安西洋之の36冊の本 の記事

Date:16/2/15

今月のはじめ、思いついたようにnoteをはじめました。

6-7年間、ツイッターとフェイスブックをやってきたし、並行してインスタグラムやニューズピックスなどにも登録をしてきました。色々な思考回路を確保しておこうというつもりでした。しかし、インスタグラムはぼくにとって時間つぶしでしかないなあという感じが拭えません。ニューズピックスもずいぶんと眺め、「ニュースに関してこんなに意見交換しなくてもいいよな」という気がやはりしました。フェイスブックで散見する意見で十分かな、とも。それらを必要とする人たちはやればいいけど、ぼくが今時間を使うとすると別のところかな、と思ったのですね。じゃあ、何がいいのか?

ソーシャルメディアも場を変えると、違った意見や見方が見えてくるわけですが、そうそう沢山のアカウントをもって全てをカバーはできない。一つのネタでどの場にも流し込むということができますが、それはあまりやりたくない・・・と迷っていたのです。ツイッターをフェイスブックに流すのも、なんだかなぁと思うタチなので。

毎週、サンケイビズにコラムを書いて4年近くになりますが、一回の原稿の目安が1500字です。これを書きながら、並行してもっと少ない字数で気楽に書きたいなあとぼんやりと思っていました。ハフィントンポストに書くのもいいですが、結構、荒波に漕ぎ出す覚悟を要されるところがあって気楽さとは縁遠いわけです。このブログも500字周辺だと短すぎます。画像中心にしないといけないでしょう。レイアウトとして500字が似合うところが条件になります。メールは少々字数がないと寂しいけど、チャット形式のメッセージは1行でいいとか、それと同じです。

・・・なんのために、新たなチャネルを欲しいと思うのか? これをもう少し考えてみました。

自分の考え方をじっくりと整理することを優先する。それが第一です。あまりビジネスのことがざわざわと語られるところでなく。第二としてあまりに人が集まり過ぎていないところ。まあ、今のところですが。

で、noteです。なんとなく、今はここが目的にあっていそうだ、と。それで、まずは7年前に書いた、自分の考え方や判断力をつくった12冊のレビューをアップデイトしてみました。これは自分の判断力を実際につくっているというより、自分の考え方のモデルとするものをどこからひっぱってきたか、ということを整理しています。ひとつの領域のスペシャリストになることよりも、複数の領域をまたぐ人間であるためのロジックとか、混沌とした状況で落ち着けるコツとか、そういう支えをしてくれる本を自分の味方につけてきたのが、振り返ってみるとよく分かります。

この12冊が昨日終わったので、今日から自分の専門の12冊です。専門はもたないのですが、よく足場にするところで、欧州文化とデザインの12冊を見直しています。とりあえず、1日1投稿です。

Date:09/12/4

「本を読む」というカテゴリーを設け、ブックレビューを書き始めてから、およそ5ヶ月がたちました。最初に書いたのが、6月29日、宮台真司『日本の難点』です。30冊以上について書き、「安西洋之の36冊の本」を入れると、70冊以上です。それまでも、本やオンラインの記事に触れることがありましたが、一つのシリーズとして書こうと思ったのは、6月末です。その動機がなにであったかといえば、ヨーロッパや文化について人前で語り始め、何度も何度も同じ論点を多様なアングルから話す必要性を痛感したことも一つあります。自分自身のメモにしようと考えたこともあります。理由は、挙げれば沢山あります。が、ないと言えばない。

ぼくは自分の本『ヨーロッパの目 日本の目』を出版し、変わったことがあります。それまでは、本を読んで(言葉は悪いが)悪態をつくことが多かった。「なんで、こんな馬鹿なことを繰り返し書くのだ」「この著者、ピントがずれている」「本当に、こんなレベルの内容の本を沢山の人が読むのか」・・・・多くの人が口走ることを、ぼくも同じように口走っていました。ネットでレビューブログを読むと、そうしたくそみそにけなした文章を散見します。正直に白状すれば、ぼくは、今もそういう思いをもつことがあります。しかし、それを他人に大声で言うことは極力避けるようになっただけでなく、実際にそう思うことが減りました。

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昔、和田誠が自分にとってつまらない映画はないと話していました。当時、あえてよいところを探す態度も疲れるよな、とぼくは感じていました。偽善ではないが、自分には適わない。が、自分で本を書き、人の批評を聞き、メッセージを伝える難しさが身にしみて分かってくると、そう簡単に公に人の本を批判できなくなったのです。「それで、お前の本はどうなんだ?」と反論される怖さではなく、どこかの主張が尖がっていたり、当然記述すべき部分がばっさりとないのは、著者の編集上の意図であったりすることが想像できるようになったのです。

意図的に排除したことを、「ないのはミス、甘い」と指摘するのではなく、「こういう意図で排除したと思うが、それはこうして入れるべきだった」と言わないと、著者にとっては「そんなこと、百も承知」と受け取られる。もちろん、「こんなに言われるなら判断ミスだった」という展開もあります。しかし、ぼくが言いたいことはここではない。もともと筆者のために本を読むのではなく、自分のために読むーそれも趣味の読書ではなく、サバイバルの読書ーという基本的態度が決まってくると、その本の完成度よりも、自分にとってどこがどう貢献するか?という読み方になってきます。だから、読んだ本にどんなに沢山欠点があっても、それはぼくにはどうでもいいことで、ぼくの考えることにどこかプラスになる情報や見方があれば、それでよしとするのです。

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ぼくが読んだ本について書いていることが、「ブックレビュー」と通常世間で言われるスタンダードとどう同じでどう違うか、そこにあまり関心をもったことがありません。ぼくの書き方は、まず本が扱っているテーマに対する自分自身の経験や考え方の整理をなるべく行い、そこに対して、この本がどうインパクトを与えているかにおよそ集中します。本全体の意図をサマリーすることはないし、目次を書き連ねることはしない。それは、ぼくの読み方ではないからです。そういう書き方をするには、別の読み方が必要だろうけれど、それはぼくの目標とすることではないということです。ぼくが言えそうなことは、本のために生きるのではなく、人と生きるにあたって、本を頼りにすることがあるとすれば、こんな読み方があるよ・・・・というサジェスチョンからもしれません。

Date:09/11/9

読書論あるいはブックガイドといったものにある時から関心を失いました。さらに言えば、本を読むこと自身に意義を見出しにくかった時期があります。ぼくの30代です。日本の会社勤めをやめ、イタリアに住み始めた頃からです。それまで、あまりに机上のロジックで生きてきたという自覚が生まれ、自分の経験でものを語ることに熱中しはじめた時とも言い換えられます。自分の言葉で自分を語れてなくして何の意味がある?というプレッシャーが強かったのです。学生時代から20代にかけて好みであった読書ガイドが、ぼくのもっとも敵対する対象に変化していったのです。その時代に買った本は、直接ビジネスに直結する本を除けば、その前後の時期と比較すると少ないです。哲学者のショーペンハウエル『読書論』のなかで、読書のしすぎは頭が悪くなると書いている、と佐藤優が紹介していますが、ぼくはこの言葉を学生時代に読んで、よく意味が理解できませんでしたが、それを30代で明確に把握したということでしょう。

現実の体験データがそれなりに満載になりはじめた時、あるいは自分の言葉でイタリア文化を語り始めていると自覚した時、じょじょに本にまた目がむかいつつありました。ただ、いわゆる「趣味の読書」には興味がむかず、それはサバイバルのためです。現実での理論武装という意味合いもありますが、第一優先は、自分の経験はどこまでの領域をカバーしえているのか?という自問に対する回答を探しはじめたとの色彩が強かったかもしれません。分野とか領域ではなく、どのあたりの地平線までぼくは目配せができ、どこに越えられぬ山があるか、という認識をしておきたいということだったと思います。また、その頃、インターネットが普及をはじめ、一般の人たちの教養がどんなものであるかが、いやおうなしに視覚化されるようになりました。そういう意味で、ネットの「暴く力」はすごいものがあります。自分とその人たちと同じ部分と違う部分に気づき始めたのです。ぼくの選んだ36冊は、以上のような経緯と背景をもっても語ることができます

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どの本を読むべきかの指針は、問題意識の設定の仕方でがらりと違ってきます。つまり、「えっ、こんな本を選ぶの?」という本も、「こういう時に、無用な場所に惹かれないために必要な力を養っていくためなんだ」という説明をうけると納得できるものです。よって読書ガイドというのは、現代をどう読むか?が大前提になるわけで、ガイドする人間の脚力というか投球力というか、もろもろの力量が試されることになります。佐藤優がマルクスの本をここで何冊も選んでいるのは、以下のような理由によります。

佐藤 今、マルクスがまたブームになっていますよね。私は、この傾向は危ないと思っているから、あえてマルクスの基本的作品をとりあげました。

立花 危ない?

佐藤 そうです。ナショナリズム運動も同様ですが、共産主義運動は、二流の知識人、あるいは二流のエリートがやる運動だと思っているんです。二流の知識人、二流のエリートにとって、ナショナリズムや共産主義は、一流のポストに上がるための、とても便利な道具なんです。そういう連中が高いポストに就いても、質が落ちるだけで、権力の暴力的な構造は全然変わらない。それに対する耐性をつけるためにマルクスのテキストの腑分けをする能力をつけておかないといけない。

立花 マルクス主義の正しい部分と、誤っている部分とを腑分けする、と。

佐藤 そうです。それができないと、新自由主義が進んで、社会がガタガタになる。そうすると今度は、ちょっと形を変えた共産主義運動が出てきて、日本の国が混乱に陥る。私はそれが嫌なのです。だから、マルクスの内在的論理をつかみとって、どこが優れているか、どこがイカれているか、ということをテキストとして読み取れるようにしないといけないわけですよ。

マルクスへの考え方の是非は別として、ぼくは佐藤のこの指摘はよいと思います。ある真空地帯を生まないための工夫が必要であり、その真空地帯をかぎつけてくる勢力にどう対抗する力をもつか、それが教養であると佐藤は言うのです。宗教に対する素養もまったく同じレベルで要求されてしかるべきで、今の日本のように宗教が力を失うどころか、その存在さえ認知されないー告別式の地位低下や火葬場での見送りだけという直葬の増加にみるような事態ー状況はぼくも危ういとみており、宗教心をもつかどうかではなく、宗教の力加減を認識しておくという意味で、宗教の教養が意義をもつのではないかと考えています。

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尚、アメリカとプラグマティズムに関する下記部分は傾聴に値します。引用しておきます。

佐藤 (前略) もう一つ、アメリカを考えるとき詰めて考えないといけないのはプラグマティズム。それでプラグマティストの代表者の一人ウィリアム・ジェイムズの『プラグマティズム』を入れました。

立花 ぼくはウィリアム・ジェイムズが好きで著作集は全部読みました。プラグマティズムはアメリカ的なものの考え方を理解する上で、いちばん重要なものの一つですが、日本では原典が読まれないから誤解している人が多い。ある観念が正しいかどうかは、それを現実化した時の結果によってのみ判定される。「樹はその実らす果実によってのみ判定される」という考え方です。それはイエスの教えだったし、キルケゴール哲学の基本でもあった。

佐藤 正しいことをやれば、どうして成功するのか、それは神様が判定しているからだ。これがプラグマティズムなんです。つまり、後ろに神様が隠れている。天によってサポートされているから成功するんだという、その一種の中世的なリアリズム(実念論)の構成になっているんです。だから、力によって戦争に勝利することを正当化することができる。アメリカにおいて、戦争で勝利することと、正しいことの間に乖離があるという感覚が生まれにくいという背景にプラグマティズムな発想がある。

これを読むと、日本のロジックは、このプラグマティズムの背景を知らずにアメリカの論理に侵食されている部分が少なくないことに気づくでしょう。

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