イノベーティブ思考 の記事

Date:16/5/13

サローネが終わってそろそろ1カ月が経ちます。毎年、「いったい、あの狂騒は何だったのだろうね」という声も聞きます。「お祭りとしか言いようがない」と苦々しく語る人もいます。今年のサローネ会場は37万人の入場者があったというので、市内のフオーリだけをみた人も含めると、ざっくりいって動員数は50万人は超えるのでしょうね。まったくの想像ですが。それほどの「狂騒」を演じているなら、相応にイタリアのクリエイティブ産業に貢献しているのか?といえば、ミラノのその世界の人にそこまでの実感はない・・・という印象をもちます。何かうまく機能していないのでしょうか?

ミラノサローネ2016の(1)で、「イタリアデザインを世界のデザイントレンドのなかでどう再び位置付けていくのが良いのか?」を考えたいと書きましたが、いろいろとこのテーマについて意見があるイタリアの人と話していて、一つのことに気がつきました。「グローバルな時代で地域の名前を冠したデザインなどあまり意味がない。個々の才能の話だ」と語る一方で、同じ人間が「デンマークのデザインって言っても、大したものがあるわけじゃない。デザインシンキングの発祥地のシリコンバレーには何があるのだ?あれはアメリカの産物じゃないか」と批評するのです。外国にもよく足を運び、コスモポリタンの考え方や生き方を選択していると思っている人は、ローカルに拘る表現に拒否反応のように「イタリアデザインという言い方は過去の遺物である」と言いがちではないかと思うのですね。しかも、その当人は、タイ政府のデザイン振興機関のディレクターにぼくが言われた「イタリアデザインは(北米や北欧のトレンドと比べて)遅れている」という見方に対して、「イタリアのデザイン事情を分かっていない」と反発したりするのです。これは1人に限ったことではなく、何人かと話した結果です。

だからぼくは、こう思ったのです。イタリアのデザインについて語ることをイタリアの人だけに任せておくと闇の中に入ってしまうと。当事者が語ることは大事だけど、当事者が語ったことだけで外部の人間が分かるか?といえば、そうはならない。また、外部の人間が取り上げると、とてもよい絵が描けたりもする。例えば、経営学の人がイタリアデザインをみると、ミラノのデザインの世界で生きている人には当たり前でつまらないことでも、とても参考になる。そういう風に「いじり倒す(笑)」に、イタリアのデザインはまだまだネタがあるし、参考にすべき知恵はやまほどあるということなんですね。イタリアデザインがステレオタイプに論じられるならば、その裏にあるものや、ステレオタイプの崩し方にヒントがあるし、イタリアデザインについて語ること自身が古いというなら、なぜそれが古いのか?という問いかけをするところから見えることがたくさんあるのです。

2008年に「ヨーロッパの目 日本の目」という本を書いたのは、ヨーロッパの人たちや企業とコラボレーションするための文化(=ロジック)理解の仕方を示すことでした。それまでヨーロッパの本といえば、アカデミックな本か生活奮闘記の本ばかりであり、ビジネスパーソンが知るヨーロッパ文化というカタチが見えていないと考えたのですね。それも学ぶためではなく、コラボレーションするための知恵です。それから8年を経て、イタリアデザインそのものを素材として使う発想があっていいんだなとの思うに至ったわけです。

かつて日本の企業にとってのイタリアデザインは、アイデアのネタでした。あるいはブランドをつくるための方便でした。対象は日本市場です。こういう目的のためにイタリアのデザイン事務所に日本の企業がアプローチし、日本のデザイン事務所の数倍の金額を払ってでも仕事を依頼したのです。その中には製品になったものもありますが、多くはレンダリングかモデルあたりで「はい、ありがとうございました。あとは我々の社内でやります」と言い、ちょっとしたディテールだけを活用したデザインで終わる(=製品になる)、と言うのが一般的であったと思います。しかし、そういう時代は去った。ちょうどヨーロッパのブランド品にあまり夢を感じなくなった時期と重なるでしょう。もちろん、その種のプロジェクトがまったくなくなったわけではないですが、日本のデザイン事務所の数倍という金額での商売はなくなってきたということです。

今、ヨーロッパ/イタリアのデザイン事務所に日本の企業が求めるのは、日本国内をコア市場においた製品開発ではなく、ヨーロッパ市場で売れる製品をつくるパートナーという点でしょう。ぼくがこの2-3年感じているのは、2008年のリーマンショックで一斉に北米・欧州市場から新興国に目が向いた日本の企業が、じょよにヨーロッパに戻り始めてきたということです。一時は「文化的プライドが高く敷居が高い」とヨーロッパ市場を諦めていたのが、そこで勝負してこそ利益を生む仕組みが作れると考えを変え始めてきたのですね。レクサスはこういう勝負を繰り返しているブランドですが、最近の日経ビジネスにあった「日本発の高級腕時計 スイス勢へ逆襲の時」というセイコーホールディングスの記事も、この流れを示しています。そしてヨーロッパ市場への関心というか意欲は、こうした大企業の高級ブランド戦略にとどまらず、大企業でもない企業レベルにもあり、実際、ぼくにコンタクトしてくる方の話からもうかがえるし、雑誌の記事執筆依頼も、このテーマが増えてきたところからも傾向が分かります。ヨーロッパの成熟さと課題先進国であるのが、「挑戦するに意味がある」と思わせ、市場開拓に励めば学習する内容のレベルが高いと認識しはじめた、といった具合です。

・・・という感じのところでぼくが考えているのは、上記文脈でのヨーロッパ/イタリアデザイン活用法をもっと具体的なカタチにしていくことかなと、ビジネスとして。それから、自分なりのこうした解釈に基づいたイタリアデザインについて簡単な本を書いてみたいなあとも思っています。で、これまでと違うのは、本は英語で、という点です。ヨーロッパやイタリアのデザインの当事者たちにも読んでもらいたいと思うわけ。いや、経営側の人たちにも。じゃないと、さっき言ったように、闇が続くわけですよ、ずっと。で、これをやると日本の企業の考えていることも、ヨーロッパの人に理解してもらいやすくなり、それこそコラボレーションする際の参考書にならないかなって。まあ、まだ思い付きの段階なんで何とも言えないけど、ヨーロッパ人の誰かと共著がいいかな。

 

 

 

Date:16/2/15

今月のはじめ、思いついたようにnoteをはじめました。

6-7年間、ツイッターとフェイスブックをやってきたし、並行してインスタグラムやニューズピックスなどにも登録をしてきました。色々な思考回路を確保しておこうというつもりでした。しかし、インスタグラムはぼくにとって時間つぶしでしかないなあという感じが拭えません。ニューズピックスもずいぶんと眺め、「ニュースに関してこんなに意見交換しなくてもいいよな」という気がやはりしました。フェイスブックで散見する意見で十分かな、とも。それらを必要とする人たちはやればいいけど、ぼくが今時間を使うとすると別のところかな、と思ったのですね。じゃあ、何がいいのか?

ソーシャルメディアも場を変えると、違った意見や見方が見えてくるわけですが、そうそう沢山のアカウントをもって全てをカバーはできない。一つのネタでどの場にも流し込むということができますが、それはあまりやりたくない・・・と迷っていたのです。ツイッターをフェイスブックに流すのも、なんだかなぁと思うタチなので。

毎週、サンケイビズにコラムを書いて4年近くになりますが、一回の原稿の目安が1500字です。これを書きながら、並行してもっと少ない字数で気楽に書きたいなあとぼんやりと思っていました。ハフィントンポストに書くのもいいですが、結構、荒波に漕ぎ出す覚悟を要されるところがあって気楽さとは縁遠いわけです。このブログも500字周辺だと短すぎます。画像中心にしないといけないでしょう。レイアウトとして500字が似合うところが条件になります。メールは少々字数がないと寂しいけど、チャット形式のメッセージは1行でいいとか、それと同じです。

・・・なんのために、新たなチャネルを欲しいと思うのか? これをもう少し考えてみました。

自分の考え方をじっくりと整理することを優先する。それが第一です。あまりビジネスのことがざわざわと語られるところでなく。第二としてあまりに人が集まり過ぎていないところ。まあ、今のところですが。

で、noteです。なんとなく、今はここが目的にあっていそうだ、と。それで、まずは7年前に書いた、自分の考え方や判断力をつくった12冊のレビューをアップデイトしてみました。これは自分の判断力を実際につくっているというより、自分の考え方のモデルとするものをどこからひっぱってきたか、ということを整理しています。ひとつの領域のスペシャリストになることよりも、複数の領域をまたぐ人間であるためのロジックとか、混沌とした状況で落ち着けるコツとか、そういう支えをしてくれる本を自分の味方につけてきたのが、振り返ってみるとよく分かります。

この12冊が昨日終わったので、今日から自分の専門の12冊です。専門はもたないのですが、よく足場にするところで、欧州文化とデザインの12冊を見直しています。とりあえず、1日1投稿です。

Date:14/12/10

20数年前、イタリアで生活をはじめた時に、よく耳にする気になる言葉がありました。「これはクリエイティブか?」という問いかけです。とっても多い。それも日常生活のなかのこまごましたコトについて、「クリエイティブか?」なのです。クリエイティブはデザインや広告の世界の用語に近いと思っていたぼくは、クリエイティブであることが評価の大きな軸であるとの発想にすぐついていけず、馴染むに少々時間がかかりました。

その頃、日本では個性的であるかどうかはよく会話が交わされていましたが、日常の生活で「クリエイティブ」はほとんど俎上にあがっていなかったと思います。しかし、自虐的ですが、「イタリアの(非効率な)官僚システムほどクリエイティブなものはない」という表現を耳にして、クリエイティブが何たるものかが(否定的な側面からでも)分かってきます。日経ビジネスオンラインに連載している「イタリアオヤジの趣味生活」のために多くの人にインタビューしていて気付くのは、イタリア人は危機的な状況を生き抜くに得意ということです(もちろん、生き抜いた人をインタビューしているから話が面白い、ということはあります)。

つまり、このサバイバル能力とクリエイティブ度合のあいだに相関関係がある、という考え方をするとクリエイティブの意味がもっとよく理解できます。本書で「限界ギリギリのところで発揮する力」としてのクリエイティビティが語られています。これには、時間や文化を踏まえてコンテクストに新しい視点を持ち込むとのヨーロッパ的な伝統が活きています。タイトルが「世界で最もクリエイティブな国 デンマークに学ぶ」であり、インタビューに答えたのがデンマーク人であるにせよ、語られている内容はかなりヨーロッパ的です。それだけイタリアの文脈におけるクリエイティブとも共通性がある、ということです。

解説をリ・パブリックの田村大さんが書いており、シリコンバレーのピーター・ティール『ゼロ・トゥ・ワンー君はゼロから何を生み出せるのか』において強調されている「枠組みの外で考える」と「限界ギリギリで考える」の対比を指摘しています。これは文化圏の違いだけでなく、もう一つはイメージするビジネス規模やエリアの違いにも拠っているかもしれない、とぼくは思いました。ティールはテクノロジーによって独占的な市場をとる大切さを説いています。世界の大きな面積を相手にしないと元がとれないプラットフォーム的な商売をネタにする人たちと、アプリやコンテンツのようにローカル依存度が高いネタを扱う人たちという2つの次元があります。

発想のコツとしては、「枠組みの外で考える」と「限界ギリギリで考える」の両方も使えるのですが、実際のビジネスに現場において、どちらに重心を置くかが変わってくる・・・ということだと思います。ヨーロッパのビジネスリアリティにおいては、圧倒的に「限界ギリギリで考える」が活きるだろうし、たぶん、日本でもそうです。だから『ゼロ・トゥ・ワンー君はゼロから何を生み出せるのか』をぼくは凄く面白い本だと思う一方、そう全ての人が読まなくても良い本だと考えました。でもこういう本は爽快なのです。だから大ヒット作になるわけですね。

が、ゼロから何かを生み出せない自分に嫌気がさすのも現実です。それよりも、「今、自分のやっていることをもう少しギリギリまで追いつめてみないか?」とのアドバイスの方がよっぽどやる気が出てきます。大多数の人の実感にしっくりきて、なおかつ、一歩前に踏み出してみようという気持ちになるのです。よって『ゼロ・トゥ・ワンー君はゼロから何を生み出せるのか』を読むな!とは言いませんが、口直しに本書を読むと精神的バランスがとれますよ、とは言いたいです。

イノベーションが語られ、そのなかでクリエティブがいわゆる「業界用語」から脱却した今、いよいよヨーロッパの知は面白いところにあります。

 

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