子育て の記事

Date:10/5/13

今日、近所に住む息子の同級生が学校を休みました。その母親からウチに電話があり、「娘が学校に置いてきた教材を学校の帰りに持ってきてくれない?」と依頼がありました。そこで息子は彼女の教材を先生から受け取り、彼女の自宅に届けます。ぼくも一緒につきあったのですが、インターフォーンで「教材持ってきたよ」と息子が言うと、同級生の母親の「よかったら、エレベーターで上まで上がってきて」という声が聞こえます。それを聞いて、ぼくは「頼んでおいて、自分で降りてこないのかよ。よかったらもないだろうに・・・」とちょっと思います。怒るほどじゃないけど、ちょっとひっかかるなというレベル。「よかったら」はイタリア語で”se vuoi” 。英語なら”if you want”。「君が欲するなら、上まで来てよ」ということになります。

この”se vuoi”がひっかかるのは、ぼくがイタリア語を理解していないからだろうか。この動詞 volere(英語のwantでvuoiはvolere の二人称単数形)が丁寧な疑問形を作ると分かっていても、それを丁寧表現とは受け取れないのです。それはイタリア文化を理解してないからなのか・・・と前々から気になり、イタリア人にも意味を聞いてみたことがあります。理詰めで話すと、「そう、そういう場合は、se vuoi じゃなくてse puoi (できれば)が正しいかもね」という答えがきますが、その本人がそばから”se vuoi”を連発するから、頭と口は別機能なんだと分かります。これはイタリア文化という文脈のなせる業なのか。要はこういうことです。「この行為をするかしないかの決定権は君にあるということは尊重したうえで言っているんだ。無理にやれとも言っていないし、君のキャパや意思を無視して頼んでいるわけでもない。あくまでも君の判断なんだよ」という伏線をしいておいて、「で、君がぼくを助けたいなら、助けてくれよ」と読めなくもない・・・と思うこともあるから、気になるフレーズなわけです。

もちろん”se vuoi”の後が「食事に誘うよ」というなら別に何の問題もないのですが、冒頭のように明らかに頼み事をしている時の”se vuoi”は、どうも頼みを有利に運ぶための術のように聴こえてしまいます。それをまったく気にならないで聞けるのは、こういう文脈に馴れきっているからではないか。あるいは、ぼくもそのように馴れきらないといけないのだろうか。そう考えます。ぼくの倍近くイタリアに住んでいる日本人に聞いてみると、「そうしょっちゅう気に障っているわけじゃないけど、まったく気にならないといえば嘘になる」と。イタリア生活が長いフランス語が母国語の友人は「自分ではあまり使わないけど、それを聞くと嫌な感じというよりなんとなく釈然としない気持ちが残る」と答えてくれます。そうか、あえて大きな声で言わないけど、「なんかなぁ」とは思っているフレーズであることが分かります。でも、ぼくの息子は「決めるのはぼくだと言われていると思うだけ」とそっけない感想。

この”se vuoi”をまったく意識することなく堂々と使えないと、イタリア人の精神構造をマスターできたとは言えないのかなとボンヤリと思います。日本語で「すみません」を連発するようなものでしょうか。「すみません」本来の意味とは関係なく、この言葉を挟むと日本文化に嵌ったような気になるという意味で。多くの外国人が「どうして悪くないのに、すみませんと言うの?」という質問をするのと同じように、ぼくは「頼みたいくせに、やりたければなんて聞き方をするの?」と思ってしまう。どうしても、丁寧表現は遥か遠くに霞み、第一義が頭に直球で浮かんでくる。だからからか、日本であれば謝罪をするケースでも「すみません」と言うのではなく、「それは残念だった」「それはお気の毒」とコメントするイタリア文化が”se vuoi”を多発させるのかと勘ぐります。メンタリティは言葉によって作られ、言葉はメンタリティによって作られる・・・・こんなところでしょうか。

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