ローカリゼーションマップ の記事

Date:11/11/12

息子の小学校では1年生と最高学年の5年生が絆をつくる「ジェメラッジョ」というしかけがあり、それぞれの5年生がツインとなった1年生の一人の面倒を何かとみます。毎日、食堂で昼食を一緒にとることからはじまり、さまざまな課外活動で一緒になる機会を作ります。息子も1年生の時、5年生の世話になったことは深い思い出となっているようで、高学年になると「早く担当の1年生が決まらないかな」と言うようになりました。今日、そのジェメラッジョの「儀式」があり、寸劇や合唱を見に行きました。

相変わらずイタリア人の子供たちの表現力の良さに感心します。正確に言えば、他の欧州や中東、南米、アジアの子供と多様です。中国社会にどっぷりと入りやすい中国人の子供は若干動作が遅いことがありますが、みんな怖気づくことなく、思い切り声を出し、ぞんぶんに腕を伸ばす。音程がとれていなくても気持ちが良いです。実に子供らしくはじけています。こういうイベントだけでなく、ピアノの発表会でも思うのですが、上手い下手は別にして、「らしい」雰囲気を作り、曲も「らしく」歌うのです。ショパンはショパンらしく。どういうわけか、「らしく」なるのかのコツを自然と身に着けているのです。

「つまみ食い」にあえて賛成してみる』で書いたような「つまみ食い」の効用がここに出ているかと問えば、直接の影響はないかもしれないけれど、「緩い線をつなぐことを優先する」との考え方が生きていることは確かです。ぼくはローカリゼーションマップで「大ざっぱに地域を理解する重要性」を強調していますが、これも「らしく捉まえる」と言い換えられるかもしれません。つまり、緩い線の途中にあるいくつかの(若干太い線を予感する)「点」で説得性があれば、その間にひかれるラインは少々弱くてもよく、そこに「らしさ」の姿が見えてくると考えます。

来週月曜日から約2週間、日本に滞在します。新しいプロジェクトの準備をしながら、15日の赤坂インターコンチネンタルホテルでのアリババ会員向け講演を皮切りに、セミナーなどをこなしていきます。公表できるものについてご紹介しておきます。

16日、日本の伝統工芸を子供のために生かしていこうという慶応大学の学生、矢島里佳さんとローカリゼーションや教育をテーマにトークセッションに参加します。ローカリゼーションマップと子供の教育を結ぶものが何かなと考えていて、上述のようなラインをひいてみたわけです。19日はインフォグラフィックの文化差について勉強会を開催します。大幅に定員を超える参加応募があり、この問題に対する関心の高さを認識しました。 

28日はUXD initiative研究会として「イタリアンライフを題材にしたローカリゼーション・ワークショップ」を行います。異文化のコンテクストをつかみ、それにフィットする商品をデザインすることをテーマに実験的なワークショップを行います。これは募集をスタートしたばかりなのでまだ席があります。

Date:11/11/4

ザハ・ハディドのデザインを見ると「今」を感じます。コンテンポラリーな表現であると思われやすいでしょう。それは有機的デザインだからでしょうか。フランス人のピエール・ポランとスイス系イタリア人のルイジ・コラーニ。かつて2人ともサイエンス・フィクションの世界のために有機的デザインの家具をデザインしています。彼らのデザインは美しいですが、「今」という印象は与えてくれません。それでは40年を隔ててどこにザハ・ハディドとギャップがあるのでしょう。

それは、ぼくが少年の時にみた映像に彼の作品があったからでしょうか。「今」ではなく「懐かしさ」を先に思ってしまう経験の問題なのかと考えてしまいます。コラーニの言葉に「私はSFデザインではなく、サイエンスリアリティを創っている」というのがありますが、空力そのものを体現したクルマが350キロ/時で走ることに重きが置かれる時代に「サイエンスリアリティ」があった。2011年、F1と同じスピードが出るクルマはもちろん空力計算を詳細に行っていますが、40年前ほどには実用から極端に離れないカタチになっている。そこに「サイエンスリアリティ」という表現は馴染まないと思います。

あえて「サイエンスリアリティ」というなら、それはクルマのスピードではなくドライバーとマシーンの関係や衝突しないマシーン間という側面に適用すべき言葉である。そういうリアリティ移動の結果として、コラーニのかつての「先端的」デザインが言及しきれていないスポットが浮上している大きな現実が、彼の40年前のデザインを相対化しているのです。当然ながら、それでいい。ぼくは何もコラーニのデザインにケチをつけたいわけではないのです。美しく且つ今によみがえっても十分に耐えられる力があるとはどういうことかを考えています。

イタリアに1960年代起こったアートの運動、アルテ・ポーヴェラは日常にある素材をもとに新しい視点を提供したわけですがーとぼくは見るのですがー、それは時代を共有しながらも、きっとコラーニの「サイエンスリアリティ」とまったく別の場所にあったでしょう。だがコラーニが「バイオデザイン」と呼ぶ自然にモチーフを求める姿と、アルテ・ポーヴェラのアーティストが自然にある素材を扱うところに何か違いがあるのかを考えます。

トリエンナーレで現在3つの見るべき展覧会があります。ボビーザで開催されているコラーニ、カドルナで行われているアルテ・ポーヴェラと時のデザインをテーマにした展覧会。3つ目のイベントは時そのものをデザインしていて刺激的です。ちょっとでも気を緩めると無情にも前進する時の怖さ、一瞬に気を緩める余裕を与えてくれる時の寛容さ、これらを真正面から可視化してくれています。

3つの展覧会から見えてくる世界は、かなり自在に変貌する三角形を作ってくれます。

 

Date:11/11/2

「何でも基礎は退屈でやりたくないもの。でもそこを通過しないと面白いと思う領域に到達できない。そのあとに他の稽古事やスポーツへの展開を図ればいいのよね。それなのに生徒の親たちと話していると、子供が『つまらない、他のことをやりたい』というとすぐに変えさせる。子供の意思を尊重していると聞こえはいいんだけど、本当にこれでいいのかしら?」とイタリア人の子供たちにピアノを教えるぼくの奥さんの疑問です。3年から5年くらいはやらないと楽しくは曲を弾けない、と。日本で教えているとき、親は途中でやめたいという子供を叱った。イタリアでも親は子供を励ますが、あきらめのタイミングがきわめて早い。確かに判断に迷うところです。

一つのことを続けないデメリットをぼくも思います。しかし、何でもしがみつかせるのが良いのか?という問いも頭をかすめます。子供の時にいろいろなスポーツをやらせて身体の各部を平均的に使うことを重んじる人たちは、子供の全体的な能力を伸ばすことを優先するのではないだろうかとも考えるからです。一般に「つまみ食い」はネガティブなイメージを伴いますが、子供の人としての幅を広げるとの効用もあります。この見方に立った時、ピアノの基礎をマスターすることにどれだけの意味があるのかへの回答が揺らいできます。「何事も中途半端はよくない」との言葉は全面的に正しいのでしょうか。

あらゆる場面において全体像をつかむには二つの鍵があって、一つは直観です。この直観はある程度経験で身に着くもので、特に混沌とした状況に直面した場数が貢献するのではないかと思います。もう一つが、三つの視点の確保です。視点は何もないところにはアンカーを打てず、何らかの理由で足を踏み入れた経験のあるフィールドがあってこそです。この二つの鍵の重要性を考えるとき、カオスが日常化しているイタリアンライフと「つまみ食い」の二つが実は教育上看過できない要素ではないかとも思うのです。

プロジェクトの組み立て方や進め方からはじまり、プロダクトデザインやビジネスの取り決めに至るまで、どうしても全体像を描くのが苦手でディテールにこだわっている多くの日本人ーぼくも含めてーを見ていると、子供が稽古事をころころと変えることを割と容易に認めるイタリア人の親を批判するのに、ぼくはどうしても躊躇します。全体像の把握ができるということは、全体像を人に見せることをも得意とします。

「ぼんやりとしたコンセプトもコンセプトと言えるのだ」と喝破できるのは、自らの全体像に確信がもてるからです。いや、正確に言うならば、確信をもつ「術」を心得ている、あるいは不安の払拭の「術」を知っているというのが適切です。イノベーションを生むβ版の推進力の源泉は、このあたりにあるのではないかと匂いを嗅いでいるところです。