ローカリゼーションマップ の記事

Date:11/1/24

2月21日(月曜日)の「異文化市場をデザインを通じて理解するーローカリゼーションマップへの試み」をご案内したところ、50名の定員があっという間に埋まりました。まだ参加希望の方からメールを頂いているので、急遽、3月3日(木曜日)、ひな祭りの日に追加セミナーを実施することを決定しました

基本的に、2月21日の内容と同じ(つもり 笑)です。しかし、21日に参加される方たちと議論によって得られたフィードバックを反映していきますので、より進化した内容になっているかもしれません(いや、そうならなくてはいけない!)。21日同様、、カジュアルにいきます。分からないところがあれば、その場で質問をいただき、わき道にもそれながらジグザグに進むつもりです。そして、最終目的地を見極めることにします。目的地が見えたら、やはりアートやデザイン関係のイベントのケータリングを専門にする噂のフルタヨウコさんの登場。 ワインとおつまみを用意いただき、そこからは、どうやって目的地に楽しく到着できるかをワイワイと話しましょう。

参加希望者は、anzai.hiroyuki(アットマーク)gmail.com かt2taro(アットーマーク)tn-design.com までお知らせください。このテーマについて積極的な発言や行動をしてくれる方、大歓迎です。場所は2月21日と同じく麻布十番駅より0分(麻布十番1-10-10 ジュールA 8F)。Retired Weapons プロジェクトなどを世に出してきたドリームデザインのスペース(上の写真)、夢実験室です。

日時:3月3日(木曜日) 1830~2000(セミナー) 2015~2200(懇親会)

テーマ:「異文化市場をデザインを通じて理解するーローカリゼーションマップへの試み」

「国内市場だけではやっていけない、海外進出をしないとどうしようもない」と語るビジネスマンが多くいます。しかし、どう前進すれば良いのか分からなく、一歩を踏み出せない企業も多いのが現状のようです。

日本企業が海外市場で成功していくための鍵は視点としての「現地適合=ローカリゼーション」であると私たちは考えています。そのためには、国や地域によっても違う文化を踏まえ、生活者から眺めた市場理解が必要です。今回は、その理解の仕方の一つをデザインから掘り当ててみます。

道案内の地図の書き方一つとっても、そこに文化の差異がみえてきます。 目に見えるあらゆるモノやコトのデザインを通じて、日常生活を理解していく。例えば、ヨーロッパの街と日本のそれを比較して気づくことが、台所にも同じよ うにあるのです。日用品、家具、自動車、食などいくつかの事例から異文化市場を理解してみましょう。そして、これをベースとしたジャンルごとのマッピン グ=ローカリゼーションマップの試みを説明します。

ローカリゼーションマップの目的と考え方は以下に要約できます。

→ローカリゼーションマップは、多くの専門家にいちいち聞くことなく、ビジネスの現場で「この市場はこんな風に理解すればいいだろう」という勘を持つことで余計な不安を取り除くことを目的としている。

→ひとつの業界だけでなく、複数業界を眺め渡すためのツールを作ることが目標。ある業界においての常識が、他の業界で有効な見方として使われることもある。その凸凹を見渡すと全体図が描ける。

→なるべく日常生活に近い事例やそこにある落とし穴を見つけながらロジックを理解することをベースとする。

定員:40名

参加費:3000円(懇親会費用を含みます。つり銭のないようご用意くださると助かります)

講師:日経ビジネスオンラインでの連載「異文化市場で売るためのモノづくりガイドーローカリゼーションマップ」の執筆者

安西 洋之(プランナー)
1958年横浜市出身。上智大学文学部仏文科卒業。日本の自動車メーカーに勤務後、イタリアでビジネスプランナーとして独立。現在、ミラノ在住。デザイン、食品、文化論などを活動領域とする。著書に『ヨーロッパの目 日本の目――文化のリアリティを読み解く』がある。
ブログ「さまざまなデザイン」 Twitterは@anzaih

中林 鉄太郎(デザイナー、デザインディレクター)
1965 年東京出身。桑沢デザイン研究所卒業後、建築設計と工業デザインを手掛ける黒川雅之建築設計事務所に入社。プロダクトデザインを担当し10年目に退社後、 1997年テツタロウデザイン開設。文具、日用雑貨から住宅設備機器などのデザイン、中小企 業へのデザインディレク ションも行う。社団法人日本インダストリアルデザイナー協会正会員。日本大学芸術学部デザイン学科非常勤講師。Twitterは@designer_tetsu

主宰:モバイルクルーズ株式会社(安西洋之が代表取締役の会社)

→勉強会の参加状況(1月29日現在)

2月19日のエスノグラフィー編(http://milano.metrocs.jp/archives/3846)は満員御礼ですが、2月26日のアジア編は(http://milano.metrocs.jp/archives/3887)はまだ若干席があります。

Date:11/1/22

拙著『ヨーロッパの目 日本の目』を書くときに色々とアドバイスを頂いた社会学者の八幡康貞さんが、ミュンヘン大学で勉強していた頃に出会った面白いエピソードがあります。八幡さんがゼミで活発に発言した後、一人のドイツ人学生が八幡さんに近づいてきました。「君はイエズス会の教育を受けたのかい?」と聞きます。八幡さんは「そうだけど、なぜ?」と聞き返します。すると「いや、君のロジックの運び方が見事にイエズス会流だっからさ。実は、ぼくもイエズス会の高校だったんだ」と言われたそうです。上智大学で哲学を学んだ八幡さんは、特にカトリックを学として学んだわけではありませんが、神父の教授たちから議論の仕方を自然に見つけていたようです。そこで八幡さんは、ユニバーサルの何たるかを実感したわけです。

八幡さんからこの話を伺ったとき、「その特徴的な議論の展開の仕方って何だったのですか?」とぼくは聞きました。八幡さんから返ってきた言葉は以下です。

「それはね、相手の主張の前提を徹底して問い質すことなんだ」

文化の違いとは基本的にロジックの違いに行き着きますが、前述のようにロジックで糸口をつかめば、かなりの線まで協業できるということでもあります。したがって、異文化間でのロジックの違いが今の世界で代表的に表現されるのが、電子デバイスにおけるインターフェースのロジックであるとするなら、ここに焦点をあてて異文化市場の文化理解を図っていくのが重要だろうと説き始めたのが、ぼくのヨーロッパ文化論活動の起点でした。

世に多く語られる文化論ではビジネス目的に沿う全体像は得られにくく、地平線も見えないところで延々と草刈をするようなものだと思ってきました。従来の教養的な文化知識が不要だとは言わないですが、ほどほどにしておこないと、ビジネスでは用が足さないということです。しかも、ある地域の特徴や傾向を電子デバイスのインターフェースに対する受容だけで判断するのではなく、いくつかの他のモノー特に日常生活で使用されるモノーで比較していないと立体感のある包括的理解になりません。それがローカリゼーションマップの活動への移行です。大雑把に市場での複数業界のローカリゼーション期待度の比較から共通点や差異をみつけ、かつ、それらにおける関係を掴んでいくことが、該当市場をとりあえず「分かった」と思える契機になるはずだと考えました。

ここまで、やや長すぎる導入ですが、実は安宅さんの本書を読みながら、冒頭の八幡さんのエピソードや言葉を思い起こしたのです。本書のキーターミノロジーであるイシューは以下にように定義されています。

A)2つ以上の集団の間で決着のついていない問題

B)根本に関わる、もしくは白黒のはっきりしていない問題

質の高いアウトプットを出し続けるには選ぶ相手に気をつけろ!ということです。性悪な女の子こそ色っぽかったりするので振り回されてはいけない、幸せな結婚生活を送れる女の子とつきあえ!と本書で語っていませんが(笑)、「相手」が、安宅さんの言葉ではイシューになっているわけです。カトリックの神父たちが議論に際して前提の明確化を図ることは、前提条件の限定と共有が「普遍性への説得」に至る有効な方法だと確信しているからでしょう。少々乱暴かもしれませんが、イシューの見極めこそが価値ある仕事をもたらすと安宅さんが強調される点と、八幡さんがいつの間にか身に着けていたロジックの選び方は、態度においてもメソッドにおいても、かなり共通点があります。問題とは問題を選定したこと自身で既に意思の方向を示しているという性格をよく分かった上でつきあっている・・・という意味でも。

また、安宅さんの目からみて考えの甘い部分も多々あるとは思いますが、我田引水でも自画自賛でもなく(と言っておきます 笑)、ローカリゼーションマップは安宅さんが説明する知的生産のプロセスとかなりパラレルです。答えの出る問題設定を行い、分かるとは2つ以上の既知の情報の関係性の把握に他ならず、人は差分でコトの次第を理解する。分析とは比較であり、情報収集で知り過ぎる落とし穴に陥らない・・・というフレーズが本書には続いています。安宅さんは、モノであればモノの色やフォルムや機能を一方的に見つめてきたのではなく、モノと人の接点のロジックの読解と組み換えを仕事としてきたはずで、だからこそ見える世界を語っている。本書にインパクトがあるのは、そこからきています。

ローカリゼーションマップの考え方の整理とプレゼンを、この本を参照しながらチェックしようと思います。

Date:11/1/18

・・・・とたいそうなタイトルを書いたけど、中身はありません 苦笑。これを考えはじめたというメモです。信号機は維持にコストがかかるという理由だけではなく、こういうロータリーでないと思考がどうもシャープに分断された気になるということもあるんでしょうか。

凱旋門の上かみると、その嗜好性か志向性が見えないものかとも思うのですが・・・。

同じまわるでも、結構、真ん中にあるものによって意気が違ったりして・・・。

こうなると高揚感とは無縁ですね。ちょっとカートの世界に近いみたい。

もう、徹底して信号は嫌い!とシステマチックに訴えているようなムードさえありますね。

これは手を抜かない・・・という意識が強い感じがするのはなぜ?