ローカリゼーションマップ の記事

Date:11/12/8

ベルリンの空港でセキュリティチェックのX線を通過した後、回収されたハサミ、ナイフ、ライター類が透明のプラスチックケースにたまっているのを見ました。一緒にいたイタリア人のビジネスパートナーに「結構、新しいものもあるね」と声をかけると、彼は自分の体験談を話し始めました。奥さんと2人でスペインに旅行に出かけたときのことです。イタリアの空港でチェックインを済ませ、セキュリティチェックゾーンに入る寸前、買ったばかりの高価な爪切りが機内持ち込みのバッグの中にあるのを思い出しました。取り上げられるのは必至です。そこで彼らは空港内を歩きまわりはじめます。観葉植物の大きな鉢を見て「これだ!」と、鉢の下に爪切りを隠しました。1週間後、スペインから戻るとさっそく目標の鉢をめざし、爪切りを取って自宅に戻ったと言うのです。

彼はいわゆる狡賢いタイプではない。そういう人間がこのような機転を働かす。それがイタリアの一般的な風景にある。イタリア人のもつその器用さが怠惰を招きー何かのビジネスを実行する時、まず人脈の洗い出しからはじめ、適当なコネがみつからないと諦めるー、保守的な文化を作ると言われます。しかし、この「創造性」がイノベーションの源泉であるのも確かでしょう。

今週、ドイツ人やイタリア人の仲間たちと旧東ドイツを巡りながら、さまざまなことについて意見を交わしましたが、「いかにしてイノベーティブであるか?自分たちでルールをどう変えるか?」が常に底に流れるテーマでした。統一後の20年、ドイツは何をして何をしてこなかったのか?を考えながら、他人の設定したルールに従わないためにどう工夫するかをもう一方の頭で響かせていました。

グローバリゼーションの一つとして有名ファッションブランドの店がどこの空港にもあるとの現象がある一方、その空港の場所を特徴づける食材を提供することがトレンドにあります。「マルペンサ空港で美味しいモッツァレッラチーズが食べられるから少々早めに空港に着こうか」という気にもなります。iPad を眺めながら搭乗便を待つ姿はどこの空港でも見かけますが、そこで食べているものは違う。ただ、実は食べ物だけではなく、「とっさに鉢の下に爪切りを隠す発想を生み許す」かどうかに大きな違いが見られます。そして、それも保守性と革新性が表裏の関係にあるのを見つめるところから、イノベーションには何を水の上に出し何を沈めておくかという判断が、ケースバイケースで下されることになります。

「すでにモノの時代は終わり、コトの時代である」というセリフが語られることが多いです。確かにモノがモノの価値だけで売られることは相対的に少なくなっています。が、それによりコトに対して過剰な期待と幻想を抱いている。技術ではなく社会文脈の変化の重要性がクローズアップされるからこそ、技術以外の変化ばかりに目がいくのですが、「技術文脈の変化」に注目したとき、モノの威力は決して落ちていないランドスケープが広がっているのに気づきます。これを今回、旧東ドイツにある企業で感じました。相変わらずさびしい田舎の景色のなかに確実に変わりゆく部分をみたとき、モノを見ることを忘れてはいけないと再認識しました。

「とっさに鉢の下に爪切りを隠す発想を生み許す」柔軟さはイノベーションのエッセンスではないかとぼんやりと思いながら、眼下に広がるベルリンの街の光を眺めていました。

Date:11/12/3

どこも「可視化ばやり」である。アングロサクソン流の説得に屈したのか、なんでそうなったのかよく分からないが、かたっぱしから透明性が要求されていることと「文盲率」が高くなった、この二つが要因なのではないかと想像している。「文盲率」とは文字通りではなく、もちろん言語リテラシーを指している。コミュニケーションにおける文章への依存度が増しているのに、その理解力や表現力が比例していないから「文盲率」は相対的に高くなる。そして、ネットに「放出」される情報量は増大する一方であり、大波に溺れることに飽きたーあるいは力尽きたー人たちは古代的なライフスタイルを選択する。

そのためか、情報の流れ方や提示のされ方ー「しかた」ではない!-にとても敏感な人たちが育っている。ただこれも皮肉な見方をすれば、「文盲率」の高さゆえに「作法」で判断する部分が多くなっているとも言える。暗黙的な世界でより「作法」が重視されるとの同じレベルで、「文盲率」の高い世の中では「明示的である」ことが「作法」に堕している。実際、恥ずかしい話だが、ぼくも理解しずらい人の書いた文章によく出会いー君もぼくの文章を分かりにくいと言うかもしれないがー、「文盲率」の高さが自分の身に及んでいるのをひしひしと感じる・・・・。ああ、及んでいるのじゃなくて、もとからそうかもしれないが。

よってプレゼンばやりだ。「伝わらぬものは伝わらないんだ!」「伝わらないのは相手のレベルが低いんだ!」なんて口が裂けても言ってはいけない。そういう世知辛い世の中である。おばあさんでも分かるように、14歳でも分かるように・・・とキャッチフレーズをつけただけで、良心のありかが証明されたような気分が満ちている。ああ、いやだ。いや、ぼくもプレゼンの必要性については自分で語るから、全否定しているわけではない。それでも、やり過ぎなんじゃないかと思わないでもない、ということだ。

慶応大学の井庭崇研究室で作成した「プレゼンテーション・パターン」を読んだ。ヴィジュアルと言葉の両方でプレゼンのコツを語り尽くそうとの意思が見える。34のチェック項目が網羅されている。ぼくは、これですべてであるか、あるいは欠けている点があるかという目では見ない。これらのポイントのそれそれでいい線いったら十分じゃない。まず、無理だって。だいたい、これは方向性や態度を語っているのであるから、「いい線」という表現自体、馴染まない。

正直に書こう。ぼくは、プレゼンのやり方に関するマニュアルや本をほとんど読まない人間だ。ビジネス本も書き、たまにビジネス書のレビューをブログにも書くが、ビジネス書もほとんど読まない。読んだ冊数は、このブログにレビューを書いた数だけだ。だからプレゼンのコツをどう他人が語っているのかを知らない。しかしながら、プレゼンはこの34を手元においておけば他に何が必要なのか、さっぱり思い浮かばない。これは簡潔に肝心なことを指摘して、あとは読む人間が考えるようになっている。それでいい。

少なくても確信をもって言えることがある。プレゼンのマニュアルを読んでいる暇があれば、文学や歴史の本ー特に回想録ーを読むのが良い。もし、そうした本を読んでなお、プレゼンのマニュアルを読みたいと思ったら、それらの本をよく理解できていなかったと反省するべきだ。

あっ、基本的なことを書き忘れた。「明示化」のプレッシャーに対抗して「暗黙的である大切さ」を相手にどう説得できるか?というのは、重要な課題だ。これに負けると、プレゼンのマニュアルに走るわけだ。金を節約したいと考えるなら、何をすべきかは自明だ。

Date:11/11/27

日本にいるころ、相模湾でディンギーを仲間と乗っていた時期がありました。ある日曜日、かなり風が強く小雨まじりの中を友人と無謀にも舟を出した際、さほど沖にいかないところで船体がひっくりかえりました。ぼくらは海に身を放り出された後に舟をたてなおしましたが、ぼくは乗り込むにあたり船体をつかみ損ね、海面に一人残されることになりました。一方、友人をのせたディンギーもあっという間に流されていきます。陸から沖に吹いていた風と潮の流れが、ぼくの身を山の連なりからどんどんと遠くへと引き離していき、「明日、何処で発見されるのだろうか・・・」と文字通り天を見上げました。

漁民は山を見ていた。海から真剣に山を見ていた。海から見える山は、漁民にとって命であった。

冒頭の文章が、20年以上前の相模湾でのアクシデントを鮮明に思い起こさせてくれました。陸地にある建物など小さくあてにならず、見慣れたカタチの山こそが自分の位置を確認する唯一の指標になります。人はどこかにあるスタート地点をいつも確認できる構えが必要です。

海に浮かぶヴェネツィアの街のためにアルプスの木材がポー川で運ばれたように、ある地域は他の地域との相互補完の関係で成り立ちます。こうしたことを当たり前のことだと頭で知りながら、お互いに関係することを実際に見たり聞いたりすると、人は心を動かされるものです。地域や集団あるいは個人が閉じた孤立に陥らずに生きていることが確認されると嬉しく思う傾向があります。それも、自然の生態系にかかわることだと、さらに・・・。

植物プランクトンを育む窒素、リン、ケイ素、さらに、フルボ酸鉄の流入量は、圧倒的に、大川が供給していることがわかった。さらに大川の水は、外海に近い唐桑の海にも届いて、それが水深20メートルもの深さにまで達しているというのである。つまり大川の養分が、海の深い所にまで供給されていたのである。

森林、川、海と続く生態系の中に、生物の生存がある。ところが、この関係が数字で明快に示されることは、これまでなかった。松永教授の鉄を基準にした生物生産量の計測という研究は、単に気仙沼湾の問題にとどまらない。

牡蠣の養殖のために森を育てる根拠が科学的に説明されたのですが、科学的説明が可能であるという事実は、海で生きる生物に不可欠な鉄分は森によって提供されるシステムが、世界のどこの地域でも維持されないといけないとの警告になります。

ある科学的説明は科学的に説明されると有用であろうと直観で閃いたポイントでこそ花開きます。あてずっぽうにいくのではなく、「こんな感じが全体像ではないだろうか」と直観で思ったら、そこから鍵となるパーツを探し求めていきます。しかし、直観でつかむ全体像とは自分のリアルな経験(たとえ、ネット上の情報を扱うにせよ、「自分にとっての一次情報」という次元において)に基づきます。つまり、情報は目的や目標があってこそ「息が吹き込まれる」ものであり、実は「息が吹き込まれる」瞬間とは、眼前にあるディテールが輝いた瞬間であり、全体を構成する重要なエレメントであろうと直観で思う時です。すなわち、全体像とディテールの関係の把握が瞬時に行えた時以外の経験は、そのまま寝かせておいてよいものです。言ってみれば、あまり考え込まなくていい。

海に森に生きてきた畠山さんは、「経験の寝かしつけ」が上手いのではないかと思います。無駄に起こして徹夜などさせない。よく睡眠をとらせる。しかしながら、常時目を覚ませておかなければいけない部分は、「冷淡なほどに熱情的」になるよう仕向けます。

三陸海岸の一介の漁師の家に生まれた少年が、一人前の牡蠣士になり、森と海の自然の恵みと、それをおびやかす環境破壊の現実に目を開かれ、問題点を正確に把握して、その解決にむけ、仲間の輪を広げ、敢然と、しかしどこまでも明るく、立ち向かうリーダーになっていくドキュメントである。その筆致には高い文学性があり、叙事文学ともいえる。が、それにとどまらない。ゆったりとした序(経験の統合)、息もつがせぬ破(問題点の整理)、そして最後の急(実践)という、しっかりとした構成をそなえて、また多くの地域に妥当する処方箋が書き込まれており、実学の書でもある。

川勝平太のあとがきです。