ローカリゼーションマップ の記事

Date:11/12/23

大学生のころ社会学者の真木悠介(見田宗介)さんのワークショップに何度か参加していたのですが、今もよく思い出す言葉があります。正確ではないかもしれませんが、「思想には軽いと重いという軸があり、それは軽い方がいい。そして、もう一つの軸に浅いと深いがあり、それは深い方がいい。つまり軽く深い思想を目指すべきだ」という内容だったと思います。その後何十年を経ても何かを判断するときの指標になっています。自分の血となり肉ともなったと言えるでしょう。ただ、それを自分で体現しているか?と聞かれたら、その自信はまったくありません。残念ながら・・・・。

以前からも当然ありますが、特に最近よく耳にし目にする言葉に「あれは表層的で深くないよね」というのがあります。実に多い。先日、自動車ジャーナリストが今年の東京モーターショーについて、「深くない」自動車の開発のありようを記事で批判していました。そう思ったのは事実であり、それはそれで分かるのですが、熟練したジャーナリストが「深くない」という言葉で対象を批評したつもりになっていることに違和感をもちました。

そもそも、深いとはどういう意味なのでしょうか。大雑把にいって、通常2つの観点で使っているのではないかと思います。論理の展開を途中でストップさせず、木の根が土の中にどんどんと深くまで伸びていくように「深く考える」。この痕跡が見えるかどうかを指摘していることがひとつめです。いってみればロジックツリーの長さの問題です。もう一つは範囲の問題ではないかと思います。論理の整合性を支える背景がどれだけの広さでカバーされているか。さまざまな感覚的なつながりでみているのか、論理を心との関係で語っているのか。つまりどれだけ「奥深くまで」踏み込んだのか、です。

「深くない」という表現は前述の2つの問題のどちらを指し、長さが具体的にどこで不足しているのか、範囲がどこまで至っていないのかを明示することによってはじめて見えてくる批評です。きわめて具体性ー抽象度の高い論議であってもーのある内容ですから、「熟練したジャーナリスト」であれば多くの具体的なポイントをつけることができるはずなのに、それをせずに「深くない」を連発する・・・・いったい、これは何なのでしょう?何がそうさせるのかを考えずにはいられません。深くない深いを論理的に語るのも嫌になるほどに、「深くない」状況に囲まれ厭世的になっているとの心境を吐露しているのでしょうか?

世の中が前進するための批評をする-正当性のあるー立場を自ら捨てているのです。実を言えば、盛んに聞く「深くない」という表現は、このような傾向をもっているケースが多数ではないかという印象があります。前進するための批評では、「深くない」とは言わずに何らかの別の方向の表現に努めていくはずです。たとえば、あるデザインは社会的に弱い立場の人をどこまで配慮しているのか?という指摘があるはずです。

それがなく「深くない」と書く人は、前線を退いた人間であるとみなしてよいかもしれません。

 

Category: イノベーティブ思考 | Author 安西 洋之  | 
Date:11/12/18

小澤征爾と村上春樹の対談本の感想で「プロがプロたるゆえんは、全体像の構想力とその実行力にある」と書きましたが、この本を読んでいてまったく違った点で気になったことがあります。それは小澤が自分の抱える重大な病気ーがんーをモノ的に扱っているように読めることです。「モノ的」という言葉がふさわしくないなら、自分の運転するクルマの前に大きなタンクローリーが故障で止まってしまい、二車線の向こうからひっきりなしに来るクルマをよけながらどうタンクローリーの先に行こうかというような「邪魔者」としてのがんという存在がある・・・と見ているような印象がありました。

もちろん癌を歓迎すべき存在としてみる人はほとんどいないと思います。ただ、この「超えるべき物理的存在としての癌」という見方は、ぼくのイタリア人の友人が癌を放射線治療で治していたときにも感じたことでした。精神的に落ち込みながらも、ある種、淡々と治療を続けていく。「片づけていく」という表現でしょうか。小澤やぼくの友人に限らず、人生の大きな目標を自覚している人ほど「癌なんかで落ち込んでいる暇はない」と言います。ただ、これは別のアングルから語ることが可能ではないかとふと思いました。

分析的な西洋医学には限界がきて、体や心のバランスをよく見る東洋医学が見直されていると言います。両者が相互補完することはいいでしょう。「病は気から」なのだから、精神的ストレスを回避していかないといけません。しかしながら、自分の病をあまりに気の持ちように要因を求めることは、自らを責めることが多くなると言えないでしょうか。「あんな咳ばかりしている満員電車のなかに閉じこまれていればインフルエンザくらい移るさ」と他人事のように己の身体を語るのは、下手に重荷を背負う事態を避けるのに好都合ではないかとも思います。

病を第三者的に突き放してみる。心の問題とは無関係であると考える。そうであるからこそ、逆に心は軽く明るい表情もできると思ったらどうでしょう。自分の愚かさを笑ってみる。それなりの日常のややこしい問題を「人生ってこんなもんさ」と言い切ることで心が軽くなるのとまったく同じことが、病気への対処法として有効ではないかと考えるのです。とするならば、一概に西洋医学の限界を批判的にみるのではなく、西洋医学の心への効用を語ることが可能なはずです。

・・・そんなことを、東洋人であるからこそできる西洋音楽の解釈があると主張する小澤征爾の癌への感度を想像しました。

Date:11/12/10

昨晩、ネットナビをしていたら、ドイツの国旗カラーを彩った「bundespolizei」(連邦警察)が法律違反のサイトを見たので100ユーロの罰金を払え!という画面が突如でてきました。まったく怪しげなところではなく普通のサイトを見ていたのですが、すべての機能がブロックされてしまったので、他のPCで「トロイの木馬」であることを確認し、今日エキスパートにウィルスを追っ払ってもらいました。それにしても、つくづくドイツのブランドは強いものだなと感心しましたー実のところ、調べると他国の警察を名乗るタイプもあるようですが。ドイツの警察ならリアリティがあるだろうとの思惑が見え、それが逆に怪しさを増しているとぼくは思ったのですが、これも国のブランド力なのでしょう。

11月28日にUXD Initiative研究会で開催した「イタリアンライフを題材にしたローカリゼーション・ワークショップ」では、イタリアのライフスタイルを表現している動画を見てもらい、そこからイタリア生活を特徴づけるコンテクストを抜出し、そのうえで日本のネタをどうイタリア向けに商品開発するかという課題を出しました。観察をしていて気づくのは、ダウンロードした情報は参加者の頭の中に既にある知識を再確認に利用されたり、それらからの連鎖を導き出す役割をしていることです。イタリアに関する知識がまったくのゼロであったなら、いったいどういうコンテクストが参加者から提示されてきたのだろうと思いました。

ある国に対する知識がゼロに近い地域が、これからのビジネスの大きな市場と見られています。だからこそ、少しでも知識のある国で文脈を読むトレーニングをするのが効率的です。それにより何をキーにすると他の何がみえてきてくるかの勘がつき、相似のあり方が全体として浮かび上がってきます。そういう点で、ヨーロッパ諸国は「相似形」を学ぶのに最適です。フランスとイタリアがどう似てどう違い、チェコとドイツの相違点は何なのか。この微妙な差の繋がりがEUの範囲でも27はあるわけです。そして、それなりに情報の蓄積があるから検証がしやすいという利点があります。

とするならば、このようにヨーロッパ内の差異を使いながら距離感の測り方を練習し、たとえば、アジアの国々の差異を見ていくという方法はどうだろうかと考えます。もともとの差異の取り方の距離感が未体験ゾーンだと、ナイフを使うべきところを斧を持ち出すような考え方をするパターンが多くなるのではないかという気がします。

日経ビジネスオンラインで河合薫さんの「グローバル人材」のコラムに対する多数の読者コメントを読んでいても、どうも「経験の運用」が荒っぽいと感じる人が多いと思ったのです。「英語」や「グローバル人材」などというテーマが世の中で喧伝される裏には、「差異の測り方への鈍感さ」が二酸化炭素が閉め切った空間に漂うようにある・・・・とイメージします。どうにも臭い。議論自身に酸素が薄い。日本には微細なテイストを感じる文化がありますが、それは日本の中に限定されることが多く、日本の外のことになると一気に大ざっぱの度合が過ぎます。この特徴が、読者コメントにも見られると思います。

ちなみに、ぼくが昨夜脅威を受けた「bundespolizei」は、イタリア語で書いてありました。イタリアにいてドイツ警察がでしゃばるのもおかしいですが、ドイツの連邦警察はそこまで力があるのかと妙に納得したー一瞬ですがー自分に腹が立ちます。