ローカリゼーションマップ の記事

Date:16/5/28

ミラノサローネ2016をおよそ1か月半にわたって書き、久しぶりにこのテーマを集中的に考えることになりました。その結果、頭を働かせるだけでなく、実際に人に多く会い話をすることが多かったです。ミラノ工科大学のビジネススクールの先生であるロベルト・ベルガンティが8年前に書いた。「デザイン・ドリブン・イノベーション」を読む機会も得て、さらに頭と身体の動きが後押しされる羽目にも 笑。いや、この本、最高に面白かったです。

実は、この本、もっといえば「デザイン・ドリブン・イノベーション」という名前をぼくは避けていたのです、長い間。立命館大学経営学部デザインマネージメントラボのチームが日本語に訳して出版したのが、オリジナル本がハーバードビジネススクール出版から出た4年後、2012年ですが、確かその頃から、この名前を日本で耳にするようになったのでしょう。でも、ぼくは「何それ?」と読み気にもなれませんでした。だってですよ、ミラノの周辺のデザインを今更語るか?アルテミデとかアレッシとか、もう枯れたブランドじゃない、と。いや、ビジネスのブランドとしてはいまだに十分に立派ですが、ミラノデザインを語る際に、このブランドはもうないだろう、と。およそミラノからブリアンツァにかけての地域にミラノデザインを生むエコシステムがあったみたいな話は聞き飽きているわけです。

 

で、デザイン・ドリブン・イノベーションですよ。流行りのデザインとイノベーションの2つのバズワードが入っているのが、もう嫌で嫌で。いやらしい。そして経営学の教授がハーバード・ビジネス・レビューに書いたものだ、と。もう、これだけでツマラナイと語っているみたいなものじゃない、と(関係者のみなさん、失礼!)。まあ先入観のかたまりみたいな頭で、この本を手にとるなんて一生ないだろうと思っていたわけです(大げさにいえば)。確か、その頃、日本のある先生に、「ベルガンティを知っていたら、紹介してくれますか?」と聞かれたのです。ベルガンティを知らなかったぼくは、彼の略歴を検索でみて、「ああ、MBAの先生か。この人とのコネをわざわざ探さなくてもいいだろう」と判断し、日本の先生には「直接存じ上げないので、お役に立てそうもありません」と断ったのです。

さて、今年の4月のある日、ぼくの中小企業の本を読んだ日本の経営学の先生からメールをいただき、その方の論文も添えてありました。「イタリア+中小企業+産業集積+ブランド」の組み合わせが日本の経営学の範囲であろうと想像していたのですが、論文にはイタリアのデザインの考え方が記されていたのです。美術史や思想史に触れていて、それは驚きました。経営学はこのあたりまで手を伸ばしているのだ、と大いに感心しました。その感想をそのまま書いて返事をしたら、他の方を紹介いただくことになり、(詳細は省くとして)結果的にあの遠ざけていた「デザイン・ドリブン・イノベーション」を手にするに至ります。さっそく、最初の数ページを読んで、すぐさまぼくは自分が過ちをおかしていたことに気がつかされました。イタリアデザインには読ませるコンテンツがまだこんなにもあったのだ、と自らの無知と曇っていた目を恥じました。

曰く、「急進的なイノベーションとは、モノがもつ意味の転換であり、テクノロジーだけのイノベーションには限界がある」「ユーザー中心のデザインは緩やかな商品改良には貢献するが、長期的な資産を生む急進的なイノベーションには役立たない」「オープンイノベーションは誰でもアクセスできるのだから、誰でも模倣できる」「意味の転換を見極めるのは、ユーザーにクローズアップするのではなく、文化的にクローズドなコミュニティ(解釈者たちのネットワーク)で語られる内容を吟味して見極め、ユーザーをズームアウトして眺める必要がある」・・・・といったことが(ぼくの解釈も加えると)書き連ねてあるわけです。ぼくは、いわゆるソーシャルライフで得られる情報や見方を自分のなかで統合するのが肝心で、それが次の戦略を決めるヒントがあると考えてきました。例えば、アートギャラリーのオープニングでのアーティストやキュレーターとの雑談が、文化人類学者や企業家との会話と方向として一致することが、大きな指針になったりするわけです。ぼくはミラノサローネを「デザインディスコース」としてみる実践をしてきたので、もう、本に書いてあることに頷きまくる展開になったのです。

ちょっとエラソーに言えば、説明が曖昧な部分に嘘ではないけどリスキーな要素は多いとか、ソーシャルメディア時代のデザインディスコースは2008年には語りきれなかったはずだが、もう少しネット時代の解釈たちを予見しても良かったのではないかとか、批判的に言おうとすれば言えることがないわけじゃないですが、まっ、そんなの読者がその先を考えればいいことだ、と思えるのですよ。その裏付けに言うなら、いわゆる教養人や感度の良い人の集まりが、文化コンテクストを読み商品コンセプトをつくるにとてつもなく大切ってのは、この本には書いていないデザインマネージメント研究の動向が示唆してくれるんです。米国のデザインマネージメント研究のなかにはあまり出ていないようだけど、ヨーロッパのデザインマネージメントでは、デザイナーの役割だけじゃなく、アーティストの役割が大いに議論されています。これは、ベルガンティが投げかけたテーマの筋が良かったことを物語っているわけです。

ビジネスパーソンの教養は、日経新聞の文化欄やサラリーマンの週末の趣味の読書を指しているのじゃないというのが、この本を読めば痛切に分かるのです。ぼくは8年前に「ヨーロッパの目 日本の目」で、ヨーロッパに”まだある”ハイカルチャーの社会文脈の解釈は見逃せないと書きましたが、この8年間でもハイカルチャーの存在感は下降線を辿っています。それでもイタリアの小学校の歴史の教科書の冒頭に、「歴史を学ぶのは過去の散在したディテールから全体像を積み上げていく刑事のようなものだ」とあり、中学の美術史の教科書が「アートに表現されている象徴から時代を読み取る」と強調して説明されているのを読むと、ヨーロッパの人のコンテクストを読む態度がおよそ想像がつくのです。

いってみれば、ベルガンティが指す「解釈者」とそこにある「デザインディスコース」のいわば社会的根拠が見える。そして、本書には、十数人から何百人規模のイタリア企業が、社内2-3人と外部の「解釈者」たちのネットワークで意味のイノベーションをおこした事例が沢山紹介されているのです。ヨーロッパで急進的なイノベーティブなビジネス展開を図りたい日本の中堅企業が知るべき内容がふんだんにありますよ。もちろん日本のなかのビジネス展開の参考にもなりますが、小さなチームと質の高い外部チームでヨーロッパでガツンとやるのも刺激的だし、なによりも長期的な利益の源泉を狙うに最適な道であると確信をもつに背中を押してくれます。特に、グローバルの統一ブランドやデザインからローカリゼーションを図る道筋が旧世代になり、ローカルな文化文脈が他のローカルに飛び火してローカライズし、そこにイノベーションを生む新世代には、大企業ではないサイズの企業が小さなチームをつくるのことで大企業にはないイノベーションをおこす可能性が大きいですからね。これが楽しみじゃなくてなんだろう・・・と思います。

 

 

 

Date:16/5/13

サローネが終わってそろそろ1カ月が経ちます。毎年、「いったい、あの狂騒は何だったのだろうね」という声も聞きます。「お祭りとしか言いようがない」と苦々しく語る人もいます。今年のサローネ会場は37万人の入場者があったというので、市内のフオーリだけをみた人も含めると、ざっくりいって動員数は50万人は超えるのでしょうね。まったくの想像ですが。それほどの「狂騒」を演じているなら、相応にイタリアのクリエイティブ産業に貢献しているのか?といえば、ミラノのその世界の人にそこまでの実感はない・・・という印象をもちます。何かうまく機能していないのでしょうか?

ミラノサローネ2016の(1)で、「イタリアデザインを世界のデザイントレンドのなかでどう再び位置付けていくのが良いのか?」を考えたいと書きましたが、いろいろとこのテーマについて意見があるイタリアの人と話していて、一つのことに気がつきました。「グローバルな時代で地域の名前を冠したデザインなどあまり意味がない。個々の才能の話だ」と語る一方で、同じ人間が「デンマークのデザインって言っても、大したものがあるわけじゃない。デザインシンキングの発祥地のシリコンバレーには何があるのだ?あれはアメリカの産物じゃないか」と批評するのです。外国にもよく足を運び、コスモポリタンの考え方や生き方を選択していると思っている人は、ローカルに拘る表現に拒否反応のように「イタリアデザインという言い方は過去の遺物である」と言いがちではないかと思うのですね。しかも、その当人は、タイ政府のデザイン振興機関のディレクターにぼくが言われた「イタリアデザインは(北米や北欧のトレンドと比べて)遅れている」という見方に対して、「イタリアのデザイン事情を分かっていない」と反発したりするのです。これは1人に限ったことではなく、何人かと話した結果です。

だからぼくは、こう思ったのです。イタリアのデザインについて語ることをイタリアの人だけに任せておくと闇の中に入ってしまうと。当事者が語ることは大事だけど、当事者が語ったことだけで外部の人間が分かるか?といえば、そうはならない。また、外部の人間が取り上げると、とてもよい絵が描けたりもする。例えば、経営学の人がイタリアデザインをみると、ミラノのデザインの世界で生きている人には当たり前でつまらないことでも、とても参考になる。そういう風に「いじり倒す(笑)」に、イタリアのデザインはまだまだネタがあるし、参考にすべき知恵はやまほどあるということなんですね。イタリアデザインがステレオタイプに論じられるならば、その裏にあるものや、ステレオタイプの崩し方にヒントがあるし、イタリアデザインについて語ること自身が古いというなら、なぜそれが古いのか?という問いかけをするところから見えることがたくさんあるのです。

2008年に「ヨーロッパの目 日本の目」という本を書いたのは、ヨーロッパの人たちや企業とコラボレーションするための文化(=ロジック)理解の仕方を示すことでした。それまでヨーロッパの本といえば、アカデミックな本か生活奮闘記の本ばかりであり、ビジネスパーソンが知るヨーロッパ文化というカタチが見えていないと考えたのですね。それも学ぶためではなく、コラボレーションするための知恵です。それから8年を経て、イタリアデザインそのものを素材として使う発想があっていいんだなとの思うに至ったわけです。

かつて日本の企業にとってのイタリアデザインは、アイデアのネタでした。あるいはブランドをつくるための方便でした。対象は日本市場です。こういう目的のためにイタリアのデザイン事務所に日本の企業がアプローチし、日本のデザイン事務所の数倍の金額を払ってでも仕事を依頼したのです。その中には製品になったものもありますが、多くはレンダリングかモデルあたりで「はい、ありがとうございました。あとは我々の社内でやります」と言い、ちょっとしたディテールだけを活用したデザインで終わる(=製品になる)、と言うのが一般的であったと思います。しかし、そういう時代は去った。ちょうどヨーロッパのブランド品にあまり夢を感じなくなった時期と重なるでしょう。もちろん、その種のプロジェクトがまったくなくなったわけではないですが、日本のデザイン事務所の数倍という金額での商売はなくなってきたということです。

今、ヨーロッパ/イタリアのデザイン事務所に日本の企業が求めるのは、日本国内をコア市場においた製品開発ではなく、ヨーロッパ市場で売れる製品をつくるパートナーという点でしょう。ぼくがこの2-3年感じているのは、2008年のリーマンショックで一斉に北米・欧州市場から新興国に目が向いた日本の企業が、じょよにヨーロッパに戻り始めてきたということです。一時は「文化的プライドが高く敷居が高い」とヨーロッパ市場を諦めていたのが、そこで勝負してこそ利益を生む仕組みが作れると考えを変え始めてきたのですね。レクサスはこういう勝負を繰り返しているブランドですが、最近の日経ビジネスにあった「日本発の高級腕時計 スイス勢へ逆襲の時」というセイコーホールディングスの記事も、この流れを示しています。そしてヨーロッパ市場への関心というか意欲は、こうした大企業の高級ブランド戦略にとどまらず、大企業でもない企業レベルにもあり、実際、ぼくにコンタクトしてくる方の話からもうかがえるし、雑誌の記事執筆依頼も、このテーマが増えてきたところからも傾向が分かります。ヨーロッパの成熟さと課題先進国であるのが、「挑戦するに意味がある」と思わせ、市場開拓に励めば学習する内容のレベルが高いと認識しはじめた、といった具合です。

・・・という感じのところでぼくが考えているのは、上記文脈でのヨーロッパ/イタリアデザイン活用法をもっと具体的なカタチにしていくことかなと、ビジネスとして。それから、自分なりのこうした解釈に基づいたイタリアデザインについて簡単な本を書いてみたいなあとも思っています。で、これまでと違うのは、本は英語で、という点です。ヨーロッパやイタリアのデザインの当事者たちにも読んでもらいたいと思うわけ。いや、経営側の人たちにも。じゃないと、さっき言ったように、闇が続くわけですよ、ずっと。で、これをやると日本の企業の考えていることも、ヨーロッパの人に理解してもらいやすくなり、それこそコラボレーションする際の参考書にならないかなって。まあ、まだ思い付きの段階なんで何とも言えないけど、ヨーロッパ人の誰かと共著がいいかな。

 

 

 

Date:16/2/15

今月のはじめ、思いついたようにnoteをはじめました。

6-7年間、ツイッターとフェイスブックをやってきたし、並行してインスタグラムやニューズピックスなどにも登録をしてきました。色々な思考回路を確保しておこうというつもりでした。しかし、インスタグラムはぼくにとって時間つぶしでしかないなあという感じが拭えません。ニューズピックスもずいぶんと眺め、「ニュースに関してこんなに意見交換しなくてもいいよな」という気がやはりしました。フェイスブックで散見する意見で十分かな、とも。それらを必要とする人たちはやればいいけど、ぼくが今時間を使うとすると別のところかな、と思ったのですね。じゃあ、何がいいのか?

ソーシャルメディアも場を変えると、違った意見や見方が見えてくるわけですが、そうそう沢山のアカウントをもって全てをカバーはできない。一つのネタでどの場にも流し込むということができますが、それはあまりやりたくない・・・と迷っていたのです。ツイッターをフェイスブックに流すのも、なんだかなぁと思うタチなので。

毎週、サンケイビズにコラムを書いて4年近くになりますが、一回の原稿の目安が1500字です。これを書きながら、並行してもっと少ない字数で気楽に書きたいなあとぼんやりと思っていました。ハフィントンポストに書くのもいいですが、結構、荒波に漕ぎ出す覚悟を要されるところがあって気楽さとは縁遠いわけです。このブログも500字周辺だと短すぎます。画像中心にしないといけないでしょう。レイアウトとして500字が似合うところが条件になります。メールは少々字数がないと寂しいけど、チャット形式のメッセージは1行でいいとか、それと同じです。

・・・なんのために、新たなチャネルを欲しいと思うのか? これをもう少し考えてみました。

自分の考え方をじっくりと整理することを優先する。それが第一です。あまりビジネスのことがざわざわと語られるところでなく。第二としてあまりに人が集まり過ぎていないところ。まあ、今のところですが。

で、noteです。なんとなく、今はここが目的にあっていそうだ、と。それで、まずは7年前に書いた、自分の考え方や判断力をつくった12冊のレビューをアップデイトしてみました。これは自分の判断力を実際につくっているというより、自分の考え方のモデルとするものをどこからひっぱってきたか、ということを整理しています。ひとつの領域のスペシャリストになることよりも、複数の領域をまたぐ人間であるためのロジックとか、混沌とした状況で落ち着けるコツとか、そういう支えをしてくれる本を自分の味方につけてきたのが、振り返ってみるとよく分かります。

この12冊が昨日終わったので、今日から自分の専門の12冊です。専門はもたないのですが、よく足場にするところで、欧州文化とデザインの12冊を見直しています。とりあえず、1日1投稿です。

Page 2 of 5212345102030...Last »