本を読む の記事

Date:12/3/26

『ヨーロッパの目 日本の目』に対する感想で一番気が滅入るのは、「結局、ヨーロッパのほうがいいって言っているわけだよね」というコメントです。力がガクッと抜けるような気持ちになります。このタイプの感想は出版した4年前のころに多く、その後ローカリゼーションマップの活動で真意を分かっていただける方が多くなりましたが・・・。日本はダメでヨーロッパの方がいいと言っているように受け取られるー確かにいくつかのテーマにおいて、そう書いているのは事実ですが、その逆も指摘しているーのは心外でした。また読み手のなかに潜在的にある偏見を突き破ることはできなかった自分の非力にも向き合うことになりました。誤解で世の中は成立しているのだと認識していても、それをほっぽっておいてよいことと、そのままではいけないことがあります。

ミラノに住んで日本の外のことをブログや本で書いているぼくにとって、誤解をどう解くかは大きな課題です。ビジネス上では日本への誤解をヨーロッパ人に説くこともしますが、日本語での記述は、日本人を対象にヨーロッパへの誤解を解きます。この「誤解を解く」という行為は世の書き手の大半の動機ではないかとも思いますが、誤解は「一般的」に解くのではなく、目的と対象を想定していかないと突破口が見えにくいです。「こういう目的のために、こういう理解だと生産性が低いよね。こう理解するのが経済合理性にあうんじゃない?」という按配で。

この10年くらいでしょうか。日本の書店でヨーロッパ各国事情の本を眺めていて、以前からある主婦生活奮闘記に加え、それなりに各国語メディアを駆使しながら全体情報を提示し書く「現地特派員」レポートのような本が増えてきたように思えます。これはSNSやブログで「現地特派員」としての価値に目覚めた結果であるように見えます。本書がどういう経緯で成立したのかわかりません。が、フランス、フィンランド、イギリス、アメリカ、ニュージーランド、ドイツ、ギリシャの各国在住者が、日本での紹介イメージと実像のあいだにあるギャップを報告する姿勢はいかにもSNS的動機が潜んでいるように感じます。

「日本の人、全然、文脈をわかってくれない。これじゃあ日本の再生は無理だ」という嘆きのし合いがスタートにある・・・事実がそうであるかどうは別にして、そう想像するのが無理ないほどに、「日本ではそういわれるが、実は・・・」という話が実に多いのがネットの風景でしょう。しかし、ネットの風景がそうであっても新書の棚の風景はそうでなかった。その乖離を埋めようとする作業が本書であったのだと思います。

日本人が他の国に対して抱くイメージと、その国の現実が一致しないことはよくある。日常レベルの話なら笑い話か薀蓄のたぐいで済むが、国全体に関わるような大きなテーマだったらどうだろうか。あの国はあんなに進んでいるのに日本はこうでしかないと、この国で作ってきた制度や歴史を過小評価することになっていないか。そして一人ひとりがどこか自分を追い詰めてはいないだろうか。

本書は個々のレポートを批評するよりも、書籍のねらいそのものを語るほうに意味があるかもしれません。何の誤解が見逃せなく、その誤解を解く目的は何なのか?が明確であるかどうか、を。

 

Date:12/3/25

ミラノのマルペンサ空港のセキュリティチェックゾーンを過ぎた後、「正統モッツァレッラチーズ」のバーがあります。イタリアのある特定の地域のチーズであることを売り物にするのはー世の中に多くあるモッツァレッラチーズとの差別化を図るー、何もグローバル食品への反対からではなく、グローバルな均一化現象があるからこその「逆転戦略」です。

カンパーニャ州の一軒のレストランに国境を越えて延々とドライブしてきた旅人に食べてもらうだけでなく、国際空港のなかで世界の空を飛びまわる旅行者を相手にして商売が成立するのは、地域のオリジナリティ溢れるモノはグローバルな経済の動きの一角を占める可能性があることを示唆します。たとえば、フランスのテロワールワインが世界に広がる品種競争ーどの品種がマーケットで人気がとれているかーと対抗することなど、その象徴的な構図です。

自由なライフスタイルやビジネススタイルを好む人ーコスモポリタンであることを望む人ーがマックを使うという図式は、それなりに手ごろなMacBook Air やiPhone の普及により崩れてきました。市場を占有する大きなウィンドウズがあってこそ、マックの「テロワール」的な側面が実態以上に大きく見せられてきたのでしょう。「世界にはいろいろな価値があって当然。ぼくはその多様性を積極的に支持するよ」と思う人がアップル製品を愛している・・・ようにイメージを作ってきたとすると、あまりにアップルのシェアが大きくなることは自分の首を絞めることになりますーきわめて根本的な点を指摘するならば、多様性を愛し許容する人がそこまで世界の多くを占めるなんて誰も思っていないー。多様性を評価するのは選別された人間の優越感が潜んでいますから、ことはやっかいです。

端的にいえば、多様性という価値観の受容を拒む社会があったほうが、世界全体の多様性は向上する。そのような社会は、文化の外部にいるという地位を生かしてきわめて独自の創造物を生み出すからだ。

自分は差異を積極的に受け入れるコスモポリタンであると言う人が世界の多数を占めてはいけないのです。あるいは、ありえないという前提で世界は成立していると考えるのが妥当なのです。非コスモポリタンが独自の文化性を発揮するから、コスモポリタンは多彩な違いを楽しみ自らの寛容さに満足します。頑固おやじが「正統モッツァレッラチーズ」の作り方にこだわればこだわるほど、コスモポリタンは喜ぶわけです。

留意するべきは、発展の遅れた貧しい社会へと貿易が広がると、それらの社会の内部においては多様性が向上することが多い。(中略) パプア・ニューギニアにショッピング・モールが出来れば、パプア人の選択肢は増加するだろう。だが、社会のエートスが変化することによって、パプア彫刻の背後にある霊感が弱まるとしたら、パプア彫刻を収集しているアメリカ人にとっては、選択肢が減ることになる。(中略) パプア人の得るべきものがアメリカ人の失うものよりも「大きく」「重要である」と考える限り、貿易を擁護すべき理由はなくならない。

第三国への経済進出は文化的にも善であるという匂いをここに感じ嫌悪感を覚えたら、この本はあまり面白くないでしょう。そういう嫌らしさがそこここに散らばっていて、アメリカ人の書いたもんだよなあ・・・とため息をしながら読むにしても、それを相対化する指標が記されているから癪だなと思いながらも懐柔(!)されていきます。「客観的な類似性が高まると同時に、主観的には(残された相違を強調しているだけにせよ)ますます大きな差異が実感されるようになる」のカッコにある注釈などは、コーエンの態度を明確に示しています。そして、ここで見逃してはいけないのは、「主観的に実感する大きな差異」のおさめ方ことこそが焦点になるとの認識です。

国や地域、部族のアイデンティティの指標は、かなりの程度まで調整可能である。標識の必要性を否定するつもりはない(文化アイデンティティは私たちの生活において重要な部分を占めている)が、アイデンティティの標識は他にも存在し得るのに、過去から受け継いできた標識ばかりに規範力を持たせる理由は不確かである。異文化間交易を通じて過去の標識が新しい標識へと移り替わるかもしれないが、アイデンティティの標識というのは時間が経てばいずれにせよ変化するものであり、完全な合理的な手段によってコントロールできるものではない。

この標識を上手く組み合わせてアイデンティティの確立に励んできたーそして稀にみる成功をおさめたーのがルネサンス以降のヨーロッパだと思います。ギリシャからローマも含めすべて自分たちの祖先に入れ込んだ脚本は見事だったとしか言いようがない。しかし、そういう脚本がいつまでも同じようには使えないとの至極当然の真理が常に隣で見張っているので、より大きな網の開発に注力するに至ります。

そもそもなぜ文化衝突が生じるのかといえば、人々が文化的標識を移行させたり、新たな文化的標識を創りだしたり、より幅広い新たな共同体において文化的標識を共有したりすることを望むからである。

文化意識において先端であるための「事情」です。

 

 

 

 

Date:12/3/17

今月のはじめの日曜日、熱海の小料理屋で熱燗の酒を飲みながら社会学者の八幡康貞さんと古今東西のことを延々と話し合ったときのこと。ぼくが「このところいや増す情報の透明性へのこだわりは思想的にはどういう流れにあるんでしょうか?シリコンバレーがガラス張りを主義のように見せるのなんかも、その流れに入るんでしょう?」と尋ねると、八幡さんは「カルヴァン主義に告白を重んじる一派があり、それが米国に普及したけど、その流れとみるのが妥当なんじゃないかと考えますよ」ともともと哲学を専攻した八幡さんは教えてくれた。「大きな流れのなかのごく一部であることを認識しないとね」と付け加えて。なるほど、やはり宗教的な流れに沿っているんだ。そう、「やはり」。

透明度が高いかどうかが「先進性」「後進性」と表現されることに違和感をもってきた。よって、ぼくは八幡さんのこの意見を聞いて腑に落ちた。透明度の高さを謳うことを一方的に悪いとは言わないが、それがすべてではない。一度自分の多くをネットに出したらなかなか後戻りできない。自身の姿を露出するかどうかの判断を「世界の一部」の考え方に委ねるわけにはいかないのだ。少なくても、身を預ける居場所が「一部の流れ」でできていることを知っているかどうかは鍵だ。

歴史は、必ず「考え方」の流れをともなっている。たとえばアジアやアフリカの植民地解放では、運動の主導者は西洋への留学経験者であることが多く、西洋文化の論理を学んだことによって西洋の国と戦い独立を勝ち取った。歴史の皮肉ではなく起こるべくして起こったとーその時代の数十年後のー人が納得する流れだ。だから今の自分が「単に大きな声」に振り回されているかどうかを一歩引いてみるクセがどうしても欲しい。

1965年にサンフランシスコで誕生したロックバンド、グレイトフル・デッドをマーケティングの視点からとらえた本書を読みながら、ヒッピー文化から連なるネット文化のバックにある前述のカルヴァン主義のことを思った。この如何にも二重写しに見えるヒッピー文化と現在のマーケティングアプローチをどこから眺めると絶景なのかと考える。もちろん、絶景に酔ってはいけない。絶景ではない微妙にずれた位置がどこなのかを探るべきだと思うのだ。ぼくは、このロックバンドの最強の武器は名前とその由来にあると思う。

辞書によると、グレイトフル・デッド(感謝する死者)とは、正式な埋葬を拒まれた死者を助けた英雄に関するバラードの一種で、多くの文化でよく似た物語が伝承されている。名前が喚起する、意識の世界を超えた、奇妙で宇宙的な感覚は、バンドにとって完璧だった。

この「正式な埋葬を拒まれた死者を助けた英雄」という立場が何としても強い。圧倒的なブランドを作っている。捨て身でさえある。業界の常識に反してライブ録音を勧めたり、ファンとのダイレクトチャンネルに固執したりといったのは、実は末梢的なことだ。それらは、この名前からきた「結果」なんだと思う・・・と書いてもいいが、こう書いても不思議と思わせない力を発揮している点が、このバンドのブランド力として注目すべき点だろう。

すなわち、バンドのマーケティング戦略とは宗教のブランド戦略と同じく、戦略の存在を感じさせては失敗である。ユニクロのプロモーションが上手く「マーケティングが見事」だと思われることはいいが、バチカンの市場戦略は表だって語られてはいけない。そういうことだ。しかし、それをテーマに取り上げると本はこぞって売れる。本書の位置はまさしくそこにある。マーケティングの専門家としての力量が大いに発揮された書籍企画であった、と。その点が実に憎い。

Category: 本を読む | Author 安西 洋之  | 
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