本を読む の記事

Date:10/7/4

ネットが西海岸文化の影響を大きく受けているがゆえなのか、ネット上で交わされる意見や考え方がリアル以上に楽観主義的であると思われるところがあります。1990年代後半のブーム時には「インターネットが戦争をなくす」という言葉がそう珍しくなく見かけられました。バブルがはじけ2001年911があり、ネットはテロの実施にも役立つことを証明してしまいました。それでも、ネットでの言説には、わが世の春を謳わないのは愚かであるとでも言わんばかりの勢いを感じさせることがあります。ぼくは、こうやってブログを書いているし、iPhoneでTwitterを眺めそれなりにネットの世界にも生きていますが、アーリーアダプターのもつメンタリティとは距離があります。ぼくはその意味でいつも遅れている・・・・。

今年のはじめ、Twitterで西田亮介さんが「.review」のアブストラクトを募集しているのを眺め、最初はわりと丁寧に追っていました。しかし、彼の投稿でぼくのタイムラインが染まり、流れを追いきれないと思ったとき、ぼくは彼のアカウントをリムーブしました。あの熱気を離れることによる若干の寂しさも感じたのですが、ぼくに「熱気自身」は不要だと思いました。2月、一橋大学の学生と勉強会をやったとき、そこに参加していた天野彬さんや小野塚亮さんが「.review」のプロジェクトに参加していると知ります。正直言って、ぼくはそれがどんな意義を彼らに与えていたのか良く理解できていませんでした。学生や若手研究者がリアルに何をどう考えているかをフォローするのは大切であるとは思いますが、それも程度問題であろうかと考えたわけです。

その後、ネットのなかで認知されるメディアになりゆくのを知りながら、実際、アブストラクトの中身を知ろうとはしなかったです。いわんやサイトでその論文を読むという行為に移ることはありませんでした。若手研究者たちが新しい発表の場を求め、それを紙媒体ではなくネット上に求めることは自然な流れであり、それが社会的に認知を受ければ当人たちはハッピーだろうと想像する以上の思いを抱くことはありませんでした。先月、小野塚亮さんと溜池のANAホテルで会ったとき、印刷された「.review」を受け取りました。アブストラクト募集告知から数ヶ月のうちに、こういうカタチになったことには驚き、感心し、そしてあまりに小さな活字に「参ったな・・・」と思いながらも、しばらくは電車の中でこの本にある論文を読んでいってみようと決意しました。出遅れた人間の責務です。

その一部、ファッション分野への感想を前回のエントリーで触れましたが、冒頭の対談で宮台真司さんが指摘しているーというより西田さんを暗に煽っているー言葉の数々は、ぼくにも同感するところが多いのですが、宮台さんの同世代としていうなら、こうエラソーなことを我々の世代は果たしていないよな・・・と思います。ぼくは高校時代から、自分たちの世代は前の世代よりレベルが低いと自覚しておりー全共闘世代は「右手に少年マガジン、左手に朝日ジャーナル」と揶揄されたが、それは朝日ジャーナルが片手にあるだけマシだったー、ぼくの世代が世の中のコアになったときのことを大昔から危惧してきました。だいたい、宮台さんが言うような希代の大物なんて何処にいるんだ?というのが率直なところです。およそ、どこを見ても、バックボーンが弱くもう数センチの幅に欠ける人間が多いのが我々の世代ではないのか?と思うわけです。あることはよく知っているけれど、その隣の向こうにはとんと勘がつかず、そこに思い切って足を踏み入れる人間が少なすぎる、ということです。で、この世代が若い世代を批判する資格なんかあるのか?というのが、ぼくのいつも抱いている疑問です。

さて、少々宮台さんの発言に具体的に触れると、以下の部分はメモです。

例えば、アングロサクソンは核家族ユニットの代表が激烈に競争するイメージがあるので、それが対外的な新自由主義のイメージを形作った面がある。親族の相互扶助ネットワークが大きいラテンは、逆にアングロサクソンが市場から調達する部分を相互扶助から調達するので、対外的には新自由主義から遠いように見えるというわけです。

しかし、(エマニュエル・)トッドも注目するように、本質は違わない。市場に乗り出しているのは、共同体代表としての個人であって、むき出しの個人じゃない。むき出しの個人が市場にさらされているということは、アングロサクソン社会にさえあり得ない。アングロサクソンだろうが、ラテンだろうが、市場と共同体を両立可能性を志向する点は同じなんだよ。

ところが日本人はそこを勘違いした。もともとは拡大家族主義なんだけど、それを直系家族主義に置き換えるだけならまだしも、小泉改革を翼賛した国民をみる限り、アングロサクソン社会にさえありえない「むき出しの個人が市場で競争するのが良い」という勘違いに陥ってしまった。こうした勘違いが横行したのは先進国では日本だけです。

ぼくは日本をみていて思うのは、なるべく言語化しないで混沌をそのまま受容する文化は、対西洋という観点でみるとき、ある種「解を呼ぶかもしれない」志向性があります。それを精神生活というレベルで肯定するのですが、現代の産業のロジックはそう動いておらず、そこに大きなギャップと悩みがあります。プロテスタンティズムと資本主義がリンクされても、仏教が市場主義を支えるロジックを提供することは今のところはない。エコ活動を支えるかもしれないが、その部分はまだ少ない。それゆえに、逆に「日本の心」をそのまま商品に作りこもうという焦りがどうしても出てしまう不幸があります。宮台さんが指摘する「むき出しの個人が市場で勝負という勘違い」も、精神世界と経済活動のロジックの間にある陥穽から生じた可能性がないわけではないかもしれない・・・と思いながら読みました。これは日本にとってものすごく大きな問題点でしょう。しかし、ここにしか問題はないかもしれないとも言えます。

これを悲観主義ととりますか?楽観主義ととりますか?

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
Date:10/6/14

六本木ミッドタウンのデザインハブ。『世界を変えるデザイン展』最終日のカンフェランス。「日本の製造業は先進国市場で負けが続いているが、その大きな要因は全体のコンテクストへの理解欠如だと思う。今回、この会場やアクシスでの展覧会をみると、盛んに現地のコンテクストを読み込む重要性を語っている。一体、先進国でできなかったことが、貧困国で可能だとお考えなのか?」と、やや「意地悪な質問ですが・・・」と前口上をおいてパネラーのメーカーや経済産業省の方にぼくは質問しました。

カンフェランスが終わって2時間くらいしてTwitterを覗き#sekai_design の一連の投稿をみて以下、@sekai_designが書いた、リコー総合経営企画室の早川さんのコメントがかなりRTされているのに気づきました。

日本の企業はまだまだ負けていないと感じている。コピー機もまだ強い。だがもう年齢が上の層がやってはいけない。柔軟性が足りないというのと、何より長期的な視点で継続して取り組むことが重要。もう十年後にいなくなる社員がやるのではダメだ。

RTされた内容はどちらに重点があったのだろうとまず思いました。日本メーカーがまだ負けていないという部分か、世代交代の必要性を強調しているパートか?会場は若年層が主流だったので後半をメッセージとして伝えたかったのだろうとは想像しながら、「元気になれる言葉が欲しい」という願望が多いのかなとも思いましたーしかし、限界を告白している限り「一時的元気」でしかありません。もちろん、ぼくは日本の製造業の全体的な傾向を指摘して全ての企業が敗退しているとは言っていないのですが、ある例外で全体的傾向を否定する思考がなければいいなと次に思いました。杞憂であればいいと願っています。

コンテクスト理解は、象徴的事例を言うならば、海外の日本料理市場をとっている(日本人経営ではない)中国人経営の日本料理屋に勝つことです。拙著『ヨーロッパの目 日本の目ー文化のリアリティを読み解く』にも書いたことですが、世界の人が「日本料理ってこうだよね」と抱くメンタルモデルの大枠にマッチする日本料理を提供するビジネスセンスが必要です。日本料理とは日本人の舌を満足させるものであるという定義から脱する頭の切り替えがないといけません。こういう発想の転換ができないところで、貧困国へのデザインとは何か?を問うのはビジネス的に厳しいところがあります。なぜなら、コンテクストを理解するとは、状況の前提条件を理解することに他ならず、ごく一部の極小事例と全体的傾向にある事例の区別を明確に示すことができることを言うからです。

『世界を変えるデザイン展』は一ヶ月の開催で、デザインハブとアクシスで合計1万9千人の入場者があったようです。特徴はデザイン関係者の数より、社会意識・参加をメインにおく「ソーシャル系」の人たちが多かったとこのことで、だからかTwitterに「デザインとはカタチや色の話ではないと知った」というコメントもRTされています。この展覧会とカンフェランスで悩ましいと思ったのは、デザインの定義です。狭義のデザインと広義のデザインがあまりに混沌としておりーGKの田中さんは広義をプレゼンで語っていましたがー、文化人類学や社会学の文化の定義である「人間の内面的外面的行為の全て」(designs for life) で使われるデザインと意匠を示すデザインとの間にある大きな空白をどう埋めているのかが分かりにくく、デザインとい言葉を意識的に使ったことのない人たちには気持ちよい刺激ではありながら、結局、それはデザイン=モノという置き換えに留まったようにも思えました。

ただ、このモノを介する世界観理解に関しては、ぼくもローカリゼーションマップ研究会のテーマとしているように、肯定的におさえています。「加藤周一『日本文化における時間と空間』を読む」で建築や都市構造が如何に文化理解の手助けになるかを書いていますが、モノのあり方は、多くの人に文化ー抽象思考の表現ーを自ずと説明してくれます。ある意味、『世界を変えるデザイン展』は、そういった基本的理解がこの日本で忘れられていたことを認識させてくれたとも言えます。ですから、考えようによっては、ローカリゼーションマップ研究会の活動をしていくにあたっての風穴を開けてくれたところもあります。文化理解にプロダクトデザインは有効であるという、あまりに当たり前のことを大きな風になって伝えてくれたと。昨年11月、スイスのムスリムのミナレット建設禁止の国民投票が通過したことで、ヨーロッパにおける信教の自由の範囲が明らかになりましたが、この事例から知るべき動向が大切なように、モノや建築表現の文化読解能力の向上を図る教育は日本において力を注ぐべき分野の一つかもしれない・・・・そういうことを改めて思いました。

Date:10/5/27

日本のトイレの特徴は例を挙げていくと沢山あります。便座の前に立つと自動で蓋が開き、用を終えると自動で蓋が閉まる。約70%というシャワートイレの普及率の高さ。温かい便座。音消し機能・・・と思い浮かべるだけで「ああ、日本だなぁ」と思います。だから逆に、外国人が日本に行くと大いに戸惑うことが多く、例えば「シャワートイレのアイコンがさっぱり分からなくて何なの?」とか(お尻のカタチが数字の3に見えてしまう。シャワートイレの存在さえ想像していないユーザーに、3以外を想像させるほうに無理があるかもしれない)。「シャワートイレは気に入った。でも便座の電気は切りたい・・・」とか。

尻があたたかいといえば、電車のシートが温かくなるのを嫌う外国人は結構いて、疲れて座りたいけど立っているという人もいるぐらいです。ある知らない機能に接したとき、最初は違和感が先走り、しかし使っているうちに馴れ、最後にはそれなしには生活できない・・・というプロセスがあります。日本式トイレの外国文化との一般的接触について言えば、第一ステップのどこかというところでしょう。ぼくがいつも日本で思うのは、公共トイレでドライヤーやペーパータオルが用意している場所が思いのほか少なく、どうして衛生観念が全てのフローに至っていないのか?という点です。パーフェクトであるようでどこか抜けている・・・それが日本文化の愛すべき点なのかもしれません・・・。

今月、お台場でTEDxTokyoというイベントが行われました。「TEDは、テクノロジー、エンターテイメント、デザインの頭文字を表し、この3つの領域が一体となって未来を形作るという考えに由来します。そのイベント が網羅する分野は広く、50回を超えるプレゼンテーションや朝夕のイベントを通して、あらゆる方面からの素晴らしいアイディアを紹介します」とHPに掲載されています。ぼくはこのイベントをTwitter上で知り、ustream でのライブを見ることはなく、視聴者のコメントや感想だけ拾い読みしていました。アーサー・D・リトルの川口盛之助さんのトイレのプレゼンが受けているのも読みました。「日常の身近にある例で技術と文化を語る視点が馴染みやすかったのかな」と想像していました。そうしたら先日、ご本人からメールがあり、YouTubeにアップされたと連絡をいただきました。さっそく3度ほど繰り返して見ました。

トイレの環境を衛生、健康、快適性、デリカシー、ホスピタリティ、エコロジー、楽しみ、便宜性といった項目にブレイクダウンし、それぞれに該当する技術を紹介しています。蓋の自動開閉は衛生、ホスピタリティ、便宜性。音消しはデリカシー、ホスピタリティ、エコロジー。トイレに入り便座まで6秒。だから6秒で便座が温まるよう赤外線がセットされているー川口さんによれば「緊急時以外は6秒で問題ないのでしょう」。これは衛生、快適性、ホスピタリティ。このプレゼンをみながら、技術特性とその応用が分かりやすく整理されているーそれもロボットに喩え擬人化して笑いを誘っているーことに感心しました。個々の技術が集まって作る世界観を一般の聴衆に分かるようにまとめているのです。川口さんは学生時代、短距離の選手だったと伺ったことがありますが、リズム感溢れる軽快な展開はスポーツ的な爽快さがあります。こういう日本文化の紹介方法もアリです。いや、「紹介方法も」ではなく「紹介方法こそ」アリです。

さて、これをローカリゼーションマップ研究会の立場から見てみるとどうなるでしょう。色々な項目と技術の対応が文化圏ごとによって微妙にずれてくるのではないかと想像しました。冒頭に述べたように、手をなるべく汚さないようなフローを実現しながら、最後のステップでオチがある。海外では自動開閉や音消しはないが、最後に手をドライヤーで乾かすことが押さえてある。「日本ではハンカチを常備するものだ」と言うかもしれませんが、ハンカチを何度も使うのと、ドライヤーやペーパータオルとどちらが衛生的なのか?恋人が涙を流したとき、トイレで使ったハンカチを差し出すのか?これは衛生面だけでなくデリカシーの面ではどうでしょうか。

つまりデリカシーや快適性といったカテゴリーだけでなく、衛生というかなり合理性の高い項目も、コンテクストによってかなり揺れやすい概念ではないかと思われてきます。喩えれば「誰が洗ったかわからないフォークより、石鹸でちゃんと洗った手で食べたほうが清潔」という物言いにどう対抗するかです。カール・ケイ「『日本人が知らない「儲かる国」ニッポン』を読む」で引用したように、米国と比較して日本で院内感染が多いのは病室における洗面台の設置の少なさという指摘があります。サービスの本質とは何かの肝心な点で、どこまで文化を差異を超えて共通理解を獲得できるかがテーマになります、

こういう文脈でみると、川口さんのプレゼンは多角的な文化解釈を考えていく上でも有意義だったのではないかと思います。ここに論議するにふさわしいネタが出揃っています。このプレゼンをベースに各地域にどうローカリゼーションをするのが適当かが考えられます。シャワートイレや温かい便座という単機能でみるのではなく、「トイレの世界観」を全体フローで検討するとものすごく充実した成果が得られるのです。ここに「ものづくり」「コンテンツ」「水平展開」「プラットフォーム」といった議論を昇華する「秘儀」があります。

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