子育て の記事

Date:10/9/18

自分の結婚した子供が不倫したとき、親はどういう態度をとるべきなのだろうか。実の子供を守るのか。子供の配偶者を守るのか。どちらが正しいか分からぬが、家族を守るとはどういうことなのか。最近、イタリアのある地方都市で聞いたエピソードについて考えないわけにはいかない。ぼくは「ああ、ゴッドファーザーの国なんだ」と今ごろになって思ったのだ。エピソードは二つある。

まだ学齢の子供が二人いる夫婦。結婚して10年近くたち、夫が職場の同僚と浮気した。相手も家庭のある身だが、二人はお互いの家を出た。駆け落ち。浮気された妻は、夫の突然の行動に唖然。しかし、すぐ戻ってくると信じた。夫を諦めきれない。たまに子供の顔を見に帰る夫を、妻はあの手この手で翻意させようと試みるが、一向に夫は振り向かない。実は自宅は夫の父親名義。夫の浮気が原因であったため、当初、義理の両親は嫁のために色々と助けた。しかし、数ヶ月が経るに従い、じょじょに空気が変わっていく。決定打は事件発覚から1年後。「実は次男が離婚して自宅を元妻に渡さざるをえなくなった。そこで住む家がない。悪いが子供を連れて出て行ってくれないか」と義理の父親が嫁に言った。

二番目の話も、原因は夫の浮気。こちらは結婚後20年を経て子供も大学生。ある日、妻が義理の母親に相談した。「最近、彼の様子がちょっと変なんだけど・・・」 母親はすぐ動いた。相手はやはり同僚の女性だった。そちらにも家庭がある。母親、父親、息子の三人が話し合った。父親は事前にあるリストを用意していた。そこには「離婚してのデメリット」「離婚してのメリット」という項目が書かれ、それぞれに書いてある。「離婚してのデメリット」、いわく。子供と会えなくなる。今のようなファミリーなムードを喪失。住む家がなくなる(家は嫁に渡すべき)。息子名義にしてあった別荘はとりあげ、遺産は渡さない。一方、「離婚してのメリット」は、新しい女とやりたいだけやれる・・・とだけ書かれてあった。浮気をした夫はなすすべもなく両親の前で泣き崩れた。

夫は愛人に別れようと切り出した。しかし、息子の性格を熟知している母親は「詰め」を行った。二人が働いている職場に昼時を狙い女性が出てくるのを待ち伏せ。「あなたのことは全部調べ上げたわ。このままウチの息子とつきあうと、あなたの旦那さんや上司に伝えるわよ」と言葉を放つと、女性は急に顔を青ざめ「分かった」と首をたれた。その日からまもなく、彼女は転勤願いを出して男性から物理的距離をとった。そして浮気事件をおこした男性はもとの鞘に戻った。母親は、ぼくにこういった。「いい女と浮気したわ。顔もスタイルも抜群だった。さすが、我が息子だけのことはあるわ」と。

ぼくはどこに真実があるか知らない。でもありそうな話だ。前者では親は嫁を犠牲にして自分の子供を守ろうとした。後者では息子の翻意に努力し、かつ最終的に嫁を守ることを宣言した。策士などと言ってはいけない。どちらにしても、共通するのは「家族を守る」ことへのはっきりした態度だ。息子を守るにせよ、嫁を守るにせよ、だ。この話を聞いて、『ゴッドファーザー』を思い出すのも当然だろう。久しぶりに、カテゴリー「子育て」のエントリーを書いた。

Category: 子育て | Author 安西 洋之  | 
Date:10/5/19

イタリアの日曜ミサなどでも、神父の下らない説教の途中で赤ん坊が泣き出す事があります。

その泣き声がゴシック建築の教会の内部で響き渡るのですが、なぜか心地良さを感じた事がありました。とてもイタリア的だなあと思った事があります。「カオスな生を全肯定するような、、、」という意味で。

そして、赤ん坊の泣き声が見事な演出効果になり、下らない説教に多少の説得力を持たせていました。

多分、こういう感覚は、北ヨーロッパにはないんじゃないかなあ?今週は、出張でデンマークとイギリスに行ってきます。

昨日書いた「佐藤淑子『イギリスのいい子 日本のいい子』を読む」に対する仁木さんのコメントです。仁木さんはミラノに住む写真家です。とても良いポイントを衝いてくれました。ぼくは上記の本を読んでいて辟易するところがあり、それをぼくはブログの文中、「『そんなに大人と子供の時間と空間を分けることに熱心で、ちょっと肩が凝らないの?』と質問したくもなります」と表明しました。大人と子供は世界が違うんだ、お互いが無理しないように棲み分けさせないといけない。そこで無理させると赤ん坊はギャーとくる。だから大人の楽しみのために赤ん坊を引きずりまわしてはいけない・・・という英国の子育ての前提の記述に違和感を覚えたのです。正確に言えば、英国の子育てが悪いのではなく、教育論を語るにあたってのモデル設定のしんどさです。「おっしゃることは至極ごもっとも。でも、やや不自然では?」と。大人には大人の楽しみがあり、それを犠牲にしないのも、その反対も大切ですが、仁木さんの言葉を真似れば「カオスな生を受容しない」精神文化への肯定感が強く、堅苦しすぎてどうにもしっくりきません。

それに対して、仁木さんが例に出した教会のミサにおける赤ん坊の泣き声は自然です。葬式でも赤ん坊が大声で泣き、小さな子供が大人の周辺を走り回る。これが人の生きる世界で、こうして生は回転していくのだと実感させてくれます。人が死に、新しい命が死を意識することなく、エネルギーを振りまき、皆の頭が切り替わる瞬間です。いうまでもないことですが、それぞれの世界、赤ん坊も子供も大人も、全てが混在とも呼ぶべき状況にいればよいというわけではありません。それぞれに分割し棲み分けを図ることは大事ですが、「ゆるい棲み分けと、たまの混在を許す」精神構造が必要とされるのです。イタリアの子供たちも大人のお客さんが家に来る日は早く寝室に入ることもあるけれど、大人と夜遅くまでつきあうことも稀ではありません。レストランで赤ん坊が泣けば、せっかくのデートが台無しになったと悲嘆するのではなく、その赤ん坊を皆であやして時を過ごし楽しむと考えるわけです。しかし、スカラ座のオペラに子供は連れて行かない・・・。

これは音あるいは騒音に対する馴れとも関係するかもしれません。もともと声の大きなイタリア人の会話と隣のテーブルの他人には聴こえにくい声で喋る英国人。この大人の出す音との相対関係で英国では赤ん坊の声が突出してしまうという問題もあるかもしれません。しかし、それよりも何事も緩やかにしておくメンタリティが、レストランでの寛容な空気を作るのでしょう。だから、逆にイタリア人の会話にも「お願いだから、もう少し静かに話してくれ!」とぼくは思うわけですが・・・・。『イギリスのいい子 日本のいい子』という本は教育の専門家によりデータを駆使して書かれており、モデル化するために散文的であることを避けています。それに対してぼくなどが批判する点は何もありません。ただ、やっぱりラテン系文化がぼくには説得性があるかもな・・・と思うだけです。その「ゆるさ」という大人文化の一点だけにおいて。

Date:10/5/18

息子が2歳の頃、夏のバカンスを南仏ニースで過ごした時のこと。ある晩、旧市街のピッツェリアにイタリア人の友人親子と入りました。外のテーブルにすわり、まずは冷たいビールで乾杯。しかし、ピッツァがテーブルに届く前に息子がぐずり始めました。フランスもイタリアと同様、小さな子供を連れていてもあまり居心地が悪い国ではないと思うのですが、そのときは、周囲から「煩いなぁ」という視線を感じた奥さんが、息子を連れて近くの広場に散歩に出かけました。そして、ぼくがピッツァを食べた頃を見計らって戻ってきた奥さん。彼女がピッツァを食べている間に、今度はぼくが息子を連れ出す・・・という光景が繰り広げられた時、友人は「ヒロは冷たいビールを飲み、熱いピッツァを食べ、ミナコには醒めたピッツァを食べさせるのか。順序が逆じゃないのか!」と辛口の言葉がぼくを刺します。ああ、言われてしまった。子供を前にしても女性を優先するよう体が動かなかった新米パパは猛省したものです。その反省が今も生きているかどうかも、また怪しい・・・。

その翌年の夏は、オーストリアのインスブルックでアパートを借りました。三階建ての旧貴族邸を分割して宿屋として貸しているのですが、オーナー家族は一階に住んでいます。同じように小さな子供もいる彼らならと甘く見積もったのが大間違い。2週間の滞在中、「子供がバタバタしないよう注意してくれ!」と三度も勧告を受けました。ミラノでは比較的ちゃんとしたレストランでも、赤ん坊をベビーカーに乗せてあやしながら夕食をとれますから、イタリアの子供が出す騒しい音にも寛容さを期待してしまったのです。誰が出そうが、騒音は騒音。オーナーの奥さんにビシッと叱られました。それでドイツ的というかオーストリア的な厳しさはバカンスには不向きと、軟弱な(?)われわれ夫婦はその後、イタリアで夏休みを過ごすことに決めました。それぞれの文化があり、どれが良い悪いではなく、自分たちが納得できるゆったりとした時を過ごせる場所を選ぶことにしたのです・・・・が、自分たちの子供への振る舞いに他人の目が光っていることは変わりありません。このように子供を連れていくつかの国を旅すると、大人だけの旅では見えてこない文化差が見えてきます。

「日本人は自己主張が乏しく自己抑制が強い。そして米国人はその逆」という言い方がよくされます。そして他方、「これはステレオタイプな見方である」という逆襲があります。そのとき、「いや、英国人は自己主張もするけど、自己抑制もしっかりしている」と語るのが、本書の佐藤淑子です。小学校の頃に駐在員の父親に連れられてオランダで数年過ごし、修士は米国、博士は英国でとった著者は、米国と英国のある大きな違いを指摘したうえで、日英の幼児教育を比較していきます。自己抑制が強すぎるがゆえに的確な自己主張に欠け、それが「切れる」という現象の要因になっているのではないかと日本の状況を分析する著者は、英国万歳ではないが、自己主張と自己抑制の両方を重視する英国教育をモデルとして参考にする根拠をデータも添えながら書き出していきます。

イタリアに長年生活している身からすると、英国の子育てのエピソードに感心することは少なく、「そんなに大人と子供の時間と空間を分けることに熱心で、ちょっと肩が凝らないの?」と質問したくもなります。およそ青少年の問題ー飲酒、ドラッグ、性ーの欧州先進国である英国の子育ての例をとりあげる違和感がぼくにはあるのですが、規範への服従があまりに強く、集団所属意識が強すぎる日本の読者に示唆を教示するには、こういう方法でもいいのかなと思います。その証拠に、本書は8年間に11版で、アマゾンも実に肯定的なレビューが沢山並んでいます。これらを読んで、じゃあぼくもブログにもっと子育てネタを書いたほうが文化テーマも分かりやすいのかなと考えたほどですー実際、このネタを増やそうかと思っています。

最後に、本書のテーマである自己主張と自己抑制のバランスに戻すと、ミラノサローネ2010(27)で書いた「静かなニッポン人」と重なってきます。以下です。

どこかに動きを感じる作品の数々を眺めます。今回、日本のデザイナーの作品に接しながら、「どうして、こうも静かなんだろう」とその理由を考えました。今 週、ライターの方と話していたときに言われたのは「日本人は人とぶつかることを避けますからね」ということでした。そこで、説得的であることは平和を目指す態度ではない、暴力的要素を含むという認識を正すことが必要なのではないかということを話したと月曜日に書いたのです。同時に、トリエンナーレのボビザでみた作品の数々は完成度は低くても、説得的であることを厭わない風に見えるとも記しました。つまり、日本人の作品が静かであるのは説得を避ける態度に理由を見つけられるのではないか、とも考えたわけです。

説得的であることは規範の逸脱につながると考えやすいのではないか、ということです。ここに至り、日本のデザイナーの作品の静けさは自己抑制と密接であるだけでなく、日本で当然とされるレベルの自己抑制に馴れていない人たちにとって、この静けさは「不足感」「欠如感」を導き出すかもしれないと思わずにはいられません。

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