ローカリゼーションマップ の記事

Date:12/4/23

昨日、MARU PROJECT のために4日間、南のバジリカータに出かけていた東大 i.school の学生たちがミラノに戻ってきました。若いといえど、さすがに身体は疲れているようですが、非常に清々しい表情です。身体ごとぶつかってひとつやりとげた充実感が顔に出ているのでしょう。ENIの財団のオーガナイズでTramutola に滞在した彼らは、市長から市民活動家までをふくめて多様な人たちに会い、イタリア国営放送RAIのニュースや地元3紙はかなりの紙面を割いて活動を紹介してくれました。市長の前で学生は地域活性や気仙沼との交流の5つのアイデアをプレゼンし、今後、ローカル同士で何かコトをおこしていく気運が出来てきました。今日、ディレクターの田村大さんとトリエンナーレの庭で話し合いながら印象に残った点-その後、ぼくが思った点もいれてーをいくつかメモしておきます。

地域活性化に異文化の人間が入り込むことは必須といえるほどに重要なことですが、バジリカータでもそれを感じたようです。しかし、その異文化の人はミラノのイタリア人ではなく、日本の人のほうが良く作用する場合があるのではないか、というのが一点です。「ミラノの奴には言われたくないが、遠い外国人の言うことは率直に聞ける」という微妙な心理があります。そのような文脈で、小さなローカルがお互いにイノベーションをおこすにアシストしあえる可能性は低くないという見積もりがたちます。特に、伝統に敬意を表しながら変えたほうがよい伝統に変化をおこしていくには、このような異文化の関係が効くと言うわけです。しかも、遠いローカル同士でそれを行うなら「痛み分け」というお互い様の理屈を使えます。

その次に、ローカルをマーケットにした場合、あまり無理な言い分に振り回される必要がありません。僕たちはどうしても、「それがいいのは分かるけど、似たようなものは世の中にたくさんあるよね。で、どんな点が世界で突出できるのか教えてよ」という攻め方に慣れ過ぎています。何兆円もの売り上げの世界的規模で商売をしている企業ではそういう話し合いが行われるのが当然ですが、さほどのサイズではない、しかし海外とのつきあいで突破口が開けるケースは意外にたくさんあるはずです。「グローバル基準」にアンチを唱えることで見えてくる道があります。

たとえば、「このプロジェクトはローカルの人の評価が中心であり、自然は相手にしません」(田村さん談)はどういうことかといえば、どこのローカルにも必ず自然賛歌や自慢があります。「富士山は美しい」という表現です。そうした美的評価の競い合いになってはいけません。「富士山は世界一美しい」と言ったら、決してローカル同士の付き合いは生まれません。距離的に離れた複数のローカルに住む人たちが、故郷の美しさはひとまずおいて、自分たちの価値を再評価するーあるいは評価しあうーことで歩は前に一歩進めます。大きな投資ではなく、小さな投資で世界を連鎖的に変えていく仕組みをMARU PROJECT のロジック内にもっているー内包という表現が適当でしょうーことになります。

これが、今日のサンケイBIZの連載コラムに書いたモノのデザインのロジックの「もう一つの発展系」です。

Date:12/4/18

今週は、少し日記風のメモのスタイルで書いていきます。

昨日はThe HUBでMARU PROJECTについてラウンド・テーブルを行いました。地域活性化などの活動をしているイタリアのメンバーとi.school の学生たちとのディスカッションです。そのなかで学生たちが掴んだイタリアでのこの種の議論でのキーワードは、地域への「アイデンティティ」「プライド」「生活の質」の三つでした。これらの言葉が頻出するのです。ここを入口に探っていくと何かが見えてくるのではないか?ということが分かったようです。その後、トルトーナ地区へ全員で移動し、Creative Ways -Design and Crafts for Trentino を見学。トレンティーノのクリエイティビティの強化にどうデザインしていくか?というプロジェクトです。このプロジェクトをリードしたデザイナーから話を聞きましたが、デザインという言葉の指す広さやその活用が分かりやすくまとめられた150ページ以上の小冊子まで用意されていて感心しました。

今日はミラノ工科大学でMARU PROJECTのワークショップ2回目です。前回はマスタークラスの学生でしたが、今回は学部1年生です。デザイン学部の1年生にとって、日本の大学の工学部の学生が主導する英語のワークショップは相当に刺激的だったようです。最初はかなり戸惑いもありましたが、後半になってくると和気藹々に進みます。アイスブレイクがワークショップで如何に大切かが分かる展開でした。要は活発な発言が自発的にでないワークショップはワークショップの意味がないわけです。ここまでイタリア人の学生たちをのせることができたのも、イタリア人との3回目の場であったこともありますが、i.school の学生たちの学習能力の高さは大したものです。

終了後、学生たちはイタリア半島の南、バジリカータへ4日間の旅に発ちました。エネルギー企業のENIの財団のアレンジで、かの地でいろいろな団体とコラボレーションの可能性を探ってくる予定です。明日はイタリア国営放送RAIのインタビューも受けることになり楽しみです。で、ぼくは工科大学を離れ、即トリエンナーレに駆けつけました。このところトリエンナーレは商品プロモーションをもろに出す企業が多くなり若干興味が失せる場所になってきましたが、それでもトレンドのキーワードを探るに、ここをスキップするわけにもいきません。トリエンナーレと次に訪れたファブリカ・デル・ヴァポーレを見学した今日の結論を先に述べると、EUの二つのコンセプト「多様性の維持」「社会的持続性」の定着が図られるように滑走路の整備が着実にはじまっているということです。トリエンナーレでそのひとつとして、il piccolo designer があります。日常生活にある小さなモノの世界の「意味の再構築」です。これは多様性と持続性の両方に足がかかります。

ファブリカ・デル・ヴァポーレでいえば低コスト・デザインのLow Cost Design であり、Autoproduzione a Milano です。数年前から市販のDIY のコンポーネントを使いファブレスのコンセプトで家具を作る動きがありましたが、単に経済不況の影響ということでなく、ICTの世界にあるアプリのパーソナリゼーションのリアル(物理的モノ)版の現実化が到来している感が強いです。つまり、ヴァーチャル感覚で馴れたことのリアルへの反映と言えます。別のアングルから言うと、一人一人があらゆることで主導権を握ることが可能かどうかの実験がスタートしつつあるのではないか?-20世紀の大量生産に対しーということでしょう。ジャンプしますが、この文脈に MARU PROJECTをおくと、ローカルの主導権回復活動になり、なおかつ、それが従来的な「伝統社会の規範への復帰」とならない欲求と並行しているのが見えてきます。

最後に。トリエンナーレの庭で行われている松本康さんの作品は、一つの部屋です。ここで小さなスペースというとル・コルビジェの南仏の家を思い出すのですが、松本さんは人が内にたてるアナログカメラの原理そのものの世界を作りました。この写真にあるワイングラスも彼の作品ですが、こうして水を入れると向こうの風景が逆さに見えるーこれを仕掛けに、壁の各所に水を入れた球体を埋め込んだのです。彼はキャノンのデジタルカメラのデザイナーなのですが、今回、個人の立場で出展しています。キャノンもスーパースタジオで毎回大げさなインスタレーションをするより、こういう方向で表現の道を探るべきだろうな・・・と思った瞬間でした。

Date:12/4/15

日本の原風景とは向こうに山の連なりが見え、その手前に防風林に囲まれた集落があり周囲には広大な水田が広がっている。こうした景色が近代工業社会の到来で破壊され、日本人は本来あったエコ的ライフスタイルを失った・・・という文章をありとあらゆるところで見ます。はたして、これは本当なのでしょうか。「日本の農村の原風景」と言われる風景が実は必ずしも典型ではなく、ごく一部にある風景であったことは、「農民」の定義には漁業など他産業の従事者が含まれていた事実とともに網野善彦が指摘しています。

日本人は繊細な感性をもち丁寧に簡潔に表現することを得意とするが、それは日本人の美意識に基づいている・・・という意見もよく聞きます。そして桂離宮が事例にあがります。が、はたして、これが日本文化の典型的姿なのでしょうか。外から比較的そうみられやすいのは確かですし、ぼく自身も、日本の人の静かな表現が必ずしも意図的に出ていないことを認識しています。ただ農村の風景と同じように、そこに日本の文化の要があると言明するのには首を傾げます。

村上隆が伊藤若冲をもとに自分の系譜図を描いていますが、若冲は「典型的日本文化イメージ」からは外れるでしょう。しかし、村上隆が作った系譜図が正しくないという批判は成立しないのです。それは、人ぞれぞれの解釈が歴史にはあると気休めに言われるフレーズ以上の重みをもちます。たとえば、日本の工業製品を作る人たちが狭路にあまりに入り過ぎるのは、自己文化の狭い固定的な定義に身動きがとれなくなっている側面が強いからと言えます。「典型とされる文化」の定義の功罪の罪の部分です。

功罪の功の部分を見ないわけでもないし、その部分がブランドを作る上で貢献することも百も承知のうえで、「安定した文化定義への安住」のマイナス面が殊のほか大きいことを知っていないといけないと思います。よく例に引き出すように、和食の正統性の主張が世界で70%の日本食レストラン市場をとれない一つの要因になっていることは確かでしょう。自分の文化で固有と思っているものは、実は「たいした固有」ではないことが多く、そのエッセンスを見間違うことは稀ではないのです。また同時に、日本の外の人ーアインシュタインやブルーノ・タウトーに褒めてもらった点を後生大事に抱えるのも、ほどほどに留めておくのが良いと思います。

読みやすく美しい情報ツールを手に国立公園に向かうとき、人々は、その体験を通して多くの人々の意識と連携することができる。おそらく国立公園というものは、自然そのものではなく、むしろその自然とどう向き合いどう慈しむかという、人の意識の中に構築された無形の意識の連鎖なのではないか。そういう意味で、国立公園は高度なデザインの集積ともいえる。

デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。

デザインの肝を述べています。上述はアメリカの国立公園の事例から続いた文章ですが、富士箱根伊豆国立公園ー特に富士山ーを思い起こすと、「日本人の心性のデザイン」が国内外で上手くーあるいは意図的にー伝わっていることに気づくでしょう。それがゆえに、富士山を美しいと愛でながら、そこに日本文化の神髄をみて世界に固有のカタチとして表現されていると思いこまされてはいけない。噴火活動という自然現象によって生まれた形状が日本人の心性に影響を与えたことがあっても、日本人の心性を富士山が表現してくれているわけではありません。日本とは違う文化の人たちの土地にも、富士山と似た形状の火山があるという当たり前の事実に向きあうことが必要です。

ローカリゼーションマップで指し示すモノのローカリティとは、「本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い」と照合します。富士山のカタチではなく、富士山の解釈にローカライズの「本性」があるのです。