ローカリゼーションマップ の記事

Date:10/7/13

先週は刺激を受ける旅でした。月曜日はデザインハブでのトークセッション「世界を変えるデザイン展 2.0」。火曜日は日本財団で「金融という文化ー金融危機と金融社会論」。コーネル大学人類学科准教授の宮崎広和さんの発表。水曜日は東大のi.schoolでのワークショップ見学。ビジネス・エスノグラフィーの田村大さんがディレクターです。木曜日はまた日本財団。「女性就業者の2種のネガティブ・ステレオタイプについての予言の自己成就メカニズムとその対策について」をシカゴ大学社会学部長の山口一男さんがプレゼン。

それぞれのイベントに関連あるわけではありませんが、世の中の人たちが今どういう領域まで踏み込み、どういう方向に進みたいのだけどなかなか到達できない・・・ということが、何となく見えてきます。何が読めないといって、現状そのものが読めない。「あそこの国はこういう文化だから」という表現があるところまでは相変わらず通じる一方、全く予想もつかないタイミングで「えっ、あの国もそういう文化を受け入れるの???」という変化が起きる。二つの要素、普遍的な要素とそうではない要素が入れ子状態になっていて、それを解明することがテーマ。特に、どういう条件が揃ったときに変化が生じるかに関心が強い・・・ということが、何となく見えてきました。

そして、これは他ならずぼく自身がものすごく興味深いテーマであるわけで、根拠なく自分も時代の最前線で悩みを共有しているような気になってきます。こういう感覚は、実は何もアカデミックな世界の話ではなく、現実に日常を生きている人たちにかなり共有される感覚であろうと思いますが、アカデミックに研究している人たちもそのことを関心の先においていることを知ると、(ぼくのケースでは)やる気が更に出てくるから不思議です。実際には、アカデミズムは既に起こった現象を後追いすることが多いですが、世の中の変化の本質に普通の人より関心の高い人が多いので、その感受性は一つの道しるべになるでしょう。

自分が日々感じていることが、世の中でどんなポジションにあるのだろう・・・という疑問は誰でも昔からあったことですが、今、ネットで発信される無名な意見の数々を背景に、およそのマッピングをしてくれるような気になります。が、Twitterのフォローの人が違うことでタイムラインが全く違って見えるのと同様ーある人には「世の中の全ての人がW杯に熱中している」と見え、ある人には「案外、W杯に興味のない人が多いんだ」と見えるー、あらゆることは極めて主観的に見られています・・・・ということまで、ある程度は客観的な証拠を見せ付けられる状況が生まれています。幸か不幸か。

極めてストレスフルな現象が眼前に繰り広げられるからこそ、ネットがもつ楽観的な解放性が、逆にそうならない結果に対して暗部を際立たせます。「なんで、あの人はブログでちょぼちょぼ書いていたのに、一気に名が知られるようになったのだ?それに比べて自分は・・・」と今までなら知らずにすんだ他人の過去を知るようになるから、自分の過去のあり方も反省的な色合いでみてしまいがちになる。しかし、これも幸か不幸か、ネットでさほど本質的な把握には至っていないことが圧倒的に多くーぼくも反省的に思うならー、それがゆえに、リアルに多くの人と出会い刺激を受けることが結局は頭の切り替えをする大きな契機になる・・・ということになります。

・・・というわけで、凄く回り道をしましたが、ローカリゼーションマップ研究会の今月の勉強会でやるべきことも、随分と固まってきました。詳細は追って書きますが、以下の要領です。

7月24日(土)15-17時 at なかのプラットフォーム
「明日の日本を描く試み」をデザインジャーナリストに45分ほど話して頂き、残りを議論の時間とする。これまでの日本デザイン動向、世界を変えるデザイン展、サローネなどもトピックに入ります。

7月31日(土)16-19時 at 六本木JIDA
「アジアに向けたローカリゼーション」をテーマにアジア研究の視点の持ち方、住宅機器メーカーのローカリゼーション事例などを紹介しながら、ローカリゼーションとは何か?を議論します。
Date:10/7/6

今、カーデザイナーが語ることが一番面白いかもしれない・・・」ということを、六本木ミッドタウンのデザインハブでトークセッションを聞きながら思いました。クルマの人気がどこの先進国でも下降気味で、EV時代の幕開けで都市との関係が更に問われ、スタイリッシュで高性能のスポーツカーが即憧れには繋がりにくい時代において、カーデザイナーは「次なるクルマ」へ悶々としています。その悩み具合は、他の製品をデザインしている人たちよりも切迫感がある。EVといえどデザイナーの存在は欠かせませんが、デザイナーはEVがもつ世界観を図りかねていることが多いという点において、切迫感は期待感と表裏一体です。その点で、今、カーデザイナーの語りに注目すべきです。

先月終了した「世界を変えるデザイン展」は色々な問題点と課題を提示しましたが、昨晩のトークショーのパネラーのなかで元アウディのデザイナーであった和田智さんの言葉に一番力があったのはーぼくはそう思ったー、何よりもカーデザイナーがゆえに直面する問題の大きさがゆえではないかと考えました。もちろん、全てのカーデザイナーが同じであるわけではなく、その悩める世界に意識を集中させた人間だけがもつ言葉です。和田さんはテクノロジー競争が生む過剰スピードの危険性を指摘し、如何にそこに嵌らないかの重要性を「日本における時間軸の欠如」とともに語りました。ビジネスにおいてタイムリーであることは大事ですが、それ以上にヒストリーを作ることに力を注ぐべきだろうと思います。なぜなら、ヒストリーを作ることを意図するのは、価値体系への尊重とその積み上げを意識することであり、それがブランドとしての価値を作っていくからです。

アジアの新興国市場がもっぱらの話題ー昨日はBOP諸国がテーマでしたがーになっていますが、それらの国で商売が成功するためには、タイムリーであることだけを追うのではなく、彼らのヒストリーに重ね合わせられる価値を見極めていくことがポイントになっています。しかし、それは価値を抽象的に語るだけでなく、基本的には、市場にある「必要性」に応えるカタチでハードであれソフトであれ提案していかなくてはいけません。価値の可視化です。ここにデザイナーの役割が期待されています。

デザイナーはよりメッセージ性の高い可視化ー目立てばいいという意味合いではないーの能力があるだろうと思われる時、狭義のデザインー意匠・スタイリングーから広義のデザインー社会を形づくるーの両方に目配せができないといけません。が、ベーシックは狭義のデザインであり、ここで圧倒的な力を発揮しないと説得力をもつことは難しいでしょう。要するに造形力の勝負に勝てないといけない。それでは、アジアの新興国で発揮すべき日本のデザインとは何か?が課題になります。

昨日のトークで和田さんがアウディで働き始めた頃、ご自身のデザインが「かっこいいけど軽い」と同僚から言われ、文脈の読み替えを迫られたエピソードを話していました。そして、日本のデザインは草のように弱いが、その草の有様を美しく表現するところにしか日本人デザイナーが生きれる道はないのではないか?という希求とも言うべき発言がありました。これはぼくも何度かここで書いている「オリエンタリズムの軽さと西洋の重さと軽さの感覚と文脈の違い」に対応するものですが、アジアのボリュームゾーンを狙うときにどちらを使うのか、どうハイブリッドするのかというのが論議になるでしょう。そして、ボリュームゾーンも所得上昇と一緒に趣向が変わってくる可能性が高い。これが、「管啓次郎X清岡智比古のトークセッション」で書いた内容とリンクしてきます。

アジアの国々の人たちが日本食やコンテンツに目を向けている。そこにビジネスチャンスがあると考える。それは当然の発想です。その時、それらの国の人たち が、日本に注目していることが事実であったとしても、「日本だけを見ているのではない」という事実を認識をすることがもっと重要です。タイの若者たちが日本のコンテンツに興味があることは、フランスのブランドを好きだとすることを否定しているのではないの です。昨年、出張で東京に来た30歳の韓国人女性が新宿の街を歩きながら、「日本の人たちはファッションデザインを自分たちで作っているわよね。感心す るわ。でも私たちのセンスは、もっとヨーロッパとダイレクトかもしれない・・・」とぼくに語ったとき、ぼくは全く驚きませんでした。まさしく、その感覚を ぼくはもっていました。

この部分に、「草のようなデザイン」をする日本人デザイナーがどう関わってくるかです。この前のエントリーでも書いた仏教的ともいえる曖昧さをそのまま受容し明確な言語化を避ける日本文化の傾向は、その反対の傾向をもつ西洋文化に対して今後優位的な方向を示す可能性はありますー現ローマ教皇が枢機卿時代にドイツの大学で「キリスト教にとっての脅威はイスラム教ではなく仏教である」と自然との共生という価値観が優勢になることを示唆したのが一つの事例ーが、これがデザイン言語の選択という場面で具体的にどう実行されるのか?これがテーマになってきます。そこで、安易な日本らしさに逃げないことーレクサスのデザインコンセプト L Finess を反面教師とするーへの覚悟が必要だろうと思いながら会場を後にしました。これが夜中にTwitterに書き綴ったことです。

Date:10/6/27

昨晩、池袋ジュンク堂に出かけました。比較文学の管啓次郎さんとフランス文学の清岡智比古さんのトークセッションです。テーマはフランス語圏やクセジュ。「フランス文学に神話性があった時代」にフランス文化に縁をもった人たちが、今、フランス文化をどう語るのかは、極めて重要なことであるとぼくは思っています。そして、岩波新書や中公新書とクセジュの間にある乖離が何を意味しているのかを常に注視しておくことは、抜群の定点観測地をもつことになります。ただ、両者の目録を眺めるだけでもいい。違った視座の存在を気にせざるをえないのです。

タヒチ、ハイチ、モントリオール、コルシカなどはフランス本土の文化からすると「周縁地域」でありますが、それらのゾーンからの発信が無視できない力と意味をもちつつあります。清岡さんが講師をしているNHKのフランス語講座でも、テキストに登場する人たちは全て、フランス本土出身ではありません。ここにリアリティがあるのです。しかし、文化融合であるクレオールを美しき文化交流の所産であるがごとくにいえば、それは受け入られません。それを清岡さんは、明治大学の中国研究の同僚のエピソードを出して話していました。文化融合は実質的には文化適合であり、往々にして一方通行の発信と受信の結果があり、そうなるべきプロセスの理由は厳然とあるのが普通だし、勝利感や敗北感なりが付きまとってくるのです。管さんも、この文化の衝突については、それまでと違う口調でした。

昨晩、トークセッションでぼくが考えたことは、今週、ファッション業界のパネルディスカッションを聞いたことが背景にあります。日本のファッション業界が壊滅的であることをどう打開するかを話し合っていたのですが、そのなかでとても違和感をもったのは、「日本のファッションは今、世界から注目されている。ヨーロッパのように作られたトレンドではなく、ストリートファッションのようにプランされない自然発生的なファッションに関心が集まっている。日本の強みは、この突発性にある」という発言をかなり本気で喋っており、何とかという業界の外国人大物がお忍びで日本を視察にきていることを、日本ファッションの高い位置の証明として「比喩ではないエピソード」として話していました。落ちぶれたといえど世界の経済大国・日本に、その程度のエピソードがあって当たり前であり、それがどうコンテクストを作りえているのか?が指標になるのではないか・・・とぼくは会場で質問しました。

トレンドを戦略的に作らずに突発的現象を期待することが日本文化のアドバンテージであると認識することはビジネス的にありえず、ヨーロッパにおけるトレンドも突発的現象の有効利用のうえにあり、基調となるトレンドがあるからこそ、「枠外の面白さ」を享受できると考えるのが妥当であるでしょう。イタリアのくすんだ色の街並みのショーウィンドウだからこそ映える刺激的なカラーの効用を、こういう方たちはよくご存知なのに、こと「日本文化の効用」になると違った方に思考がいってしまうようです。このあたりの認識差異については、Twitterでの公共政策が専門の西田亮介さんの呼びかけに応じた若手の論文集である「.review」における、渡辺明日香さんの「ストリートファッションの可能性」や松山基之さんの「これからのファッションブランドのあり方ー「あこがれ」から「コミット」への転換」でも感じたことでした。

アジアの国々の人たちが日本食やコンテンツに目を向けている。そこにビジネスチャンスがあると考える。それは当然の発想です。その時、それらの国の人たちが、日本に注目していることが事実であったとしても、「日本だけを見ているのではない」という事実を認識をすることがもっと重要です。タイの若者たちが日本のコンテンツに興味があることは、フランスのブランドを好きだとすることを否定しているのではないのです。昨年、出張で東京に来た30歳の韓国人女性が新宿の街頭に歩きながら、「日本の人たちはファッションデザインを自分たちで作っているわよね。感心するわ。でも私たちのセンスは、もっとヨーロッパとダイレクトかもしれない・・・」とぼくに語ったとき、ぼくは全く驚きませんでした。まさしく、その感覚をぼくはもっていました。

’90年代以降の米国を中心としたグローバリゼーションの時代において、ローカリゼーションはグローバリゼーションの対立概念ではなく補完概念であり続けたとぼくは何度も書いてきました。だから、米国には説得の方法であるローカリゼーションのノウハウがより多く蓄積しているわけです。これはローカリゼーションをすればよいということだけでなく、あえてローカライズしない選択肢をとることを意思決定することも含んでいます。家具のイケアはローカライズは極力回避してスタンダード化を図ることでコスト競争力を維持しようとしているメーカーです。コンセプトは「良いデザインを民主的な価格で提供する」と合理的でありながら、店舗の外観はスウェーデンの国旗の色を使い、店内ではスウェーデンビールやサーモンを売り、スウェーデン文化のディテールをトッピングとして使っています。

スカンジナビアデザインの伝統継承者であるように振舞うことがビジネス上有利だからだけでなく、合理性をスウェーデン文化で若干ラッピングで包むことにより、その合理性の説得力を強めているとぼくには思えます。このイケアの戦略を見るに、実は「クセジュ的」な視座の集積を想像するのです。明らかに現代新書だけの世界ではないし、またクセジュの世界だけではない。いくつかの文化世界の共通性から導き出した「ある種のユニバーサル」であり「ある種のローカリゼーション」の妥協をみます。「ある種」と書くのは、「ヨーロッパ文脈にある一つの範囲において」と限定しているからで、しかし、これが一定のマスになったとき、大いにユニバーサルらしくも振舞えます。ただ、あくまでも「らしく」であり、「らしく」は決して容易なレベルではないことをイケアは語っていると考えています。

今週、ヨーロッパのサイエンスの先端研究を長くフォローしてきた方とお酒を飲んだとき、彼が日本の弱点は多くの知識や情報があるにかかわらず、ユーザーの使えるアプリケーションに落とし込む翻訳能力が欠如していることだと指摘していました。いわば知識の現金化の弱さです。これはアートやデザインのトレンドのあり方をみても思うことで、「文化のキャッシュ化」というプロセスが殆ど作られていないのです。イケアのカタログを眺め、クセジュの目録に目を通してみる。それだけで何かヒントが得られなければ、視野がかなり硬直化していることを疑って良さそうです。

<上記との関連エントリー>

管啓次郎『斜線の旅』を読む

http://milano.metrocs.jp/archives/3294

管啓次郎X佐川光晴のトークセッション

http://milano.metrocs.jp/archives/2906

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