ローカリゼーションマップ の記事

Date:12/1/10

ミラノサローネを題材としたシリーズも5年目を迎えることになりました。ミラノサローネに関心のある多くの人に読まれているようで、見学している方だけでなく参加している方からも「読んでますよ」と言われることが珍しくありません。その場合、「ちょっと辛口ですみませんね」と話すと「いや、指摘されたことは分かります。ただ、なかなか社内事情でそういかなくて、私も困っているんです」という答えが返ってきます。ぼくも社内事情がどんなものかは想像がつくので、ご本人が忸怩たる思いであるのは理解でき、どうしたものかと考えます。

そういうこともあって、昨年は日経ビジネスオンラインの連載で「世界で注目するデザインイベントで東芝とパナソニック電工の評価は?ミラノサローネで失敗しないために」を書きました。幹部の方にも日本企業の弱点がどうサローネで露呈しているか、そのサローネの位置づけはどういうことになっているのか、これら知っていただきたいと思ったからです。対策のポイントは以下です。

日本では「共感」とは五感レベルのみで語られやすいため、アート的インスタレーションや曖昧な言葉の「フィロソフィー」へと向かってしまうのだろう。し かし、「共感」を得るためのもっともユニバーサルツールは、論理的なコンセプトであることを忘れてはいけない。語る相手の頭の中が見えるようなプレゼンに 人は納得し、そこで獲得した「共感」は根強く印象に残る。枯葉のように飛んでいかない。今、ソーシャルメディアを通じて、こうしたコンセプトをあらゆるア ングルから伝えることが可能な環境がある。これを使わない手はない。

 

現在、ぼく自身は日本とイタリアの学生たちと、あるコンセプトを4月サローネ時にプレゼンテーションすることを話し合っています。学生が主体ですから裏方です。去年10月からスタートさせたプロジェクトですが、東京でのキックオフミーティングのとき、雲をつかむような話で本当に半年後にミラノで何かできるのか?と学生たちは疑心暗鬼でした。裏方にはいる社会人たちのほうが「なんとかなる」と気楽に構えていたのが対照的です。それから約3か月。まだカタチになっていませんが、紆余曲折しながら前進しています。それこそ、なんとかなるでしょう。基本は記事で書いた上述の点を外さないことだと考えています。2月か3月になったら、このブログでも進捗をチョロチョロと漏らしていきます。

この1年、強く実感していることがあります。社会的起業と別枠としてジャンル分けされてきたことが、日本でも「ヤワ」ではなくなりつつあり、じょじょにハードな経済活動のなかに組み込まれていく環境が整ってきたことです。「ヤワ」なことにイタリアに来る20年以上前から関心が強かったぼくは、できるだけその考え方を枠の中に入れながら、「ヤワ」にカテゴライズされない工夫をしてきました。ローカリゼーションマップは文化理解がビジネス的に有用である時代ーいつだって有用だったのですが、それを言い出すにはタイミングが必要だったーになってきたとの認識ではじめた活動ですが、それでも社会的活動と自ら名乗るグループとは距離をおいてきました。

しかし、そろそろこの距離を短くしてよいかなと思い始めてきました。もともと心情的には共感しながら意図的に距離をもっていたので、「短くしてもよいかな」という表現がマッチします。その「短くしてもいいかな」が社会的イノベーションを考える学生たちの活動との接点になったと言ってよいかと思います。実際、サローネを利用して社会問題を提起することは文脈としてフィットしています。よって今年の「ミラノサローネ2012」は、この領域にもスポットをあてて書いていこうと思います。

 

 

 

Date:12/1/5

この正月、日本人の友人と酒を飲みながら話題がイタリアの教育とアートのアーカイブになりました。イタリアの学校で重視されるのは口頭試問です。テーマに対して定義の設定から論理を構築していく力が試されます。どこかにある正解をなぞるのではなく、ある問題に対して自分なりの解釈をほどこすことが求められるわけです。それを書くのではなく話す。これが小学生の段階から徹底されています。一方アートの世界におけるアーカイブとは、批評空間に存在感があるという意味合いの話です。図書館でアート作品を検索すると、日本とは比較にならない桁の数で批評文が一つの作品について出てきます。よって、批評コンテクストでの位置づけを前提に作品を構想する訓練を作家は重ねることになります。

「自分の解釈を作る」という基盤があるから批評空間に存在感があると言えますが、時とともに生き残れる作品こそに価値があるという考えが強いので、批評の量と変遷にウエイトが置かれるのではないかと思います。言ってみれば、そこに石があること自身にさほど意味があるのではなく、そこになぜ石が置かれ、どのような年月をもって石が人に見られ、その石が何十年後にどのような価値をもつかが記述される・・・・マーケットを構成するシステムが「言葉が不要な感動」のみによって成立していないのです。

考えてみると人の人生も同じです。生きてきたプロセスを記録に残すことがセルフブランディングになります。年末から正月にかけ、少なからぬ人たちがフェイスブックに自分の幼少や青年時代の写真をアップさせていました。当たり障りのない話題提供や年の変わり目に過去に思いを馳せるという動機なのでしょうが、タイムラインに揺れ動く自身の姿の背景を知っておいてもらいたいとの欲求の表れなのだろうとも想像します。自分は身長が1.何メートルで体重が何十キロで過去現在の名の知れた人の顔に似ているかどうかではなく、世界で有史以来唯一である自分の生まれた瞬間からの営みの数々にしかーしか!-証がない。それは過去の誰とも同じではないし、将来、同じ人が出現することはありえない。人は「時」によってアリバイを獲得する存在なのです。

日記は自叙伝にまさり、自叙伝は作家が書いた伝記にまさるのは、その瞬間のありようは本人が一番の証言者だからです。これまで名の知れた人のライフヒストリーが評価されたのは、その人の世間的に認められた実績ゆえでありましたが、実は世間的に認められるシステムに入る「通行手形」をたまたま手にした幸運によるとの側面がなかったわけではありません。「通行手形」の入手が相対的に容易になった現在、何に対する証言者であるかがより問われます。ネットのおかげで証言者という地位はほぼ平等に与えられるのであれば、どこに証言者として立ち会うかがポイントになります。ゆえに、その点について意識をさらに高めることが自己肯定の契機になるとの理屈が幅を利かしそうです。証言者とは状況定義と解釈を開陳できる存在ですから、当然ながら、与えられた地位を十全に使いこなせるかどうかは別の問題としてあります。

やったことの結果もさることながら、どんな天気の時に、どんな道を辿っているかがセルフブランディングの肝になるわけです。ただし、初夏の暖かい日のヴェネツィアで昼寝をするのではなく、晩秋の霧の濃い海上でヴェネツィアへの足止めを食うことが証言者の生き方として重みがありそうで、実はそうではない。あまりに平凡な日常的な風景のなかで証言者であるー日曜日午後のイトーヨーカ堂の下着売り場で世界を語るーほうが存在感があるかもしれないのです。

文章の結を急ぐためにやや飛躍を許してもらえるなら、「今に生きる」ことが、かつてと比較にならないほど自己アイデンティティとブランディングのために重みを増していると考えてしかるべきです。無駄にできる時間はなにもないのですーいや、すべての時間はあなたが思う以上に価値がある。しかし、だから息苦しくなるのではない。逆に、だから開放された気持ちになるにはどうすればいいか?と考える人がー社会経済的に激しく揺さぶられるー2012年を生き残れるでしょう。

 

 

 

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Date:11/12/31

今週、『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?』が日経BPストアソニーリーダーストアから電子書籍として発売になりました。今月はリクルートの雑誌『ワークス』の現地化特集の冒頭でもインタビューが取り上げられ、来月はテレビ番組でも紹介されます。ローカリゼーションマップの考え方がじょじょに浸透しているのを、こうした目に見えるカタチで確認できるのは嬉しいです。前著『ヨーロッパの目 日本の目』でローカリゼーションの重要性を一般の人に向けて語り始めてちょうど3年になりますが、まったくのゼロからスタートしたプロジェクトとして悪くない進捗であると思っています。

最近では文化人はビジネスのことを知らないだろうからと、ビジネスについて薀蓄を傾けてくる人もいて苦笑いです。ビジネスへの文化理解の適用を語っているその趣旨を分かってくれていないことへの苦笑いと、ぼく自身が著作と講演でやっている人間-文化人ーであると思われていることへの苦笑いです。ぼくが工場のなかに入り込んで技術供与の商談をしたり、弁護士と一緒にタフな契約交渉をしていることを幸いながら(笑)ご存じないようです。

ローカリゼーションマップの活動を通じてつくづく思うのは、大企業の名刺で仕事をしていないがゆえに分かってきたことがぼくのベースになっているということです。ぼくが大企業にいたのはもう20年以上前の昔話になりますが、思うに年齢や経験の量だけでなく、その立場ゆえに見えないことが多かったと今更ながらに感じます。いわゆるグローバル企業でたくさんの違った国籍の人と日常的に協業して得る経験で見えてくることは、その企業文化やそのレベルのビジネス文化について素養ができることを意味するにーあえて言えばー過ぎないのです。サプライチェーンの末端に伸びる小さな細胞がグローバルビジネスを支えているにも関わらず、多国籍企業の従業員は思いのほか、末端の細胞事情を理解するのが不得意であるとの矛盾を抱えています。大企業の従業員がマーケットを実感として把握しにくいのは、こういう背景にも原因があります。

大企業の名前で契約をする場合には浮上してこない個々の文化のプライドや拘りが、小さな企業の名前で契約する場合には覆い隠すのができないほどに露骨に出てきます。日本人なんか嫌いだと人種差別の目でみるビジネスマンの振る舞いにこそ、そのビジネスマンの住む世界の特徴が見えてくるのです。これらを体験してきたことが、実はぼくの宝です。ローカリゼーションマップの考え方のエッセンスには、嫌なシーンをたくさん味わってきたがゆえの反省が込められているともいえます。イタリアはドイツではなく英国ではないがゆえに、日本文化やその製品への評価が芳しくない。だからこそクールジャパンに浮かれないロジックをイタリアで生活するぼくは見いだせるわけです。

人はたいしたものではなく、自分の経験してきたことでしか視点を獲得しづらいものです。読書はそれを補いますが、補えない部分がはっきり分かるという意味で読書の有用性を語るのが正確でしょう。しかしながら、「自分は経験がない」との弁解で歩を止めるのはできません。とするならば、経験しないことを経験したことと同等の位置に格上げする方法を編み出さないといけません。大企業にいて見えない部分をどう見るか?逆に中小企業にいて見えない部分をどう見るか?

人ではなくモノのローカリゼーション期待度を観察して異文化の特徴を把握するのは、その一方法です。人を見るなというのではなく、人を見ることだけでビジネスを前進させる異文化理解・判断は難易度が高いため、敷居の低いセッティングを考えようとの提案です。一般的な話に落とし込むなら、汎用性の高い土俵を自らつくる知恵が経験不足を補完します。もう一つの方法は、ほっぽっておいても垢のように堆積する個々の経験の純度を如何に高めるか?に鍵があります。純度を高めるとは、一つの経験をいつでも取り出しやすいようなアーカイブにすることでもあります。さらにAの経験とBの経験の絆の作り方パターンをマスターすると、アーカイブはより活用しやすくなります。これがマスターできないと、自分の経験の「孤独感」に悩まされます。

2011年も残りわずかです。「『新しい発想』と『自分の言葉』を同義と考えてみる」で書いたことの発展系を考えているところです。来年の中心的テーマになってくるはずです。どういうカタチで世に問うていくか? 今、着々と準備を進めていますからお楽しみに!