのことで、だからかTwitterに「デザインとはカタチや色の話ではないと知った」というコメントもRTされています。この展覧会とカンフェランスで悩ましいと思ったのは、デザインの定義です。狭義のデザインと広義のデザインがあまりに混沌としておりーGKの田中さんは広義をプレゼンで語っていましたがー、文化人類学や社会学の文化の定義である「人間の内面的外面的行為の全て」(designs for life) で使われるデザインと意匠を示すデザインとの間にある大きな空白をどう埋めているのかが分かりにくく、デザインとい言葉を意識的に使ったことのない人たちには気持ちよい刺激ではありながら、結局、それはデザイン=モノという置き換えに留まったようにも思えました。

ただ、このモノを介する世界観理解に関しては、ぼくもローカリゼーションマップ研究会のテーマとしているように、肯定的におさえています。「加藤周一『日本文化における時間と空間』を読む」で建築や都市構造が如何に文化理解の手助けになるかを書いていますが、モノのあり方は、多くの人に文化ー抽象思考の表現ーを自ずと説明してくれます。ある意味、『世界を変えるデザイン展』は、そういった基本的理解がこの日本で忘れられていたことを認識させてくれたとも言えます。ですから、考えようによっては、ローカリゼーションマップ研究会の活動をしていくにあたっての風穴を開けてくれたところもあります。文化理解にプロダクトデザインは有効であるという、あまりに当たり前のことを大きな風になって伝えてくれたと。昨年11月、スイスのムスリムのミナレット建設禁止の国民投票が通過したことで、ヨーロッパにおける信教の自由の範囲が明らかになりましたが、この事例から知るべき動向が大切なように、モノや建築表現の文化読解能力の向上を図る教育は日本において力を注ぐべき分野の一つかもしれない・・・・そういうことを改めて思いました。

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