安西洋之の36冊の本 の記事

Date:09/8/11

300回目の投稿になります。昨年1月からスタートしたこのブログですが、100回目も200回目も何も気がつかずに通り過ぎたのですが、今回は296回あたりで「そうか、300になるか・・・」と気になりました。少しはデータバンクになってきたかなと思いました。それはアクセスアナリシスを見ていて、検索エンジン経由のキーワードを眺めていて、「こういう言葉でも、ここに来るのか」という意外な言葉が多くなってきたことからも感じます。自分が狙った言葉とは違う言葉でアプローチされるところにこそ意味があると思うのです。

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また、ぼくの36冊を選択してみて、去年書いた「ぼく自身の歴史を話します」と実に並行しているなあとの感慨ももちます。自分で気づいていなくても、読んだ本は自ずと自らの歴史を語ってくれるのです。36冊を選択してコメントを書いたレポートに付した感想を以下に転載します。

自分の考え方のコアをなす12冊が、ほとんど10代から20代に読んだ本で、30代になって読んだ本は一冊だ。これはあまりに勉強不足というべきか。やや驚かざるをえない。これはある意味、怖いことだ。しかし、振り返ってみて、30代以降は人との出会いと触れあい、あるいは自分自身の活動で得た経験が、圧倒的に自分のコアを作っていることは確かだ。

つまり、30代以降に読んでいる本は、自分の専門とする分野か、現代性を主題とするカテゴリーに入る。「これは仕事に役に立つ」「これは今を知るのに良い」という視点が強くなっている。本当は、自分の判断の核をなす本として、最近読んだ本を入れたいと思って努力(?)もしたのだが、どうしてもそうはならなかった。もっと、自分の受け皿を柔軟に保つ工夫が必要だ。

一方、36冊を選びそれぞれにコメントをつけるという作業が、こんなにも面白いものとは思わなかった。このテーマを考えた管さんに御礼を申し上げたい。優れたアイデアだ。自分が考えてきたことが、このようにアッサリと視覚化されてしまい、呆気ないほどだ。ただ、留保をつけるなら、専門とする分野をどう設定するかで、36冊の流れがガラリと変わってくるのではないかとも思った。

今、ぼくはヨーロッパ文化をどう日本の人に伝えるかを考えている。そして、実際、本やブログも書き、多くの人の前で話すこともはじめた。もともと全体性の理解に対する拘りが強かったが、多くの経験を積み、それをある時点で統合しようと思ったとき、「ヨーロッパ文化」という具体的な名称で、ぼくの頭のなかに統合の事例として現れたのだった。

ただ、実を言えば、ヨーロッパ文化を伝えるとは、ヨーロッパに関する情報を伝えることと同義ではない。言ってみれば、新たな視点や考え方を提供するにあたってのネタである。しかし、それはよく言われる「〇〇で何が分かる」「〇〇に役に立つ」「〇〇に学ぶ」という次元とは距離をもつ。ぼくの狙いは、異文化の人達と一緒に何かをするための文化理解とは何か?を突き詰めることだからだ。そして、まずは、その目標ラインを「ビジネスのため」と限定している。あえて線引きすることで、伝える内容の構造が見えてくるのではないかと考えている。

ただ、注釈が必要です。(1)の自分を作った12冊の本は入れ替えにくいと書きましたが、正直なところ、自分の読んだ本を思い出せ切れないという事情があります。1990年3月イタリアに来たとき、これからどうなるかも分からないので、二つのスーツケースに入るものしかもってきませんでした。もちろん衣服が主体で書籍はありません。その後、日本の実家の本棚から少しは移しましたが、そのうちに僕の本棚からぼくの本は消えうせ、親父の本に入れ替わりました・・・。ぼくの本は物置にまとまってしまわれ、本棚にある本の背表紙を眺めながら過去を振り返ることができなくなったのです。今思えば、花田清輝、森有正、小田実などの本にも影響をうけたのですが、これは遠くなりつつあった記憶の中にある本なのかもしれません。しかし、書名なんて忘れて本望です。本のために生きるのではなく、本は生きるためのアシスタントなのですから・・・。

Date:09/8/10

36冊の最後(3)は「現代性」を主題とする12冊です。ここに入っている本は好き嫌いではなく、また良書や悪書でもなく、影響をうけたうけないでもなく、わりと最近たまたま読んだ本をあえて「現代性」を主題とした場合、どう読めるか?という観点で選びました。(1)と違い、この(3)の入れ替えは比較的容易です。次回、この36冊を選択しコメントをつけるという作業で抱いた感想を書きましょう。

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村上隆 『芸術起業論』(幻冬舎 2006年)
世界のアート市場で勝つためには、市場の文脈をよく知ることが必須で、且つ、作品を理解してもらうためには言語化された説明が重要であると、アーティストが自ら経験したロジックを説いている。これは日本で従来、アートは直感的な自由な受け取り方がキーで、作家自ら語るのは二流であるといわれてきたことの「嘘」を暴いている。アートの世界は文脈構築のアイデアが勝負である。この本を日本のビジネスマンはもっと読むべきだと思う。

水谷修 ほか 『いいじゃない いいんだよ』(講談社 2005年)
先輩であり親友の水谷修さんの著書は沢山読んできたが、毎日新聞記者と医師の三人で行ったこの鼎談が一番面白い。彼の本領と一番リアルな言葉が記されている。約30年のつきあいで、水谷さんが、ぼくに教えてくれたことは無数にある。どれだけ多くの視点をもち、それら視点の動かしかたによって、どんなに世の中が見えてくるかということが分かる。これも彼を通じて学んだことの一つだということを、本書を読んで気づいた。今、日本はまさに、新たな視点を獲得できずに苦労している。

近藤健 『反米主義』 (講談社現代新書 2008年)
週末マクドナルドに入るフランス人カップルは、路面寄りではなく、二階の奥に座る傾向があるという。第三国人で一杯だから「お洒落じゃない」という理由もあるが、米国発ファーストフードに対する距離感も出ているエピソードだ。反米主義はヨーロッパ圏からも「反」を唱えられるように、「近代」の変質に対する「反」という一面がある。ヨーロッパは普遍性を志向したが、米国には普遍性への原理主義的信念がある。これがイデオロギー、資本主義、文化、さまざまな面で魅力と「反米」を生んできた。

水村美苗 『日本語が亡びる時』(筑摩書房 2008年)
かつてのラテン語のように英語が普遍的な位置をしめつつあり、日本語などは現地語として存在低下していくという言葉に関する本。言語論として読むと、色々と粗が目立つ(特にグーグルの影響を過大評価)が、文化論として読むと面白い。日本の文学は、ディテールに優れ、世界観を示すという点では西洋文学に劣るというのは、日本のものづくりの完成品と素材や部品のポジションギャップにも通じる。しかし、この状況に甘んじてはいけない。

宮台真司 『日本の難点』(幻冬舎新書 2009年)
一人で日本の社会や政治の様々な問題点について語った。その「一人で」ということに宮台は拘り、その拘りにぼくは同感する。数多の専門家が語る切り取られた世界からは、次のアクションへの指針が何も見えない。郡盲像を撫でるに近い。そして、もう一点。包括的且つ文学的に語りつくすことを意図したという点。それが成功しているかどうかは疑問だが、その趣旨にも賛同。マニュル的に世界を語ることはありえないのだ。我々は曖昧性も含めてあらゆる問題の全体性のなかで生きている。

福野礼一郎 『クルマはかくして作られる』(二玄社 2001年)
今回の不況でみるように、自動車産業は相変わらず各国経済の屋台骨である。また金融は目に見えないが、ものづくりは目に見えるという。しかし、約3万点の部品からなるクルマの世界はあまりに膨大な組織が絡み合い、実は見えるようで見えないものだ。どこまでがクルマの世界とは言えないくらいに裾野が広い。この本は、さまざまな部品メーカーの現場を訪ね歩いて、開発や生産の実態をレポートしている。世界が理解できるというのは、こういうことを言う。

小山登美夫 『現代アートビジネス』 (アスキー新書 2008年)
村上隆や奈良美智などの作品を世の中に紹介し、日本のコンテンポラリーアート業界で先端を走っているギャラリストが、アート市場のメカニズムを語っている。基本は、アートの歴史を如何に作るか、そこにおいて、経済的要素は重要である。作品にどういった価格がつくかを、「金の話しじゃない」と軽く言ってはいけない。経済価値があってこそ、市場のなかに組み込まれ、美術史の文脈を作っていく部分があるのだ。「美しい」「きれい」「面白い」という形容詞だけでアートに接するべきではない。

Ishiguro “The remains of the day”
第二次世界大戦前、英国の貴族の館で欧州各国と米国の外交官たちが秘かに集まり、対ドイツ対策について協議する場面がある。そこで米国の外交官が、ヨーロッパの方法はプロフェッショナルではなく既に古いと批判する。ヨーロッパの文化が、シリアスな局面で、バランスがとれているがゆえに甘さととられるところが、この21世紀初頭においても起こっている。それでは米国のプロフェッショナリズムとは何だろうか?それが、どこまで長期的解決を導くのか?

ファビオ・ランベッリ『イタリア的―「南」の魅力』(講談社 2005年)
ヨーロッパを対象とした文化人類学の歴史がまだ日が浅いなか、イタリアのコンテンポラリーなテーマに文化人類学的に切り込んでいる。そこに新しさがある。しかも、日本文化をよく知るイタリア人であるがゆえに、日本のどの文脈にあてはめれば良いかのツボを知っている。二番目のアドバンテージだ。そして、イタリアの後進性が生んだ文化の強みと弱みが、また限界を作っている悩ましい姿が残る。サッカーのカテナッチョが劣等感や狡猾性の産物というのが象徴的。

福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』(講談社現代新書)
昨年からの経済恐慌にあわせて出た本ではない。ITバブルがはじけて株式市場が低迷し、2001年の911以降の米国の一方的な外交戦略が目立ってきた状況を背景に書かれた2002年出版の本。副題が「アメリカ市場原理主義との決別」とあるように、「もう一つの資本主義」としてのヨーロッパ型資本主義を紹介している。ヨーロッパ各国で差異があるにせよ、「社会的」で「人の顔を見える」資本主義を目指している点では共通しているというのが趣旨。ヒューマンスケールが何事においても基本。

藤村信 『ヨーロッパで現代世界を読む』 (岩波書店 2006年)
パリに長く住んでジャーナリストとしての活動を行った著者の遺作。1968年より雑誌『世界』で連載された「パリ通信」は、多くのヨーロッパの今を見せ続けた。本書はブッシュ大統領によるイラク戦争、第二次世界大戦時の巨頭の動き、移民への寛容と極右の動向等に触れている。実は、正直に言えば「今更、藤村信の・・・」という感をもって書店で買った本だ。ノスタルジーで手にしたが、大いに裏切られた。政治に対するこの見方から若干距離をもっていた自分を猛烈に反省した。

フィッツジェラルド 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』(中央公論社 2007年)
ぼくは大きな物語が好きだ。かつて日本の典型と言われた私小説の良い悪いではなく、社会全体を視野に据えた小説にぼくの趣味があるということだ。そういう点からすると、本書は微妙なところに位置するかもしれない。やや小さな物語に見えるからだ。が、必ずしも「ある場所」だけに佇んでいるわけでもない。そのあたりの「移ろい」をふくめると、世紀を大きく跨いでも「現代性がある」と表現できる小説かもしれない。村上春樹訳はその象徴だ。

Date:09/8/10

課題では「専門とする分野の12冊」なのですが、ぼくの場合、専門をもたない主義なので、表題にあえて「今回」という言葉を入れました。ヨーロッパ文化とデザインを対象としました。7月頃から「本を読む」というカテゴリーでレビューを書いていますが、もともと、この管啓次郎さんの課題に取り組むというのが動機でした。したがって、いくつかはこのブログで書いたこととダブります。文字数は全然違いますが・・・。

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ブローデル 神沢栄三訳『地中海世界』 (みすず書房 1990年)
ぼくは「地中海世界には全てがある」と声を大にして言うタイプではないし、そこまで地中海世界が好きなのかどうか分からない。だいたいぼくはアフリカ大陸に足を踏み入れたことがない。それでも、地中海世界が語ることは気になる。地中海世界ならこう語るだろうと、北ヨーロッパ文化が発する言説に対して思うこともある。そのとき、ブローデルが描く地中海世界は、やはり強い。そこには高い質の時間と空間の具体例がある。参照せずにはいられないのだ。

佐藤和子『「時」に生きるイタリア・デザイン』(三田出版会 1995年)
カーデザインを上におき、生活雑貨や家具のデザインを下に位置にみていた目を変えてくれた本。それまで、モノとしてのクルマへの愛着があり、経済規模の大きさからも自動車産業に関わることに意義を見出していた。デザインについても同様の目線をもっていた。しかし、イタリアデザイン史の主役はクルマより生活に関わる様々なモノのデザインであり、イタリア社会史や思想史とより密着な関係をもってきたのは後者であった。ミラノに生活する意味を自覚した。

武者小路公秀 蝋山道雄編 『国際学―理論と展望』(東京大学出版会 1976年)
大学の国際論の教科書だった。その頃、鶴見和子の近代化論や武者小路公秀の国際関係論の章を真面目に読んだ覚えがある。特に鶴見の内発的発展論は繰り返し読んだ。だが、平野健一郎の「文化関係としての国際関係」は一通りにしか読めていなかった。この章の面白さに気づいたのは、卒業して約30年後だ。そして、平野さんの研究室のドアを叩いたのだった。そこで紹介されたのが、以下の『国際文化論』である。

平野健一郎 『国際文化論』(東京大学出版会 2000年)
政治学者として国際関係論に文化人類学を持ち込んだ平野さんが、国際文化の見方について分かりやすく教えてくれた。文化の変化は「必要性による」という説明を読み、それまでモヤモヤしていた視界が一気に開けた。寿司もケバブーも、それぞれ「ヘルシー」という合理性によって普及しているのであって、日本文化やトルコ文化が先行しているのではない。これによって、文化性は商品開発コンセプトのコアにはなりえず、あくまでもコンセプトに「のる」ものであると認識した。

D.A.ノーマン 野島久雄訳 『誰のためのデザイン? 認知科学者のデザイン原論』(新曜社認知科学選書 1990年)
記憶とその再生は、日常世界におけるさまざまなモノや人を媒介にして行われる。人はその意味で極めてオープンな存在である。それがノーマンのいう「現実と結びついた認知」だ。人は事象やモノについて、それぞれに違ったメンタルモデルをもっており、それは地域や世代などにより、即ち文化によって異なってくる。したがって、対象とするユーザーのメンタルモデルを探求することが、商品開発上、極めて重要であり、そのベースとして文化の理解は必須となる。

ヤコブ・ニールセン 篠原稔和・三好かおる訳 『ユーザビリティエンジニアリング原論』(東京電機大学出版局 1999年)
さまざまな言葉で記述される説明に文化の壁があることは常識だが、グラフィックで表現されるアイコンが、世界の全ての人に理解されるわけではないという事実に関しては、かなりの人がノーマークである。同じ視覚イメージも、文化や習慣によって、全く違ったものを想像されうることが現実である。欧州ではアイコンは文字通り概念を表現するが、日本では視覚的イミテーションにいく傾向がある。こういうことは、一つ一つ、ユーザーテストして確認してデータを集積していくしかない。思い込みは危険だ。

岩田誠 『見る脳・描く脳―絵画のニューロサイエンス』 (東京大学出版会 1997年)
網膜は健全なのに脳の一部に欠損があるゆえにイメージが歪む、見えない、イメージが思い出せない等の症状を実際にみていくと、脳神経の働きを前になにやら呆然としてしまう。しかし、全ての解明を脳科学に委ねるのもおかしく、それはあくまでも一部「説明担当」してもらうに過ぎない。そして重要な点は、アーティストは、19世紀末からすでに脳の絵画―印象派―を描いていたということだ。脳科学者たちが視覚的記憶の文脈構造を研究しだしたのは、それから1世紀後だ。

森明子編 『ヨーロッパ人類学―近代再編の現場から』(新曜社 2004年)
主に非西洋を調査研究対象としてきて人類学が、1980年代からヨーロッパ自身を対象としてはじめた。その流れを日本で注目はじめたという。ヨーロッパを従来の目と違うところから把握できないか、そしてその実績をもっと実ビジネスに生きる形に応用できないかと考えていたぼくにとって、この「ヨーロッパ人類学」の趣旨は的中していた。しかしながら、この本の内容は、ぼくの狙っているポイントとは距離がある。それは待っているだけでなく自ら埋める作業をしないといけない。

エドガー・ホール『かくれた次元』(みすず書房 1976年)
「異なる文化に属する人々は、違う言語をしゃべるだけでなく、おそらくもっと重要なことには、違う感覚世界に住んでいる」という部分が、ぼくにとってのホールのポイントだと思う。そして、ユーザーの感覚や知覚とダイレクトにつながっている製品がどんどん増えていっているにも関わらず、この「眼に見えない文化の次元」にあまりに鈍感であることが、生活から経済までの大状況までの広い範囲に悪影響を与えている実態を、日本のメーカーは認識すべきだ。

ジャン・モネ 近藤健彦訳『回想録』(日本関税協会 2008年)
欧州統合に動いた仕掛け人の回想録。国際連盟設立や第二次世界大戦の舞台裏が良く分かり、最初の6カ国が欧州石炭鉄鋼共同体へと導かれる道筋がリアルに語られている。複数のグループを共生させるために必要な共通利益の可視化、それを実現させるための実践行動的プランの立て方、より優位性をもつモラルのキープの仕方。ここにはヨーロッパ人の文化のエッセンスとコラボレーションする場合のコツが記してある。

加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店 2007年)
故国を離れないと故国の全体構造は絶対見えてこない。生まれた国にそのまま住んできた人生では、決して気づかない部分がどうしてもあり、その部分が具体的に見えないと全体構造が眼前に現れてこない。これは人の才能の問題ではないだろう。もちろん、加藤周一の才能あってこそ、ここまで日本文化が見えてくるわけだが、仮に著者が殆ど日本で生きていたら、このような本は書けなかったに違いない。ヨーロッパを考える際、対比としての日本文化論として大いに活用できる。

“Magnificenza e Progetto –cinque cento anni di grandi mobili italiani a confronto” (Skira 2009)
今年の4月、ミラノの王宮で開催されたイタリア家具500年の歴史の展覧会カタログ。ぼくは展覧会をみても必ずカタログを購入するタイプではないが、この展覧会の意義に感銘をうけたぼくは、迷わず買った。時代順にセクションが分かれているのではなく、例えば、バロック様式とポストモダンの家具が同じ空間にあるのだ。3世紀前の目を通して20世紀を見る。20世紀の目で3世紀前を見る。これは歴史を再編しながらの新しい価値体系への探索だと思った。

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