本を読む の記事

Date:12/3/7

先月22日に日本に着いて走り回っているうちに残り滞在日数も少なくなってきました。ミラノからの飛行機のなかで考えたローカリゼーションマップ3年目の青写真は少しずつですが具体性を帯びてきました。連続的なインプットをこなす日々が終わりに近づいて時を過ごすのが書店です。丸善本店が最近の定番です。以前は八重洲ブックセンターだったのですが、スペースの取り方やぼくがカバーするジャンルから東京駅を挟んで反対側に移りました。丸善本店でも7割近い本棚を巡るので相当な時を費やすことになります。ただ実際に本を手にとってページをめくる冊数はそれほどではなく、背表紙の書名を丹念に追っていくのです。本来は図書館でこれをやると良いのでしょうが、やはり世の中で現在求められているー流通されやすいー「知」という視点からすると書店が適当でしょう。

この時間を過ごしているとき、日本にいる実感をすごくもちます。ミラノでネットを通じて見ている日本社会がいかに限定的であるかを痛感するのです。それは東京でいろいろな方にリアルにお会いしている時以上かもしれません。「現代社会問題」というカテゴリーの書棚にあるテーマをネットで見通すのは至難の業です。社会学が復活しているように見えても、書棚の幅を見ると思ったよりマイナーであることを認識します。あるいは、新書コーナーでみるタイトルから専門書群の何を抽出しているのかを考えます。何を入門の視点として切り取るのかを、複数のジャンルで専門書と対比しながら見てみるのです。アジアにスポットがあてられながらー一般のビジネスマンにとってー何が見えていないのかは、各国政治経済や紀行と新書の3つのコーナーを見ていると想像をかきたてられます。また、哲学と思想の区分けをタイトルを眺めて、どういう分類で本を区別するのが消費者にとって有効であると書店が判断したのかを思います。

ヨーロッパがヨーロッパとしてとらえられるのはユーロ問題くらいで、以前は取り上げられなかったレベルで各国テーマが書籍化されています。これは一見喜ばしいようにも見えます。手薄だった情報に厚みがでてきていると言えるでしょう。しかし、ヨーロッパをヨーロッパ全体で語れる人が本当に少なくなったからだと捉えると、これは大きな穴です。こういうことを思いながら書棚のなかを歩き回ります。前述したように、いろいろな分野を含めて比較しながら総合的に考えることがーできるような錯覚をもつのですがーネットではできないのです。ネットでは一冊の新書と一冊のハードカバーの単行本の距離は限りなくゼロに近いのですが、大きな書店でこれらの2冊の間には明らかに乖離があり、しかし、そのラインを結ぶロジックが見えてくるーが、ネットでは分かりにくい

実のところ、これと類似することは書店以外にも多々あるのですが、書店でシンボリックに見えると言ってよいと思います。ですから、日本に到着してすぐ行くのではなく、滞在の終盤に多くのアポをこなして自分の内に積もってきた経験を書店で相対化する作業を行うことに意味があるのです。いや、本当のところを言えば、滞在のはじめでも書店に足を運びざっと眺めることはするのですが、丁寧に追うのは後半にとっておきます。

もちろん、自分の書いた本がどう置かれているかをチェックするのも忘れません!(2番目の写真は赤坂ベルビ―の旭屋書店です)

Date:11/12/3

どこも「可視化ばやり」である。アングロサクソン流の説得に屈したのか、なんでそうなったのかよく分からないが、かたっぱしから透明性が要求されていることと「文盲率」が高くなった、この二つが要因なのではないかと想像している。「文盲率」とは文字通りではなく、もちろん言語リテラシーを指している。コミュニケーションにおける文章への依存度が増しているのに、その理解力や表現力が比例していないから「文盲率」は相対的に高くなる。そして、ネットに「放出」される情報量は増大する一方であり、大波に溺れることに飽きたーあるいは力尽きたー人たちは古代的なライフスタイルを選択する。

そのためか、情報の流れ方や提示のされ方ー「しかた」ではない!-にとても敏感な人たちが育っている。ただこれも皮肉な見方をすれば、「文盲率」の高さゆえに「作法」で判断する部分が多くなっているとも言える。暗黙的な世界でより「作法」が重視されるとの同じレベルで、「文盲率」の高い世の中では「明示的である」ことが「作法」に堕している。実際、恥ずかしい話だが、ぼくも理解しずらい人の書いた文章によく出会いー君もぼくの文章を分かりにくいと言うかもしれないがー、「文盲率」の高さが自分の身に及んでいるのをひしひしと感じる・・・・。ああ、及んでいるのじゃなくて、もとからそうかもしれないが。

よってプレゼンばやりだ。「伝わらぬものは伝わらないんだ!」「伝わらないのは相手のレベルが低いんだ!」なんて口が裂けても言ってはいけない。そういう世知辛い世の中である。おばあさんでも分かるように、14歳でも分かるように・・・とキャッチフレーズをつけただけで、良心のありかが証明されたような気分が満ちている。ああ、いやだ。いや、ぼくもプレゼンの必要性については自分で語るから、全否定しているわけではない。それでも、やり過ぎなんじゃないかと思わないでもない、ということだ。

慶応大学の井庭崇研究室で作成した「プレゼンテーション・パターン」を読んだ。ヴィジュアルと言葉の両方でプレゼンのコツを語り尽くそうとの意思が見える。34のチェック項目が網羅されている。ぼくは、これですべてであるか、あるいは欠けている点があるかという目では見ない。これらのポイントのそれそれでいい線いったら十分じゃない。まず、無理だって。だいたい、これは方向性や態度を語っているのであるから、「いい線」という表現自体、馴染まない。

正直に書こう。ぼくは、プレゼンのやり方に関するマニュアルや本をほとんど読まない人間だ。ビジネス本も書き、たまにビジネス書のレビューをブログにも書くが、ビジネス書もほとんど読まない。読んだ冊数は、このブログにレビューを書いた数だけだ。だからプレゼンのコツをどう他人が語っているのかを知らない。しかしながら、プレゼンはこの34を手元においておけば他に何が必要なのか、さっぱり思い浮かばない。これは簡潔に肝心なことを指摘して、あとは読む人間が考えるようになっている。それでいい。

少なくても確信をもって言えることがある。プレゼンのマニュアルを読んでいる暇があれば、文学や歴史の本ー特に回想録ーを読むのが良い。もし、そうした本を読んでなお、プレゼンのマニュアルを読みたいと思ったら、それらの本をよく理解できていなかったと反省するべきだ。

あっ、基本的なことを書き忘れた。「明示化」のプレッシャーに対抗して「暗黙的である大切さ」を相手にどう説得できるか?というのは、重要な課題だ。これに負けると、プレゼンのマニュアルに走るわけだ。金を節約したいと考えるなら、何をすべきかは自明だ。

Date:11/12/2

いろいろな分野に人のネットワークがあると自分では自負していても、案外、「それでどうした?」と思われたりします。医者や弁護士のように機能が比較的理解されていると考えられる職業であれば、「そういう友人をもって便利だね」と言われますが、建築家だとちょっと遠のく。空間を設計する人の「機能性」は理解しずらい点があります。それゆえ、一般人に分かりにくい仕事の場合、まったく新しい言葉でそれを定義しなおすか、できるだけ皆が知っている職業カテゴリーにはめ込みます。「いろいろな分野」の「いろいろ」自身が視界に入っていないケースが多数なのです。

今週の月曜日、UXD Initiative 研究会で「イタリアンライフを題材にしたローカリゼーション・ワークショップ」後の懇親会で経験の統合に関して話していると、千葉工大の安藤昌也さんが「人には機能と役割があり、若い時は機能が優先し、年齢が増すにしたがい役割が大きくなる」とコメントをくれました。その表現を使うなら、普通、インダストリアルデザイナーは機能でしか見られません。医者が「心を落ち着ける相手」として役割を期待されるようにインダストリアルデザイナーが評価されることは稀です。

本書で引用されている2000年国勢調査によれば、グラフィックやファッションなどデザイナーで生計を立てている人は16万人。アーティストが約4万人、写真家が約5万人とあります。そしてデザイナーのインダストリアルデザイナーは約2万人であり、そのうちインハウスは60%、フリーランスが30%、残り10%が行政や学校に勤めています。

というわけで、中小企業が仕事で付き合えるフリーランスの工業デザイナーは日本中に6000人くらいしかいません。2万人に1人しかいない計算です。おまけにデザイナーの都道府県別の就業者数分布を見ると、東京・名古屋・大阪の大都市圏にデザイナーの8割が集中しています。

地方の地場産業の活性化に際しデザイナーが登用されても、なかなか難しい状況がこの数字から伺えます。地元事情をよく把握したデザイナーを期待することに無理があります。しかもデザイナーが考える「売り方」に本当の鍵があると思っていない企業が多く、色や形がマシになればそれでヒットするのではないかと期待をするものだから、大きな誤算がどんどんとつみあがっていきます・・・結果、デザイナーなんて役に立たないと思われてしまう。一方で「機能」だけでなく「役割」をも期待されたいというデザイナーも多く、交差しないお互いの思いが空を駆け巡っていることになります。

男性中心で、無名で、職人肌で、下請け受注で、「志」はあるけど営業も金銭勘定も苦手。中小企業によくいるタイプではないでしょうか?

日本のインダストリアルデザイナーはおしゃれじゃないけど腕時計だけは変わっているんだよなあ、との印象をもっているぼくとしては、こういう説明をデザイナーの著者がするーせざるをえないーことがとても皮肉に思えます。なにせふつうの人たちの日常には登場しない人たちなので、逆にアーティスティックなイメージをもたれ、おつきあいするには敷居が高いと中小企業に感じられている。これが両者の不幸を生んでいるわけです。「俺、みんなが思うほどモテないのに、どうも女の子は遠巻きに見るんだよね」というやつです(・・・かな?)。

そこでバシリーという表現は使っていませんがーでもいいからデザイナーを使いこなせ!と本書は書くわけです。企画の最初の段階にはじまり試作、場合によっては営業窓口にまでフリーランスのデザイナーは使い勝手が良い、と。それも嫌々やるのではなく、ビジネス全体の構想を描くところにこそデザインの意義があると説きます。デザイン的発想こそが、21世紀のビジネスのキラーアプリであると考えるのが妥当であるかどうかは判断しづらいですが、少なくても、この5年-10年についてはそうでしょう。

なお、対抗馬は、言葉の使い手である文学ーつまりは文学的思考ーか? というのがぼくの予想です。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
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