ローカリゼーションマップ の記事

Date:12/4/18

今週は、少し日記風のメモのスタイルで書いていきます。

昨日はThe HUBでMARU PROJECTについてラウンド・テーブルを行いました。地域活性化などの活動をしているイタリアのメンバーとi.school の学生たちとのディスカッションです。そのなかで学生たちが掴んだイタリアでのこの種の議論でのキーワードは、地域への「アイデンティティ」「プライド」「生活の質」の三つでした。これらの言葉が頻出するのです。ここを入口に探っていくと何かが見えてくるのではないか?ということが分かったようです。その後、トルトーナ地区へ全員で移動し、Creative Ways -Design and Crafts for Trentino を見学。トレンティーノのクリエイティビティの強化にどうデザインしていくか?というプロジェクトです。このプロジェクトをリードしたデザイナーから話を聞きましたが、デザインという言葉の指す広さやその活用が分かりやすくまとめられた150ページ以上の小冊子まで用意されていて感心しました。

今日はミラノ工科大学でMARU PROJECTのワークショップ2回目です。前回はマスタークラスの学生でしたが、今回は学部1年生です。デザイン学部の1年生にとって、日本の大学の工学部の学生が主導する英語のワークショップは相当に刺激的だったようです。最初はかなり戸惑いもありましたが、後半になってくると和気藹々に進みます。アイスブレイクがワークショップで如何に大切かが分かる展開でした。要は活発な発言が自発的にでないワークショップはワークショップの意味がないわけです。ここまでイタリア人の学生たちをのせることができたのも、イタリア人との3回目の場であったこともありますが、i.school の学生たちの学習能力の高さは大したものです。

終了後、学生たちはイタリア半島の南、バジリカータへ4日間の旅に発ちました。エネルギー企業のENIの財団のアレンジで、かの地でいろいろな団体とコラボレーションの可能性を探ってくる予定です。明日はイタリア国営放送RAIのインタビューも受けることになり楽しみです。で、ぼくは工科大学を離れ、即トリエンナーレに駆けつけました。このところトリエンナーレは商品プロモーションをもろに出す企業が多くなり若干興味が失せる場所になってきましたが、それでもトレンドのキーワードを探るに、ここをスキップするわけにもいきません。トリエンナーレと次に訪れたファブリカ・デル・ヴァポーレを見学した今日の結論を先に述べると、EUの二つのコンセプト「多様性の維持」「社会的持続性」の定着が図られるように滑走路の整備が着実にはじまっているということです。トリエンナーレでそのひとつとして、il piccolo designer があります。日常生活にある小さなモノの世界の「意味の再構築」です。これは多様性と持続性の両方に足がかかります。

ファブリカ・デル・ヴァポーレでいえば低コスト・デザインのLow Cost Design であり、Autoproduzione a Milano です。数年前から市販のDIY のコンポーネントを使いファブレスのコンセプトで家具を作る動きがありましたが、単に経済不況の影響ということでなく、ICTの世界にあるアプリのパーソナリゼーションのリアル(物理的モノ)版の現実化が到来している感が強いです。つまり、ヴァーチャル感覚で馴れたことのリアルへの反映と言えます。別のアングルから言うと、一人一人があらゆることで主導権を握ることが可能かどうかの実験がスタートしつつあるのではないか?-20世紀の大量生産に対しーということでしょう。ジャンプしますが、この文脈に MARU PROJECTをおくと、ローカルの主導権回復活動になり、なおかつ、それが従来的な「伝統社会の規範への復帰」とならない欲求と並行しているのが見えてきます。

最後に。トリエンナーレの庭で行われている松本康さんの作品は、一つの部屋です。ここで小さなスペースというとル・コルビジェの南仏の家を思い出すのですが、松本さんは人が内にたてるアナログカメラの原理そのものの世界を作りました。この写真にあるワイングラスも彼の作品ですが、こうして水を入れると向こうの風景が逆さに見えるーこれを仕掛けに、壁の各所に水を入れた球体を埋め込んだのです。彼はキャノンのデジタルカメラのデザイナーなのですが、今回、個人の立場で出展しています。キャノンもスーパースタジオで毎回大げさなインスタレーションをするより、こういう方向で表現の道を探るべきだろうな・・・と思った瞬間でした。

Date:12/4/15

日本の原風景とは向こうに山の連なりが見え、その手前に防風林に囲まれた集落があり周囲には広大な水田が広がっている。こうした景色が近代工業社会の到来で破壊され、日本人は本来あったエコ的ライフスタイルを失った・・・という文章をありとあらゆるところで見ます。はたして、これは本当なのでしょうか。「日本の農村の原風景」と言われる風景が実は必ずしも典型ではなく、ごく一部にある風景であったことは、「農民」の定義には漁業など他産業の従事者が含まれていた事実とともに網野善彦が指摘しています。

日本人は繊細な感性をもち丁寧に簡潔に表現することを得意とするが、それは日本人の美意識に基づいている・・・という意見もよく聞きます。そして桂離宮が事例にあがります。が、はたして、これが日本文化の典型的姿なのでしょうか。外から比較的そうみられやすいのは確かですし、ぼく自身も、日本の人の静かな表現が必ずしも意図的に出ていないことを認識しています。ただ農村の風景と同じように、そこに日本の文化の要があると言明するのには首を傾げます。

村上隆が伊藤若冲をもとに自分の系譜図を描いていますが、若冲は「典型的日本文化イメージ」からは外れるでしょう。しかし、村上隆が作った系譜図が正しくないという批判は成立しないのです。それは、人ぞれぞれの解釈が歴史にはあると気休めに言われるフレーズ以上の重みをもちます。たとえば、日本の工業製品を作る人たちが狭路にあまりに入り過ぎるのは、自己文化の狭い固定的な定義に身動きがとれなくなっている側面が強いからと言えます。「典型とされる文化」の定義の功罪の罪の部分です。

功罪の功の部分を見ないわけでもないし、その部分がブランドを作る上で貢献することも百も承知のうえで、「安定した文化定義への安住」のマイナス面が殊のほか大きいことを知っていないといけないと思います。よく例に引き出すように、和食の正統性の主張が世界で70%の日本食レストラン市場をとれない一つの要因になっていることは確かでしょう。自分の文化で固有と思っているものは、実は「たいした固有」ではないことが多く、そのエッセンスを見間違うことは稀ではないのです。また同時に、日本の外の人ーアインシュタインやブルーノ・タウトーに褒めてもらった点を後生大事に抱えるのも、ほどほどに留めておくのが良いと思います。

読みやすく美しい情報ツールを手に国立公園に向かうとき、人々は、その体験を通して多くの人々の意識と連携することができる。おそらく国立公園というものは、自然そのものではなく、むしろその自然とどう向き合いどう慈しむかという、人の意識の中に構築された無形の意識の連鎖なのではないか。そういう意味で、国立公園は高度なデザインの集積ともいえる。

デザインは、商品の魅力をあおり立てる競いの文脈で語られることが多いが、本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い。

デザインの肝を述べています。上述はアメリカの国立公園の事例から続いた文章ですが、富士箱根伊豆国立公園ー特に富士山ーを思い起こすと、「日本人の心性のデザイン」が国内外で上手くーあるいは意図的にー伝わっていることに気づくでしょう。それがゆえに、富士山を美しいと愛でながら、そこに日本文化の神髄をみて世界に固有のカタチとして表現されていると思いこまされてはいけない。噴火活動という自然現象によって生まれた形状が日本人の心性に影響を与えたことがあっても、日本人の心性を富士山が表現してくれているわけではありません。日本とは違う文化の人たちの土地にも、富士山と似た形状の火山があるという当たり前の事実に向きあうことが必要です。

ローカリゼーションマップで指し示すモノのローカリティとは、「本来は社会の中で共有される倫理的な側面を色濃く持っている。抑制、尊厳、そして誇りといったような価値観こそデザインの本質に近い」と照合します。富士山のカタチではなく、富士山の解釈にローカライズの「本性」があるのです。

 

Date:12/4/14

「日本では地方から都会の大学を行くとそのまま残って就職するのがかなり一般的だと思うが、イタリアでは大学を出て地元に戻る人も少なくないと聞いてローカルの意味を悟った」というような発言を聞いて、ローカルの価値の違いについて、いい線をついているかもしれないなぁと思いました。ミラノ工科大学でのイタリアの学生と東大i.school の学生のワークショップの一場面です。

i.school の学生はメインが工学系、ミラノ工科大学はデザイン系。一部の学生を除き、今日が初めての顔合わせです。最初にi.school ディレクターの田村大さんがi.school が目指すイノベーションのあり方や、気仙沼を起点としてローカルとローカルが新しい価値を創造する狙いーMARU PROJECT- を説明。その後、学生がフィールドワークで見つけた「気仙沼の宝」ーライフスタイルや海を挟んでの外国との直接交流のしるしーをプレゼンします。次に2月に気仙沼に滞在した感想をイタリア人学生が述べ、アレッサンドロ・ビアモンティ教授が気仙沼で得たインスピレーションから繋がるヨーロッパのコンテクストを表す映像ーたとえば、エットーレ・ソットサスがみる「現代の遺跡」-を見せ、かつ学生のコンセプトプレゼンの動画を紹介しながらコンセプトに至るアプローチを説明します。

昼食をはさみ学生たちは数人のグループに分かれ、前半に説明した「気仙沼の宝」の数々のカードー表が画像で裏に説明ーを前にし、日本から持ってきた菓子を食べながら「イタリアの宝」を想起するための対話が始まります。あるモノやコトを自分の文脈にのせるとどういう説明が成立するか?というのが入口で、そこでお互いが解釈の相違に気づき、違いのバックグランドを追っていくと何らかのインスピレーションを得るというプロセスが想定されています。ぼくが各テーブルのブレーンストーミングを覗きながら思ったのは、コスモポリタン的文化ーアップル文化に象徴されるーを媒介にしないでローカルとローカルをぶつけると、かなり「身体的」「生理的」が乖離が見えてくるということです。これはどういうことかと言えば、「心や身に沁みついた」痕跡の整理のしかたはまだまだ開拓すべき余地がたくさんある、と。エドワード・T・ホールが何十年前にも提示した時間や物理的距離の文化差以上に明らかになっていることは意外に少ないのではないかと思ったのです。

ワークショップが始まる前にルカ・グエリーニ教授と雑談していて一つ考えるべきことがありました。「先月のPh.Dデザインコースで案外学生が質問しないのに驚いたんですが・・・イタリア人は街中であんなにいろいろな人と気楽に話しているのに。あれは英語で質問するという言語の問題があるんですか?」と切り出すと、「いや、言葉が原因ではない。対話を引き出すのには苦労するよ。特に教師がいる場合や数人ではなく何十人かの聴衆がいる場合、質問はぐっと減ってくる」と意外な答えが返ってきました。「でも小学校の授業なんか見ているとすごく活発じゃないですか。中学校、高校、大学ときてだんだんと閉じていくというわけですか?」とさらに突っ込むと、「そう。残念ながらそうなんだ。表面的には結構オープンな会話が交わされているようにみえて、世代間ギャップもぼくが学生だった30年前と比較しても広がっていると思う。若者と老人の会話も減少している」と指摘。「そのギャップに情報革命が相当の役割を担っている?」と別の方向に話しを向けると、「すべてが情報革命に要因があるとは考えないが、それは大きな要素だと思う」と。

今、ローカルとローカルが大都市を介在させずに直接対話する意義は、前々からぼくが想像していた以上に大きいのではないかと感じました。イタリアでのi.school の学生の活動は来週も続くので、追って考えたことをメモしていきます。

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