ローカリゼーションマップ の記事

Date:11/11/4

ザハ・ハディドのデザインを見ると「今」を感じます。コンテンポラリーな表現であると思われやすいでしょう。それは有機的デザインだからでしょうか。フランス人のピエール・ポランとスイス系イタリア人のルイジ・コラーニ。かつて2人ともサイエンス・フィクションの世界のために有機的デザインの家具をデザインしています。彼らのデザインは美しいですが、「今」という印象は与えてくれません。それでは40年を隔ててどこにザハ・ハディドとギャップがあるのでしょう。

それは、ぼくが少年の時にみた映像に彼の作品があったからでしょうか。「今」ではなく「懐かしさ」を先に思ってしまう経験の問題なのかと考えてしまいます。コラーニの言葉に「私はSFデザインではなく、サイエンスリアリティを創っている」というのがありますが、空力そのものを体現したクルマが350キロ/時で走ることに重きが置かれる時代に「サイエンスリアリティ」があった。2011年、F1と同じスピードが出るクルマはもちろん空力計算を詳細に行っていますが、40年前ほどには実用から極端に離れないカタチになっている。そこに「サイエンスリアリティ」という表現は馴染まないと思います。

あえて「サイエンスリアリティ」というなら、それはクルマのスピードではなくドライバーとマシーンの関係や衝突しないマシーン間という側面に適用すべき言葉である。そういうリアリティ移動の結果として、コラーニのかつての「先端的」デザインが言及しきれていないスポットが浮上している大きな現実が、彼の40年前のデザインを相対化しているのです。当然ながら、それでいい。ぼくは何もコラーニのデザインにケチをつけたいわけではないのです。美しく且つ今によみがえっても十分に耐えられる力があるとはどういうことかを考えています。

イタリアに1960年代起こったアートの運動、アルテ・ポーヴェラは日常にある素材をもとに新しい視点を提供したわけですがーとぼくは見るのですがー、それは時代を共有しながらも、きっとコラーニの「サイエンスリアリティ」とまったく別の場所にあったでしょう。だがコラーニが「バイオデザイン」と呼ぶ自然にモチーフを求める姿と、アルテ・ポーヴェラのアーティストが自然にある素材を扱うところに何か違いがあるのかを考えます。

トリエンナーレで現在3つの見るべき展覧会があります。ボビーザで開催されているコラーニ、カドルナで行われているアルテ・ポーヴェラと時のデザインをテーマにした展覧会。3つ目のイベントは時そのものをデザインしていて刺激的です。ちょっとでも気を緩めると無情にも前進する時の怖さ、一瞬に気を緩める余裕を与えてくれる時の寛容さ、これらを真正面から可視化してくれています。

3つの展覧会から見えてくる世界は、かなり自在に変貌する三角形を作ってくれます。

 

Date:11/11/2

「何でも基礎は退屈でやりたくないもの。でもそこを通過しないと面白いと思う領域に到達できない。そのあとに他の稽古事やスポーツへの展開を図ればいいのよね。それなのに生徒の親たちと話していると、子供が『つまらない、他のことをやりたい』というとすぐに変えさせる。子供の意思を尊重していると聞こえはいいんだけど、本当にこれでいいのかしら?」とイタリア人の子供たちにピアノを教えるぼくの奥さんの疑問です。3年から5年くらいはやらないと楽しくは曲を弾けない、と。日本で教えているとき、親は途中でやめたいという子供を叱った。イタリアでも親は子供を励ますが、あきらめのタイミングがきわめて早い。確かに判断に迷うところです。

一つのことを続けないデメリットをぼくも思います。しかし、何でもしがみつかせるのが良いのか?という問いも頭をかすめます。子供の時にいろいろなスポーツをやらせて身体の各部を平均的に使うことを重んじる人たちは、子供の全体的な能力を伸ばすことを優先するのではないだろうかとも考えるからです。一般に「つまみ食い」はネガティブなイメージを伴いますが、子供の人としての幅を広げるとの効用もあります。この見方に立った時、ピアノの基礎をマスターすることにどれだけの意味があるのかへの回答が揺らいできます。「何事も中途半端はよくない」との言葉は全面的に正しいのでしょうか。

あらゆる場面において全体像をつかむには二つの鍵があって、一つは直観です。この直観はある程度経験で身に着くもので、特に混沌とした状況に直面した場数が貢献するのではないかと思います。もう一つが、三つの視点の確保です。視点は何もないところにはアンカーを打てず、何らかの理由で足を踏み入れた経験のあるフィールドがあってこそです。この二つの鍵の重要性を考えるとき、カオスが日常化しているイタリアンライフと「つまみ食い」の二つが実は教育上看過できない要素ではないかとも思うのです。

プロジェクトの組み立て方や進め方からはじまり、プロダクトデザインやビジネスの取り決めに至るまで、どうしても全体像を描くのが苦手でディテールにこだわっている多くの日本人ーぼくも含めてーを見ていると、子供が稽古事をころころと変えることを割と容易に認めるイタリア人の親を批判するのに、ぼくはどうしても躊躇します。全体像の把握ができるということは、全体像を人に見せることをも得意とします。

「ぼんやりとしたコンセプトもコンセプトと言えるのだ」と喝破できるのは、自らの全体像に確信がもてるからです。いや、正確に言うならば、確信をもつ「術」を心得ている、あるいは不安の払拭の「術」を知っているというのが適切です。イノベーションを生むβ版の推進力の源泉は、このあたりにあるのではないかと匂いを嗅いでいるところです。

 

 

Date:11/10/22

ネット上でいろいろとブックレビューを読んでいて気になることがあります。本の要約から書き始めることが多い。この点です。そして、その本がどんなタイプの目的に合うかがコメントされている。他人に本を紹介するために書いているのでしょうか。プロの書評家じゃないのに?それはそれで勉強の一つとして良いのですが、そんなに時間に余裕があるのかなとぼくは思ってしまいます。何が言いたいかといえば、本は自分の何らかの内的動機とのリンクでしか読めないはずなのに、そのリンクを外れた部分で語ろうとしているという無理を感じてしまうのです。

個人的事情の襞で読み込むと読書体験は圧倒的に血となり肉となりえます。内容を細かく覚えている必要はない。いやおうなしに頭に入った内容が自分の言葉で残っていればいいのです。それが自分の言葉にならないのなら、内容かタイミングがマッチしていないと諦めるしかありません。いつか用を足すこともあるかもしれないなと軽く流せばすみます。本の海を泳ぎ切ろうなどと無駄なことを考えるのではなく、それなりの流れの本の川を横断する程度に構えることです。もちろん、大海を泳ぐのが趣味であれば問題ありません。趣味が趣味たるゆえんです。

実は、これはローカリゼーションマップへの立ち位置でもあります。ローカリゼーションマップは地域の傾向を大ざっぱに素早く掴むためのものです。100%地域文化を理解することはありえないのですから、自分のビジネスを「今日」前進するための礎があれば十分なのです。「これでは不十分ではないか」と思い悩み、プランを実行するという本来すべきことができないという罠に陥らないには、「本の要約など不要」と割り切ることです。この発想の転換ができると、つまらない映画などないし、つまらない人などいないし、あらゆることは吸収すべき対象になり、吸収しえなかったことは不要であったのだと思えるのです。

コンサルタント業界の人は新しいプロジェクトを前にしたとき、スタートの1-2週間で頼りになる仮説をたてろと言います。そのために、さまざまな人に電話をかけまくり話を聞き、現場の実感を貪欲に獲得すべきだ、と。本書の著者・山本真司さんもそうです。どうして、このことが強調されるのか。逆に言えば延々と時間と金をかけて情報収集と分析を行っても、事業企画をたてるに100%満足できるネタなど決して用意されるはずがないという前提があるからです。それよりチームが効率よく「小さな失敗と軌道修正」を重ねながら前進してプロジェクト音が高々と鳴り響くことが大事なのです。ローカリゼーションマップはポジションとして、コンサルタント業界でいうところの「仮説思考」に相当するでしょう。

こうでもしないと全体図が見えてこない。しかしながら全体図をみた実感のない人は、このぼんやりとしたラインに不安を抱きます。もっと明確なラインを描くべきではないかと考えてしまいます。「そんなことない、十分」と思ってもらうには、実際に何度かそういうあいまいな地図でスタートを切り、だんだんと輪郭を作っていくとの経験を積んでいくしかありません。経験主義の横暴ではなく、経験則の構築です。

今朝、本書をミラノに戻る機内で読み終えヴェネツィアの上空1万メートルからイタリア半島を眺めながら、半島は反転したとする説を思い出しました。現在長靴の膝にあたる部分は地中海ですが、かつてはアドリア海にあったというのです。アペニン山脈を真ん中にひっくりかえったわけです。両岸の地層を調べると半島がぐるりと寝返ったとするのが妥当だといいます。こういう説はロジカルに考え、かつ思考のジャンプがないと出てこないでしょう。それにしても、夢膨らむ仮説だと思いませんか?