子育て の記事

Date:12/8/30

クーリエ・ジャポンの編集部ブログに「女がキャリアも家庭も…なんてやっぱり無理でした!」というエントリーがあります。以下、抜粋です。ちょっと思いつくままに感想を書いてみましょう。

スローターは、オバマ政権で国務省政策企画室長を務めたエリート中のエリートです。彼女には育ち盛りの子供が2人いますが、夫は育児にとっても協力的。や りがいのある仕事に高い報酬、上司は理解ある女性(ヒラリー・クリントン)。恵まれた環境で思う存分、キャリアに邁進していたはずのスローター。そんな彼 女が政府で2年間、がむしゃらに働いて出した結論が、「仕事と家庭の両立は不可能」というものだったのです。

スローターが「不可能」と言い切る理由は、米国の経済と社会の構造にあるとしています。長時間労働をよしとする「時間マッチョ」の文化や、家庭を大事にする人が低く評価される風潮が、いまだに幅を利かせているといいます。

今更言うまでもないことですが、世の中に完璧なシステムは存在せず、仮に存在とするなら、要望を個人的感情も含めて120%カバーしてくれるような稀に偶然で生じるケースを「幻想的」に眺めた場合です。最近、共感という言葉が幅をきかすのは、論理的整合性だけで人は動かないことがつくづく分かった人が多いからです。プロダクトもよりインターフェイスに重要度がおかれることで、ラーメン屋のオヤジの常識をもたない人たちが急に目覚めたということもあるでしょう。だからラーメン屋のオヤジは「共感?何言ってるの?」という反応です。まあ、ちょっとこれだと話が脱線しすぎかもしれませんが、冒頭の引用は、日本にある問題が実は米国でもあまり解決されていないとの呟きです。これは、米国の女性キャリアに対して共感を過大に抱いてきた一編集員の迷いです。

こういうことを書くと反発を食うかもしれませんが、国際結婚の成立には、文化的選択という要素が避けがたくあります。自己主張が強い攻撃的な女性に疲れた男性が、その逆の価値を重んじる文化圏の女性を結婚相手に希望する例は沢山あります。もちろん、その反対もあります。恋愛や結婚は個人の感情の持ち方に左右されるのは当然ながら、その左右のされかたに傾向やパターンがあるから、アメリカ人のボーイフレンドが多い日本人の女性がいたり、東洋の女性を次々と恋人にするフランス人男性がいたりするのでしょう。北ヨーロッパの男性なら女性の仕事に理解が深いだろうと思うのも、その一つです。

ブログの編集者は国際結婚について述べているわけではないですが、女性が家庭と仕事を両立する文化圏が世界に存在しているというのは思い込みだったのではないか?と問うのは、完璧なシステムを想定していた時点で無理があります。いや、正確にいえば、彼女がアメリカ社会の「先進性」を完璧とまで思っていたとも書いていません。破壊すべき仮想敵としてのアメリカ文化の「先進性」を語ったのかもしれません。いずれにせよ、アメリカ文化にかなり高い点数をつけていたのは確かでしょう。その息苦しさが自分には合わないとも思いながらも・・・・。

ぼくがここで言いたいのは一つです。世界のさまざまな文化圏の比較をするとき、良い面を評価するとしても60点くらいをあげるのが適当ではないかということです。自分のところは40点だけど20点上だから「マシ」であるというわけです。評価できるシステムだからといって100点満点で90点を与えるのは、あまり発展的な結果を生まない。60点が合格とするならば、それがマックスだと思うーそれ以上の点数をとれるところなんてないーのが、実践的なコツではないか、と。

Date:12/3/16

3週間の日本滞在を終え、今週の火曜日にミラノに戻ってきたのですが、この数日でもう「イタリアだなあ」と思うことがありました。小学生の息子が英語のクロスワードパズルの宿題をやっていました。あるところで、どうしても分かりません。「午後7時に人に会ったときに何といいますか?」という問いへの答えです。そこで「good night 」と入れます。これとクロスする単語の質問が「夜寝たい時に何といいますか?I am に続けなさい」。それで「 sleepy 」が6マスに入ってちょうど良いのですが、「good night 」のd とp がクロスします。d を含む6文字の眠たい時に言う言葉がどうにもぼくにも分からず、「明日、学校の先生に聞きなよ」とアドバイスするしかありません。

翌日、クラスの他の子供たちもこの問題の正解が分かりませんでした。しかし、正解は「sleepy 」で良かったのです。d との衝突は? なんと、そのマス目を二つに分けて、d とp を一緒のマスに入れろというのです!反則じゃないかと普通は思うのですが、英語の先生はこれが回答だと教えたそうです。クロスワードパズルのルールを破ることもたまには必要ということなのでしょうー明らかに問題作成者のミスだと思うのですが。まったくイタリア精神もいいところです。ふざけるな!と思う一方、なるほどなあ。ミスを認めないか・・・と半ば感心していたところ、奥さんが最近遭遇した別のエピソードを教えてくれました。

宿題にでた算数の問題です。最終的な正解で割り算で割り切れないとおかしいのですが、どうしても余りがでます。やはり、クラスで生徒たちが割り切れなかった計算結果を述べます。すると算数の先生は、「これは余りがでる。ミスだ。しかし、これは私がネットでみつけた小学生が作った式をそのまま提示した結果だ。その小学生が悪いので、私のせいではない」としゃあしゃあと言い放ったというのです。親からもなかなか評判が良い先生のセリフです。世の中は言い訳で成立している・・・ことを身をもって表現しているワンシーンです。

言い訳はみっともない。言い訳をするのは負け。恥だ。そういう教育を受けてきたぼくにとって、イタリアに20年以上住んでいても「言い訳文化(?)」は馴れない習慣のひとつです。いや、実をいえば西洋社会においても言い訳は育ちの悪さの表れであるとして、他人の言い訳に厳しい批判を加えることは「正当的行為」です。それにも拘わらず、言い訳は「通用」するのです。とするならば、この言い訳の積極的側面も考えるべきではないかと、ぼくはこの数か月思うようになりました。

日本の文化の弱いところは考えの体系化が不得意なことです。何かが上手くいかなかったら、それは自分の実力のなさに起因したと認め、目標設定自身も誤りであったとゼロからの反省をするように、失敗は「悪い根っこ」のせいであると考えがちです。道徳的にも、この態度が賞賛されます。その結果か経験の積み上げで作るロジックがなかなか成立しません。それに対して西洋文化の強みは体系化の巧妙さです。数々の場面を乗り切るロジックが積みあがった状態になっています。ぼくがこのごろ思うのは、体系を作るに言い訳はトレーニングとしてかなり貢献しているのではないかということです。無理やりにロジックのリンクを張る努力(!)が、出来のよさは別にしても、体系を構築するに役立たないわけはないよなあ・・・と思うのです。

言い訳されていい気持ちになったことなんて、一度もないんですけどね。

Date:12/1/28

ぼくは宗教に関して典型的な日本人です。要するに無神論ならぬ脱宗教。だからイタリアで子供を育てていれば、どこかのタイミングで宗教の問題にぶつかるのは分かっていましたが、「そろそろだなあ」と思っていたら、そろそろがきました。小学校の宗教の時間も選択制でしたが、「キリスト教のことは知っていたほうがいいよ」と言って押し込んで(!)おきました。その時間、イスラム教の子たちは別の学習をしているのですが、息子は幼児洗礼をうけているほとんどの子供と一緒にキリスト教について勉強してきました。本人は面白いと言うし成績もよかったので親としてガードが甘くなっていました。

今年の9月からはじまる中学の申込書を書くにあたり、宗教の授業をどうするかが親子のテーマになりました。宗教のほかにも選択しはいくつかあります。1)第一外国語は英語で、第二外国語をフランス語かスペイン語 2)週の授業合計時間を30時間か36時間 3)給食をとるかどうか(とらない場合は自宅で昼食をとり学校に戻る) 4)カトリックの授業をとるか(とらない場合、他の学習をするか、早く帰宅するか、などの選択もある)  1)はフランス語であっさり決定 2)は若干もめたけど36時間 3)も若干もめたけど給食あり で話し合いがすんだのですが、4)が決まりません。

「今の宗教の時間でも、みんなは教会で(教理を教える)カテキズモをやっているから、どうしても差がでるんだ。お祈りのしかたを知らないし・・・・カテキズモをやっていればよかった」と言い、その差を味わうのが嫌だから宗教の授業はとりたくないというのです。そして「みなはもうカテキズモを終えている今、一人でカテキズモに行きたくない」と。カテキズモをどうするかを数年前に話し合ったとき、「親である自分たちが信じていない宗教の教理をかなりの時間を割いて無理をすることもないだろう。自分で宗教を考える年齢になったとき、勉強すればよい」という判断をしていました。

中学の宗教については当初どちらでもいいかなと思っていたのですが、息子のNOの理由を聞いているうちに、それも良くないなあと思い始めました。「そういう理由なら、宗教の授業をとるほうを勧めるよ。パパもママもキリスト教をもっとよく知っていたらいいなあと思うことはたくさんあるからね。でもだからといって勉強できていないんだけど」と説得を試みるのですが、どうもかたくなにNOと言い続けます。ぼく自身、なにかのときに教会のベンチー日本であれば寺や神社ーで思いにふけることがあります。宗教的な場がもつ雰囲気の大切さは認識しています。しかし、くキリスト教を知っているというにはおこがましい。

息子が赤ん坊のころから孫のように面倒を見てくれているイタリア人のお祖母さんに相談すると、「分かったわ。私が言って聞かせてあげる」と引き受けてくれ、翌日、息子を彼女の家へ一人で行かせました。「なにか話があるみたいだよ」と。結果はYESです。「何が決定打だったの?」とぼくが息子に聞くと、「宗教は文化のひとつだっていうこと」。彼女に「ケンはこれからもイタリアで長く生きていくに、イタリアの文化はよく知っていたほうがいいわよ。お祈りの言葉なんか知らなくてもいいのよ」とかなり長時間にわたって説かれたようです。「脱宗教」の人間が宗教は文化理解の一つであると説明しても説得性に欠けますが、毎週必ず教会のミサに通う信者に言われれば受けるほうも違いますーだいたい息子は両親がイタリア文化をよく理解していると思っていない!-。

中学の申し込み書には「宗教の授業を受ける」にしるしをつけ、授業を受けていて考えが変わればやめる、あるいはカテキズモを勉強することを息子が自分で判断することになりました。

やれやれです。

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